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特に集中を切らさぬまま、理久と彩花は閉館間際まで机で勉学に励んだ。
帰り際、「せっかく来たので、いいですか?」と理久に断ってから、彩花は本を借りていた。夏休み用に中学校で借りた本は、既に読み終えたらしい。
嬉しそうに本棚を見上げる彩花が、とても可愛らしかった。
視線を本棚で行ったり来たりさせ、そのたびに長い髪がさらりと揺れる。彼女は図書館にやけに似合っていた。
中学校の図書館にはないという古い小説を二冊ほど借り、彩花と理久は図書館をあとにした。
実に学生らしい一日を過ごしたあと、わずかに暑さがやわらいだ道を歩いていく。
「今日はなに作りましょうか」なんて話しながら、帰路についていた。
すると、理久たちのすぐそばを数人の中学生が通り過ぎていく。
体操服の彼らは、自転車で軽やかに走って行った。
きっと部活動の帰りだろう。
そこでふと、彼女に質問してみる。
「彩花さんって、部活はしてなかったんですか?」
よくよく考えてみたら、今は夏休みの終盤。
部活動は、三年の夏の大会で引退する生徒が多い。
だというのに、彩花は部活に行っている様子はなかった。
その質問に、彼女は微笑む。
「わたしは、吹奏楽部に入っていました。トランペットを吹いていたんですよ」
「へぇ……」
頭の中で、トランペットを高らかに吹く彼女を想像する。
そういえば初めて出会ったとき、彼女は休日にも関わらず制服を着ていた。
あれは、部活帰りだったのかもしれない。
「あれ? でも、吹奏楽部って八月も部活やってなかった?」
一応文化部だろうが、吹奏楽部はコンクールがあったはず。
夏に大会があり、勝ち進んだらさらに引退は伸びるはずだ。
けれど、彩花は八月の時点で部活に行っている様子はなかった。
そこで理久は、まずいことを言ってしまったことを知る。
彩花の顔には影が差したからだ。
それでも彼女は笑顔を作り、こう続けた。
「父が亡くなってから、わたしはしばらく部活動に顔を出せませんでした。うちの部は結構な強豪でしたし、休んでいればそれだけ差が出てしまいます。トランペットは、特に数が多いですし。復帰しても迷惑を掛けそうで、結局そのまま退部届を出してしまったんです」
「……そっか。ごめん」
「いえ」
申し訳ない気持ちでいっぱいになりつつも、そうとしか言えなかった。
肉親が亡くなったあと、それでも一生懸命部活動に励めるかと言えば、難しいと思う。
特に吹奏楽部は厳しいところも多い。
辞めてしまうのも、無理からぬことかもしれない。
「……………………」
でも、今はどう思っているんだろうか。
たとえば、高校に入ってから、彼女は再びトランペットを吹きたいとは思っていないのだろうか。
もう未練がないのなら、それでいいと思うけれど。
もし、もしもアルバイトがしたいから、と部活動を諦めているのなら――。
「兄さんは、何部だったんですか?」
考えに足を取られそうだったところで、彩花に問いかけられる。
彼女のほうが気まずい空気を取り払おうとしてくれていた。
反省しつつ、理久は答える。
「俺はサッカー部でした。といっても、めちゃくちゃ弱かったですけど」
中学では全生徒が部に入部する必要があったし、特に深い考えもなく好きだったサッカーをやるために入部した。
練習はそれなりで部活も楽しかったが、高校に入ってからも続けるほどの熱はなかった。
家のこともしたかったし。
だからもし、彩花が部活をやりたいのなら、理久は家事を肩代わりしたいと思う。
けれど、いくら多少距離が近付いたといっても、そこまで踏み込む勇気はなかった。
本当にそれを望んでいたしても、彩花が遠慮しないはずがない。
黙り込むしかなかったが、代わりに空気を軽くする方法を見つけた。
アイスクリームの自動販売機を見掛けたのだ。
「彩花さん。食べて行きません?」
指を差すと、彩花の表情がパッと華やぐ。
けれど、すぐに暗く沈んだものになった。
「あ、でも……。わたし、お財布持ってきていないので……」
「いいですよ。俺が持ってきてるし」
「えっ、いえ。申し訳ないです、そんなの。あ、そうだ、それなら家に帰ったあと……」
慌てて言葉を繋ぐ彩花に、理久は財布を見せる。
それは家で使っている買い物用のお財布だ。
「このあと、スーパーに寄りたいので。そのお駄賃代ってことでどうでしょうか。あ、父さんたちには内緒で」
しぃ、と人差し指を立てると、彩花の表情がふわりとやわらかくなる。
彼女も気の抜けた笑みを浮かべながら、同じように人差し指を立てた。
ふたりでアイスを食べながら、のんびりと帰宅する。
そして、その途中。
彩花はふと、こんなことを口にした。
「兄さん。また勉強教えてもらっていいですか」
「え、もちろん」
声があまりにも弾みそうになって、押しとどめる。
それでも滲み出てしまったせいで、「なんで兄さんのほうが嬉しそうなんですか」と彼女はおかしそうに笑った。
いやだって。
彩花が遠慮なく要望を出してくれたのだから、そりゃ嬉しいだろう。
彼女は微笑んだまま、言葉を付け加える。
「わたし、数学がちょっと不安なところがあって。もしよければ、教えてほしいんです」
「……」
数学、数学か。
小躍りしたいくらい喜んでしまったが、若干不安がよぎる。
何せ、理久は五科目の中で一番苦手なのが数学だった。
むしろ、教えてもらう立場だったというのに。
「あ、そっか」
「?」
独り言が漏れて、不思議そうな目を向けられたので、「なんでもない」と手を振る。
ほかの科目はともかく、数学だけは心許ない。
ならば、数学はあの人に教えてもらえばいいのではないか。