36
見ると、彩花が困り顔でこちらを見ている。
「どうかした?」
小声で問いかけると、彼女はより困った表情をを深めた。
おそるおそる、ノートと参考書に指を這わせる。
「あの……。ここ、ちょっとわかりづらくて……。教えてもらえませんか……?」
「……」
かわいい。
なんだろう、先ほど先輩後輩の話をしたからだろうか。年下であることをより意識してしまうというか……。
いやいや、勉強教えて、なんて普通の兄妹だってするだろうに。
むしろ、より兄妹っぽいだろう。多分。
理久だって、るかにはよく勉強を教わっていた。
なに、普通のことだ、と言い聞かせてみても、かわいいものはかわいい。
彼女なりの歩み寄り、気遣いの延長であることは重々承知しながらも、理久はそれに乗っかった。
「どれですか?」
若干緊張しながら、参考書を見る。これで普通にわからなかったらどうしよう。そんな不安を覚えながら。
幸い、自分のわかる範囲だったので、声を潜めたままやり方を伝える。
いくつか言葉を交わし、ノートに文字を書いていった。
「あ、なるほど。そういうことだったんですね」
お世辞にもわかりやすくは教えられなかったが、彩花はすんなりと飲み込んだ。
やはり地頭がよいのかもしれない。
ほっとしていると、なぜだか彩花は嬉しそうにニコニコとしていた。
「どうかしました?」
「いえ。わたし、家族に勉強を教わるなんて初めてなので。お兄さんっていいな、って思ってました」
「……っ。そっか、それは、よかった」
理久は全力で己の太ももをつねり上げて、その激痛で表情を保つ。
声が出せないところや、頬を叩けない場所で、あまりかわいいことを言わないでほしい……。
というか、肩を寄せ合って教えているから、こう、いい香りもしてくる。
なぜ同じ家に住んで、同じ風呂に入って、同じシャンプーを使っているのに、こうも差が出るのだろうか。
いや、でもこれは、シャンプーの香りではない気がする……。かといって、香水の類でもないような……。
いやいや、女性の匂いを嗅ぐなんてあまりにあんまりすぎる。すぐに息を止めた。
そこではっと気が付く。
「あの、彩花さん。今まで気付いてなかったんですけど、お風呂の順番って俺がいつも最初でいいんでしょうか」
「な、なぜ今?」
困惑しながら問い返されてしまう。
まさか香りで思い出した、とは口が裂けても言えず、とりあえず理由を話す。
「風呂、なんとなく最初の流れで俺が一番に入ってるじゃないですか。そこから順番を変えてない、って今気付いて。彩花さんが嫌だったら、最初に入ってもらってもいいんですが」
あの日以来、彩花は少しだけ遠慮するのをやめた。
お風呂も父たちが帰ってくるのを待たず、空いたらすぐに入っている。
それは喜ばしいけれど、理久が一番風呂でいいのだろうか。
女子としては、男子のあとに入るのは嫌なのでは?
そう思っての問いだったが、彩花は小さく首を傾げる。
長い髪がさらりと揺れて、その先が白いノートを撫でていった。
「…………。いえ、今のままで大丈夫です」
しばらく考えこんだあと、彼女はそう結論付けた。
彩花が何を思っていたのか、それを想像するのは大変によくないので考えないようにするとして。
彼女が遠慮で言っているようではなさそうなので、そこは安心する。
「俺が気付いてないだけで、何か無神経なことをしてたら遠慮なく言ってくださいね」
「ありがとうございます。兄さんも、何かあったら言ってください」
上品にふふ、と笑う彩花を見て、理久はほっと息を吐く。
幸せな気分になりながら、理久は宿題に、彩花は勉強に戻っていった。