28
夜中と言っていい時間帯。
理久はひたすら自室の机の前で待っていた。
一応宿題に取り掛かってみたものの、全く集中できずにペンを手の上で遊ばせるばかり。
けれど、できるだけ物音を立てないように注意だけはしていた。
「……む」
かちゃり、きぃ、ぱたん。
向かいの扉が開く音が、わずかに耳に入る。
時計に目を向けると、午前一時半を指していた。
そろそろだとは思っていた。
理久は足音を立てないよう、物音を立てないよう、静かに扉を開き、廊下に顔を覗かせる。
そこには不愛想な暗闇が広がるばかり。
そっと部屋を出て、階段を降りていく。
予想どおり、一階には光が漏れていた。
扉の奥からキッチンの照明が見えて、そこにだれかがいるのがわかる。
その正体は、考えるまでもなかった。
「………………」
すぅ、と息を吸う。
これは、彼女に踏み込む行為だ。
とても勇気がいることだけど、いつまでも足踏みしてはいられない。
リビング側の扉を素早く開き、リビングとキッチンの照明を一気に付けた。
「……っ!」
驚いた声がキッチンから聞こえる。
そこに立っていたのは、彩花だった。
見慣れぬパジャマ姿を着ていたが、見紛うはずがない。
彼女は慌てて振り返る。
その表情は驚愕に染められ、瞳が大きく見開かれていた。
「彩花さん。なにしてるの?」
理久が声を掛けると、サーっと血の気が引く音がした。
あっという間に、彼女の顔が真っ青になる。
「すみ、ません……」
呆然とした表情で、彼女はゆるゆると手を降ろす。
彩花の手に握られていたのは、一枚の食パン。
何度か齧ったあとがあり、彼女の唇のそばにもパンの欠片がついている。
シンクの前で、夜中に食パンを食べている美少女。
その絵面はともすれば笑いを誘うと思うのだが、彩花の表情を見れば笑うに笑えない。
「いや、夜中に何食べとんのじゃーい」とおかしくツッコミを入れたとしても、彼女は真っ青な顔のまま、頭を下げるのだろう。
今だって、まるで人生が終わったかのような絶望的な表情をしている。
「座って」
理久がリビングのソファを指差すと、彼女は袋の上にパンを置き、うつむいたままやってきた。
ぽすん、とソファに腰掛け、表情が見えないくらいに下を向く。
長くてさらさらの髪が、彼女の顔を完全に覆い隠していた。
彼女の着ているパジャマはとても可愛らしく、初めて見るものだった。けれど、とても和む気にもなれない。
理久は冷蔵庫の中から皿を取り出し、それをレンジの中に入れる。
手を動かしながら話を続けた。
「俺さ、気付いてたよ。彩花さんが夜な夜な何か食べてたこと。何かっていうか、食パンなんだろうけど。あぁ初日は寿司も食べたのかな」
理久がそう告げると、彩花ははっとして顔を上げた。
その表情がより絶望的なものに変わり、膝の上にあった手がきゅっと握られる。
唇を噛んだあと、「すみません……」と消え入りそうな声で謝罪を重ねた。
食パンの減りがやけに早いことには気付いていた。
最初は家族が四人に増えたから、と思っていたけれど、それにしたって早い。大体、理久は朝ご飯を取らない。
初めてふたりで買い出しに行ったとき、食パンが足りなくなって買いに行ったにも関わらず、翌日にはもう足りていなかった。
六枚切りを買ったのなら、三人で一枚食べても二日は持つはずなのに。
あの日、彩花が「買い出しに行く」と言って出て行ったが、その食パンを補充しにいったのだろう。レシートにも残っていた。
残り物の寿司だって、三人ともしっかりパンは食べているにも関わらず、きちんと処理されていた。余裕のあるだれかの胃袋に、詰め込まれたはずだ。もしくは、昨夜のうちにある程度処理していたか。
毎日、似たような時間に彩花はキッチンでごそごそとしていた。
きっと空腹で眠れず、こっそりと食パンを食べていたのだ。
袋から一枚だけ抜き出せば、ゴミも出ないし気付かれにくい。
自分で買い出しに行っていれば、ほかの家族は残った枚数がより曖昧になる。
何せ、朝食の準備をしているのは彩花自身だ。
初めての買い出しで熱心に冷凍食品を見ていたのは、食パンの代わりになるものを探していたのではないか、と今ならわかる。
たかだか数枚の食パンのつまみ食いだというのに、それでも彼女は世界が終わったかのような顔をしている。
彼女からすれば、それだけ大きな問題だ。
そうじゃなければ、そもそも彼女はつまみ食いをする必要なんてなかった。
「実は俺、気付いてたんです。多分、彩花さんって食事量が足りてないんだろうなって。いつも遠慮してあまり食べないようにしてるけど、本当はいつも満腹になってないんでしょう?」
「そんな、ことは……」
消え入りそうな声で、否定の言葉を飲み込む。
彼女は再び、俯いてしまった。
彩花が「もっと食べたい」と言い出せなかったのは、羞恥心からではない。
遠慮という名の毒のせいだ。
居候、三杯目にはそっと出し、なんて言葉があるが、彼女はその三杯目すら出せなかった。
もし、そばに香澄がいれば彩花の食事量の少なさに気付き、何かしらの手を打ってくれただろう。
けれど、彩花と香澄の食事のタイミングが合うのは朝食だけ。
朝食の量が控えめであってもそれほどおかしなことはないし、もしかしたら朝食だけは満足するまで食べていたのかもしれない。
何にせよ、香澄の目を曇らせるのはさほど難しくない。
そして、昼食、夕食は理久とふたりきり。
いつもいっしょに食べる理久は、気付きながらも踏み出せなかった。
おかわりどうですか、と水を向けても、彼女は大丈夫です、と笑ってしまう。
彩花はきっと、家族として食卓に着いているわけではない。
心情としては、居候に近いんだろう。