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理久たちがいっしょに暮らし始めて、数日後。
その日も、理久と彩花はふたりで作った晩ご飯を食べた。
いつもどおり、「お先にお風呂どうぞ」と微笑まれ、理久が先に風呂に入る。
それまでは普段どおりだったが、違う点がひとつあった。
彩花の気配が消えていた。
風呂から上がった理久は、キッチンに飲み物を取りに行く。
すると、この時間はいつもリビングかキッチンにいる彩花が見当たらない。
部屋に戻ったのかとも思ったが、テレビの音は聞こえている。
トイレかな、と思いつつ、一応リビングに目を向けた。
そこで、その光景に腰を抜かしそうになった。
「…………っ」
申し訳なさで己の頬を叩きそうになり、寸前で思いとどまる。
ここで大きな音を立てるわけにはいかない。
その理由は簡単だ。
彩花が、ソファで眠っていた。
テレビの前にあるソファに横になり、穏やかな表情ですぅすぅと寝息を立てている。
長い髪がソファの上に広がり、芸術的な絵画を描いているようだった。
ソファから落ちた髪がはらりと床に手を伸ばし、それらが重なって滝のように流れている。
整った顔立ちは眠っていても変わらず、目を瞑っているせいで長いまつ毛が主張を強くしていた。
唇が小さく開いていて、そこからほのかに息が漏れている。それがやけに色っぽかった。
今日の彼女は紺のトップスに白いロングスカートを履いており、ソファの上でスカートも広がっている。
可愛らしく手を胸の前に重ねており、眠る姿はまるでお姫様のようだ。
それを前にして、理久はへなへなとその場に崩れ落ちそうだった。
「……こんな、無防備な……」
女子の寝顔。
そんなもの、軽々に見ていいわけがない。
全力で顔を逸らしたものの、頭の中にはもうこれだけ彼女の寝顔が刷り込まれている。
おそろしい。
あまりのことに頬を叩いて記憶を消してやろうかと思ったが、それは今ではない。
ここで目が覚めたら、きっと彩花は激しく取り乱してしまう。
それは、女子としての恥ずかしさとか、そういったものもあるだろうけど。
何よりも、後ろめたさが強いのではないだろうか。
「…………はあ」
それを考えるだけで、彩花の寝顔を見てしまった昂揚感と罪悪感、それらの思いが別の感情に塗り潰されていく。
きっと彩花は、「ふたりが帰ってくるまで仮眠しよう」と思っていたわけではない。
多分、ちょっとソファで休憩していたら、つい寝入ってしまったのだろう。
この場に理久がいないことも大きい。
ちょっと楽な姿勢を取っちゃおうかな、と横になって、そのまますぅっと眠りに落ちてしまったのかもしれない。
「そりゃ、居眠りもするよな……」
彩花は理久と違い、いつも朝早くから起きている。
具体的に言えば、父や香澄の出勤前には。
夏休みなんだし、彼女はゆっくり眠っていてもいいだろうに。
きっと父も香澄も、朝食の準備なんてしなくていいと思っているだろうし、実際に口にもしているだろう。
けれど彼女は、健気に朝から起きて朝食の準備をし、昼間は家事をし、夜は勉強しているようだ。
そして、早く眠るわけでもなく。
夜な夜な、部屋から抜け出していることを理久は知っている。
「相談したほうがいいのかなあ……」
彼女が夜、何をしているかを理久は薄々察している。
その原因もわかっている。
けれど、それを口に出すことはできなかった。
彼女がそれを望んでいないから。
それを理久が指摘できるような間柄でもないから。
お互いに遠慮し、他人の壁を張って、理久たちはこの生活をやり過ごそうとしている。
これからもいっしょに暮らしていくのだから、互いの配慮は絶対に必要だと思うし、香澄も彩花も礼を失することはない。
今のところ、殊更に嫌な思いをすることはなかった。
彼女らにとっても、理久はそういう存在でありたいと思う。
だからこそ、言うに言えない。
せめて彼女が望んでくれないと、このぎこちない関係は変わらないままだ。
「……とりあえず」
理久はテレビの電源を切り、リビングの照明を落とした。
ちょこまかと動いてみても、彩花は目を覚ます様子はない。
それならば、このまま寝かしておいてあげよう。
父たちが帰ってくるまでそれほど時間があるわけでもないけれど、少しは眠れるだろう。
そのまま立ち去ろうとして、ふと思う。
「……何か、掛けたほうがいいのかな……?」
リビングはクーラーが利いていて、快適な温度だ。
けれど、眠っていたら寒いかもしれない。風邪をひく可能性もある。かといって、クーラーの温度を上げるのもちょっと心配。
理久はそそくさとタオルケットを持ち出した。
「……ううん。こういうのって気持ち悪かったりするかな。……微妙か?」
若干の心配を抱くものの、それでも彼女が体調を崩すよりはマシだろう、と結論付けた。
タオルケットを持って、そうっとリビングに戻ってくる。
暗い部屋の中で、彼女はやはり眠ったままだ。
物音を立てないように彩花に近付くと、穏やかな顔が目に入ってしまう。
普段よりも幼く見え、それでも優艶な顔立ち。
無防備に眠る彼女は、普段の困ったような表情から解き放たれ、穏やかでやさしい顔をしていた。
こんな表情、理久には決して向けられることはない。
……女子の寝顔をじろじろ見るなんて、ほぼ犯罪だ。
さっさと立ち去ろう。
そう思って、彩花のすぐそばに立つ。
そして、いざタオルケットを掛けようとして――、彩花の表情に気付いてしまった。
彼女を目の前にして、ようやく気付いた異変。
「…………っ」
それを見て、脳が痺れるような感覚に陥る。
心がずぅんと重くなった。
女子の寝顔を近くで見てしまったからじゃない。
あまりの綺麗さに見惚れたわけでもない。
彼女の頬に、涙がこぼれ落ちていたからだ。
彩花は、眠ったまま泣いていた。
その顔を見つめ、動けなくなる。
胸がきゅうっと痛む。
理久は、その涙の理由を知っている。
そうして。
以前、父から聞いた話を思い出していた――。