22
「……トイレ」
寝る前に水分を取りすぎたのか、むくりと身体を起こす。
時間を見ると、午前二時頃。
扉を開けても、廊下は真っ暗。人の気配も感じない。
ほかの家族はとっくに寝ているのだろう。
ふわあ、とあくびをしながら、そろそろと廊下を歩いた。
明日もふたりは早くから仕事だし、起こすのは忍びない。
「……ん?」
ゆっくりと階段を下りて気が付く。
キッチンに明かりが灯っていた。
また、彩花が水を飲んでいるのだろうか。それとも、ほかの家族だろうか。
もしかして、彩花は眠れていないのだろうか。
十分にあり得る話ではあるが……。
リビング側から扉を開くと、やはりキッチン照明の下に人がいる。
彩花だ。
彼女はこちらに背を向けていて、何やらもぞもぞと動いていた。
「彩花さん?」
そのときの彼女の動揺は、凄まじいものがあった。
ビクゥッ! と大きく身体を跳ねさせ、そのまま足元から崩れ落ちそうになる。
けれど、キッチンカウンターに手を置き、何とか堪えたようだ。
そんなリアクションをしておいて、彼女はしばらく固まっていた。
振り返りもしないし、声も上げない。
まさか、こちらの声が聞こえていないわけでもあるまい。
待っていると、彼女はこわごわと振り返った。
「お、小山内さん……。どう、したんですか?」
明らかに目が動揺の色をたたえていたが、理久は彩花を直視できなかった。
彼女の表情を観察する前に、微妙に視線を外す。
彩花がパジャマ姿だったからだ。
シンクに阻まれて全身は見えないが、上半身はピンク色の薄い生地をした半袖を着ていた。
下はきっとハーフパンツじゃないだろうか。
彩花の半袖姿は今日も昨日も見ているし、その細い腕も白い肌も、目に毒だと思いつつも視界には入っていた。
けれど、パジャマ姿はまた別だ。
寝やすいように生地は薄くなっていて、他人に見せるようには作られていない。
ひとつ下の女の子のパジャマ姿に何も思わないほど、理久は達観していない。
それに彼女も、見られたい格好ではないだろう。
暗闇に目を向けながら、理久は答える。
「俺はトイレに起きただけです。そしたら、キッチンから明かりが見えたので」
「あ、ご、ごめんなさい」
「いえ、責めてるわけじゃなくて。どうかしたのかなと」
「……お水を、頂いていたんです」
彩花は静かに、まるで最初からそう言うと決めていたように答えた。
視線を逸らしている理久でもわかる、明らかに伏せた目。
何か後ろめたさを感じる態度。
そんな彼女に何も思わないわけではない。
けれど。
「……そっか」
理久はそう答えて、部屋を後にするしかなかった。
扉を閉めたあと、あぁ、おやすみくらいは言ったほうがよかったかな、と思い、すぐにその考えを打ち消す。
おやすみ、だなんて。
本当の家族じゃあるまいし。
理久は用を足したあと、部屋に戻った。
布団の中で目を瞑っていると、控えめに扉が閉まる音が聞こえる。
すぐに、鍵を掛ける音も。
理久はそれを耳にしながら、思考を手放そうとした。
けれど、なかなか眠りに落ちることができなかった。
翌朝、起きた頃にはもう香澄も父も出勤していた。
キッチンにいた彩花は何事もなかったかのように、「おはようございます」と声を掛けてくる。
理久もまた、部屋着のままで「おはようございます」と返事をした。
今日の彼女は、白いブラウスにクリーム色のパンツを履いている。
シンクを掃除していたらしく、手が泡だらけになっていた。
今朝使ったのだろう皿が三枚、コップが三つ、水切りラックの中に見える。
「……今日も、彩花さんは三人で朝ご飯食べたの?」
「あ、はい。トーストを焼きました」
「そう」
「?」
彩花は小首を傾げるが、理久は何も答えない。
トーストを焼いてコーヒーを淹れるくらいなら、だれだってできる。
だれだってできるから、きっと彩花が用意したのだろう。
今までの態度を見ていれば、彼女が人に任せるとも思えなかった。
焼いた、とも言っているし。
理久はそっと食パンの袋に目を向ける。
夏休みに入ってからというもの、父が食べるだけだった食パンは食べ切るよりも早く、消費期限が先にくることもあった。
今は三人もいるからか、消費のほうが早いらしい。六枚切りのパンが、二枚しか残っていない。
ついいつもの癖で一パックしか買わなかったが、それではすぐになくなることに今更気付く。
「あ、わたし昼からスーパーに行ってきますね。何か必要なものがあれば言ってください。ええと、お家用のお財布にレシートを入れる、んですよね」
彩花は困ったように笑い、長い髪を静かに揺らした。
昨日の彼女と違い、「俺も行くよ」とは理久は言わない。
そう言えば、きっと彼女は困ってしまうだろうから。
理久たちの共同生活は、言ってしまえばその繰り返しだった。
朝、起きてくると既にシンクは片付けられており、朝食の準備をした彩花が何かしら家事を行っている。
ふたりでカップ麺か冷凍食品で昼食を済ませ、夜ご飯はふたりで調理する。
理久が一番先に風呂に入り、彩花が最後。
理久が部屋で過ごしていると、夜中に扉が開く音がする。
彩花に言いたいことはあった。
けれど、そこに踏み込めないまま、理久たちの日常は回っていく。
きっと、遠慮していたんだと理久は思う。
それは、多分お互いに。