18
ニンジンとじゃがいもの皮むきを彩花に任せていると、彼女のほうから話し掛けてきた。
「小山内さんは、アルバイトってしたことありますか?」
瞳は野菜に釘付けになったまま、彩花はぼそりと問いかけてくる。
彼女のほうから歩み寄ってくれるのは嬉しいけれど、その話題のチョイスには首を傾げる。
「バイト……。や、したことないですね。どうして?」
「高校生って、アルバイトもできると聞いたので。もし、経験があるようだったら教えて頂きたくて……。わたし、高校生になったらアルバイトしたいです」
彩花の言葉に、理久は黙り込んでしまう。
それをどう誤解したのか、慌てて彼女は口を開いた。
「いえ、あの。もちろん、家事に支障が出ない程度に、ですよ。当番のお仕事はちゃんとやりますので」
「いや、そこは心配してないんだけどさ……。なんでバイトをしたいのか、理由を聞いても?」
踏み込み過ぎだろうか、と心配にはなるが、ここは踏み込まずにはいられなかった。
その意図が通じてしまったのか、彩花は一度こちらに目を向ける。
そのまま、恥じ入るように目を伏せた。
話題の選出を間違えた、と考えているのかもしれない。
特に話すようなことがない、かといって無言のままではいられない。
どうにか捻り出した話題は、思わぬ爆弾を抱えていた。
けれど、一度口から出た言葉は取り消せない。
静かな鈴の音のような声で、彼女をぽつりと呟く。
「お金を、貯めておきたいんです」
そうだろうな、と思う。
重要なのは、その内容だ。
理久は今度こそ踏み出せずに、彩花の言葉を待っていた。
すると彼女は、観念したようにひとつひとつ口にしていく。
「大学、行きたいですし。奨学金は申し込みますけど、お金はあるに越したことはありませんから」
言うべきではなかった、と彼女の強張った横顔が物語っている。
先ほどから、失言だった、と後悔している。
確かに彼女の立場を考えると、それを理久に伝えるのは何かを期待していると誤解されてもおかしくない。
彼女はそれを求めていない。
それでも、理久は伝えずにはいられなかった。
「そのことなら、心配ないと思いますよ。彩花さんが大学に行きたいなら、父さんは行かせてくれると思う。香澄さんと結婚するってことは、香澄さんと彩花さんの人生の責任を持つ覚悟を、父さんはしてるんです。学費の心配はしないでいい」
それを理久が言うのは間違っている気もしたが、この場に父がいれば同じことを言ったはずだ。
父は生半可な気持ちで結婚を決行したわけではない。
そうじゃなければ、息子に負担が掛かると確信しながらも、前に進んだ意味がない。
それは、きっと彩花もわかっている。
そのうえで、彼女は小さく首を振った。
「それで、『では、よろしくお願いします』とお金を頂くわけにはいきません。もう既に、慎二さんには十分すぎるほど助けて頂いたんです。これ以上、お世話になるわけにはいきません」
静かに、弱々しい声ながらも、彩花はきっぱり否定してしまう。
彼女の立場からすれば、そう言わざるを得ないのかもしれない。
自分たちは、本当の家族ではないからだ。
彩花からすると、他人の家に間借りさせてもらっている、居候させてもらっている、という感覚が強いのかもしれない。
それはどれだけ父が言葉を重ねても、きっとその意識は消えない。
『では、よろしくお願いします』とはならない。
そんなふうに無条件で人に甘えるには、彩花は良識も常識も持ちすぎていた。
「………………」
彩花はきっと、大学が決まればこの家を出て行くだろう。
いや、お金さえ貯まれば高校の途中で出て行くかもしれない。
もしかしたら、そのほうが彼女にとって幸せかもしれないし、この環境が彩花にとって適切だ、とは逆立ちしたって言えやしない。
けれど、その選択は、その選択肢は、選びたくて選んだわけではないだろう。
理久だって、アルバイトをしてみたい、と思ったことはある。
理由は簡単で、遊ぶ金欲しさだ。
別に小遣いに不自由しているわけじゃないが、それはあくまで高校生の常識の範囲内。
バイトをすれば月に数万円のお金が手に入る。
それは魅力的に感じたし、やってみたいなあ、とぼんやり考えたことはある。
しかし、理久には家事もあるし、勉強だって放り出していればいずれついていけなくなる。いや無理だな、と早々に諦めた。そこまでやりたかったわけでもない。
だが、彼女はそれを実行しようとしている。
しかも、必要に駆られて。
彼女が真面目な子であることは痛いほど伝わっている。
割り振られた家事は、きちんとこなすだろう。
勉強だって、問題なく励むだろう。
そのうえでバイトもするというのなら、彼女の生活は決して余裕のあるものではなくなる。
いやきっと、これから先も。
高校に入っても、大学に入っても、彼女はがむしゃらに前に進み続けるしかないのではないだろうか。
そんな覚悟を。
彩花はしている。
「小山内さん。皮はすべて剥けました。次は、何をすればいいですか?」
彩花は取り繕うような笑みを浮かべて、こちらの様子を窺っている。
まだ成長途中の、決して大人とは言えない身体。
自分と同じく、未発達の心。
だというのに、彼女はもういろんなものを受け入れて、その細い肩に載せているのだろう。
それは、どんなに――。
「……っ? お、小山内さん。どうしたんですか……?」
いつの間にか視界が滲んでいたらしく、彩花がパタパタと手を振りながら、こちらの顔を覗き込んでくる。
あぁなんて格好悪い。
ごしごしと目を擦りながら、不格好な笑みを浮かべた。
「いや、ちょっと玉ねぎの汁が目に入ったのかも。何でもないですよ」
最初からごまかすのを諦めたような言い訳をして、彼女が剥いた野菜を手に取る。
幸い、彩花はそれ以上追及してくることはなかった。
気を取り直して、理久は次の作業に目を向ける。
「じゃあ、野菜を切っていきましょうか。まず、野菜を押さえるほうの手の形なんですが、指を切らないよう猫の手を作ります」
「猫の手……。こう、ですよね。こう」
真面目な表情で、彩花は軽く握った手を招き猫のように、くい、くい、と動かしている。
その愛らしさにまた泣きそうになったけれど、我慢して笑う。
もしも。
彼女がこれから先、穏やかに、平穏に、普通の女の子のように過ごせるとするならば。
そのときは、この家が彩花にとって本当の家になったときだし、三枝彩花が小山内彩花に変わったときだろう。
彩花に幸せになってもらいたい、と理久が心から望むのであれば。
家族になる努力を最もすべきなのは、理久のほうなのかもしれない。
だというのに。
あぁ、と声が漏れそうになる。
彼女の外見だけに惹かれているのなら、それでもよかった。
自分が女性の容姿だけで恋に落とされる、軽率で失礼な男というだけ。
その気持ちさえ知られなければ、それでよかったはずなのに。
彼女の内面を知って、さらに感情が強くなってしまうなんて。