筋肉除霊士 マッスル除霊除霊
君も筋肉を感じてみないか?
暗闇に首筋を舐められるような不快感と嫌悪感。ひたりひたりと耳に軋む彼岸の住人の足音。飢えた獣の如く息つく様は、その容貌も相まって醜悪の一言でもなお足りぬほど気持ち悪い。
しかしそんな彼らの存在は、少女にとっては日常の一部に過ぎない。・・・とは言ったものの、やはり少女自身も恐れていないわけではない。知らず知らずの内に、一歩、また一歩と足を進めるたびに歩幅が広くなる。肩にかけたカバンの紐を握る手が湿る。心臓が刻む鼓動が知らずの内に早くなるのを感じていた。
ゴクリ、のどを鳴らす。
べつに唾が口の中にたまっていたわけではない。だが、少女の体は後ろから感じる得体のしれない何かに対して、恐怖に対して生命の防衛反応を始動させていた。
八月中旬の深夜。ベッドタウンであるこの街は夜に眠る。夜になっても遊び惚けている輩は数えるほどにしかいない。星を見るには都会すぎるこの街は物静かなアスファルトの街路を照らす無機質な電灯だけが唯一の明かりだ。
そんな丑三つ時の人気が消えた道を歩く少女が一人で独り、歩いてゆく。
__ひたり
いや、少女の他に、その少女の後をつける影が一匹。その陰の持ち主は口元が大きく割け、瞳孔がゆらゆらぐるりと見て回る。白いワンピースは肉片と血に赤く染められ、その肌は白よりもなお白かった。
『先生、悪霊が出ました。早く来てください』
少女は素早く携帯を取り出す。手慣れた手つきで画面を滑らし、文字を打つ。
現在地を送信してすぐさまポケットに入れた。
自分にできること、しなければならないことは終わった。少女がホッと一息ついて。ふと記憶を辿る。
「なんで私こんなことしてるんだっけ」
物心がついた時から、少女にとってソレは風景の一部だった。しかし人が漠然とゴキブリやハエや蚊を嫌うように、少女もソレを忌避していた。とはいっても最初はそこまで恐れていたわけではなかった。嫌っていたわけでもなかった。幼いころ犬に腕を噛まれて以来犬全般に恐怖心を持つように、そんな人生が変わってしまうような体験、少女にとってのソレは中一の時だった。
『お前、ユーレイが見えるんだって? ユーレイなんているわけないのに何言ってんだよ』
『いるもん』
始まりは、少女にとってはいつもの一幕からだった。クラスの男の子がチャチャを飛ばして、少女がそれに反抗する。呆れるほど繰り返された押し問答。だが、少女は見えているものを見えていないと言えるほど大人ではなかった。
『どこにいるって言うんだよ。デタラメ言うなよな』
『いるもん! ほら、今だって美奈ちゃんの頭の上にいるよ』
『だから、ウソ言うなっ・・・て・・・』
パチャン それは、水風船が破裂した音にも、肉が打ち付けられたような音にも聞こえた。辺り一面が赤い液体に染められている。顔に指を沿わせれば、グニャグニャ、グミにも似た触感。でも、明らかに違うもの。
途切れる思考の代わりに目を動かす。口の奥から酸っぱいものがせりあがってくる。
赤の発生源は、美奈ちゃんと呼ばれた少女の頭だった。正確には頭だったものだった。
何が原因だったかは後から聞いた。少女がソレと漠然に呼称していたもの、悪霊が起こした事件だったらそうだ。
遅かれ早かれこうなっていた。早いか遅いかの違いだけだったらしい。とはいったもののそれで少女の罪悪感が消えることにはなりはしないが。
せめてもの贖罪として、少女は子供ながらに大人となった。少女が『先生』と慕う彼が表れるまでは。
「かりたしたらみたらくりたまたらさたらくるるるるすんまでるたしてうりやらまんから」
「ッ⁉」
意識が浮上する。どうやら少女自身、自分が知らないうちに相当深く思いふけていたらしい。
白く、垢と赤で穢れた指先が迫る。鋭く、鋭利な爪が己の目を引き裂こうと、首元まで割れた顎が、口中から延びた気色悪い牙と爬虫類のように細い舌が捕食しようと迫りくる。
「せめて、食べがいがあるように肉、つけときゃ良かったな」
自分の細い腕を見て、言葉をもらす。
「それでは助手クン、手始めに今日の夜から筋トレをして共に汗を流そうじゃないかッ」
少女と悪霊の間に割って入り、その爪を、牙を受け止めた男、否、漢は・・・筋肉であった。
二○○ほどの高身長に、ありとあらゆる部位に凝縮し、研磨された筋肉。はちきれんばかりの胸筋。脚と見間違うほどに太く、筋肉が筋肉している両腕。鋼鉄の鉄柱と見間違うほどの脚。一一切のムダ毛を排除し、その頭は伝統の光を反射し、その黒く焼かれた皮膚は光を放ち、輝いている。
一切の無駄を許さぬ究極の肉体。筋肉の、筋肉による、筋肉のための筋肉をもった至高の筋肉をその身に宿した漢。
彼こそが、少女の師匠であり、雇い主であり、先生である、筋肉だ。
「すまない。ボディビル友達と筋肉座談会で盛り上がってな。少し遅れてしまった」
「筋肉座談会って何・・・」
神が作り出し、人が磨き上げ、科学の英知(※プロテインのことです)によって裏付けられた肉体、筋肉、肉。悪霊如きの牙や爪をその胸筋で、腕の筋肉で受け止めことは造作もなかった。
「さて、悪霊クン。もう夜も遅いのでね。手短に終わらせよう。夜更かしはお肌の天敵だゾ☆」
コーヒーを濃縮させたような渋みと深みを持った声で紡がれるコミカルな口調。
少女は助けてもらっておいてなんだが、という悪霊を寄せ付けるという厄介極まりない体質でも雇ってもなっていてなんだが___もう帰りたかった。
漢が大地に、立つ。手のひらを天に掲げる。気が、張りつめる。獰猛に、清らかに、満面の笑みを浮かべた。
少女の先生、彼の除霊手段はたった一つ。その一つであまたの悪霊をその手で祓ってきた。
その方法とは____ポージング。
「フンッッ!」
一番は、決まっている。原初にして自然。全ての行動の初作。即ちフロントリラックスポーズ。
「まだまだァァ‼」
黄金にして遥かなる霊峰の具現、フロントダブルバイセップス。肉の演舞が、続く。
生命が描く遥かなる大地の航海図、サイドトライセップスポーズ
「これで、終わりだァァァァァァァァァァァァ」
そして、キメ技。万象を捻じ曲げんとする気迫。
示されたそれは破壊の咆哮にして魂の雄叫び。至高にて完全、完全にして不完全。漢が描く筋肉の円環、モストンマスキュラーであった。
筋肉の演劇、魂のポージング、そして一切の妥協を許さぬ不動の有様。
心技体、それら三つを兼ね備えた究極の除霊。たった四度のポージング、すなわち肉と魂の円舞曲。しかし、頬をつたう大粒の雫が、その除霊がいかに困難であり至高の所作であるかを物語っていた。
それを見た悪霊は、何を語るでもなくただ、満足そうに涙を流していた。そして息を大きく吸い、溜めて、放つ。
「なんだ、あのセパレーション! 多すぎて数えられない。肉がどんどんどんどん迫ってくる! 大胸筋が歩いてるよ。背中に鬼の顔と天使の翼生えているよ。僧帽筋が威嚇している。もっともっと歌って僧帽筋。お尻ムー大陸。呪いの木箱背負ってんのかい。どれが顔かわかんねーよ。マッチョのワンマンインベーダーゲーム。筋肉の圧迫面接だよ。マッチョマッチャーマッチェストォォォォォォォ!」
悪霊が輝かしい筋肉を持つ先生に向かって、己が知る限りの賛美で称えた。
陰鬱とした彼岸の世界では見ることは決してない魂の光、筋肉の煌めき。その光は、悪霊という穢れた者たちにさえも希望を、魂の熱を取り戻してくれるものであった。かつてあった温もり、悪霊自身自らが知らずのうちに踏みにじったもの。無くしてしまったもの。
それが今、己の胸の内に還る感覚。白い素肌に熱がみなぎり満たされる。
「あぁ・・・満足だ」
大事そうに、愛おしそうに胸に手を当て、悪霊は満面の笑みで消え去っていった。
「そうかそうか、そんなに良かったかぁ。お前が転生してきたら、一緒にビルディングしよう・・・な」
夜の空に散り昇る悪霊の残骸を見て、どこか悲しそうに、満足そうに先生が呟く。除霊士が、悪霊に同情してはいけな。しかし、先生は思う。せめてもの散り際、盛大に笑顔で、満足して、逝ってもらわねば、と。たぎる身体に鞭を打ち、ポージング。白い歯を輝かせながら、両手を頭の後ろで結ぶ、それ即ちアブドミナルアンドサイポーズ。
「またな」とそうつぶやいた。
「やっぱり帰って良いですか?」
己の教え子が自分にごみを見るような目線を向けていること、つゆほども気にせずに。