9.常識
イル。
それは、世界の端に沿って飛び廻る眩い鳥のことだ。
だが、世界の端というあまりにも遠いところを飛んでいることと、明るすぎることがあって、その姿を間近に見た者は誰一人いない。
学者の中にはいろいろ考えている者もいるようで、新たな意見が出てくるたび、世間はいちいち振り回されるが。
飛んでいるので、鳥。明るいから、炎。だというところでおおよそ通じている。
イルが空を飛んでいる明るい時を、昼。
イルが空にいなくなり、ゴーシュの明かりが世界を照らす薄暗い時を、夜と呼んだ。
合わせて一日。誰が言い始めたのかは知らない。
昼はいいとして。
夜、イルはどこへ行くのかということにも、さまざま意見があった。
一旦死んで、毎日生まれるとか。
そもそもいなくなったりしてるのではなく、疲労によって炎が鎮まるのだ、とか。
その中で最も通じているのが、イルは眠る時とゴーシュに止まる、という説。
どこかの誰かが、『イルはいつもゴーシュがある方角に降りる』、と言い始めたことがきっかけらしい。
ゴーシュの熱が凄まじく、そばに近づくことはできないので、そのあたりでも夜に消えるイルについては都合よく解釈できている。
ムウは、
世間からの好き嫌いが両極端に分かれる。
悍しいといわれるのが一般的だが、ごく少数ではカッコいいとも。
ムウは、どこで作ったのかわからないやたらと大きな鋏を持って歩く巨躯の二本足。
森に住んでいて、知らぬ間に森を一つ増やしていたりする。
個体数はウロの少ない種よりは多く、一つの森に一体はいるのが確認されている。
数もさほどでないし人里離れたところが住処だし、安全かというとそうではなく。
時折ふらっと森を出てきて街を襲い、街も人もある程度蹴散らすとまた森へ帰っていく。
活気を瓦礫と変え、倒れた人を平然と踏みつけて去っていく姿には、まるで心というものを感じられない。
とはいえ、外を歩いていてふいに出くわしたからといって襲われるとも限らず。人だけを襲うでもない。
中にはウロに襲われて危なかったところにムウが現れ、ウロを蹴散らしていったという話もあり。
それが大抵子供だったりするものだから、やっぱりムウは優しい怪物だといわれたりする。
特に、そういう体験をした人は、ムウという存在に対して世間とは違った憧れに近いものを持つようだ。
成長して、ムウに救われたことに感謝している連中は、密かにムウを勇者と称えたりしている。
だが、繁栄しムウ対策をヨウマに指示される今にも襲われそうな街でそんなことを言えば非難を受けるので、本心は隠されるか、またはムウの眼中に入らない村へ移り住むことまであるらしい。
心優しき怪物か、慈悲なき破壊者か。
その判断は、ムウと対峙した人だけが決められる。
相反する二色の見解があって、ムウを、管理人、と呼ぶのが両者にわだかまりのない呼び方だ。
ゴーシュは、
イルと同じく、存在こそ明らかだが謎の多い存在。
地面に立つ樹だというところはかなり遠くから見てもわかる形をしているが、いかんせん遠いので細かいところはよく知られていない。
昔、どこかの誰かが何をしても消えない燃える葉を拾ったと言い伝えたことから、ゴーシュ自体が燃えているのではなく、燃える葉をつけるとかいわれていて、その幹は決して燃えない不燃の樹皮に覆われているなんていうふうにも。
ゴーシュの根元は炎で満たされていて、そもそもその炎が原因でゴーシュは燃えているとも考えられたりもするが、だったらその炎はどこからきたのかという謎に行き当たり。
結局のところ、燃える葉が落ちているのではないかというところが最有力の説となっている。
周囲の炎と凄まじい熱によって生物は住むことどころか、近づくこともできず。
詳しいことは知ろうにも知れない。
ゴーシュが燃えているのか、ゴーシュに成る葉が燃えているのか。
とりあえず樹だということだけが共通認識になっていて、いつでも目の当たりにできるわりに、わからないことが多いところもイルと似ている。
また、周囲一帯が炎で満たされているために熱いだけでなく明るく、イルが空からいなくなると空の半分はゴーシュの炎の色に染まる。
そのせいで常に明るいゴーシュ近くの熱帯に住む連中は、時折暗闇を感じに遠方に旅をしたりする。
世にも不思議な炎の実もまた、ゴーシュに成るといわれているが、身動ぎしないゴーシュに成る実がどうやって世界中に散らばるのか、とそれも謎だ。
一説には、イルが運んでいるとも。
ヨウマについては、特別思い出すようなこともない。
年齢不詳、最も古い人だとされている。
一応普通の人と同じ姿をしていて、腑抜けたいつも眠たそうな顔をしているのが印象的。
そのため、一見大人そうにも思えるが、常に戦闘指南ばかりを口にし、周囲を鼓舞することに長けていたり。
どうにも血の気の多く、普段の大概はムウをどうやって殺すかばかり考えている危ない奴だが、どうやら女はそういうヨウマが好きらしい。
【車輪の街】しかり、【赤闇の丘】のような繁栄した街に、いわゆるムウ対策を施した功績なんかもあって、ヨウマを支持する者はやっぱり多い。
結局のところ、ヨウマが好きなのは全人類に多いともいえるかもしれない。
おれはあまり好きじゃない。
あとはアワン。
存在としては、泉。
アワンには、決して枯れないし、風が吹こうが触れようが一切波が立たない、という特徴がある。
映る者の姿を借りて語る、というのも特徴の一つだが、あまり詳しいことは知らないのか、話さない。
また、世界の川の源といわれ、世界中の川の行き着く先にはアワンがあるともいわれるが、それは十三本の大きな川が繋がっている事実のせいで誇張された噂、というのが一般的な理解だ。
学者はああだこうだと口を出しているが、地の底に流れる川が云々といわれても、確かめようがないので、その説は世間的にあまり信じられていない。
ただ、願いを叶えてくれる、というご都合主義な噂は信用している人が多い。
だが、その根拠がヨウマに始まっているとなれば、胡散臭く感じざるをえない。と、おれは思う。
皆、世界が始まる時にはすでに在ったもの、だ。
ソウが言うようなハジマリがどうのという伝説のものではなく、彼らがあってこその世界である、という認識がおれにはある。
これまで意識するまでもなかったことが、ソウの口から五つの名を聞き、浮き立っていた。
在るとわかっているもの、それが正解だと感じられるものが突如形を成して表れたことで、おれの目標は決まった。
世界を成すもの、それらの姿を確認すればきっと、おれの内に湧く奇妙な焦りを無くせる。
「おれは……」
ふと過ぎった考えを振り払うつもりが、自分の手のひらを見つめていた。
そこに錯覚する僅かな熱を握り締め、そして顔を上げる。
おれには、記憶がない。
でも、覚えていることがある。
何も思い出せないから、記憶がないと思っていたが、もしかすると、と思う。
「おれは、記憶をなくしたわけじゃないのか……?」
ソウも同じようなことをおれに言っていた。
あの時は特に考えもしなかったが、そういう意見は間違っていないのかもしれない。
じゃあ何を失くしたのかといわれれば、それはわからない。
だけど、今の状況は単なる記憶を失くすということとは微妙に違っている気がする。
おれが失くしたものはいったい何なのか。
そういうことは、たぶんーー。
□
ふいに、目の前は薄暗く黒と赤茶の混ざった暗い色の荒野が広がっていた。
寂しく、生命の何も感じさせない空間には、むしろ影が少なく、やけに風景が近い。
そのせいか、おれ自身立っているのか横になっているのかも曖昧だった。
またしてもおかしな場所に来てしまった。
どうやって辿り着いたのかも、どこをどう通ったのかも、相変わらず謎だ。
とはいえ、開放感があるという点では、狭苦しい部屋の中に比べればずいぶんマシか。
自ずと体を立てようとして、おれは自分が座っていたことに気がついた。
視線が垂直に上へ向かっていくと、荒野の風景が下に流れていく。
変だな、と思ったのはその時だ。
立ち上がった体の均整のため、そこ、から離れてようやく気づいた。
「なんだ、棚か」
どうやらおれは、書棚に突っ伏していたらしい。
目の前にあったのは、乾いて傷んだ棚の側面だった。
「なんでまたこんなところで……」
直前に自分が何をしていたのか思い出そうとして、ふと後頭部に手を伸ばそうとすると、その右手とは逆の手に本が握られていた。
頭を掻くのを止め、本を目の前に持ってきてみるが、いつ棚から取り出したのか覚えにない。
不思議なことがあるものだ、と改めてまじまじ本を眺める。
奇妙な鍵の付いた本。
黄ばんで古くなったそれを一周回してみて、突如おれは閃いた。
開くことはできなくても、隙間から覗くことくらいできるかもしれない。
傷みで歪んだ冊子の角に指先をねじ込み、僅かに開いた隙間に視線を差し込む。
およそ空白のページ。
だが、その先で影に塗れた何かしらの線がぼんやりと見えた。
文字ではない。
いくつかの小さな弧が連なって並ぶそれは、おそらく屋根だ。
波の模様の屋根が見える。
「……絵だ。絵が描いてある」
建物の絵。
そう認識したのをきっかけに、おれは本から目を離し、小窓の方へ近づいた。
開けっぱなしの窓の向こうを覗き込む。
すぐそばに迫る暗闇の微妙で奇妙な感覚はかわらない。
だから、そこに何があるとも知れない状態だ。
それでも今のおれには、屋根、を見ようという目的があった。
ここに小屋が建っている。
そばに別の建物があるはずだ、というのはおまけのようについてきた発想だった。
その屋根が、本の中の絵と同じか。
漠然としながらもやけにはっきりとした期待が、暗闇を見通すための力になっていた。
本の中の絵を強く思い描き、そこにあるはずの風景に目を凝らす。
どうか、似ていてくれ。
期待が強くなるのに乗じて、深い闇の風景の奥にうっすらと輪郭が見えてくる。
緩い角の頂点、そこから両側に向かって斜に流れる直線、直線は垂れて縦に線を引いている。
最も単純な家の形。
それが浮かんでくると、輪郭の内側にまた別の要素が現れてくる。
横に貼られた板、外の空間を白く濁したような曇り空のような色の外壁が。
そしてその白を含んだ色がどこからともない明るさを跳ね返し、屋根に奥行きを与えていく。
長くできた行列を撫でていくように、ズラリと露わになった屋根には、模様がない。
外壁と向きの違う板が並んでいるだけだ。
「違うか……」
なぜ、そこに今絵で見た建物があると思ったのか。
妙な期待に説明をつけるならたぶん、孤独。
出入口のない狭い小屋、そんなところに閉じこもっていて、おれは寂しさなりを感じているのかもしれない。
何か知っているものに触れたいと、たぶんそう感じていたのだろう。
でもなぜ、自分の家でそんな気分にならなければならない。
おれはこの家で暮らしていたはずなのに。
今一度部屋の中をぐるりと見回したその時だった。
じわりと生暖かい感触が右手に触れた気がしたーー。
□
ムオーーゥ。
間の抜けた声がして、おれは視線を脇に向けた。
「ウロ……?」
いつの間に近づいていたのか、そこに毛むくじゃらの四つ足のウロがいる。
体長はおれと同じくらい、ギウ、と呼ばれる一般的な大人しいウロだ。
草原にいるのは珍しいことじゃないが、こんなに簡単に同種以外の生物に近づくのは珍しい。
「なんだお前、誰かに飼われてるのか?」
戯れてくるギウの背を撫でつつ辺りを見回すと、そこに見つけた。
「あれは……」
赤茶色の波の模様の屋根の家だ。
ふいに沸き起こる、どこかで見た、という記憶がそこへ吸い寄せられるようにおれの足を進めていた。