8.別のなにか
「な。なんだ、お前……なんなんだお前、どうして急にっ」
突如として混乱するソウ。
だが、それもそうだ、とおれは同調する。
おれも、口をこじ開けそこから這い出して現れたものに目を向けた。
背がおれの腰くらいまでの華奢な二本足というところは、あれと一緒だ。
しかし、おうとつが極端に少ない全身と、薄緑色の模様があるもののおよそ白地の体色は、おれに近い。というか、ほとんどおれか。
こいつはいったい何なんだろう。
触れてみようと手を伸ばすと、不思議なことにそれもまた前に向かって手を伸ばした。
「真似をするのか?」
手を引き戻し、語りかけてみると。
「なんのまねだ!」
ソウが声を荒げる。
「そんなのおれも知らない」
おれが首を横に振るのを、それが真似た。
すると、ソウは愕然とした表情のままかぶりを振り、「これが、庭師の力なのか?」と独り言なのかおれにいってるのか、そんなことを言った。
「さあね。そもそもその、庭師、ってのがなんなのかもわからないんだ。庭師には、こういうことができるもんなのか?」
「知るわけがないだろ! 庭師が本当にいるなんて……っ!」
興奮が冷める様子のないソウは、「まったくわけがわからない」、と頭を抱えたかと思うと、「そうか!」とふいに顔を上げた。
「毒だ……毒だな? それでお前は変身するのか!」
なるほどな。と勝手に納得し、続け様に「麻痺性の毒」がどうとか、「流血」、「凝固」、「破壊」、「増殖」と単語を並べた。
「しかしよくわからないな。その緑色はどうして……」
返事のつもりもなかったが、一応肩をすくめてみせた。そこでもやっぱり小さなおれが真似をする。
その姿をまじまじと見つめるソウには、今しがたの混乱は感じられない。
早くもこの存在に慣れたのだろう。
ソウは早速小さなおれみたいなものに触れようとした。
だがその寸前、またしても「なるほどな」と呟き、姿勢を正す。
「茶の色か。それで薄緑色に……」
茶?
「おい、お前」
我慢ならず、おれはついに口を挟むことにした。
「あの花茶、毒だったのか?」
やっぱり、と付け加えるのは野暮だしやめておいた。
するとソウはぴたりと動きを止め、硬い笑顔を貼り付け直すと、「違うんだ」と両手をかざす。
おれに、ではなく小さいほうにだ。
「俺たちにとっては、だよ。人じゃないお前みたいなー……」
言いかけてソウは、キノトだと思ったんだ、と声を強調した。
「栄養になるものだから、成長を促進する。そういうものなんだよ」
「なにが栄養だ。お前、たった今おれを『庭師』って呼んだだろ。なにがキノトだよ」
それに、キノトに向けた茶を自分にも注いだのもおかしい。
毒だとわかっておれに茶を勧めたことは明白だが、この期に及んでその程度の言い訳が通じると思っているとは、滑稽の一言に尽きる。
とはいえ、単に間抜けはじめから怪しげな男だとは感じていたものの、まさか毒を盛られるとは想定外だった。
やっぱり、あれを逃しておいてよかった。
ふと安堵すると、草原の中にあの小さな姿を探していた。
もう、あれの姿は見えない。
どこか遠くへ行ったのだろう。
そこがどこかの森ならいい、とそう思った。
「キノトは、庭師になるんだ」
ふいの発言に、おれはソウへ視線を戻した。
「だからなんだよ。それが毒を盛る真っ当な理由か?」
「違う、お前に飲ませたものは本当に毒なんかじゃないんだ。成長を促進する、本当だ」
「だからなんだ。おれがなんなのかわかりもしないのに。それが毒になるとは思わなかったのか?」
言ってやると、なんのつもりかソウが激しく首を横に振る。
「お前は、庭師だ。間違いない。おれはずっと、お前に会いたくて、探していたんだ。それが、今日……」
やっと会えた。
ソウは付け加えるように言って、まん丸のギョロ目を潤ませ、妙に感動的な顔つきで小さいおれを見ている。
「ふーん……」
適当に鼻を鳴らしながら、この男が何を言っているのか考えてみた。
キノトが成長して庭師になる。
おれは彼にとって未知の生物で、だから庭師だと断定した。
そのうえで、成長を促すために栄養を与えたと。
ここで疑問なのは、仮におれが庭師だとして、それ以上栄養を与える必要があるのか、ということと、それからキノトは今の花茶を飲めばすぐに成長するのか、ということだ。
情緒も含めて、彼はおかしい。
つまりじゃないが、キノトが云々、庭師が云々という話は、嘘だ。
だからやっぱり、彼は単におれを殺すつもりだった。
しかも、当初の彼の口ぶりからして、おれではない、おそらくキノトにも同じく毒を飲ませたことがあるのだと察する。
それが、おれを死なせることができるという根拠だったのかもしれない。
しかし、なぜだろう。
おれがなんなのかわからないのに、殺す理由がわからない。
憎々しげに彼の言った、『大人しく風に揺れていればいい』、という台詞を思い出す。
それとキノトに効く毒を飲ませたこと。
もしかすると、おれが庭師だと感じているのは本当なのかもしれない。
でも、キノトが庭師になるということの嘘くささは残る。
キノトが邪魔なのに、庭師を殺す?
それもまた、世界を正す、という彼の目的の一端なのか?
そもそも世界を正すということ自体も嘘の可能性はあるが。
もし真実なら、彼の言う正しい世界というか、元の世界、はどういう姿をしているのだろうか。
キノトや庭師がいなくて、他にどんなことが……。
「なあ」
声をかけると、ソウはビクリと体を強張らせた。
「今の世界はなにが間違ってるんだ?」
「な、なにが……って……」
言い淀んで視線が泳いでいる。
動揺している原因は、おれだろう。
「おれは、庭師なんかじゃない。キノトに対しても特に思うところもないし、どうでもいい。おれは、お前を殺したりしない」
嘘のつもりはないが、場合によっては、とも頭の片隅にはある。
そんな微妙な殺気を感じているのか、ソウの緊張が解けない。
「本当だ」、と付け加えてみるが、あまり効果はなさそうだった。
「……頼むよ。知りたいんだ。おれは、ここがどんな場所なのか知らなきゃいけないんだよ。どうしてかはわからないけどな……」
小さな嘘をついた。
だが、僅かに彼の表情が緩んだ気がした。
ソウは一度だけ短く咳払いをすると、「たぶん、間違ってなんかいない」、と言った。
「わかってるんだ、俺だって。だけど、あれを知ってしまって。俺はもう……ここがまともだと思えなくなった」
「あれ、っていうのは?」
ソウは頷いた。
だがそれは、頷いたというよりも、頭が垂れたといった方が正しいのかもしれない。
脱力し、頭を支えるのも億劫になった。そんな頷き方だった。
ソウは自分の胸にそっと手を当てた。
「まだ若い頃に見つけた家だ。前の家主の寝床を片付けていて、この手記を見つけたんだ。たまたま。そこの端に、こう書かれているーー」
ーーイル・ムウ・ゴーシュ・ヨウマ・アワン
「…………」
少し待ったが、ソウの口はそれ以上開く気配がない。
「……それで、終わりか?」
拍子抜けだ。
重苦しい雰囲気を醸しながら、彼はそんなことしか言わない。
そんなことで彼は世界の見方を変えた?
信じられない気持ちを押し殺しておれの口から出た質問は、「なぜ」、とたった二文字だった。
ソウは、嘲笑するように短く笑う。
「本当に、お前はなにも知らないんだな」
「それは初めから言ってるだろ。記憶がないんだ。そんなことより、なぜだ。なぜそんなつまらない書き込みで、お前は世界を疑うように……?」
改めてした質問にも、ソウは笑った。
「つまらないこと? これは重大な発見だ。なにも覚えていないお前にとってはどうでもいいことかもしれないけどな。これまで、人の歴史がたっぷりあっても明かされることのなかった真実だ。今言った五つの言葉はな……」
ソウは胸のポケットからまたあのノートを出し、書いてあることを目に押し付けんばかりに最初のページを見せつけてくる。
おれは、書かれている名前もそうだが、文字を見るのが久しぶりな気がしていた。
「名前だと、俺は考えている。そこに、ムウ、の文字がなければ無意味な羅列にしか見えなかっただろうな。
ムウ、だ。世界の名が、他の言葉と一緒に並んで書かれている。それでピンときた。
伝説にはない始まりの存在の名前じゃないか、ってな。だからさ、俺は伝わっている話には別の真実があるんじゃないかと考え始めたんだ……」
あれ、とおれはノートから目線を外した。
「ムウが、世界の名だって?」
「当たり前だ……とはいえ、お前がそもそも知っていたかは怪しいけどな」
違う。
ムウは。
「ただの厄介者だろ? ムウは……」
何かが違う、と漠然と感じた。
同時に空を見上げ、イルの姿を探す。
明るい空の彼方、より強く輝く光を見つけた。
姿こそわからないが、あれはやっぱり見覚えのある光り方だ。
「……お前は記憶がないんじゃなかったのか?」
「もちろん、ない。だけど、ムウもそうだし、他の名前も全部常識だろ。ウロのこととか草とか木とか、そういうこともわかってる。覚えてるとかそういうんじゃなくて……」
自分で言っておいてふと、記憶を失う、ということの意味がわからなくなった。
少し不安になって、「だって、当たり前のことだよな?」、と確認してみる。
おれは、空の遠くを指差した。
「あれは、イル。向こうの端をぐるっと回ってる、って間違ってないだろ?」
ソウは口を半開きにしたまま、首を横に振った。
そして一言、「なんなんだ、お前は……」と改めるように言って険しい顔で小さいおれを見つめる。
「なぜ"ハジマリ"の名を知ってる。それをしかも、当たり前だと? ムウが厄介者? おまけに陽の名がイルだって……お前はなにを知っている……お前は……」
お前はいったい、どこから、来きた。
「どこから……」
おれは、答えることができなかった。
ただ、自然と視線は目覚めた森の方へ向く。
通り過ぎてきた風景がそこにある。
ここへ来れば戻れる気がしていたのに、ここに住む男はおれに、どこから来たのか、と訊いている。
薄々感じていた妙な違和感の答えは、この世界がどうやらおれが知っているものであって、でも別物らしい、というところに落ち着くほかないのかもしれない。
だったら……、と考えると背筋を何かが流れ落ちていく感覚に襲われ。体の内側が溶けていく、そんな感じがした。
その気持ちの悪い感覚と呼応するように、小さい方のおれの姿は煙となって崩れ、地面に当たって軽く舞い上がり辺りが薄く靄がかかる。
「……でも、わからないだろ」
「なにがだ」
「まだ、ここがおれの知ってる場所じゃないって、そう決まったわけじゃない。半分は繋がってるんだからな」
「なにを、言ってる?」
ソウの質問には答えない。
とはいえ、おれにだってよくわからないし、言いたいことを言っただけだから、答えられない、というのが正確かもしれない。
「とにかく、もう行くよ。いろいろ聞けてよかった」
体はテントの向こうを向いていた。
「い……行くあてはあるのか?」
「ある」
即答はしたが、それを行先といっていいのかはわからない。
どう進めばいいのかも。
どこにいるのかもわからない。
少しだけ溜まっていた息が、ふ、と漏れた。
同時に風が吹き、おれを追い越して色鮮やかな草原を波立たせていく。
その忙しい色と影の変化の中に、またあれの走る背中が見えたような気がした。
「どこへ?」
相変わらず返事は用意していないし、それにこの男には言わないほうがいいだろう。
おれは、代りに短くかぶりを振った。
「知ってる場所を探しに行くんだよ」
ソウは吹き出したような乾いた咳を一度だけして、「またな」、と言った。