7.おかしな伝説
——かつて、そこが世界と呼ばれる前、そこには炎と鏡、樹と庭師と鳥と蛇があった。
彼らにはそれぞれ役目があった。炎は照らし、鏡は映し、樹は育み、庭師は整え、鳥は掻き混ぜ、蛇は固める。
誰にそうしろと言われたわけでなく、彼らは役目に合った姿をしていたために、そうするほかなかったのだ。
無数の時を重ね、ふいに蛇が提案したのは「皆の役目を交換しよう」というものだった。
蛇が真っ先に話したのは、鳥だった。
「一度でいいから横になってみたかったんだ。だから、炎や鏡は論外として、蛇も樹もずっと同じ姿勢だし。わたしは、庭師の役がいい」
蛇は次に庭師の元へ行って、鳥が庭師をやりたいと言っているから、代わりに自由に飛び回ってみてはどうか、と提案した。
「わたしは自分の役が気に入っている。それに、空は手を伸ばせば届くようなものだ。鳥の役をやりたいとは思わない。しかし、強いて興味があるとうなら、樹だ。樹は目がいいから、どんな景色が見えているのか気になる」
庭師の話を聞き、蛇は次に樹の元へ行き、庭師が樹になりたいと言っている、と伝えた。
「だったらわたしは、炎がいい。あれはいつも明るくて温かいし、気持ちがいいんだ。あれにも自分がどれだけ素晴らしい存在なのか知ってもらいたい。だから、炎にはわたしの役をやってほしいものだ」
そうして、蛇が次に向かったのは鏡のところだった。
蛇は鏡に近づくと、鏡に映りんだ炎に、樹が役を交換してはどうかと言っている、と伝えた。
すると、炎はメラメラと笑った。
「樹は、わたしをわかっていないのだ。誰からも遠く離れているということの寒さを……。ただ、強いて誰というのなら、鳥だ。あれはわたしをよくわかっていて、時折そばに来て話をする。鳥になら、わたしの役ができるかもしれない」
彼らの話を聴き、蛇はたいへん満足した。
「よし、皆の気持ちはわかった」
そして蛇は鏡をじっと見つめ、語りかける。
「鏡よ。鳥に休息のための足を、庭師には遥か遠くを望むことのできる目を、樹には何処へでも届く腕を、炎にはあれに似た友を映してくれ。それから、わたしとお前は互いに姿を交換しようじゃないか」
蛇が言った途端、鏡は揺らめき、映り込んだ炎も鳥も庭師も樹も蛇も、皆ごちゃ混ぜになった。
しばらくして蛇の視界が落ち着くと、その目にはこれまでと違う皆の姿が映し出されていた。
鳥の細く固い鱗に覆われていた足は、太く肉の厚いものへ変わり。
庭師の目は、大きく丸い美しく磨かれた宝石のようなものへと変わり。
樹には、自由自在に伸びる腕が生え。
炎は、子を産むようになった。
しかし、蛇は何も変わらない。
地を流れるように行く姿は、鏡のそれと変わらなかったからだ。
それでも、蛇は満足していた。
地に寝そべり、遥かを望み、空を掴まんとし、空を旅する彼らを眺めていることで十分だった。
蛇は、鏡に礼を言おうとしたが、そこに蛇の知っている鏡の姿はなかった。
常に揺れ、小気味良い音を立てるばかりで、蛇の声にも応じることはない。
もう二度と鏡のあの美しい姿を見ることは叶わなくなったのだ。
自分のしたことの意味を理解した蛇は、何も望むまいと目を閉じた。
「——これが、世界中で信じられている。人々は、この“伝説"に出てくる鳥をその始祖だと信じているんだ。大きな目の庭師も、腕を持つ樹も、子を産む炎も世界中に蔓延る生物の始まりだ……つまり、真実だってね」
その一言を区切りにし、ソウは胸のポケットから出したくたびれたノートをまた仕舞った。
それで、とおれは思う。
だからなんだというのか。
人が何を信じようが勝手だ、それを物言いたげに語るソウの態度には違和感を覚える。
おそらく、その言いたいことの中には、今言わなかった鏡と蛇のことが含まれているのだろう。
何かあるのか、とまた口をついて出そうになった言葉をおれはあえて飲みこんだ。
「やっぱり覚えてないな。そんな話初めて聞いた気がする」
へえ、とソウのついた何気ない相槌は、気のないものではない。
微妙に見開きおれを見据える目が、それを物語っている。
「案外いろいろと知っているから、単なる記憶喪失とも違うと思ったけどなあ……。初めてか、そうか」
独り言のように呟き、ソウは足下の焚火の一点に視線を落とした。
ヤカンの口から、薄く湯気が昇り始めた。
「じゃあ、違和感を感じるまでもないか」
「違和感? 何の……」
質問しかけてすぐ、言葉を引き出されたことに気がつき口を閉ざしたが、もう遅い。
焚火に向いていたソウの視線は、おれに戻されていた。
「この伝説はどこか不自然だ。そんな気はしないか?」
「……わからないな」
ソウがまたはにかむ。
「だろうな」
おれは、思わず嘆息した。
ソウはまだはにかんだ笑みを浮かべたままだ。
「有無を言わさず姿を変えられた始まりの彼ら、それを満足げに見つめる蛇。それなのに、蛇は鏡の変化にだけ動揺する。おかしい。
他の五体は口を利くのに、鏡だけは口を利かない、おかしい。
同様に、蛇が鏡にだけ望みを聞かなかったのも、おかしい。おかしいことだらけだ。
でもこれは伝説で、物語だからな。内容に細かなチャチャを入れることに意味はない。だけどな、現実……」
つまり、ここだ。
と、ソウは足元を指差す。
「現実と混同できるなら、話は違う。辻褄が合わなければならない。それなのに、だ。蛇は、どこにも当てはまるものが見つかっていない……。どうしてだと思う?」
「どうしてもなにも、おれはそんな伝説聞くのは初めてだからな。わかるわけがない」
思ったことをそのまま言った。
するとソウの笑みは消え、真っ直ぐにこっちを見つめる視線だけが残されている。
何を考えているのかまるでわからないのに、ただ何か伝えよういう意志だけを感じさせる視線。
自ずと、おれはその目の奥に潜むものを知ろうと彼の目を見据えていた。
「これまでに、それ、と認められているのは、大まかに三つの種族。
俺たち人、動物を襲う顔の付いた樹、陽の欠片である意志を持った炎だ。
それぞれ、ヒト、カオツキ、ヒノコ、と呼ぶ。
ヒトについてはいうまでもないか。
カオツキについては、成り損ない、として言ったな。その内、特にカオツキには明らかな瞳を持つものが存在していて、それらはノゾキとも呼ばれる。
それから、ヒノコだが、こいつは時折起きる山火事の原因だ。突如として空から降ってきて、群れになると手がつけられなくなる。扱いとしては、ウロの一種で通っているが、伝説のこともあって特別に考えてる一派があるんだ。
こいつのせいなのか、こいつを持ち上げる連中のせいなのか。とにかくそのヒノコってのが、伝説が現実だと人々を信じさせる要因になった。
だから、カオツキやらノゾキについては、ヒノコの存在があって伝説と結び付けられた……」
ともいえるわけだ。
と、中途半端な区切りでソウの視線が改められる。
少しずつ、彼の言わんとしていることが理解できてきた気がした。
「……つまり、違和感か。ヒノコを特別視している連中が、伝説を利用しているって?」
おれの出した答えを、ソウは「勘はいいが、惜しい」と評価した。
「ヒトもカオツキもヒノコも、確かに存在する。だから、単純にやつらが一派に巻き込もうとしてそうなったわけじゃないんだ。
むしろやつらは、伝説が現実と符合するからこそ生まれた同士だな。
そこにきて俺の感じる違和感は、伝説そのものにある」
「伝説そのものへの違和感……?」
ソウが深く頷く。
「いったい誰が伝えたのか」
そんなの、人以外あり得ないだろう。
伝説、物語、呼び方がどうあれ、それは言葉によって伝えられた。
そしてその言葉を操り理解できるのは、人しかない。
伝えると、ソウはそれにも深く頷いた。
「だから、おかしいんだ」
「なにがだ? なにもおかしなことなんてないだろ。当たり前のことだ」
いいや、と一転して首を横に振るソウは何を言いたいのか。
わかりかけたものがふいに消え去り、おれは首を捻るしかない。
するとソウは、「いいか」、と諭すように言った。
「なんにせよ、これは伝えられたものだ。つまり誰かが伝えた。それがどこの誰かなんてことはどうでもいいんだ。気になるのは、その人がなぜこれを伝説として繋げたか……」
妙だと思わないか。
後に付けて前置きのように言うと、ソウは沸いたヤカンの中身をスープを飲み干した器に注いだ。
おれはまだ、捻った首が戻らない。
「結局、お前はなにが言いたいんだ?」
ついに本心を口にすると、ソウはまたはにかむ。
「蛇はやってはいけないことをした。そんなふうな言い方なのに、それで逆に蛇に悪意がなかったようにも聴こえる。
だから俺は思うんだ。この伝説は、蛇派……少なくとも蛇を良しとする誰かが作ったんじゃないか、ってな」
「蛇派……」
「そういう連中、って意味だけどな。さっきも言ったが、この蛇に当てはまる種は見つかっていない。するとだ。
もしも俺の推測が正しいなら、伝説には特大の怪しい点があると思わないか?」
蛇派が云々と聞けば、何もかもが怪しく聴こえる。
その中でも特に怪しいと思えること。
「……蛇がいたかどうか、か?」
正直にいえば当てずっぽうだ。
いない、見つからない、とソウがやけにそこを強調するのが、おれにとって怪しい点だった。
「そういうことだ」
半ば引きずり出されたような回答に、ソウは満足げだ。
「だから俺はこう思う。この伝説は、蛇を探そうとすると、蛇という存在の有無にぶち当たるように作られているんじゃないか、ってな……」
「なんで、そんな面倒なことをする?」
「伝説それそのものが、人々に与える影響が大きいからというのがひとつあるんだろう、教育に役立つからな。だが、本質的には違う……見つけられたくないからだ」
なぜ、とおれはまた質問しなければならない。
だがそう言いかけて、同時に巡っていたソウの発言を探る思考が先に答えを見出した。
「蛇の新しい役目……?」
ソウが、口角を上げた。
「この伝説……。ふれ回ったのは蛇派で、隠れた蛇派はそれなりの数いるんじゃないかと睨んでいる。
今、世界中で知られているウロは、たった一人が見つけたものじゃない。そこに蛇派が紛れているんどとすれば、実は見つかっていたとしても報告されていない可能性があるんだ。」
つまり、蛇は隠されている。
断言し、ソウは「その理由こそ、蛇が持つことになった新たな役目だ」と意味深な目つきで俺を見つめた。
「お前はどう思う?」
どうもこうも、改めて答えるまでもない。
「どうでもいいことだ」
正真正銘の感じたことを言うと、ソウの目つきが厳しさを持ったように感じた。
殺意ではないにしても、油断ならない威圧。
戦って負ける気もしなかったが、体は彼の挙動に警戒せよと力を込める。
「…………ぷっ」
ソウの口から音が漏れるのと同時、おれは勢いよく立ち上がった。
直後軽快な笑い声がソウの口から飛び出した。
「だろうな。お前みたいなへんちくりんに、わかるはずもないか」
ソウはあくまで明るく、笑い混じりに言った。
「別に、取って食ったりしない。ほんとに変わったやつだな」
まあ、座れよ。
立ち上がったおれを促し、「せっかく入れたんだ、茶でも飲んで落ち着け」、とさらに湯気の立つヤカンを差し出した。
それでおれは手に器を握っていることを思い出し、目線を手元に向けた。
中に溜まっていたスープは、今は地面のシミとなって薄く湯気を伸ばしている。
そこに抱く情が、おれをまた座らせようとした時だ。
それとなく向けたテントの向こうの景色の端に、あいつの背中が見えた。
そもそも小さいソレは、もはや景色の中に見失う寸前ほどに小さくなっている。
「おい、どうした。向こうになにかあるのか?」
ソレが気になって思わず向けていた視線の外側からら、声がした。
マズいと思って咄嗟にソウに向き直したが、すでにソウは自分の背後の景色を見つめていた。
体を半分捻り、テントの陰を覗き込むようにするソウの気を逸らそうと、「なんでもない」、とは言ってみたものの。
揺れる草原の中ただ小さくなっていく奇妙な影は、おかしさ、でしかない。
特にこのソウという男の洞察力なら、すぐに見つかってしまうだろう。
そう思った。
だからおれは、もう一度そこに腰を下ろし、空になった器を差し出すことにした。
遅れて差し出した器の存在に気がついたソウが、そこに茶を注ぐ。
「なかなか美味いぞ」
そんな言葉を信じるつもりはない。
それに、どうせおれには記憶がないんだ。
試して多少の経験値にでもなればいいと思って、器を口元に傾けた。
甘い花の香りがする。
その奥から摘み出されて、柑橘系の酸っぱさが鼻腔を通って口内に広がった。
後を追って流れ込んでくるのは、渋みと舌がジンと痺れるほどの熱。
膨れ上がる熱気によって一度は口内へ抜けた香りがかき混ぜられ、複雑な、ある種別物のようになって逆流していく。
それをまた口内に押し戻す息に合わせて、全てが一緒くたになった液体を喉の奥へと押し込んだ。
一瞬、それが熱湯だということを忘れた。
液体に向けるのが無意味と知りながらも、そこにかんじるまるさ。
温かく柔らかいものが喉を撫でていく。
飲み込む、ということが心地良いことだと、はじめて知ったような気がした。
「……美味いか?」
またあのはにかみ顔でソウが言う。
「ま……っぁ……」
まあまあだ、とそう言おうとした。
しかし、たったそれだけのことが言えない。
その原因が、喉につかえる異物感のせいだと理解するのと同時、おれの両手は自分の喉を覆っていた。
その行為がおれをいったいどんな姿にさせているのかはわからない。
だが、ソウは例のあの歪んだ顔で笑っている。
「へえ、効くのか」
意味不明の発言にも、飲ませたものが何なのかも、訊きたいことはあった。
それなのにおれは苦しさを堪えるのに手一杯で、できることといえばただ彼を見つめることだけしかない。
ソウは、「あいつらもそんな顔をする」と軽蔑するような目つきで言った。
「大人しく風の成すまま揺れていればいいんだ。大自然の美しさに感動するのは、知恵深い人だけでいい。あんな存在は……だから、間違いなんだよ」
またしても吐き出された意味不明の言葉。
おれがその意味を模索する間もなく、ところで、とソウは改めておれを見据えた。
「お前が、庭師なのか?」
庭師?
何を急に言っているのか、まったく理解が追いつかない。
「その馬鹿に大きな瞳、何にも似つかない奇妙な姿……世界に残る未確認の種……」
間違いない。
確信的に呟き、ソウのはにかみ顔は嘴が半開きになるほど大きく弧を描いた。
そこから漏れ出す気配は、歓喜に他ならない。が、おれには近寄り難い別のものに感じられた。
そんなことより。
もう限界だった。
喉を締めて押し留めようとする力をこじ開け、腹の奥で藻搔いていたものが、狭く窮屈になった喉を無理やり突き上げてくる。
ほとんど勝手におれの口は開いていた。