6.キノト
草原に腰まで浸かりながら、腕をかいて泳ぐようにソレは走っていく。
それはまたしても逃げるために、だが。
迷いなく進んでいくその背中を見ていると、どうしても目標があるのではないかと期待してしまう。
「ところで、逃げるってどこにだ?」
少し質問を変えて訊いてみる。
すると意外にも、ソレからは「あっち」と答えらしいものが返ってきた。
その、あっち、に目をやると、それもまた予想だにしていなかったものが目に入る。
「煙……、またか」
目が覚めてからというもの、そればっかりがおれの目の前にある気がする。
だけど、今回の煙はわけのわからないようなものではないようだ。
まっすぐ空に立ち上っていく様は、その根本に火の存在を示している。
人だ。
ここにきてようやく、なのか、周囲に草しか見当たらないこんなところで人に会えるのは運がいいというべきか。
とにかく、そこへ行けばまともに話をできる相手がいそうだと思った。
煙の元へ近づくと、ふいに植物のそれとは違う匂いが漂い始めた。
それを察知するなり、おれは食べ物だと確信する。
同時に、煙のそばに屋根が現れ。
それが簡素な布のテントだと判別できるところまで近づいて、自ずと進む速度が緩んだ。
そこにいるはずの人を探していると、一足先にソレが駆け出し自分より断然大きなテントの中へ飛び込む。
それからおれが到着する僅かな差に、ソレは早速テントの中から顔を出し、首を横に振った。
「誰もいないよ」
「まあ、そうなんだろうな」
と、湯気を立てる鍋、焚火の薪がまだ半分しか焼けていないことを確認し、それからおれは周囲を見回した。
「家主はどこに行ったんだ? こんななにもないところで」
火を残したままの焚火、そこに調理中の鍋をほったらかしているということは、そんなに遠くへは行っていないはずだ。
ここはだだっ広い草原だし、すぐに家主は見つかると思ったが、どこにも人の姿が見つからない。
それでも無理やり目を泳がせていると、ねえ、とソレが呼んだ。
「どこにというか、何をしに、って考えるほうがいいんじょない? こんななにもないところだし」
「なるほど」
やっぱり、このウロは賢い。
「……で、お前はどうだと思うんだ?」
質問すると、ソレはまたどこかを指差した。
その方角の先にはマツの森がある。
つられるようにおれがそっちを向くと、「食べ物取りに行ったんだよ」、と背後から声がした。
「あんなところに……。だったら戦士だな」
ふと屈強な人の姿を想像しようとしたが、浮かんだのは重たそうな大斧だけだった。
少なくとも、それで森の腕をひと薙にできるくらいでなくちゃ話にならないとは思う。
とはいえ、そんなものを持ってちゃんと飛べるだろうか。
重い、なら上手く飛べない。
とはわかるが、どうしてか重い物を持って飛ぶ人の姿を思い浮かべることができない。
自分の想像力のなさに小首を傾げていると。
ボウ、ボウ、と空を叩く羽ばたきが聴こえた。
大きな羽音に確信を持って振り返り空を見上げると、そこにいた。
白い頭、黄土色の嘴、首から下の黒に近い濃い茶色の羽と翼。間違いなく、人だ。
身には、煤けた粘土色の革と思しき衣服と、履き物は翼の色に近い色のたぶんそれも革のもの。
それから、胸から腰あたりまでを覆う大きめの前掛けの鞄を付けている。
衣服からして男性だろう。
嘴と同じような色の四つ指の足、鎧は着ていないし、背もおれより低いし屈強というほどでもないから、やっぱり男性で、戦士ではない。
男は、ぼんやり見上げるおれに気づくと、すぐそばに着地した。
「ウロが運んできたのか?」
第一声にそう言うと、彼はおれをまじまじと見つめ、「どこかで見た気がするな……」と、五本指の一本を立てておれを突いた。
「知っているのか? おれを」
返事をすると、男は驚いて飛び退く。
「喋るのか……」
「当たり前だろ。そんなことより、お前はおれを知っているのか?」
いや、と男は訝しげに目元を歪めつつ、首を振った。
「お前がなんなのかは知らないな。でも、どこかで見たような気はする。そんなヤバそうな見た目のやつはウロにもなかなかいないからな、そこは間違いない」
「どこでだ? 少しくらい思い出してくれよ」
おれがせっつくと、男は唸って天を仰ぎ、それからパッと明るい表情でおれを見つめた。
「【車輪の街】だ。あそこの市で売ってた……と思う」
「売ってた?」
思わず顔が歪む。
「おれがか?」
「いやいや、それは違うだろ。お前は今ここにいるわけだし。だから、俺が見たのはお前のなか……」
言いかけて口をつぐみ、男は「まあ、そこに座りな。茶でも飲みながら話そう」と言葉を変えた。
なか、に続くのは、ま。
おれにそういう存在がいるのか覚えにはないが、仲間、がいたとして、売買されているということがどういう意味かくらいはわかる。
この男はそういったことにあまり興味がないようだが、おれみたいな存在には何かしらの価値があるのだ。
珍品として。
一般的な人の間では価値がなく、そうでない類の輩にとって意味のある。
【車輪の街】、という場所に売られているというのはそういう意味だと知っている。
つまり、それは。
「ここはやっぱり……」
おれの知っている世界だ。
それなのに、どうしてあんな違和感を覚えるんだろう。
夢なのか現実なのか、悩むまでもなく現実が何かわかっているのに。
「ところでお前、茶は飲めるのか?」
男のふいの質問に、はたと目が覚めた。
浮かびかけたあの部屋を振り払うつもりでかぶりを振り、「問題ない」、とおれは頷く。
それから、腰掛けの代わりにもならない、地面に敷かれた薄い布の上にあぐらをかいた。
少しあと、男はテントの中からヤカンと干し花を一束持って現れ、焚き火の跡を挟んで、おれの向かいの地面に直に腰を下ろす。
「道中の村でもらった花茶だ。美味いかどうかわからんけどな」
と、男は干し花の花弁を取ってヤカンの中に入れ、鍋の脇に置いた。
「もしかして、飯も食えるのか?」
言って男が鍋の木蓋を開けると、大量の湯気とともにそこで嗅いだ食べ物の匂いが溢れる。
それから蓋の上に置かれたお玉でそのスープを掬い、一口啜って「悪くない」と言った。
「茶より先に飯だったな」
男は言うなりまた立ち上がり、テントへ向かう。
「ここから、【車輪の街】は遠いか?」
その背中に声をかけると、男は「そうだな」と頷いた。
「歩くなら、少しかかるぞ」と、声はテントの中からする。
「ひと月くらいだ」
「ひと月……」
イルの眠るまでが、一日。
眠っている間がまた、一日。
一月はそれを十回繰り返した時点でのひと括りのことだ。
休まず進んで、という意味ならその程度だが、イルの眠っている間はウロが活発なだけに外を歩くのは危険だというのが常識。
そこを前提としての一月なら、休みながらだと、二月はかかるのだろう。
「長いな」
それがどれほどの距離かもわからないまま、口走っていた。
すると、まあな、と男がテントから這い出てくる。
「飛べればかかって半月ってとこだ。翼がないってのは不便なんだな、やっぱり」
ところで、と男は中腰でスープを器に盛り、それをおれに渡した。
「で、お前はなんなんだ? 言葉はわかってるみたいだけど……」
「……さあね」
おれは首を横に振った。
「記憶がないんだ。でも、自分がウロだとは思わない」
「じゃあ、人だと思うのか?」
「それは……」
わからない。
そう言う代わりに、おれは頭を掻いた。
そんなおれをじっと見つめ、男は「フッ」と短く笑う。
「まあ、なんでもいいか。言葉が通じるし、危ない生き物って感じでもないし。そのへん、ウロじゃないってのも間違いじゃないんだろうな」
楽観的なやつだ。
思うのと同時に口に出すと、男は楽しげに笑った。
「俺は、"ソウ"だ。学者をやってる」
「学者……なるほど、だからか」
辺ぴなところにちんけな用意。
常人ならまずやらないことだと思ったが、どうやら常人ではなかったようだ。
知なくば生はあり得ず、知を求めることすなわち生である。
そんな信念を土台に、彼らは好奇心だけを頼りに世界中を旅する。
いわく、狂戦士となんらかわらない、とも。
「それで、お前はなにを知ろうとしてこんなところにいるんだ?」
訊くと、ソウもまた森の方角を指差した。
「キノトだ」
「キノト?」
聞き覚えのない言葉だ。
「知らないか? キノトっていうのはな、地面から生えてくる二本足のことだ」
「地面から、二本足……」
まったく知らない。
だが、思い当たるものはある。
「それはもしかして、あの顔のある木のことか?」
おれが言うと、ソウは顔の前で振り払うように手を振った。
「それは成り損ないだな。キノトはもっと人に近い姿をしてる。とはいっても、翼も羽もないけどな」
「翼も羽もない……それで、顔がハゲている? 嘴もなくて」
「そうそう。なんだ、知ってるじゃないか」
ソウは頷き、スープを啜った。
なるほど、そういうことだったのだ。
声には出さず納得して、テントの陰にしゃがみ何やら地面に気がいっているソレを見た。
あれは、キノト。
そう呼ばれる不思議な生き物だった。
知らないなら、どうりで見覚えがないわけだ。
じっと見ていると、ソレはおれの視線に気づき、ふいに口元に指を立てた。
しーぃ、とおれに黙れといっている。
なぜ?
肩をすくめて、無言の返事をすると。
「おい、どうした?」
ソウの声が割って入り、おれはソレから目を逸らした。
「陰になにかいるのか?」
その通り、だが。
ソレがおれに黙れといったことが引っかかった。
「いや、ついさっき起きたばっかりで体が慣れてなくて」
適当に取り繕い、さりげなくテントの陰に視線を戻すと、ソレはソウからさらに目の届かないテントの裏から顔を出してこっちを見ていた。
「なんだよお前、しかも眠るのか。いや、眠るのは生き物ならおかしなことじゃないが……」
続く言葉を選びあぐねたのか、ソウは「なあ?」とおれ自身に同意を促す。
「ま、言いたいことはわかるよ」
頭に手が伸びる。
「で、お前はそこの森で生まれたのか? というか、住んでる?」
「それは、たぶん違う。生まれたのがいつかなんてわからないけど、なんとなく、ここはおれのいる場所じゃないと思うんだ」
訊かれて答えようとすると、自分で考えているよりもはっきりと、何も覚えていないと実感する。
しかし反対に、自分が何を考えているのかを知ることにもなり。
だからだろうか、微かな違和感として感じているものがさらに薄く失くなってしまいそうな気もした。
ソウは、へえ、と感心しているのか興味がないのか半端な声を漏らした。
「ま、俺は記憶を失ったことなんてないからよくわからないな……」
そう言ってまたスープを啜ると、ソウは「そうだ」と器を膝の上に置いた。
「友人に、古い物を調べている学者がいる。紹介するから、会ってみたらどうだ? あの人がいるのは【石壁の街】だから、もし【車輪の街】へ向かうならついでに寄れる」
「古い物? なんだよ、おれが骨董かなにかだっていうのか?」
言うと、ソウは「半分は、な」とはにかんだ。
「俺は、長いこと学者として生物を調べてきた。むしろ、キノトを追うのはその集大成的な意味でもある。
これは前置きだが、キノトはまだ生物として認知されていない。そもそも、キノト、という括りというか種族として、彼らが知られるようになったのはわりと最近のことだ。
覚えてないか?
異様に体の成長が遅く、やたらと寿命の長い二本足のことを……」
寿命が長い、と聞いて思い当たるのは、やっぱりウロだ。
しかし、ウロの場合むしろ成長は早いし、なにより二本足じゃない。
おれは、本当にそのキノトという存在のことを知らないらしい。
何も言わず首を横に振った。
ソウは、そうか、と頷いた。
「とにかく、いるんだそういうやつらが。
一応大昔からいるものだけど、そもそもは植物とかそういうウロと同等の存在だとされていた。
煎じて飲めば寿命の一部を得られるなんていわれてな、過去には虐殺まがいの誘拐も多発した歴史がある。
それが最近になって、キノトを同じ二本足の人として扱おうという流れができてな。今では、キノトを所有することは、禁止とまではされていないが、一部抗議の的になっているんだ。
それが嫌でキノトを手放す連中も少なくはないな」
適当に相づちを打ちながら、それとなくソレの方を窺った。
しかし、テントの裏から顔を出していたソレはいない。
隠れているんだ、と思った。
「で、だ。だから言うわけじゃないが、俺は世の中にキノトは人だ、って流れが生まれる前からキノトのことを調べている。
根本的に、単にあれがどういう生き物か気になったからだ。
だからな、薬としてのキノトを研究する輩とは違うぞ。
俺は、そもそも人……というか生物がどうして現れたのか知りたかったんだ。
現状、そのへんを気にするのは学者くらいだし、学者の中でも人の起源なんざ調べても無駄だという連中も少なくはない」
実際、意味なんてないと思うよ。
付け足すように言って、ソウがまたはにかむ理由がわからなかった。
無意味なことに没頭する自分を笑うからなのか、それとも知ることの無意味を語る学者を笑うのか、もしくはただの癖で愛想笑いなのか。
なんにせよ、いい意味の笑みではないのだろうとは思う。
「でもそれは、知るだけなら、だろう?」
そう言ってじっとおれを見つめるその目には、今持った彼への疑問の答えが隠れているような気がした。
明け透けにも未知を凝視する態度。
おれにも興味があると、言葉にせずソウは伝えている。
なぜ、おれに?
「なら、お前はその先になにを?」
ソウの滲ませる妙な妖しさの正体を知るためには、そう訊くしかないと思った。
ソウは、仰反るように背筋を伸ばし、
「正すんだよ」
と言った。
「正す?」
これも、そう訊くしかなく口をついて出た質問だ。
「いいや、違う……戻す、元に。取り返すんだよ」