4.ウロ
苔の波の中は湿っていて、だが柔らかい感触のおかげで少し温かく感じた。
そのせいか、飲み込まれ攫われるという状況にも関わらず、運ばれているような気になった。
行き先はこの森の出口だろうとは思う。
道に迷う手間が省けた反面、この波がわけのわからないところへおれを運んだなら……。
とはいえ。
どうせおれにとってこの世界は知らないところばかりだった。
なら、どこへ辿り着いたとしても関係ない。
記憶のない今のおれにとって、世界はこの目に映ったものしかないのだから。
「……あ」
そういえば、と思い出したことがある。
あの賢いウロはどうしただろう。
視界を横切る水飛沫と緑の塊の隙間から、それとなく探してみるが、当然のごとく見つからない。
この大量の苔と木に紛れて無事だろうか。あの華奢な体で。
「…………」
無理だ。
閃くように浮かんだのは、あのウロがひしゃげてそこらのものと紛れる光景だった。
マズい。
思い立って無理くり体を起こそうとしたその時――。
□
おれは、またあの部屋にいた。
一度見ればもうみるところもないこの場所を、おれはつまらない部屋だと思った。
だからなおさら、あの緑色の世界を夢のように感じるのかもしれない。
「さて」
と、目がいくのは、やっぱりあの本だ。
少し前にここへ来た時にはふいに向こうに戻ってしまったから、鍵を探せていない。
とはいえ、この殺風景な場所のどこに鍵なんて隠すだろう。
今一度部屋の中をぐるりと見回すと、こんな部屋でも物を隠せる場所があることに気がついた。
梁の上、書棚の陰、それから窓の戸の向こう側の三箇所。
そのどこかに隠す物が鍵なら、人目につきやすい窓の方というのは考えづらい。
おれは腕を伸ばして剥き出しの梁を掴み、体を持ち上げた。
そこに顔を覗かせて下からでは見えなかった梁の上を眺めてみるが、意外にも埃が溜まっていないということかわかっただけで、鉤爪らしきものは見当たらない。
となると、残りは実質一箇所だけだ。
書棚の方に進みかけると、ふと思い立っておれは振り返った。
目の前の風景は変わらない。
そんな当たり前とも思える状況に、なんとなく、上手くいっているような感覚を覚えた。
そこにある顔ひとつ分の窓と思しきところまで近づき、降りていた戸を跳ね上げる。
多少の明るさを覚悟していたが、そこに光はなく、窓の開口の向こう側は先も見通せないほど暗かった。
それでも、不思議と今が夜だとは思わなかった。
かといって昼だという気もしない。
この微妙で奇妙な感覚に、ふと何かを思い出しそうになったが、これといった具体的なものは浮かでこなかった。
「鍵は……ない、か」
初めから期待はしていなかったが、無ければないでおれは少しだけガッカリしている。
おかげで背後にある本命に鍵が隠されていることへの期待が俄然盛り上がってしまった。
むしろ、絶対そこにあるだろうとすら思う。
逆に、無かったらとも考えるが、だとすればこの部屋のどこを探せばいいのかと、頭が悩み始めるのでやめた。
それよりも、だ。
外はどうなっているのか気になった。
顔を窓の開口に押しつけ、外を覗いてみると、暗闇の中影のように色を変えた形だけの草が生えていて、近くに掘立小屋みたいな家が何軒も建っているがわかる。
道が整備されていないせいか、向きもバラバラだ。
それに、人の気配もない。
異様な空間だと感じたが、それだけだ。
「おーい」
どうせ返事なんか返ってこないのはわかっていたから、控えめに呼んでみたが、やっぱり返事はない。
頭をひと掻きして、おれは部屋に視線を戻した。
その時だ。
おれは突然、この部屋が妙だということに気がついた。
「おかしいな……」
この部屋には、扉がない。
というか、出入り口らしいものがない。
念のためもう一度外を覗いてみると、他の家にも出入り口らしいものは見つからなかった。
「どういうことだ?」
考えてみて、どの家も背を向けていて出入り口が見えないからじゃないかと思った。
だったら、この部屋に見つからない出入り口は。
「あそこか?」
書棚だ。
あの裏に隠されているのかもしれない。
書棚まで行き、その裏側を覗き込んでみると。
□
垣間見た世界に、おれは刺されるような痛みを感じた。
それまでの暗さから、これほど強い光があることを想像しなかったからだ。
体がぴくりと動き、たぶん目を擦ろうとしたのだろうが、胸の辺りでつかえてなかなか顔までやってこない。
逆の腕はというと、頭上に真っ直ぐ伸びた状態で、なかなか顔まで引き戻せない。
左手を胸に当て、右腕は空に向かって真っ直ぐ突き上げている、それが今のおれの格好だ。
どうしておれはこんな姿勢をしているのだろう。
疑問に思うのと同時、鼻の奥が青い香りで立ち込めていることに気がついた。
次いで、湿った感触。
それから、向こうの景色に何本もの木が倒れている状況を理解した。
おれは今、うつ伏せで苔に埋もれている。
足と伸びた右腕に感じる重さは、たぶん上に倒れた木でも乗っているんだろう。
体をくの字に曲げ強引に手足を引き戻すと、いとも簡単に身体を四つん這いの姿勢にすることができた。
背中で苔を押しのけ、おれは立ち上がった。
そうしてそこに広がる光景を目の当たりにした感想は、「えー」、の一言で十分だ。
「またか……」
木、木、木。
そこら中木に塗れた風景には、もう記憶を辿るきっかけの何もないことはわかっている。
それでも、強いてさっきまでの実は山だったかもしれない森との違いがあるとするなら、
木が立っているのと横になって散らかっているのが入り混じっていることと、緑色の量減っているところか。
木に茂る葉の種類の違いもその一つに挙げられるといえばそうだが、名前も知らない広葉樹の群れから、おそらくマツと思われる針葉樹に変わったからといって、所詮木は木。
苔に覆われていない分、赤茶色が多いという程度の差としてしかおれは認識しなかった。
見どころなんてどこにもない風景を一瞥し、おれは早速空を見上げた。
霧が全くないここでなら、地上からでもすぐにイルが見つかると思ったが、今度は縦横無尽に宙を走る枝に阻まれて空が明るいこと以外の情報は得られない。
面倒だが飛ぶか。と息を吸い始める。
森のざわめきは、向こうのものより随分静かだ。
音もなく、というほどではないにしても、あくまで大袈裟に息を吸い込む程度の音しかしない。
おかげで、ウゥ、小さなうめく声を聴き取ることができた。
すぐに息を吸うのを止め、音のしたほうに首を向ける。
「おい、無事なのか?」
たぶんその辺にいるはずのソレに声をかけるが、相変わらずうめくだけでまともな返事はない。
ふと、あの一瞬に想像した光景が浮かんだ。
「おい……」
そんな余計なものを想像したせいか、そこらでへし折れた木まで華奢なソレの姿に見える。
五、六十はあるだろう。それが今死にかけているものの数だ。
「…………」
また、刺されるような痛みが目の奥に走った。
さっきと今と、同じような痛みだ。
目に感じる痛みというものの原因はいまいちよく知らないが、たぶん苔に運ばれている間に何かぶつかったのだろう。
その原因と思えるものは、そこら中にある。
「それにしても、見れば見るほど……似てるな」
大きさはソレの何倍もあるのは当然だが、太い枝は肉が薄く痩せた手足の感じっぽく見えるし、葉を失い剥き出しになった樹冠部分のさらに細い枝が扇状に広がる感じが、頭部に生えた毛を彷彿とさせる。
おまけに、あの顔の中央あたりの突起と同じく、木の幹の上部にもコブがあったり。
「でも……いや、似てるっていうのも違うか」
木には愛嬌がない。つまりは、可愛げが。
「木は所詮、木、だな」
呟いて、それとなく辺りに目線をズラした時だった。
そばの倒木が、ギギ、と軋んだ気がした。
目を戻すと、そこに倒れている木の太い枝が動いている。
地面を撫でるように、ゆっくりと、まるで何かを探すかのように前後する動き。
まだ苔が流れているのかと思い、足下に満たされている苔を見下ろしてみるが、いわゆる流れのようなものは窺えない。
風、はこのマツの森の静けさが、ないことを示している。
じゃあ、いったい何の力で木の枝はあんな妙な動きをするのか。
疑問の答えはやっぱり、一緒に苔の波に飲まれたソレだと思った。
「生きてたのか」
安堵する気持ちに驚きつつ、そこへ近づこうとすると。
どういうことか、幹を中心に対照的な位置にある折れた太枝も、同じように動き始めた。
「……これは、ちがう」
あれが下敷きになってもがいているんじゃない。
木が動く原因を頭の中で模索するうち、動き出したのは剥き出しになった根だ。
樹冠のそれよりももっと柔軟に無数に枝分かれした細い根の先が、ぐねぐねと器用に蠢いている。
さらに次いで、パキッ、パチ、と弾ける音を鳴らしながら幹がぐにゃりと歪んだ。
「おいおい」
今、この木は立ち上がろうとしている。
「なんで、木が……」
おれの知っていることのどこにも、木が勝手に動く、なんて情報はない。
これも記憶喪失のせいか?
そうじゃないと断言できるわけではないが、頭の中を高速に駆け回る、なぜ、がいくら引っかき回そうと、木が勝手に動く現象の原因らしいものは端も浮かばない。
だからたぶん、初めてだ。おれにとって、この状況は。
だが、体は興奮を感じていないようだった。
もしかすると生物学者だったかもしれない身でありながら、淡白なものだ。
そういえば、あれを見た時もそうだった。
ソレを珍しいとは思っても、興奮はなかった。
本当におれは、生物学者だったのだろうか。
ふわりと過ぎる疑念が、おれは何者か、という疑問を振り出しに戻した時。
――ァァァっ
遠く、叫ぶ声が響いた。
悲痛に満ちた声、耳に触れるだけで痛みを妄想してしまうような声だった。
断末魔、だろうと感じた。
人かウロかは、わからない。
だがとにかく、どちらかが近くにいるのは間違いなさそうだ。
声が甲高いことからすると、喉が強い類の生物だと察しがつく。それが意味するのは、何でも食う可能性がある、ということ。
「デカイかどうか、だな……」
戦って勝てるかどうかは。
戦闘技術がどれほどあるのか試してみたい気持ちはある。
でも、それで負けたら意味がない。
一度相手を見て、それから考えようと一歩踏み出したところ。
「逃げるよっ」
背後から声がし、ぐぬぬぬ、と何者かが歯を食いしばる。
何が起きているのかすぐに理解できなかったが、少しして左手に違和感を覚え、見下ろしたそこでソレがおれの手を引っぱっているのに気がついた。
「お前、生きてたのか」
「当たり前でしょ。そんなことより、早くっ」
と、ソレはまたおれの腕を引く。
「早く、って。なにをそんなに焦ってるんだ? もしかして、お前みたいなのの天敵なのか?」
おれが言うと、ソレはおれの手を離し、それまでの表情から一転、眠たそうな顔で「はあ」と大袈裟に嘆息した。
「たいがい、そうでしょ。自分以外の生き物は、自分を脅かす天敵よ」
「……だったら、倒したほうがいいんじゃないのか?」
「まあ、そうだけど。今言ったでしょ? 自分以外はみんな天敵なの」
「だから」
「だから、逃げるの。そうじゃないと、世界に自分だけ一人ぼっちになっちゃうから」
「……あ?」
わけがわからないことを言う。
「なにも全部のウロを倒そうって言ってるわけじゃないぞ。今は、身を守るために……」
言いかけたおれを制すように、だったら、とソレが立てた人差し指を向ける。
「逃げるのだって正解じゃない?」
「そう言われればそうだけど……」
おれが納得したようなことを口走ると、ソレは満足げに頷いた。
「じゃあ、行こう。君が倒すべき相手は、あの子じゃないんだ。その力は、その時に使おう」
「その、ちから……?」
何か知っているかのような口ぶりだった。
だけど、おれは何も訊かなかった。
ただ。
言われてみればたしかに、わざわざ出向いてまで戦う必要もないかと、そう思った。