3.あれ
縦横関係なくぎゅうぎゅうに押し固められたキノコの塊。
そんなもの、視界に入っているだけで寄生される気がして落ち着かない。
その目には見えないキノコの魔手を避けるかのように、顔のあちこちに力が入って表情まで定まらない。
おまけに喉の奥でムズムズと感じる吐き気まで感じる。
それでも、口を両手で覆いすぐにその場を立ち去ればいい、と判断できるのだから、さっきに比べればおれは冷静だ。
悍しい化け物に背を向け、その場を立ち去ろうという時だった。
「よっこいせ、っと」
まるで、そんなまるで立ち上がるかのような声がした。
まさか、と思った。
この山では、キノコが喋るのか?
慌てて後ろを振り向くと、そこに、
「うわっ!」
女がいた。
いや、たぶん女、いや、メス。
とにかく、男でもオスでもない、やけに小さな二本足の生物が、そこに立っている。
「「なんだこいつ……」」
奇妙な生物を覗き込むおれの目に、貧弱な肉の薄い指先が向いていた。
何をしているのかわからなくなって、おれが首を傾げると、ソレも同じようにした。
「真似してるのか?」
なかなか賢いウロだ。
「……っていうか、喋るんだ」
まるで珍しいものでも見るかのように、ソレは微妙に頭を傾けておれを見上げてそんなことを言った。
頭頂部にだけ長い黒毛が生えており、ハゲた顔、切れ長の目、顔の中心にはクチバシとも違う先の丸い突起がついていて、その下にある口の縁は赤っぽく、ぷっくりと膨れている。
人らしい人の姿ではないにしても、立ち姿や振る舞いは人のそれだ。
表情が豊かなところを踏まえれば、ただの人間よりもよっぽど愛嬌がある顔をしているといえる。
おまけに言葉を話すとは。
新種に違いない。
そんなことを考えるとふと、またか、という思いが過った。
おそらく、過去に何かあったのだ。
新種に数多く触れる機会があるとすれば、生物学者はありえる。
おれは世界の生物を調べていたのかもしれない。
もしそうなら、こんな山の深くまで入ったことも納得できるし。
つまり、おれはこういう新種を探していたんだろう。
となれば、こいつを記録する必要がある。
何か描くものを、と思ったが、近くに紙もペンもない。
どうすればいいかと考えて、おれはとりあえず捕獲することにした。
おもむろに手を伸ばすも、ソレは小さく驚いただけで大した抵抗はしない。
それに、ふとすれば持っていることを忘れてしまいそうなほど軽い。
「暴れるなよ」
一応注意すると、ソレは「なんで?」とまた首を傾げた。
まさか、人の感情を理解しようとしているのか?
「……ただのウロってわけじゃないな、やっぱり」
手の中のソレに感心していると、ソレは眉間にシワを寄せ、それはなにやら訝しげな表情をしているように見えた。
記憶がないせいか心の底から驚くことはできないが、珍しいということだけはわかる。
二足歩行のウロでありながら、言葉を話し、感情があるなんて。
こいつを飼うことも視野に入れたほうがいいのかもしれない。
まじまじと見つめるおれの目線の先で、ソレは口を"へ"の字に曲げた。
「だれが、ウロ、だって?」
「だれ、ってお前以外ないだろ」
言ってから、そういえばウロにウロとしての自覚なんてあるはずがないと思った。
「お前、ウロ、ってわかるか?」
「当たり前でしょ……ってそうじゃなくて。まさかきみ、わたしをウロだと思ってるわけ?」
「当たり前だろ」
どう見ても人じゃないし、こんなに小さくて華奢なんだから。
心で呟くと、どっちの言葉が気に入らなかったのか、ソレは引きつった顔をしておれの手の中で藻掻く。
「おい、暴れるなって言ったろ。言葉がわかるんじゃないのか?」
話しかけると、ソレは「うるさい」とおれの言葉を一蹴し、「離して」なんて訴えまでした。
「でも、離したら逃げるだろ。それはダメだ」
「わたしを捕まえてどうするつもり? 食べるんだったらそれにしなよ」
仕方ないから分けてあげる。
そう言って顔を後ろに向けようとするソレの視線を追うと。
あれがあった。
一つでも醜悪なそれが無数を一個とした邪悪の化身。
目に入れているだけで呪われでもしそうな、いや、呪われるに違いないその、キノコ、と呼ばれるものの塊は、改めて見ると籠の中に詰め込まれているだけだったようだ。
とはいえ、悍しいものは悍しい。
「お前……まさか……」
まさか、あんなものをあれだけ大量に食うのか。
途端に触れてはいけないものに触れているような気分になり、おれはソレを手放した。
「……飼おうと思ったけど、やめた」
心からそう思って伝えると、ソレは「むかっ」と怒りを露わにした顔でおれを見上げた。
そのつぶらな瞳も、キノコで出来ているのだ。
そっと目を逸らし、おれは急に本来の目的を思い出して歩き出した。
少し歩いて、イルの位置がわからなくなってしまったことに気がつき。
もう一度上に森を抜けたが、やっぱり何かが足りずに高さはいまいち、おれはまたしても無様な着地を果たす羽目になった。
イルは、まだ右の方角にいるようだった。
そこでまた足を進め始めると、ふと思う。
この森の先には何があるのか、おれは知らない。
とりあえずの目標はここを抜け出すことだが、それ以上、どっちが夢か現実か確かめる方法が思いつかないということにもいまさらになって気づいた。
ここを抜けたら、その先に見覚えがあるだろうか。
だが、そこが完全に見たことも何もないものばかりだったなら、むしろこっちが夢だと判断できるかもしれない。
「……とにかく、進むしかないか」
そう思いながらも、なんとなく釈然としない気分を感じていた。ッチャ。
不安、だろうか。
過去の何も覚えていないのに、なぜおれは道の先に不安を覚える必要がある?わけがわからない。チャ。
おれは、おれ自身……。
いや、おれの体が覚えていることを理解できていなかった。
だから思う。記憶には、体と心を繋げる接着剤のような役割があるんじゃないだろうか。ピチャ。
それがなくなった今、おれはおれであっておれじゃないような気もする。ピチャピチャ。
おれは……いったい……
「ねえ」
いったい、何をしていたんだ。
「ねえってば」
体に訊いたところで、返事をするのはおれだ。
「聴こえないフリしないでよ」
さっきから近づいていた足音が、文句を言う。
「ついてくるなよ」
そこにいるものがわかっているだけに、後ろを振り返ろうとも思わなかったが、背後のソレから、またしても「むかっ」と聴こえたので、機嫌は察する。
「さっきは捕まえようとしたのに、なんでよ」
「なんでって……。お前、あんなものエサにしてるんだろ?」
「エサじゃない、食事」
「どっちでもいいけど、とにかくあんなもの食う奴は飼えない」
するとまた、ソレは「むかっ」とした。
「きみ、キノコ食べたことないでしょ」
「そんなの……」
あれがキノコだとわかるし、気味の悪いものだということも、最も忌むべき存在だということも感じている。
でも、おれがそれを食ったことがあるかどうかは……。
「わからない」
首を横に振ると、後ろでソレが、ふふん、と得意げに鼻を鳴らした。
「やっぱりね。まあ、見てくれの好みは分かれるだろうし、嫌な気持ちは理解しよう。でもね、食べればこの子も可愛く見える」
と、ソレが小走りに近づくのを感じたのと同時、右手の指先に何かが触れた。
それは少し湿っていて、ぬるぬるとしていて。
咄嗟に顔を自分の右手に向けると、そこで満面の笑みを向けたソレが、無理やりおれに何かを握らせようとしている。
何、じゃない。キノコだ。
「ぬわっ!」
驚いて振り払うと、ソレは落ちたキノコのそばにしゃがみ込み、あー、とわざとらしく声を漏らした。
「食べ物を粗末にすると、食べ物に嫌われるよ」
「だったら、本望だな」
まだぬめつく感触の残る手のひらを近くの木の幹に擦り付けていると、ソレが「どうして?」と顔を上げた。
「どうしてそんなにキノコが嫌いなの?」
「不気味だからだ。お前も言っただろ、見てくれの好みは分かれるって」
「そうだけど、見た目だけでそこまで嫌いになるかな……」
物憂げに空を見上げるその仕草が気になった。
「つまり、なにが言いたいんだ?」
口に出した質問は簡単なものだったが、本当に訊きたいことは違ったのかもしれない。
俯きがちにゆっくりと立ち上がるソレの動きは妙にもったいぶって見えたし、なにより、その小さな口からこぼれる音には、おれ自身が気づいていない何かを教えてくれるような気がしていた。
たぶん、おれが本当に訊きたかったのは。
「……おいっ」
ふいにぐらりと体を傾けたソレの体を咄嗟に支えようとしたのは、その倒れ方が不自然だったからだ。
驚いた顔をして、ソレは自分でも体の均衡が取れないことに困惑しているようだった。
そして次の瞬間、反射的に腕を伸ばしたおれも、ソレと同じく困惑する。
まっすぐに立っていられない。
体制を整えようといくら体を捻っても、体があらぬ方向へ傾いてしまう。
何が起こっているのかわからず、おれが体をぐるぐる捻り回しているうち、ソレがその原因に気づいたようだった。
「流れてる……」
呆然と呟いて、這った姿勢のまま、ソレは自分のそばの地面を見つめていた。
押し合いへし合い、うねりながらどこぞへと行く苔の様は、流れているというよりも剥がれているといったほうが正しい。
道筋は違っても、それらは皆おれが目指していた方角に向かっているようだった。
そんなことに気づくと、自分もまた同じ方角に体が傾こうとしていることに気づいた。
「なにが起きてるんだ……」
突如流れを持ち始めた苔の動きに翻弄されながら、ふとソレの方を見た時。
ソレは苔の流れとは反対を指差していた。
パクパクと口を動かし何か言っているようだったが、流れの勢いを増した森のさざめきに音をかき消されて何も聴こえなかった。
次に足下からめくり上げられるような、跳ね飛ばされるような力を感じ、おれはついに立っていられなくなり。
そして体が苔に埋もれる寸前。
いつの間にか立ち上がっていたソレの、「あれ」、と呟いた声だけがはっきりと聴こえた。
また濃霧の中の静寂を感じた。
ソレの指の先、地面いっぱいの苔が剥がれ、生い茂る大木も剥がれ落ちたそこに現れたのは、
空よりも鉱石よりも深い青色の別の大地だった。
「なんだ、あ――」
残りのたった一文字を言う間もなく、おれは大量の苔と木々に飲み込まれ、流れていく。