2.誰か
一直線に真上へ。
そうできるはずだったのに、体はグルグルと横に回転し、捻れながらあらぬ方向へと飛んでいく。
いや、吹っ飛んでいくといったほうが正しい。
それでも一応空を目指しているのが幸いというもので、でも、何本もの木々の樹冠を通り抜けたせいで勢いが殺されてしまった。
腕を振り回してなんとか軌道修正らしきものをし、森よりも少しだけ高いところへ到達した時には上昇力を失い、体は落下を始めていた。
何かが足りなかった、と瞬時に感じたが、何が足りなかったのかはよくわからない。
慌てて顔を前後左右へ回してあいつの位置を探すも、すぐにおれは森の中へ引きずり戻された。
何本も枝をへし折って、おれはおよそ一直線に森の中へ無事ではない着地を果たす。
飛び上がる時以上に跳ね上がった水飛沫は枝先の木の葉にまで届き、降り注ぐ水粒の一つ一つがやけにはっきり見え。
辺りは、サー、と小雨が降るような音に包まれ、そして間もなくして静寂を取り戻した。
「……右だ」
霧を抜けきるほど高くは飛べなかったが、右の方角で強く明るく輝くものを見た。
世界を飛び回る炎"イル"。
あいつには起きている間空の遠くをずっと右回りに飛び続ける習性がある、という常識と。
それから、イルの飛ぶ速さの感覚に狂いがなければ、いちいち確認しなくても同じ方向へ進み続けられるはずだ。
「これで、さっさと森を抜けられる」
そう思って安堵している自分に驚いた。
抜けたかったのは確かだが、別に急ぐことはないのだ。
それなのに、さっさと、と口走ったのはなぜだろう。
考えるようなことでもないと思いながらも、自分の感情をわざわざ考えてしまうのは、たぶん記憶喪失のせいだと思った。
「つまり、こんなくだらないことを考えたくないから、さっさとケリをつけたわけか……」
さっさとこの森を抜けて、自分のことを知りたい。
いや、というよりも、知ってしまいたい。
心のそこで蠢く妙な焦りも、この森を早く抜けたい気持ちも、全部それで解決する。だから少しでも早く、だ。
「…………」
案外、おれには余裕がない。
「こうしちゃいられない、ってか」
体を起こし、頭を掻いた。
もう一度空を見上げ、自分が落ちてきた痕跡とイルを確認した上空での位置をある程度把握すると、進むべき方角は見えてくる。
「前だ」
そうやってイルに向かわないように気をつけて歩けば、だいたい一直線に進むことができるのは常識。
逆にイルを目指してしまうと、グルグル、だ。
未知の土地を歩き慣れていない人が陥りがちな間違いで、イルを目指すと自分も常に右回りを続けることになる。
このことを踏まえて気をつけなければならないのは、イルに背を向けて進むだけではいけない、ということ。
それじゃあ、イルを目指すのと同じことになってしまう。
対策として、イルが右回りしかしない性格をしていることから、右、背後、左、前方、とイルの位置が変わることを意識すればいい。
でもそれは、イルを目印にすると真っ直ぐにしか進めない、とも言い換えられるわけであって。
だから、周囲に何もない草原やこういった森を抜けるのには有効な手段だが、目印がある場所ではかえって道に迷う危険性があることを忘れてはいけない。
と、おれはこんなことは覚えているようだ。
もしかすると、おれは狩人とかだったのかもしれない。
ふと思いついて、そこらの木から枝を一本拝借し、槍のように構えてみたが。
「…………」
これで様になっているのだろうか。わからない。
「ふむ」
そろそろ、わからない、という状況にも慣れてきたのか、なんとなく納得して頷いた。
もういらない枝は放り捨て、また前へ進もうと視線を向けたその時だ。
「ん……?」
ぐしゅ、と少し先の木陰で苔が沈んで滲む微かな水音がした。
音が気のせいでないことは確かだが、そのわりに物の動いた気配は感じなかった。
たとえそこに入り込む何者かを見落としていたとしても、音が足りない。
瞬時に相手を手練と察し、おれは拳を握り締め、脇を締めて構えていた。
同時に、苔まみれで足元が悪いのさり気なく確認しつつ、視線は何かの隠れている木の左右どちらから飛び出してくるのかを確認する。
木陰に潜む何者かの感情もわからないまま、あるはずの敵意を探ぐるのに神経を尖らせていた。
間合いまで惹きつけるか、それより早く動くべきか。
木までの距離は走って二十歩といったところ、先制を仕掛けるにしても防御の姿勢は解かないほうがいい。
だったら、相手の出方を待ってから最大の一撃で反撃する。
足を躙り、ぬかるみの中で出来る限り自分を安定させ、二つの拳の隙間から相手の出方を窺う景色は、やけに澄んで見えた。
呼吸は体を余計にブレさせないように浅く、ゆっくりと。
「…………」
あとどれくらい、この状態を続ければいいのだろう。
少しずつ、集中力が霧散していくのを感じていた。
構えた最初が全力の反撃だったとして、待てば待つほどその威力が低くなっているのがわかる。
今はもう半分くらいか。
このままじゃ、一撃で仕留められなくなるかもしれない。
僅かな焦りは、おれに今さらになって先制攻撃を選択させた。
おれは拳と拳の隙間からずっと見ていたその木に向かって突進した。
防御は下げない。
上半身の固定に神経を使うが、この機を狙った向こうの不意打ちを避けるためには仕方がない。
二十歩の距離を数歩減らし、目標まで大股の一歩半。
ここがおれの間合いだ。
不意打ちの気配はない。
この機にもまだ動かないのなら、考えられるのは、反撃。
そうはさせない。
即座に防御を解き体を開き、拳を解き、指先はピンと立てて鋭き刃が如く。
振りかぶった左の拳は頭の脇から、腰の回転でもって。
素早く正確にまっすぐ、突き放つ。
――槍なんて必要無いね
そんな文言が頭を過ぎると、おれの意識は指先へと向かう力の流れに乗って移動していく。
ほんの少し、木の幹に触れた感触があった。
次の瞬間には、手首から先が平たくなった空気の板に挟まれているような妙な感じがした。
手応えは感じられなかった。
避けられたのかもしれない。
木の幹ごと首を刎ねようとしたおれの奇襲を読んで。
腕が体のそばに戻るのと同時に、おれは飛び退いた。
苔を踏みつける滲んだ音を、空で喚く木の葉がかき消す。
何枚もの青い鮮葉が舞い落ち、彼らの集めた水滴が雨のように降り注いだ。
遅れて木の幹が軋み始め、いっそう強く木の葉が騒いで、ゆっくりと右に傾いていく。
隣木に寄り添うようにして、バキ、バチ、と枝が折れる音がそこら中に響いた。
もし襲ってくるなら、木が倒れた瞬間だ。
木陰から何者かが飛び出してくるのを予想し、おれはまた構えを戻した。
木が倒れる。
その幹が地面の水しぶきを上げるのに合わせて、動線の開いている木の倒れた方とは逆に視線をズラした。
そこに、
「あ」
誰かが残された切り株の陰から、また別の木の陰へ移動するのを見た。
低姿勢で這うように。
「……読まれてた」
縦に一刀両断するべきだったと後悔しつつ、おれは逃げていった誰かの後に続いて隣木の裏に回った。
その手前に見た風景となんら変わらない木立の並び、緑一色に染まる風景もなにも変わらないのはどこも同じ。
その中に、おれの記憶にない別のものが紛れ込んでいるはずだった。
右。左。
視線を往復させてみるが、何もおかしなところはない。
それがおかしかった。
「見間違えたのか?」
そんなはずもないと考えつつ、だったら何と見間違えたのかが気になった。
ウロウロと視線を泳がせ、それらしいものを探す最中、逃げていったのが低い姿勢だったことを思い出し、地面に目をやったその時。
「うわっ!」
とんでもないものを見つけてしまった。
木の根元にひしめくモコモコのぬたぬたのぬるぬるのブニブニのあれ。
「キ、キノコ!」
あまりの恐怖に体が硬直した。
同時に、ふつふつと憎悪が込み上げてくる。
こいつを今すぐに殺さなければ。
むしろ必死だったおれは、無我夢中だった。
だから、後に起きたことを何も覚えておらず。
だから、目の前にキノコが増えているのは、キノコを殺そうとした呪いだと。そう考えるしかなかった。