13.女と怪物
あれから十年間。
異形は必ず雨上がりに現れる。
幼い頃は慄き、家の中で震えることしかできなかった女だが、今はそうではない。
食われたギウ四十頭。
彼らが与えてくれた猶予は、間違いなく今の女の力になっている。
過去の残像を裂き、女は立ち上がった。
家の扉の脇に立て掛けられた家族からの最後の贈り物を腰に差し、父親から借りたままの鈴杖を握りしめる。
手に持つことで、リン、と小気味よく鳴る鈴の音。
呼応するように、外で重たいものの動く微細な振動が家の窓を小さく鳴らす。
その刹那、ギウの悲痛な鳴き声がし、湿ったクチャクチャと水を踏むような音がし始めた。
女が扉を押し開くと、視線の先にもはや見慣れたあれがいる。
肉がめくれ上がりむき出しになった歯、鼻の穴は肉に塞がれてコブのよう。今は剥げて何も残ってはいないが、当時はまだ毛らしきものが生えていたぼこぼこと腫れ上がった歪な頭部は、醜い、の一言で説明に十二分だ。
体の脇から背から生えた左右合計十本の腕、太い二本の脚。
やはりどこにも体毛は見当たらず、全体的に頭部と同じく腫れているように見えるその姿。
頭だけでなく全てが、醜い。
パラパラと雨粒が残る中、家から少し離れたところで、薄く湯気を立ててその醜悪な怪物は横たわるギウに覆いかぶさるようにしていた。
「いただきます、くらい言えない?」
女が声をかけつつ小上がりを下り、怪物がゆっくりと顔を上げる。
それの口元を伝って赤い血が糸を引いて足元の草を汚した。
その姿を目の当たりにし、「おいしい?」、女は微笑を浮かばせた。
「その子で最後なの。もう、終わりだよ。だから、おいしくないなんて言ったら……」
殺す。
鈴杖を地面に突き刺し、一言を発した女に微笑は消えている。
そんな女の真顔に引き付けられるように、怪物はその巨躯を持ち上げた。
改めて向かい合う、女と怪物。
先に動いたのは、女だ。
倒れ込むように体を前に傾け、ふいに加速する。
足の指が五本の人ならば見てわかる初動が、四本爪足の女の場合ごく小さい。
そのため、女のような人を見慣れていなければ、通常ならありえない低姿勢で倒れずに突っ込んでくる姿にまず驚愕するだろう。
しかし、相手はその姿を見慣れた怪物。
女の急加速に怯むどころか、微動だにしない。
ただ立ち尽くしたまま、瞬く間に距離を詰める女を凝視していた。
それが、女の間合いまで残り数歩というところ。
怪物は突如肩から生えた腕を横薙ぎに振るった。
十分の一の撃。
その一撃もまた、怪物の挙動を知らぬ者なら回避など間に合わずに食らうだろう。
だが、女はそんな不意の攻撃を既でで空振りさせた。
見ていたのだ。
怪物が上体に纏う十の腕の全ての反応を。
肩の腕がぴくりと動いた一瞬、女は両翼を大きく広げ、加速度を零に。
否、加速したことで生じる前後に方向の風をいなし、上へ。
空へ舞い上がった。
空を切った腕が体に戻るよりも早く、怪物は女を追って空を見上げていた。
時すでに、十本腕を大きく広げ、ついに怪物は臨戦態勢を取る。
空と地とで、再び両者は見合った。
先ほどの急さとは打って変わって、女は怪物の手が届かない位置で翼を仰ぎ、そこに留まっている。
「ウゥ……ルーゥ……」
怪物の低い不気味なうめき声が、女のいる位置からでは囁きのように静かに聴こえる。
あまりにも小さく、頼りない鳴き声。
女は、ギリリ、と嘴を擦り合わせた。
その目には怒りが滲む。
「鳴くなっ!!」
叫ぶのと同時、女は腰から剣を抜いた。
「お前がなにをしたかわかっているのか! わかっているだろ! そんなふうに情けない声で鳴くな!」
荒げた声に乗じて息も上がる。
女は、揺らぐ心を頭を振って収め、ゆっくりと大きく息を吸った。
行くよ。
祈るように呟き、女は剣の柄を硬く握り締めた。
そして、翼を最大限までぴんと真っ直ぐに伸ばし、逆上がりの要領で振り上げた両足と頭の位置を入れ替える。
ついては逆さまに降下を始める女。
左右の翼をくの字に曲げると、捻れた風の力で女の体もグルグルと回転する。
嘴の先は怪物に狙いを定め、ぐんぐんと速度を上げていく。
対して、地上で全腕を開き女を待ち受ける怪物は、さながらクモの巣が如く。
そこへ飛び込まんという女に迷いはなかった。
女の入り込んだ間合いは怪物のそれよりも少し内、確実に女が捕われるであろうその瞬間に、怪物は右方五本の腕を横に薙いだ。
重くのし掛かるような風圧。
バクッ、とまるで食らいつくような音が鳴った後、女と怪物との位置は逆転している。
すでに女は地面に仰向けに寝そべっていた。
またしても空を切った一撃の反動で怪物は宙に浮いていた。
しかし、今は視線は二つとも上空に向いていて合っていない。
相手に隙を生み出したのは、女だった。
残る半回転で自分と交わるはずの視線が戻るのを待つことなく、女は無防備な怪物の背中に向けて剣を突き放つ。
鋭く空気を裂く音は、すでに血の粘度を孕んでいるかのように重く粘ついたものだった、が。
剣の鋒は怪物に触れることはなく、あらぬ方向へ吹っ飛んでいく。
女は、自身の手から剣が弾き飛ばされるまで、何が起こったのか理解できていなかった。
ただ、飛んでいった剣を追う視線に、怪物のおそらく左手のどれかが横切っていくのを見た。
右に逃げるか左に逃げるか。
もはや二択しか残されていなかった女は、反射的に怪物から遠ざかる左の方向を嗅ぎ分け、咄嗟に体を捻って転がった。
その、つい今しがたまで自分の体があった位置に巨大な二つの拳が叩きつけられる。
ズン、と地を打つ振動で鼓膜が破れてしまいそうだった。
跳ねる鼓動。
女は、今の空振りがこれまでの二回のそれとは違い、命の潰れるやってはいけない失敗を防いだ幸運だったことを悟る。
だからそこに安堵など微塵もなく、続く二撃目の気配は、地面を転がりつつ得られる微細な空気の流れで察していた。
ズン。
二度目の振動をまた鼓膜で感じ、地面残されたままの拳を目視してから女は体を跳ね上げて即座に怪物との距離を取った。
「……今ので、千はいったかのな」
これまでに、もしくは自分が死んでいた数を適当にかぞえ、女は丸腰のまま臨戦態勢を取る。
目指すのは、飛んでいった剣。
陽光に照らされ煌めくそれは、同じく姿勢を立て直し立ちはだかる怪物の奥に見える。
自分の速さなら、あの怪物を躱すのは可能。
とはいえ、あれとて馬鹿ではない。
剣がなければ何もできないただの動物であることを理解している。
自分が剣を取りに行くとわかっているはず。
走るか、飛ぶか。
大きく二つある剣への道筋の内、女が選んだのは。
突進、だった。
剣と自分との間にある怪物をどう回り込むにせよ、狙いが知られている以上、交戦は避けられない。
ならば、行く道は最短。
先の急加速で一気に速度を増し、瞬時に怪物との間合いを詰める。
生じるのは、それも出会い頭と同様の横薙ぎ。
だが、振るわれた腕の本数も場所も違っていた。
下方二本の腕。
地面すれすれに草を跳ね飛ばしながら突っ込んでくる腕を避けるには、飛び上がるしかないが。
あの時の勢いで飛ぶには加速が足りない、翼を広げる余裕もない。
裏をかくつもりだったのだ。
自分はまた飛ぶと予測されていると思ってり
そのせいで、飛ぶことは算段にしなかったことが裏目に出た。
残されている選択肢はまたしても左右の二択。
女は自ずと怪物から離れる右方に退こうと体を傾けようとするものの、その時ふと新たな選択肢が頭を過ぎった。
思考の後を追って向く視線は左方、怪物の爪先を見ていた。
その向きが、避けようとする自分に向いている。
なら、腕は。
と、思考の糸を辿って女の視線が怪物の攻撃に参加していない半身へ移ったその先。
時期尚早にも、一本の腕が女に向かおうとしている。
否、それこそが先読みの真髄だと女は理解する。
残っていたのは、詰みの一手のみだった。
みっともなくうめくことしかしない無様な怪物が、いつだって自分の一歩も二歩も先にいる。
命からがらの毎度の幸運、いつまでたっても足りない自分。
憎さと悔しさに女が嘴を、ギリ、と擦り合わせた直後、女の体は意思に反して逆さになっていた。
ぶん、ぶん、と頭が右往左往し、勝手に加速する景色。
臓器がコポコポと音を立てて暴れ、今にも飛び出してしまいそうになるのを、女は体を硬く引き締めて堪える。
擦り潰れた何が何だかわからなくなった風景をぼう然と眺める中、片足に感じる熱はやけにはっきりとしていた。
そろそろだ、と女はそう感じた。
乱暴に振り上げられる体。
それからピタリと一瞬停止した世界に見る風景は、きらきらと輝き、あらゆるものが際立って鮮やかに感じられた。
ふと、ある日兄が言っていたことを思い出す。
『お前が一人でもギウの世話ができるようになったら。オレ、旅に出るからな。だから、早く大人になってくれよ?』
自分勝手な兄だと、女は幼心にそう感じていた。
だがその反面、兄に頼られているのが誇らしく思え嬉しくもあった。
頑張って、早く大人になって、兄さんを旅に出すんだ。
一人前のウロ飼いになると決心したのはこの時だった。
父親と兄にくっついて、女は幼いながらにギウの世話の全てを吸収しようと躍起になった。
父親はやる気になった娘に対し、時に厳しく、それでも根気よく丁寧に仕事を教えてくれた。
兄は、上手くいかないことのコツを教えてくれた。
それでも兄のようにはできないことが悔しくて泣いて帰ると、母親は決まって温かいギウの乳で作ったスープを出してくれた。
脳裏を駆け巡る思い出は、家族といた幼い頃のことばかり。
きっと幸福だった時が、女の目前に迫る死の影に映し出されていた。
グン、と体が無為に加速する。
緩んだ体から解き放たれた臓器が女の内側で押し上がり、唐突な吐き気を催した。
絞り出されたものが目尻を伝って流れ、振り回される女の軌跡に散る。
女にはもう、何も感じられなかった。
これから自分の身に起こる想像、今ある景色、何も視えてはいなかった。
それなのに、聴こえたのだ。
『泣くなっ!』
女の両翼は広げられた。
今地面に叩きつけられようという瞬間、女を取り巻いていた風はふいにその向きを変える。
上へ、上へ。
一挙して女を押し上げる力は、無慈悲な暴力にも匹敵し、相殺した。
時にして瞬きほどの間の出来事。
直後。耳慣れた、リン、と澄んだ音がし、拮抗する不可視の力と暴力とに僅かな差が生まれた。
それをあえて勝敗というのなら、女を押し上げる風の力が勝ったのだ。
ふいに軽くなった女の体は一気に空へと舞い上がる。
女は驚愕し、思わず目下を睨みつけた。
怪物は、逃した獲物を追うでもなく腕を振り下ろした中途半端な格好のまま静止していた。
ギリ、とまた嘴を鳴らした。
じわりと目の下に傷が浮かび上がる。
荒い呼吸をし、女はすぐさま剣目掛けて急降下した。
その降下の勢いそのままに剣を拾い上げ、足を滑らせ、翼の背で風をいなして反転する。
そうして再び女の手に戻った剣は温かかった。
怪物がゆっくりと女に向き直る。
わなわなと肩を震わせ、女はさらに強く剣の柄を握り締めた。
「……どう、して……」
続く言葉は咽ぶ女の息づかいでは声にならない。
「る……ぅル……ウー……」
もうやめて。
心で叫びながらも、女の顔にはあの微笑が浮かんでいた。
「に……」
この十年、女が最も口にしたかった言葉。
それなのに、どうしても言えなかった言葉。
今日を最後にしようと思ったから、女はようやく事実を認めようとした。
女が息を吸った、刹那、きらりと眩く光った。
何が光ったのか、女には理解できない。
閉じた瞼に言いかけた言葉を塞がれ、何もかもが消え去ってしまったかのような一瞬が訪れる。
どこから現れ、どこへ向かうのかもわからない突如の白光が過ぎ去るのを待ってから、女はゆっくりと瞼を開けた。
それでもまだ余韻で視界の半分だけが白濁した風景。
ゴウ、と強く吹いた風に押し流されて影を取り戻した草原で、黒く焦げた色をした怪物はやはり立ち尽くしていた。
立ち尽くしているが、何かが違う。
女はそれを、あまりにも静かだ、と感じた。
次の瞬間、噴き出す。
陽光に照らされ、よりはっきりと鮮やかに色づいた宝石のような美しいほんのりと赤みを帯びた濃い黄の色。
それは、パラパラ、と草を叩き鳴らし散りばめられる。
『ここには、不思議なことがたくさんあるんだ。見たことないものだって、きっとたくさんある……。なんか、ドキドキするよな。だからさ、ルー。早く大人になれよ?』
一瞬の懐古。
頭がない。と、女が気づいたのは今さらだった。
女の視線が自ずと頭部を探す。
その傍ら、視界の端に映り込んだのは、怪物から少し離れた位置で薄煙を上げる、白い人型。




