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12.その女

さあ、ほら、はやく。

矢継ぎ早に彼女の口から飛び出す焦燥に促され、おれとソレは半ば放り出されるかたちで家を出た。


「向こうへ、全速力で走ってください。そのうち街道に繋がります。あとは好きなほうへ進んでください。ただ……決してここへは戻って来ないでください」


お願いですから。


「……わかった」


それ以上、何もできる気がしなかった。

彼女はソレを勝手におれの背中に押し付けると、「これ、持っていってください」、とほのかに芳ばしく甘い香りがする布袋を渡した。


「さあ、走って!」


彼女が声を上げるのと同時に、おれは小上がりを飛び出した。


全速力で走れといわれた。

だったら、と限界を目指して加速していくと、視界の端で流れているように感じていた風景は次第に擦れて潰れ、焦点の合う手の届かない遠い景色だけがついてくるようにしておれの目に映っている。


とはいっても、目に映る大半は空模様で、それと草花に埋め尽くされた丘や平坦な地形が視界の下部に溜まっているだけの面白みのない風景だ。

そのせいか、いくら進んでも進んでいる気もしないが、その反面、すぐそばでおれを取り巻く環境が一変していた。


叩かれ、斬りつけられ、殴られる。

はじめは何かが起きていることにも気づかなかった、ただ前へ進むことだけを意識していて。

強いていうなら、足が地面を掴む感覚や、ぐんと前方へ伸びていく力の具合は感じていたが。


しかし、おれの体がぐんぐんと加速し前へ進む毎に、それは些細な違和感へと変わり、徐々に、そして明らかな攻撃として感じられるようになった。


と同時に、おれは攻撃するものの正体に気づき、自分自身の外側からの力に対する鈍さを知った。


一心不乱におれを攻撃するのは、世界そのものだったのだ。


風に吹かれ左右に揺れるだけの花の茎は、しなやかで丈夫な鞭のように変わり、地面を踏みつけて前へ進もうとするおれの足を叩きつけ。

真っ直ぐ空に向かって背を伸ばしていた草葉が、鋭い刃のようになっておれの肌を切り裂かんとし。

降る水粒は、礫となって体中を抉ろうとしてくる。


風景だと感じていた何もかもが、凶暴な敵にでもなったように思えた。

走れば走るほど、彼らに付けられる傷は増えていく気がする。


ふいに、瞼の奥が苦しくなるような感覚に襲われた。


おれは、足を止めた。


遅れてやってきた風が後ろから塊となって吹き付ける。

そうして風が通り過ぎた世界は今のことがなかったかのように穏やかで、柔らかく。

ついさっきまでおれを叩き続けていた草花も、今はまるで何事もなかったかのようにおれの足元に寄り添っている。


空は晴れ、どこからとも音もなく降り注ぐ小雨に肌を撫でられながら、おれは彼らの満足げな姿の中に埋もれていた。


「どうしたの?」


突如背後から声がして振り返ると、前方と大差ない風景が広がっているが、そこには点々と残された地面の抉れたおれの痕跡がはっきりと残っている。

その視線の先に、もう彼女の家は見えない。


「自分の持ち物なんてなかったよ。忘れ物はないはずじゃない?」


またしても声がした。


「だれだ」


声の主に話しかけると、ぺしぺし、と後頭部に違和感を覚えた。


「だれだ、じゃないよ。わたししかいないでしょ」


わたし、が誰なのかいまいちぴんとこないので、首を回して背中へ向けると、目の前にいたソレが驚いておれの背中から滑り落ちた。


「お前、いたのか……そういえば」

「そういえば、ってねえ」


尻もちをついたまま、ソレが不満げな顔でおれを見上げている。


「忘れるかな、普通……」

「普通は忘れないのか?」

「少なくても、背中に背負ってるならね」


鈍感なんだよなあ、とソレが嘆息した。


「まあいいけど。それよりさ、これからどうするの?」


ソレは言いながら立ち上がると、きょろきょろと辺りを見回した。


「さっきの人、先に街道があるって言ってたけど」

「街道……」


彼女からそう聞いた時には特に何も考えることはなかった。だがよく考えてみれば、そこを辿ると街があるわけで。


近くはないが、【車輪の街】へ行くことも可能だ。

それに、あそこでおれのようなものを見たというソウの話。あの男が嘘つきだということを考えれば、それもただ適当なことを言っただけなのかもしれない。

とはいえ、おそらくまともな彼女でも知らない、おれ、という存在をこの目で確かめられるかもしれない貴重な情報だったのかもしれない、とも思う。


だったら、試しに行ってみる価値はある。

でも、まずは。


「【紛れ街】だ。おれはそこへ向かう」


自分で訊いておいて、へえ、とソレはあまり興味なさそうに呟いた。


「なにかあるんだ、そこに」

「ヨウマがいるはずだ。とりあえず、あいつに会ってみる」

「会って、ここはどこだ、って訊くの?」


違う。おれは首を横に振った。


「会うだけだ。会えれば、それで十分」

「十分……なの? なんで?」

「いるかいないか、だな。おれはそこを確かめたいんだよ」


そして、納得したい。


「ふーん、そうなんだ」


そっけない返事のわりに、うんうん、とうなずくソレは、「名案か?」と首を傾げた。


「まあ、名案だ……たぶん」


曖昧に答えたおれに、ふーん、とソレはまたそっけない。


「でさ、あの人はどうするの?」


どう?


「どういう意味だ?」

「一人にさせておくの? これから……よくないことが起きるんだよ」

「よくない……? 彼女は、おれたちに走れって言ったんだ、遠くへ行けってさ。戻ってくるな、っても言ってただろ。お前になにがわかるんだよ」


涙の跡と、雨に対する取り乱し方と、一人でいるのに鎧を着ていたことと、飼っているギウが一頭しか見当たらなかったことと、尖った柵と。

それから、思い出話と追い出し方と。


彼女の身の回りに起きていることは、自ずと見えていた。

さらに、雨が止む、彼女の焦燥。

ソレの言う、よくないこと、は間違いなく起こるだろうとも感じていた。


だが、そんなものは第三者の勝手な憶測に過ぎない。

それに、彼女はおれたちを遠ざけようとしたのだ。


「戻る理由なんかないね。これから彼女に起こることは、あいつが自分で処理するんだ。そう決めているから、あいつはおれたちに、戻るな、って言った……そうだろ?」

「まあね、そうだろうね。でもさ」


と、ソレはどこかを指差していた。その小さな指先が示すのは、なぜかおれの手だ。

何があるのかと思い、おれもそこへ視線を落とす。


「それ、なんだと思う?」


おれの手に握られたままの布袋を指差して、ソレは訊いた。


「たぶん、焼き菓子だ」


中を見なくても、ある種独特な芳ばしく甘い香りでそれが何なのかは容易に見当がつく。


「なんで、って考えた?」

「食いたかったからだろ、そんなの。余ったんだきっと」


ソレは頷いて、「かもね」、と曖昧に言った。

さらに、「よく見て」、と続ける。


よく見る、のはこの布袋だろう。

かといって、これに何を知れというのか。

無駄だと思いつつも顔の前まで右手のそれを持ち上げて、まじまじと観察してみる。


白い色の布だ。

肌理が細かくて、革や麻の素材ではない。

おそらく綿の素材だろうが、薄くて丈夫そうにも思えない。


目で見てわかる特徴は、それくらいだ。

強いていうなら、巾着状ではないため口が紐で縛られている程度のこともあるか。


「……だから、なんなんだ?」


そう言うとソレは大袈裟に、あーあ、とため息をつき、それもまた大きくかぶりを振った。


「とりあえず、わたしは戻ったほうがいいと思うよ。っていうか、おすすめする」


と、背を向ける。


「なんのためにだよ。彼女の覚悟を無視しろってことか?」


また。今度は短い嘆息が聴こえた。


「そうに決まってるでしょ。よく考えてよ、その空っぽの頭でさ」

「空っぽ……だけど……」


右手が後頭部に伸びる。


彼女の身にこれからよくないことが起こり、そしてそこでは彼女のとある覚悟が生じる。

そのよくないことはほぼ間違いなく、死、に関わる。

覚悟も当然その、死、に。


雨上がりに現れるであろう敵と、これから彼女は対峙する。

一対一で。

それが、彼女の望んだ敵との決着の仕方だ。


だって彼女は言っただろう、『アイツは私に殺されるんだって、そう思うんです』、と。


その結末に他者の立ち合いは必要ないと考えている。

その覚悟を無視しろと?

そうするべきだって?

なぜ?


「わけがわからない……」


大きくかぶりを振ったおれの仕草に合わせるように、こちらに背を向けているソレも大きくかぶりを振っていた。



自身の発気に追い立てられ、一瞬にして遠ざかっていく白い人型の後ろ姿に微笑を送り、女は半開きの家の扉をまたくぐった。


まだ空中に残る埃が外光にムラを作り、微細な室内の空気の流れに漂う様は、まるで人の気配を映しているかのようで生々しい。

女は、その生暖かい空気の中を泳ぐようにゆっくりと歩き出窓の元へ向かうと、窓に背を向けるソファの背もたれに腰を預けた。


触れたソファが温かい。

その熱を味わうように女は目を閉じた。


一つだけ残った瞼の裏に浮かぶ、かの光景。

ギウ追いの杖を手入れする父の背中が、漂う人の気配と手のひらに感じる熱と相まってそこにあるように感じられた。

家を優しく叩く雨音が、奥の台所で忙しく働く母の音に聴こえる。


息を飲み自ずと開かれた瞼、視線の先には雨粒が砂埃で汚れた窓に何本も筋を作っていた。

今一度瞼を落とし、それから女はソファを離れ、そして中央にある円卓を囲む四脚の一つに腰を下ろした。


女がいつも座っているそこからは、奥の本棚が見える。

目に入ればいつも、当時気に入っていた一冊の絵本が目に入ってしまう。


同時に呼び起こされる残像。

本を挟んで座る自分と兄の姿が、女の一つ目の下に傷を浮かばせる。

歯を食いしばり咽ぶ女の声を隠すには、この雨では優しすぎた。


十年前。

女が十三の歳を迎えるその日に悲劇は起きた。

それまでであれば兄と二人で残されていた女が、十三の成人を境に初めて一人で放牧されたギウの世話を任された日だった。


女は、兄と買い出しに出掛けるという父親から憧れのウロ鎮めの鈴杖を預かり、四十頭のギウとともに草原へ出かけた。

ウロを放すのは、イルが空を二周するまでの間。

それでも、イルが眠ってしまうなら早くてもギウを戻すというのが決まりだった。


その日もいつも通り、イルは空を二周しても飛んでいた。

女は決まりに従ってギウをまとめて舎まで送るつもりだったが、初めてということもあり、多少手間取ってしまった。


なんとかギウたちをまとめてギウ舎に送り込むと、ふいに空が暗くなり、夜が訪れた。

女は急いで鎮めの鈴を奏で、ギウたちが一頭残らず眠るのを見届けてから、家に戻ろうとしたが。


ギウ舎の一番奥、荷引きに使っていたギウ二頭がいないことが気になった。

家族の誰かが街まで行ったのだろうと考えたが、もう夜だ。

いくら飼いウロとはいえ、暴走する危険性は十分にある。

心配はあったが、父親と兄なら問題はないとも思った。


戻らぬ二頭のギウのことを頭の片隅に置き女が家に戻ると、家の前でランプ片手に母親が立っていた。

おかえり、と言う母親の声や振る舞いに落ち着きがなかった。


その理由が自分の頭の片隅に置いたことと同じだと感じた女は改めて、父親と兄はどうしたのか、と尋ねた。

母親は、『まだ戻ってきていないの』、と言った。


父親と兄のことだ、心配はいらない。

一旦はそう考えたものの、母親の様子が違っていることに女は不安を覚えていた。


それから少しして、辺りを覆いつくす暗闇の奥から鈴の音が聴こえた。

母親と二人、鈴の音に向かって走ると、遠く夜の火によって薄影を引きずる荷引きのギウの輪郭が見えた。


父親と兄が帰ってきたのだと安堵する女だったが、戻ってきたのはギウ一頭だけ。

ギウは手負いの状態だった。


女は、ウロに襲われたのだと一瞬にして悟った。

そしてそれは、隣に立つ母親も同様だったのだろう。

女に『待っていなさい』とだけ告げると、母親はギウが帰ってきた暗い夜道を颯爽と走っていった。


待って。

その時に言いたかった言葉を放つ寸前、女はランプの明かりが一気に空へ飛び上がったのを見た。


後を追うつもりで一度は駆け出した女だったが、それを手負いのギウがもらす苦痛のうめき声が止めた。

ウロ飼いの女には、母親に全てを託し、傷ついたギウを舎へ連れていき応急の治療をするしかなかった。


血を拭い、傷を縫い、眠らせるまでどれくらい経ったのか。

女が再びギウ舎を出て家へ入っても、母親は戻って来ていなかった。


汗が滲む焦燥とは裏腹に、これまでに感じたことのないほど静かな夜。

父から借りた鈴の柄を握りしめる拳が解かれることのないまま、夜が終わった。

結局、父親も兄も、母親も戻って来なかった。


きっと、夜が終わるまでどこかに身を潜めているか、街に戻ったのかもしれない。

女は三人が無事である想像を膨らませ、傷ついた彼の様子を見にギウ舎へ向かった。


しかし、あの手負いのギウは昨晩眠らせた格好のまま、揺り起こそうにも一向に目を覚ますことはなかった。

自分の処置が悪かったのだ、と女はそう考えた。

間に合わなかった、とそう言い訳もした。


それが我慢の限界の訪れ、女はギウ舎を飛び出し、加速して一気に空へ舞った。


目下に家族の痕跡を探す。

幾日もかけてできた地面に深く刻まれた轍を追えばそれは容易に叶う。


女が荷車を見つけたのは、街道に入って少し行ったところにある岩場でだった。

荷車は道の端に停められ、破損もなにも見当たらない。

何の変哲もない荷車だが、ただ、積まれた荷には普段よりも豪華な食材が多かった。


最悪の予想に反し無事な荷車の姿は、女の抱いた最幸の妄想を助長し、家族の名を呼びながら周囲を探す女の足も軽かった。


近く身を潜めるのであれば、辺りの岩に紛れるのがいいことを父親から習っている。


女は、なるだけ岩の密集した場所を目指して街道を外れて三人の捜索を進めた。

街道そばのそういった岩場には、ところどころ過去の野営跡が残っていた。

しかしそこにも家族の姿は見当たらず、それから少し歩いたところ。


女が父親の姿を見つけたのは、周囲に岩のない開けたところでだった。

変わり果てた姿の父親がそこに横たわっていた。


驚愕と悲しみが一挙して押し寄せ、女は今にも叫びだしたい気持ちだったが、不整の呼吸をよそに周囲を見渡した。

母親を探すため、兄を探すため、女が巡らせた視線には大きく抉れた地面の跡が映った。


そこの岩陰に続く跡を追う女の足は、先ほどとは打って変わって重く、そのわり頭は真っ白だった。


何も考えないことで、女は自分自身を守ろうとしていた。

だが、岩陰を越えて覗き見た光景が、一撃にして女の守りを破壊した。

心の砕ける音が、女の叫びとなって飛び出した。


潰れた母親まで少しの距離を女は縮められなかった。

その場に崩れ落ち、ただひたすらに泣き叫ぶ女だったが、一瞬耳を掠めた鈴の音を聴き逃しはしなかった。


聴き間違えもしない、鈴の音は兄の音だった。

咄嗟に駆け出し、兄の音を探す女だったが、どこにも兄の姿は見当たらない。


諦めきれない女の感情をよそに、イルは眠る。

その場を離れることもできず、その日女は荷車に身を隠して夜が終わるのを待った。


翌日、昼。

たまたま通りかかった旅人に見つけられ、女は兄が見つからないまま、両親ともに自宅へ戻ることとなった。

旅人の手伝いもあって連れ帰った両親の亡骸は、家から近くの小高い丘の上に埋葬した。


その時、鈴の音は気のせいだった、と旅人はそう言ったが女は納得しなかった。

兄の音を聴き間違えるはずがないという自負と、兄の遺体だけが見つかっていないという事実が、女を奮い立たせる希望だったからだ。


それから毎日、ギウを放牧する前の少しの間だけ、女は岩場に兄を探しに出かけたが、見つけることができたのは兄の靴の片方だけで、兄の姿も鈴の音すら聴くことはなかった。


それが、一月ほど経ったある日のこと。

女は家の中にいて、兄の音を聴いた。


ようやく帰ってきた。

兄の生存を信じ、もはや妄想に憑りつかれていた女が見たのは、怪物だった。


昨夜からの雨上がり、香り立つ草花の青さに混じり、石の焼けたような異臭をまき散らす怪物。

身動ぎするとふと兄の音を鳴らす、十本腕の生えた異形がそこに立っていた。

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