11.苦い記憶
「それ、兄が書いたんだと思います。なぜそんなことを書いたのかはわかりませんけど」
それはつまり、彼女自身気にはなっていた、という意味だろうか。
彼女の意見を聞いてみたいところではあるが、それよりもまず、こんなことを書いた張本人に訊いたほうがいいに決まっている。
「だったら、確認したい。お前の兄ってやつは、どこにいる?」
地図から目を離し振り向くと、彼女はすでにといったようすで首を横に振っていた。
おれはその否定的な首の動きを見て、彼女がしたい否定の意味をもう半分は理解していたことを改めて感じた。
それにしても、と思うのは彼女の右目だ。
なぜそんな目をしている?
「もう、いませんよ。亡くなりましたから」
それは、彼女が首を振った時点でなんとなく予想されていた台詞だった。
しかしその右目があって、亡くなった、という言葉から連想する彼女の心が単なる、悲しみ、ではないと感じてしまう。
空間が息を止めたかのような瞬間、彼女の右目が物語る渦のような感情におれは引き込まれそうだった。
そこに、彼女から溢れていた優しさは微塵も存在しない。
彼女の目に宿るものをおれは、圧倒的な苦しみ、だと知っている。
「……ウロ、か?」
人かそうでないか、二つしかない選択肢のよくあるほうを口にする。
「ええ、まあ」
彼女は頷くでもなく、あくまで平静を装っているのが、かえって不気味だ。
「もう、ずっと前のことです。私が十三歳になるその日、兄は……いえ。父も母も、私の家族はみんなアイツに殺されました」
「みんな……。そうか」
だから、か。
思い返せば、ウロ飼いの牧場に一匹しかギウがいなかったことも、辺りがやけに静かだったのも、この家に彼女が一人しかいないからということだったのだろう。
見覚えばかりを気にしていて、おれはそこの違和感を感じてもいなかった。
「それで、その、ウロは?」
近くに人がいてそれを襲ったのなら、とっくに討伐されているだろうと思った。
だが、どうしてか彼女の目が持つ苦しみの色は、さらにどんよりと濃くなったような気がする。
「まさか、まだ討伐されていないのか?」
女は、どことなく前の方を見つめたまま、「ええ」、と言った。
「でも、いいんです」
「なんでだ? 危険なヤツなんだろ?」
正論だと思って言った一言だ。
しかし彼女は、「どうなんでしょうね」となぜか首を傾げる。
「危険、といえばそうかもしれない。家族を殺されて、ギウも何頭もやられました。憎いし、はじめは私も早くアイツを殺してほしかった。けれど、アイツは臆病なんです。基本的には、人が近寄るとすぐ逃げてしまうくらいに……」
だからでしょうか。
そう言った彼女の声は、少しだけだが明るさを取り戻したように聴こえた。
「アイツは私に殺されるんだって、そう思うんです」
一瞬、彼女が何を言っているのかわからなかった。
復讐のための殺意は当然理解する。ウロを殺すのが自分だと感じていることもわかる。
それなのに、なぜこうも他人事のように聞こえるのだろう。
「使命感、ってやつか……?」
確信半分、半ば当てずっぽうに訊いた。彼女はちらりと宙を見上げ、「どうなんでしょうね」、とまた言った。
「正直、わかりません。殺さなきゃって思うし、ころしてやるっても思うし……。でもそういう、怒ったぞ、って感じも半分……ですかね」
「残りはなんなんだ?」
「それがわからないんです、自分でも。だけど……」
何か言いかけて、「やめましょう」、と女は背伸びをした。
いつの間にか、彼女の傷は消えていた。
「それでその地図についてですけど。兄が隅にニセモノと書いた理由はわかりませんが、それは世界地図で間違いないはずですよ」
無理やり話題を引き戻した彼女の行動には少しわだかまりはあったが、これ以上また彼女の傷を掘り起こすこともないだろう。
彼女の言うことがもうすでにわかっていることだと納得し、そのうえで、ただおれが知りたいのは地図がニセモノかどうかではなく世界の名前だったのだと、おれも考えを自らの疑問に立ち戻した。
「ここが、ムウって呼ばれてるかどうか、それを知りたかったんだ」
「ムウ……? ここが、って……どういう意味です?」
「もしかして、知らないのか?」
多少期待しておれは彼女を見つめた。たがすぐに、いえいえ、と彼女が手を振る。
「知ってますよ。ムウは、人を襲う怪物……ですよね? たしか」
相変わらず曖昧なのは気になるが、とにかく頷いた。
これでますますソウの言っていたことが妄想じみてくる。
やっぱりあれは、どこぞの集団の作り話だったのだ。
おれの記憶がないのをいいことに、わけのわからない集団意識に巻き込もうという魂胆だったのかもしれない、と思うと勝手にため息がこぼれた。
「聞いた話なので、正しいかどうかわからないですけど」
「いや、いいんだ。世間の常識なんてほとんどは聞いた話ばっかりだし」
だから、蛇派がどうのという胡散臭い噂も成り立つのだろう。
これがこうだ、と誰が決めるものでもないということが、その一つの要因だ。
とはいえ、ヨウマなら、とも思うが。
「ところで、おれがなんなのかわかるか?」
自分で訊いておいて、本当にどうでもいいことのように感じる。
女は、「なんですか急に」、と当たり前に怪訝な顔をした。
「なんなのか、ってどういう意味ですか?」
「どういう、って……」
どういう意味か、と訊かれてもどう言えばいいものか。
想定外の質問におれは少し戸惑ったが、「おれを知っているか、ってことだな」、と言葉を変えた。
「はじめて会いますけど? たぶん」
はじめて、だそうだ。
わかってはいたが、おれだけがそう思わない分、その事実がつまらなく感じる。
「それはそうだけど、そうじゃない。おれみたいな白いのを見たことがあるかってことだよ」
「そう言われてみれば……」
呟きながら、女はまじまじとおれを見つめたかと思うとすぐに首を傾げた。
「ないですね。なに人、って訊くのも失礼ですけど……、なんの人です?」
「なんの人?」
なんとも微妙な質問だ。
「お前には、おれが人に見えるのか?」
「それは、もちろんそうですよ。足は二本だし、立って歩くし、話もできますし。それに、父は言っていました、『世の中にはいろんな人がいる』って……」
一瞬の切れ間、彼女のあの優しさがまた顔を覗かせたが、瞬きひとつですぐに元通りになっていた。
「というか、自分のことでしょう? わからないんですか?」
世の中のいろんな人、というのはそういう意味ではない気もするが。
とりあえず、おれは首を横に振った。
「向こうの森で目が覚めてから、記憶がないんだ。おれがなんなのか、名前もわからないし。ここがどこなのか……ほとんど記憶がない」
ほとんど、というところはおれなりの話の肝でもある。
少しは気にしてくれるかと期待したが、彼女は「ふーん」と唸っただけだった。無関心そうに。
「それ、なんですけど」
と、思いきや。彼女はおれを指差す。
「記憶って、本当にないんですか?」
ソウにもいわれ、自分でも疑問な部分だったが、どことなくおれの期待からズレた質問なだけに、頭がまともに取り合おうとしない。
「だから、ないって言ってるだろ」
半ば突き放すように言ったが、彼女に動じている様子はみえない。
「でも、いろいろ知ってるじゃないですか。イルとかムウとかだけでなく、ウロだって危険だと言ってましたし。それってつまりどういうことなんですか?」
むしろ、食いついてきた感すらある。
「どうって訊かれても、わからない。それがわからないから、おれには記憶がないって言ってるんだ」「私はそうは思いませんけど?」
「……じゃあ、なんだっていうんだよ」
「記憶はあるけど覚えのないことがある、ということかと」
この女、はどうしてこうも妙な角度の意見をするのだろうかと思う。
記憶が覚えていることなのだから、それがないのなら記憶がないということだ。
もし彼女がそう考えていないのなら、記憶とか覚えとか、そういうものはなんだというのか。
ふ、と嘆息ようやく肩の荷を下ろした矢先、新たに積まれた荷には何ともいいがたい腹が重たくなるような感覚があった。
「わけがわからないな」
そうするほかなくておれがかぶりを振ると、「たぶんですけど」、と彼女は言った。
「そもそもあなたは、記憶というものを勘違いしているんじゃないですか?」
「……勘違い? どういうことだ?」
「だからですね。記憶って、あれを知ってるこれを知ってる、という単純なところだけではなくて。なにがどうしてそうなる、とかそういうやったこと……? 説明しづらいですけど、それのある意味での結末を覚えている、ってことじゃないですか」
「……は?」
「だからですね。たとえば、ウロは危険、とあなたは考えていますけど、どうしてです?」
「そんなの、ウロはいつも腹が減っていて生物を襲うから、だろ」
当然の常識を口にすると、彼女は「それ」とおれを指差す。
「絶対にそうとは言い切れないんです。だって、ウチの子には襲われなかったですよね?」
そういえば、そうだった。
それに、あの時のおれは少なくともウロだから危険だとも思っていない。
それならなぜ、おれはウロを危険だと決めつけたのか。
「危険なウロを知っているから、じゃないですか? あなたの記憶には、少なくともそういったことが含まれていると思いますよ」
おれのことを代弁するように、彼女が言った。
「それはつまり、どういうことなんだ?」
「考えてみてください。あなたは、その危険なウロとどこで会いましたか? 戦った?」
危険なウロ。
人を襲う危険なウロといえば、大概は四足の生物か、それ以上の多足生物のことだ。その中でも特に危険といえるのは、ヒャクアシ、ニノアシジュッテ、バウグル……他にも色々と思い当たるが。
「どこで……」
それらが、森や林、砂漠とか湿地とかそういうところに住んでいることはわかるが、会ったことがあるのか、ましてや戦ったかどうかというところがぴんとこない。
とはいえ、あれらに素手で立ち向かうのはあり得ないことだとも知っているし、どんな攻撃が有効なのかもわかっている。その点でいうなら、戦ったか、といわれればそうだとも考えられるかもしれない。
だがそれでも、実感がどこにもない、というのも事実だ。
「……会ったことくらいはあるのかもしれない、たぶん」
自分でもなぜそうするのか説明はつかないが、おれは多少濁して答えた。
すると彼女は、「やっぱり」、と何か見抜いたかのように言う。
「だけど、知ってるんだ。そこらへんの戦士程度じゃ敵わないような危険なウロがいる。おれは、そいつらをどうすれば倒せるかわかるんだ」
「じゃあ、あなたには記憶があるってことですか?」
「それは、ない」
断言すると、彼女は「お手上げですね」とため息をついた。
「あなたは、記憶がないってところに執着している……。なぜです?」
「執着なんてしていない。本当になにも知らないんだ」
「……知ってるじゃないですか、いろいろと」
「それはそうだけど、それとこれとは別だ。おれには記憶がない……なにも、どこにもないんだ」
おれはまた、何かを確かめるかのように自分の手のひらを見つめていた。
「なんとなく、わかった気がします」
ふいに彼女が言って、その時だった。
いつの間に起きていたのか、ソレが体を起こしていて、ぼんやり窓の外を見ていた。
そして一言、「あめ……」、と呟いた瞬間、女は即座に身を翻し窓に張り付く。
「今日は晴れると思っていたのに……」
何気ない台詞が、どうしてか緊迫感に満ちていた。
「どうかしたのか?」
明らかな異変。それも、よくないほうのものだと感じつつ訊くと、彼女は即座に寝床から飛び降り、
「晴れの日の雨はすぐに止んでしまう。降り始めの今ならまだ間に合います」
今すぐ、ここから離れてください。
と、そう言った。




