1.おれ
誰かがおれを呼んでいる。皆がおれを呼んでいた。
どうしても思い出さなければいけないことがあった。
それなのに、どうしても思い出せない。
他の何を思い出せても、大事なそのことだけを思い出すことができなかった。
□
――なんの前触れもなく、目が覚めた。
つまり目が覚めている自覚はあった。
でもそこは白くて、白い以外何も見えない。
自覚はあったが本当に目が覚めたのかよくわからなくなって、おれは目を擦った。
ぐしぐし、と強くめを揉むと、さらに目が覚めた自覚は得られたが視界は晴れない。
どういうことなのか考えて、辺りが曇っているのだと気がついた。
たぶん、おれは濃霧の中にいる。
反射的に感じたのは、ここはどこだ、という疑問だった。
霧が起きる条件からして水気の多い山か森か。
どうしてそんなところにいるんだ。
困惑し、自然と後頭部に手が伸びて、ふと思い出した。
悩んだ時、困った時、おれは後頭部を掻く癖がある、と誰かに指摘された記憶だ。
でも、誰だったろう。
その人のことを思い出そうとすると、視界は急に晴れ――。
「……あれ……?」
おれは、見知らぬ部屋に立っていた。
ふいの出来事に驚きつつ室内をぐるりと見回すと、そこは五歩も歩けば端から端まで行けるくらい狭い。
天井も、手を伸ばしてちょっと跳ねれば、むき出しの骨組みに触れてしまえそうだった。
造りは木造、壁も床も天井も全部似たように乾いて反り返っている様子から、古い建物だとわかる。
その壁の一辺の中央あたりにポツンと一つだけ置かれた書棚だけが家具と呼べるもので、それもまた周囲の木材と同じく棚板は沿っているし、ところどころひび割れが目立つ。
反対側の壁には、一応という程度の小窓があるようだが、戸が降りていて外は見えない。
自分の部屋、だろうか。
まったくそんな気はしなかったが、他人の家にも思えない。
なんにせよ、ここにいるのだから自分の家なんだろう。
「夢……か」
今の白濁した風景、どこをどうやったあの場所へ辿り着いたのか思い出せなかったのは、そういうことだったのだ。
気づいてみれば単純なことだった。
「とはいえ」
と、もう一度部屋の中をまじまじ眺めてみるが、いつもおれはこの部屋の中でどう過ごしていたのだろう。
いちいち思い出すようなことではないのかもしれないが、それがわからない。
まさか、と思った。
目を閉じ、暗闇の中に潜り込んでおれは今一度思い出せることを確認しようとした。だけど。
自分の名前、外の風景、友人、家族、身近なことは何も浮かんでこない。
はじめから何もなかった?
そんなふうに考えてしまうほどきれいさっぱり何も。
でも、そんなはずがない。
「おれ……」
おれは、記憶を失っている。
どうして、と考え始めたのは無意識にだった。
自分は何か良くないことをしたのかもしれない、と思った。
普通に生活していて記憶喪失なんてそう起こることじゃないのはわかっている。
思い切り頭を殴られた、とか。毒を飲まされた、とか。
つまり、誰かの手でおれはこんなことになったのかもしれない。
はっきりした記憶は一つも浮かんでこなかったもののこの、記憶喪失、が自分のせいで無いことだけは間違いない、と感じた。
同時に、自分のせいだろう、と納得もしていた。
おれは、たぶんひどい事をしたんだ。
「何を……」
と、また自分の後頭部の柔らかい感触を指先でぐにぐに揉んでいて、はてな、と頭に浮かんだ。
自分の後頭部の妙に柔らかかっただろうか?
ゆっくりと指先を自分の目の前に持ってきて、はてな、は一つ増えた。
「なんだこれ……」
関節部分に横筋が入っているだけで、余計なシワひとつ無い白い手のひら。
まるで見覚えがない。
手首を返し甲を上に向けたが、そこもおうとつがなく、手のひらとほとんど変わらない見た目をしている。
手首も、肘も曲げた時にだけ皮が寄る程度で、伸ばせばシワはない。
そこで改めて自分の体というものを見下ろすと。
「あ……」
胸から腰、足の爪先までどこを探してもおうとつらしいものがない、真っ白の体だった。
おまけに衣服すら身に着けていない。
とにかく何か着るものを着たほうがいいと思ったが、部屋には書棚一つしかないのはもう確認している。
じゃあ、おれは常にこの格好だった、ということだろうか。
「そんなことも覚えてない……」
呆れて自嘲した。
「めんどうなことになったな」
頭を掻くと、少しだけ冷静になれる気がした。
三度部屋の中を眺めて、目に止まるのは例の書棚だ。
そこに収まっている一冊の本を鍵にするしかない。
あわよくば日記か何かであれば、とある程度の期待をしつつ、背には何も書かれていない黄ばんだ本を手に取る。
感触からして表紙は革製だろうが、何の皮かはわからなかった。
「…………」
表にも裏にも題らしいものは書かれていない。
だとすれば、物語や実用書の類の可能性は低くなるわけで、期待通り日記の可能性は大いにあると思ったが。本は開かなかった。
「鍵、なのか?」
本の小口の中央あたりで一部繋がっているそこには、鉤爪型の穴が空いている。位置からして鍵穴だろうが、そんな形の鍵は想像もつかなかった。
でも、ここはおれの部屋だ。
仕舞っているとすればこの殺風景な部屋のどこかに。
本を抱えたまま振り返った視線の先は、またあの濃霧で満たされていた――
□
いったい何が起きた。いったい何が起きている。
おれは咄嗟に手に持っていたものに視線を落とした。
「……ゆ……め?」
白い手の中には、何かを持っていたという感触だけ残っていて何もない。
ただ、ほんのり手のひらが温かいような気がした。
「どっちが……」
ふつふつと湧き上がるのは、居ても立っても居られない焦りのような感覚だった。
確かめなくちゃいけない。いや、確かめたい。
ようやく芽生えた意志に突き動かされるように立ち上がると、カサカサ、と音を鳴らしチクチクとした感触の中に頭を突っ込んだ。
それまでの白霧から転じて、ふいに緑一色の景色に変わり、おれはまた夢を見ているのかと思ったが、今回は違った。
すぐそばにあった木の樹冠に頭を突っ込んだのだ。
目の前にある緑一色の正体は、縁がギザギザの葉だった。
その一枚を摘み、眺めてみるがやはり何の葉なのかわからない。というか、おれはそもそも植物に興味があったのだろうか。
それの樹冠から抜け出すとそこは案の定白霧で満たされている。
ため息をつくと、霧が歪んだ。
そしておれは、この場所で初の一歩を踏み出す。
足元が柔らかい草で覆われていると感じたのも、これがはじめてだった。
湿った絨毯のような感触。
とはいえ、まさかここが建物の中ということはないだろう。
二歩、三歩と歩みを重ねるごと、環境への疑問はなくなっていった。
そんなおれの頭の晴れやかさに呼応するように、心なしか霧も薄くなっているように感じ。
それが本当に薄くなったと実感したのは、視線の先に地面と、それから木々と思しき立ち姿が見えた時だ。
それまでの濃霧が薄霧となって漂うのは、地面も木の幹どれを取ってもすべてが緑一色に染まる森。
どうやらおれはそんなところにいたらしい。
足場の悪さはもとより。視界が晴れたことで知ることができたのは実際それだけだったが、緑一色の正体が木の枝に茂る平たい葉々と、苔、だとわかったのは一つの発見だ。
霧のせいで十分ではない陽光、ほんのりと白濁した空間に浮かび上がる緑色は色を濃くしていて、それが影と相まって黒に近くもみえる。
そんなものが木の幹を覆っているせいで、風景に濃淡がなく、空間が平面的に感じるところ、結局濃霧の中とあまり変わらない。
「あっちもこっちも、全部おんなじだな」
はじめから、どっちに進めばいいかなんてわかっていない。
とはいえ、一度過ぎた道に気づかずにいつまでもぐるぐるなんてことにはなりたくもない。
こういう道に迷いそうな時にすべきことは何か。
必要なのは、一方向に進み続けることだ。
そんなことを思いつくと、答えがとりあえず二つ頭に浮かんだ。
「道標か空か……」
だけどこの状況、おれはあの場所に戻るつもりはないし、ここまで何も残してこなかったのだ。
いまさら道標を残すことには意味がないだろう。
おれは顔を上に向けた。
「あいつはどっちだ?」
その位置さえつかめれば、必ず右回りしかしないあいつを目印にだいたい一直線に進むことができるが、この霧が光を乱反射させているせいでおよその方向すらわからない。
同時に右手の指先が頭を掻いた。
それでふと足元の感触を確かめると、じわりと水が溢れ出してくる。
霧の原因は、これだ。
だとすると、実はこの森には外がない、なんてことでもない限り、上空は晴れているはず。
「よし」
おれは顔を真正面に向けた。
姿勢を真っ直ぐに正し、腕はピッタリ体につける格好がいい。
それから大きく息を吸い込み始めると、周囲の薄霧の流れが変わり、森の香りを連れておれの中へ飛び込んでくる。
乗じて、サワサワ、と木々が鳴き、枝から離れた木の葉がいくらか宙を舞った。
まだ限界というわけでもなかったが、胸が足元を隠すほど大きく膨らんだところで、頃合いだ。
おれは、息を吸うのを止めた。
その体内に閉じ込めた空気を、力加減で背中に巡らせる。
送った空気が背中を盛り上がらせ、皮膚が突っ張る感触がした。
たぶん、成功だ。
頭の中は空っぽでも、体は覚えているようでよかった。
空を飛ぶには、吸った空気を背中から吐き出す。
こんな当たり前のことすらできなかったとしたら、おれは泳ぎを知らない赤子も同然。
だからやっぱり、おれには経験がある。
今は思い出せなくても、必ず。
確かめなくちゃいけない。確かめたい。
ここは夢なのか、あの部屋が現実なのか。
おれは何をしていたのか、おれは何者だったのか。
おれのそばにいたその人は、誰だったのか。
全部、知る。
きっとそれが、おれのするべきことなんだと思った。
張り上がった背中の一部が送り込む空気に押し広げられ、閉じられていた穴から風が漏れ始める。細い口笛のような甲高い音が鳴り出し、それは徐々に太く獣の遠吠えのように変わり。
最後のひと押しで、巻き上がる水飛沫。おれの体は、宙へ飛び上がった。