小さな精霊の物語
────これは、夢だった。
小さい頃の夢、もう、忘れてしまっていたはずの思い出。
「おかーさん! おかぁさん!」
「あらあら、どうしたのティー? ふふ、甘えんぼさんね」
「うんっ! だって私、おかーさんのこと大好きだもん!」
「ふふ、ありがとうティー。……あら? その本って……」
「おかーさんの部屋で見つけたの! ねぇねえ、読んで読んで!」
「ぁ……え、ええ、そうね。でもねティー、この本はティーにはまだ早いわ」
「…………はやい?」
「ええ。多分、読んでもティーには分からないと思うの」
「分からない……ううんっ、でも読んで!」
「あ、あらそう? そ、それなら良いのだけれど……本当に分からない思うわよ?」
「分からないって……どうして?」
「うーん……口で言うのも難しいわね……。ティー、それは読んで見てからのお楽しみね」
「え〜」
「そう残念そうな顔をしないの。じゃあ読むわよ、さぁ、お布団の中に入って」
「うんっ。……えへへ……おかぁさんいいにおーい」
「ふふ、ありがとう」
そう言って、彼女は最初の頁をめくり、ゆっくりと話し始めたのだ。
「ここではない、どこか遠くの王国で」
あの時の私は物語に夢中で気が付かなかったけれど、その時話す彼女は目を瞑っていた。
「いまではない、どこか遠い未来の話」
そういえば、あの時の私がこの本に興味を持ったのも、その本がとても変だったからだ。
最初は綺麗、まるでまだインクの香りがするかのような真新しい頁が続く。
しかし、頁が進んで行く毎に紙は徐々に擦り切れてきて、ボロボロになって行くのだ。
そして、またある頁を境に、再び新しくなる。
中をパラパラとめくった時のあの感覚は、私の中に今も残っている。
「これは、一人の精霊術師と、小さな精霊のお話です────
でも何故か、当時あんなに焦がれたその話の内容は、もう、覚えていない。
♦︎♦︎♦︎
「嫌な夢を見た……です」
目を開けた彼女の視界に映ったのは、落ち着いた色合いの木の机。
バーカウンターだと、彼女は寝ぼけてはっきりしない頭で思った。
どうやら、いつの間にか寝てしまっていたらしい。この所は悩んでばかりの毎日で、夜もほとんど寝むれていない。
知らぬ間に寝てしまう程、彼女には疲れが溜まっていたのだ。
「…………本当に、嫌な夢だったのかナ?」
「…………はいです。とても、思い出したくない夢です」
心の底から苦しそうに、彼女────雪風は言った。
「……寝言では、お母さんと言っていたがネ」
「────ッ!」
咄嗟に手で薙いでしまったのは、夢の内容に少し苛ついていたから。
「今の君では、私には勝てないヨ」
「ッ…………!」
しかしバーテンダーの首に当たった途端、その手に握る刀はピクリとも動かなくなる。
「刀を、仕舞ってくれないかネ。血の色が見たいのなら、そうだね。こちらの酒など如何かな?」
「…………いらない、です」
無意識の内に浮かせていた腰を下ろし、雪風はまたカウンターに顔を伏せる。
だが、再び眠ったわけではない。そんな勇気は、今の雪風にはなかった。
「お母さんじゃ、ないです」
「…………ふむ?」
「…………精霊に、親はいないです。自然に生まれて、自然に消える。だから、お母さんじゃないです」
「では、彼女は一体?」
酒の代わりに出されたのは、真っ白なミルクの入ったグラス。
口元にできた白髭を拭って、雪風が懐かしい目をする。
だが、その表情は全体的に悲しげだ。
「…………よく、分からない、です。彼女が精霊なのかも、そもそも存在していたのかも」
「ふむ……。彼女は、今どこにいるのかナ?」
「彼女は、旅が好きでした。いっつも、フラフラと自由気ままに何処かへ出かけて、気付いたら帰ってきている」
「…………」
「その日も、いつものようにフラフラと何処かへ出かけて、そして…………それから、雪風は見ていないのです」
「何年前の話だい?」
「…………分からない、です」
短くそう答え、グラスの中身を飲み干した雪風が立ち上がる。
「…………シン・ゼロワン。とても強いです。今、二人がやられたのです」
「…………二人がやられた……咲耶くんのかナ?」
「はいです。でも、操作は雪風に任されているです」
「だからと言って、君が行く必要はないと思うんだがねぇ。優雅にティータイムと洒落込もうじゃないカ」
グラスに入った氷が溶けて、小さくカランと音を立てた。
雪風は、振り返らないでそれに答える。
「…………殺し屋に、そんな暇はないのです」
「…………そんな暇、ねぇ…………」
────パリンッ。
バーテンダーの握る、真っ赤なお酒の入った瓶が、粉々に砕けた。
血のように赤く、ドロドロとした不思議なお酒が、バーテンダーの手を濡らし、床にポタポタと水溜りを形成した。
「君が殺したいのは、果たして何者なのかナ?」
「…………」
足を止める、雪風。
フードをさらに深く被り、
「…………」
何も言わずに、店を出て行った。
「…………咲耶くん。君は少し歪んでいるネ。単純で一本道だったあの頃とは、随分変わったものだ……」
飲み干されたグラスを手に取り、それを洗い始めるバーテンダー。
懐かしさ、尊敬、悲壮、そして敵意。様々な感情が無秩序に詰め込まれたような表情で、バーテンダーは目を細めた。
「変えたのは、マーリンか、シン・ゼロワンか。いや、どっちにしろ同じことで些末なことだネ。ハンゲルだってノートだって誰だって」
バーテンダーの独り言に、答える人間はいない。
「…………知り合いのお嬢さんだ。少し、私も手伝ってあげるとするかナ?」




