三十話:これはそう、多分簡単なお話
シン・ゼロワンは、眠った。
だが、それでもこの世界は動き続ける。
エミリアが恥ずかしいそうに身を捩った。シンの寝息が、エミリアの太腿の付け根の辺りをくすぐっている。
「本当に、すみません。エミリア様」
アイリスの膝から頭を離し、座り直したエストロが、申し訳なさそうな表情をした。
「……いえ、敬語なんてやめてください。エストロ先輩。それに……シンなら、分かってくれますから」
「…………ですがっ」
「エストロ」
「──っ…………。すみません、アイリス様」
アイリスに窘められ、腰を浮かしていたエストロが再び腰を下ろす。
「隠れた伝説であるシン・ゼロワンも、こうして少女の膝を枕にしているところを見れば、ただの子供ですね」
「アイリス会長……」
「やめてください。折角、悪者になろうとしたのに……これじゃ、ただの道化じゃないですか」
「…………」
アイリスは、この場で誰よりも聖人だった。
今も、エミリアが自分を責めないよう、自ら悪役になろうとしている。
……エミリアが話を持ちかけられたのは、昨日のことだ。
呪いにより気絶する事件の犯人に、シンを疑う生徒が多い。だから、エストロがシンと戦い、シンの実力を知らしめる。
今朝、スーピルが言っていたことと全く一緒だ。
最初は、シンにも演技をしてもらうつもりだったのだ。だがそれは、エストロの意見で、睡眠薬を飲ませて無理矢理戦うことになった。
お酒を用意し、そこに睡眠薬を混ぜ……シンを騙したことでエミリアが感じた罪悪感は計り知れないだろう。
しかも、あの強力な睡眠薬は眠る前の記憶を消す。エミリアの告白を、シンが覚えることはできるはずもない。
「本当に……騙して……」
「……仕方ない。話をすれば、きっとこいつは納得しない。あからさまに手を抜く。それが、護衛というものだ」
エミリアの独り言に、エストロが律儀に答えた。その言葉は、言われた通り敬語ではない。
「ですが……護衛が弱くては、エミリア様に風評被害が出るのでは?」
「…………シン・ゼロワンが、エミリア様の護衛だと知っている人間は少ないです。そして……そもそもシン・ゼロワンは負けていない」
大勢の前でエストロと勝負をすれば、シンは必ず引き分けに持ち込む。それも、大勢が納得のいかない泥試合にしてから。
だから、エストロは騙した。睡眠薬を飲まされたと知れば、少なからず本気を出すだろうから。
「本気は見せないって事ですか?」
「ああ。それが、主人のためだと思っているのだろうよ。主人のためなら、自分がどれ程疑われようが傷付こうが、シン・ゼロワンは気にしない」
「そんな…………っ」
「怒るなよ、エミリア。それは、こいつのプライドを踏みにじることになる。ちっぽけに見えるかも知れないが、私たちには必要なんだ……」
酒杯に僅かに残った液を、寂しげな表情で舐めるエストロ。
しかし、そんなことを言われても、護衛でないエミリアには分からない。
シンが自分を守ってくれる。それはエミリアにとって当然だった。小さい頃からの、習慣だからだ。
そしてまた、ずっとそうなのだとも、エミリアは勝手に思っていた。
シンを心配してはいても、シンなら絶対何があっても大丈夫だと思っていた。
シンが、護衛という職務に関してどう思っているかは……エミリアは気にしたことがない。
エミリアを守ると言う時、彼は少し過剰に物を言う。でも、それは照れ隠しでもなんでもなく、シンの本心。
その事実に、シンの頭を撫でる手が止まる。
「無理もありません。私も、エストロから聞いた時は愕然としましたから。傷付くのを心配してはいましたが、自ら傷付こうとしているとは」
机を周り、アイリスがエミリアの横に座って、その手を握る。
同じ、護衛の心を知ってしまった主人同士だ。
アイリスは、エミリアならば乗り越えられると信じている。生徒会長としての彼女の目をもってすれば、エミリアの芯が強いことくらいすぐに気付く。
「シンも……傷付こうとしているんですか?」
「……さあ。それは、こいつにしか分からない。だが……必要であれば躊躇しないだろう。しかも、傷付いたことは決して気付かせない」
躊躇しない。
気付かせない。
エミリアは、今まで気付かない間にシンを傷付けていたという可能性に思い至る。
心に浮かぶ怒りにも悲しみにも取れる感情は、どうしようもない無力感だ。
「俯くなよ? 瞳はその人間を表すものだ、瞳が陰れば、心も陰る。悪い考えしか浮かばなくなる。だから、顔を上げろ」
「エストロ……」
「止めないでくださいアイリス様。護衛として……ここは譲れません。これでは……あまりにシンが報われない」
エミリアが顔を上げた時、エストロは静かに怒っていた。
エミリアも初めて見る……いや、これは。
シンが昔見せるあの怖い表情と似ている、エミリアの脳裏に浮かぶのは、自分が誘拐されそうになった時、シンが見せた感情を感じない表情だ。
次の瞬間、シンがいつも通りの笑顔を浮かべた事は、今もエミリアの記憶に色濃く残っている。
「…………守ってくれなければ良かった。なんで守られているんだ。自分なんか…………」
「!?」
それは、エミリアが思ったことのある感情だ。
「後悔されることは、私たちにとって侮辱だ。自分の力を……信じてもらってないんだからな」
「っ…………」
「だが、私が言いたいのはそこじゃない。愛する者を心配するのは当たり前だ。
エストロが、身体中から覇気を出した。
それは、愛する者と言われた照れ臭さすらも忘れさせる、怒気の篭った覇気だった。
「一番私が怒っているのは、自分を卑下するその心だ。調べたぞ、グラム、シオン、レイ……」
「ぁ……ぃゃ…………」
何が言いたいかくらい、エミリアには簡単に予想がついた。
だって、その三人は…………。
「受け入れなければ、シンに嫌われる。だからだろう? エミリア、お前は何も反対しなかった」
「……………………」
そんな事はないと、エミリアは咄嗟に反論しようした。
紫苑も、グラムも、レイも、みんな良い人だとエミリアは思っている。
それに、みんな可愛い。シンがみんなを好きになっても、おかしくない。
シンが一番尊敬しているという師匠、彼女にレイが瓜二つなのは、エミリアも聞いている。
だが……反対したかったのは、そして反対しなかったのも、どちらも真実だ。
反論の声は、声にならなかった。
「いいか? 主人が護衛に遠慮するなど言語道断! ましてや、自分を卑下し、あまつさえ護衛に自分が見合わないと考える!」
「エストロ!」
「いいかエミリア・ハンゲル!」
アイリスが怒気の篭った声を発したが、エストロは止まらなかった。
「それが何より我々護衛にとって屈辱的なことか! いいか、私たちは誰よりも自分の主人を尊敬し、愛しているんだ!
だからこそ!
行先が死地だろうと臆さず行ける!
主人のために、その命を削れる!
どんなに苦しくとも笑顔になれる!」
「「……………………」」
二人の主人は、それに圧倒された。
エストロは、ともすれば泣いているようにも見える。
だが、彼女は続ける。それは既に、エミリアのためでも、シンのためでも、誰のためでもない。
自分の中から溢れる激情を、外に放出せずにはいられないのだ。
「──いいか! 私たち護衛が、どれだけ自分の主人を誇りに思っていることか……!
その気持ちを!
誰でもなく、主人が、裏切るのか!」
気付けば、エミリアは泣いていた。頰を、涙の滴が伝う。
愕然としたのだ。シンを傷付けているのが自分自身だと、そんなことを知ってしまえば、もう立ち直れない。
これまでシンにかけてきた迷惑の数々が、頭に浮かぶ。
自分は、身を引いた方がいい。そんな感情が浮かんでしまう。だが同時に、その感情こそがシンを傷付けているのだとも理解している。
八方塞がりだ。これまで目を背けて逃げてきたものを、直視しなければいけない。
「…………うっ……あっ……うぅ……」
エミリアの心は、既にボロボロだった。
自分が一体何者なのかすら、分からなくなる。
自分が、今まで通りシンといて良いのか、それともいてはいけないのか、答えなど分かるはずもない。
エミリアは、自分で自分を罰していた。
シンの側にいて良いと認めれば、この悪循環から抜け出せることは理解している。でも、それができない。
エミリアの瞳から大粒の涙が溢れた。
「…………っ」
泣くのは駄目だ。自分に泣く権利はない。
考えれば考えるほど、エミリアは自分を卑下してしまう。
涙を拭おうとした手も、重い。
「……………………え?」
いや、これは違う。
エミリアの感じた重みは、罪の重みなんかではなかった。
エミリアは、ポカンとした声を上げる。
それは、自分の身体が誰かに強く引き寄せられたからだ。
強く、強く、強く、抱き締められる。
エミリアの背中に腕を回し、彼女に寄り添う人物の正体なんて、一人しかいない。
複雑な感情がエミリアの目から溢れ、彼のシャツを濡らす。
頼ってはいけない、そう分かってはいても、気付けばエミリアは、彼の腰に腕を回して泣きじゃくっていた。なんで泣いているのか、自分でも分かっていない。
だがそんなエミリアを、彼は責めることも慰めることもなく、ただ頭を撫で続けて、エミリアが落ち着くのを待つ。
「……………………ありがとう」
名前を言うことは、できなかった。
言えばきっとまた、泣いてしまう。
だが彼は、全て分かっているとでも言うように、エミリアの額に軽いキスをした。
なんてことはない。
「──あまり、俺の彼女を虐めないでくれます?」
主人を侮辱され、護衛が憤る。
これは、そんな簡単なお話だ。
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