五話:時と場所を選びましょう
「はあああぁぁぁ…………」
特別生徒寮の中央階段を登り、俺とエミリアの部屋がある三階に来た。俺達の部屋は、上がって左奥。そして対面はレイ先輩の部屋。
階段を登ってすぐ、誰もいない廊下に溜息が響いた。
誰だよ、そんな不幸せそうな溜息は。入社して仕事をこなし続けていたら、気付けば若さを羨むようになっていた中年手前かよ。
いや、俺は別にブラック企業に就職して死んで転生した訳じゃないから、会社員の実態なんて知らないけどさ。てか、犯人俺だけど。
そうそう、転生と言えば、結局やはり俺は転生ではなかった。何故分かったかというと、鏡に映る自分の姿が見覚えのあり過ぎる顔だったからだ。
日本で言えば、可もなく不可もなくと言ったところか。
少し目元がキツイとは言われることもあるが、それを除けばむしろ良い方だとも言われる。まあ、除けないから、結局美形とは少し違うけど。
『本当に、その人殺してそうな腐った目だけがもっと性格のように優しくなればねぇ……』とは、親友(女子)の言葉である。
……あれ? 今思えば、言外にお前は恋愛対象に入らないって言われてね? 褒め言葉として受け取っていたけど……アレェ?
……まあ、それは良い。いや、俺的には結構大事なことだったりするんだけどさ。とにかくそれは置いておこう。精神衛生のためにも。
んで、俺がこの世界の美的感覚的にどうなのかと言えば……はっきり言ってあまり評価は変わらない。争いがありふれた世界だから、目付きに関しては何も言われなくなったがな。
日本と異世界の美的感覚は、当たり前かも知れないが少しだけ違う。それでも光の勇者様とかが来たら、そいつはどっちにしろイケメン。それと同じだ。俺は騒がれるほどの美形じゃない。
「あ。でも勇者とか来ると、エミリアは王女だしやっぱり添い遂げるのかねぇ……」
隣でエミリアがギョッとした顔をした。
てか、元々なんの話だ? ……ああ、そうだ。転移の話だったな。
そう、転移なんだが、実は俺は師匠に会う前のことはあまり覚えていない。記憶が段々と薄くなって来ていて、正直俺を売った村の名前も分からない状態だ。
記憶を失う原因に心当たりなどないし、はっきり言って師匠との邂逅以前は、要らないと言っても過言ではない思い出ばっかしだ。
外を歩く度に、お喋りしていたおばさん達が家の中に入って行く辛さ。知ってる? 石って思った以上に結構痛いんだよ? いや本当に。
ま、まあ。俺が覚えているのが辛い思い出だけなのも、きっと記憶が段々と薄くなっているせいだな。
誰かに優しくして貰ったことも、きっとある筈なんだ、絶対。……多分、いや恐らく。こうしている間にも記憶がなくなっていくから確信は持てないけど。
と、そんなことを考えていたら、クイクイっと服が引っ張られた。
見ると、エミリアが不思議そうな顔をしている。
「添い遂げる?」
「え、ああ…………エミリアと結婚する奴は幸せだなぁって」
「もうっ……私達は婚約者だよ? 私はもうシンのものなのに……」
「…………」
途端にエミリアが不機嫌そうな顔になる。頬を膨らませ、眉を寄せてムッとした表情だ。
まあ、婚約者が婚約のこと自体忘れていたらそうなるか。いや、俺は全く認めていないし、何か正当な理由ができれば断るつもりでいるけど。
「…………」
エミリアが、無言でググっと身体を寄せてきた。
俺との身長差のせいで、身体を俺に寄せているエミリアは上目遣いにならざるをえない。
俺が少し屈めばキスしてしまいそうな至近距離で、上目遣いのエミリアに無言の圧力を受けるのは色々とまずいものがある。
何か、身体の奥でモヤモヤしたものが生まれてくるのが分かった。
「申し訳ございませんお嬢様ぁ!」
「ちょっ、シン!?」
土下座、ではない。
パッとエミリアから離れた俺は、顔を隠す意味も込めて、キッチリ九十度の角度で頭を下げる。
見よ、王宮で培ったお辞儀を。
……少し過剰だが、誠意を表すのには最適だ。ふざけているように思えるかも知れないが、百パーセント本気である。
それはエミリアも分かっているのか、
「あ、頭を上げて? その……気にしてはいるけど、そこまで謝られても……」
オロオロしたエミリアに言われて、俺は黙ったまま頭を上げる。
エミリアは、その間も何やらブツブツ言っていた。
「エミリア……?」
「でも、婚約を忘れるってことはシンは全く何も感じていないってこと……? け、けけけ結婚なのに?」
「あのぉ……エミリア?」
「シンの意見を聞かず勝手に決めたのは悪かったし、私も少し浮かれてたけど……一度も話題に挙げないでしかも忘れてるなんて……うん、やっぱりシンは謝るべきだと思うの」
「エミリア!?」
先程とは言っていることの違うエミリアに、流石に俺も驚きの声を上げざるをえない。
というか、俺はさっきから名前しか呼んでないな。エミリア、エミリア言ってるだけだ。エミリアの信奉者みたいだ。
こちらを見るエミリアの顔は、これも仕方がないと言いたげだ。不機嫌というよりも、明確に怒っていらっしゃる。怒髪天を衝く程ではないが、少なくとも謝って許してもらえる程度でもない。
ここまで怒るエミリアを見るのは久しぶり、いや初めてかも知れない。
無言でこちらをジッと見る分、怒鳴り散らされるより居心地が悪い。まあ、エミリアが怒鳴るなんて想像も出来ないけど。
だから、俺はどうするべきか分からず……
「言い訳したい訳じゃないけど、忘れていた訳ではないんだ。ただ、師匠が生きていたことに驚いたり、そもそも、王女が護衛とする婚約が冗談にしか感じられなくて……」
「…………」
エミリアは、無言のまま。
ただ、益々不機嫌になっていることは分かった。段々と表情が険しくなっていく。
「だって、ただの平民で運良く護衛の仕事に就けただけの俺が、王女であるエミリアの隣に立てる訳がないだろ? 王様に婚約のことを言われても、嬉しい以前に構えてしまうというか……」
「……嬉しい……?」
エミリアの表情が、少し柔らかくなった。
かと思えば、顔を下に向けてしまう。耳まで赤くなって、俯いたまま微かに震えている。
柔らかくなったのは気のせいで、どうやら怒りを我慢しているみたいだ。
「エミリアが政略結婚をしたくないことは知ってる。でも、それで俺を替え玉にするのは、なんか違うと思うんだよ。俺は、エミリアには、エミリアの好きな人と幸せになってもらいたいんだ」
「そ、それならっ……! それ、なら…………」
勢い良く顔を上げたエミリアだったが、俺の顔を見た途端、先程の勢いが嘘のように言葉尻が窄んでいく。
悔しそうに下唇を噛み、その瞳にジワっと涙が浮かんだ。
「エ、エミリア!? どうした!? どこか痛いのか!?」
「ち、違うの……これは……自分が嫌で……。大事な所で…………悔しくて……」
エミリアは、辛そうにそう言った。溢れそうになる涙を拭こうとしないのは、自分への戒めのためなのか。
そのまま、顔を隠すため、俺に背を向けようと……
「ぁ…………」
エミリアが微かに驚きの声を上げる。
だが……
「あ、いや、その、これは……っ」
俺だって驚いている。でも、考える前に体が動いていたんだ。
俺は、背を向けようとするエミリアの腕を掴むとこちらに向かせ、気付いた時にはその華奢な身体を、自分の腕の中に強く抱き締めていた。
(何やってるんだ、俺はぁぁぁぁ!)
内心では、勿論大絶叫である。
だが、心と身体。本能も身体もそして感情も、突然の奇行に突っ込む理性とは反対の意見のようで、止めようとしても止まらない。
「……シン…………?」
エミリアも、「変態」とか叫ぶ前に、頭が状況が理解できないようで、呆然と俺の名前を呼んだ。
そして…………その声を聴くともう駄目だった。
俺は、既に強く抱き締めているエミリアを、さらに自分の身に引き寄せる。
そうすると、エミリアの顔が丁度こちらの首元に来るくらいになって。
「シン……?」
ポカンとした表情で俺をかつてない至近距離から見上げるエミリアは、既に涙も引っ込んでしまったみたいだった。
そうだ。別に泣く必要なんてない。わざわざ、自分への戒めのために涙を流す必要は、少なくとも今はゼロだ。
俺が少し顔を寄せると、俺の口元がエミリアの耳に行ってしまう。
「エミリア」
俺が耳元で名前を呼ぶと、俺の腕の中でピクッと一瞬動き、エミリアが緊張で固まったのが分かる。
既に俺の理性は本能を抑えることを諦めたようで、『ここからどうするのかなぁ、ドキドキ』とわざとらしく言っている。
役に立たない理性くんだ。
「シ、シン……!」
「…………!」
うおっ、なんだ! と、レイ先輩との試験後に抱きつかれた時は思ったが、今回だけは落ち着いていることができた。
緊張で身を固くしていたエミリアは、言葉だけは勢い良く、しかし恐る恐る俺の背中に腕を回して来た。
本当にやっていいのかな? 変に思われないかな? そうエミリアが考えていることが容易に分かる。
「エミリア……」
「シ、シンッ……」
小さく名前を呼ぶと、エミリアは何かを受け入れるかのようにギュッと目を瞑り、
「…………シン?」
俺が何もしてこないことを不思議に思ったのか、エミリアが恐る恐る片目を少しだけ開ける。
……いや、流石にそんなことできる訳ねえだろ。
いくらなんでも、そこまですれば後には戻れなくなる。そうなれば、きっとエミリアは後悔する。
俺にここまで身を預けてくれるのは素直に嬉しいが、一時の気の迷いを本気にとってはいけない。
俺はどうしたもんかと目線を逸らし…………小さな少女と目が合った。
「……今の所、三階に住んでいるのは私達だけとは言え……少し、周りのことを気にしてください……」
────ガチャリ。
自分の部屋から出て来たのか。顔を真っ赤にした師匠が、チラチラとこちらを見ていたのだ。
師匠……レイ先輩の部屋は俺達の向かい。部屋の前で抱き合っていれば、出て来たレイ先輩に見つかるのは当たり前だ。
「「…………」」
離れたのはどちらからだったのか。
一瞬で離れた俺たちは黙って顔を見合わせ、息ピッタリで部屋に逃げ込んだのだった。