三話:匂いがしたらしい
ベルフェとの特訓は数時間に及び、気が付けば朝になってしまっていた。
本音を言えばもっと鍛錬を続けたかったが、俺は屋敷に戻ってきていた。エミリアたちが心配するし、引きこもりのベルフェの体力も限界そうだったし。
「おかえりー」
「あ、ただいまなのですシン!」
「二人とも逆だよ」
「「あ」」
玄関の扉を開けると、二人でチェスをしていた雪風と咲耶が挨拶を返してくれた。まぁ、俺と雪風は間違えていたんだけど……。
「んー? まーた朝から鍛錬してたのかよ……。風呂沸かしておいたからさっさと汗を流してこい。ちなみに下な。上はグラムとマリンが使ってるから」
エプロンで手を拭きながら、メアが吹き抜けになっているホールに入ってきた。あっちの扉からだと、台所にいたのか。エミリアの手伝いをしてたんだな。
「了解。ありがとなメア」
「っ……別に、偶々だよ。偶々」
「何が偶々ですか? 既に朝の習慣に組み込んでいるのに」
「なっ! 別にそれはシンのためとかじゃなくて……!」
「でもボク見てたけど一際念入りに温度調節とかしてるよね」
「してるのです」
「い、いやそれはっ……! ああもう! エミリア! シン帰ってきたぞ!」
逃げた。
メアを追い詰めたレイ先輩が、二階から溜息を吐きながら階段を降りてきて、鍵の掛けられた壁から一つ鍵を取るとメアの後を追った。
「この部屋に来たのは、これを取りに来たからですかね……。忘れ物ですよ、メア」
「あはは……。……っ!」
朝から忙しい。
靴を脱ぎ、俺もみんなの元へ行こうとした瞬間、腹に小さな衝撃を感じた。
「またお前か、ティー……」
「お帰りなさい、シン。ずっと待ってた」
「あながち嘘じゃないから怖いんだよな……。てかそうじゃなくて、それやめろって言っただろう?」
「…………?」
物陰に隠れていたのか、気付けばティーが抱き着いてきていた。この速度、流石は雪風の片割れだ。
叱ってはいるが、俺は別にティーが嫌いだとかそういうことはないし、むしろ二人きりならこういうことも全然構わない。
だがな……
「「…………」」
二人はこっちを見ないでチェス版を見ているのに、少しも駒を動かす音がしないわけで……。
「時場所場合、TPOだ。分かったか?」
「……分かった。気を付ける。みんなのいる所ではしないようにする」
それ聞くの何回目なんでしょうかね……?
まぁ基本聞き分けは良い方だし、これくらいなら何度やろうと許してやるんだけどさ。
みんなのいないところは良いのかよ、という指摘があるかも知れないが、俺はみんながいないなら別に良いと思ってる。
俺も二人きりのときは、グラムとかマリンちゃんの猫耳触るしな。
……と、抱き着くのをやめたティーが、俺の手を取って歩き始める。
「じゃあ付いてきて、浴室はこっち」
「いや、流石に場所くらい分かるんだが」
「うん、知ってる」
「えっと……何故二人で行くことが当たり前のように?」
「? 二人で入るから?」
「何故二人で入ることが当たり前のように……。流石に駄目だ」
「……これでも?」
溜息をついて断ると、少しムッとした表情をしたティーが、服の襟元に人差し指を入れて、服を引っ張ってみせた。
薄い褐色の肌の中、色違いの部分が見えた気がしたが、慌てて目を逸らす。
その時、
「チェックメイト」
底冷えのする声で、駒を動かす音と共にチェックメイトが宣言されてしまいました。
何がチェックメイトなんですか? 俺、俺がチェックメイトなんですか? もう詰んでしまったんですか?
「駄目だ。俺の命のためにも、駄目だ」
「むぅ…………」
口を尖らせ不服の意を示すと、不満そうな表情で自分の胸を見下ろした。
胸を服の上から揉むのはやめなさい。それが理由じゃないから。
「ん」
胸を揉む内に納得できたようだ。
ティーは再びピトッと寄り添い、間近で見上げてきた。
「分かった。……気を付けて」
いや、そんな神妙そうな顔で言われても、一体何を気を付ければ……
「匂いを落とす前にグラムとかに会ったら、多分バレると思うから。気を付けて」
「…………はい」
ティーの表情は無表情だ。
だが少しだけ……いつもよりほんの少しだけ、強張っているように見えた。まるで、怒っているかのように。
次話は日曜日です




