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一話

 

「シンー! こっちこっちー!」


 地平線まで緑の続く、自然豊かな草原の上。駆け出して少しだけ遠くに行ったエミリアが、振り向いて俺の名前を呼ぶ。

 その時吹いたその風が清潔感のある白く涼しげな衣服を揺らし、エミリアは綺麗な長い銀色の髪を手で押さえる。


 俺は少しだけ歩くスピードを速くし、エミリアのもとへ向かう。

 腕を空に向けて気持ち良さそうにめいいっぱい伸ばしていたエミリアは、俺が近付くと飛び込むように抱き着いてきて、俺は驚いてそのまま後ろに倒れてしまう。


 草の匂いと一緒に、よく知るエミリアの匂いが鼻をくすぐる。


「えへへ……」


 突然抱き着かれたことに俺が目を丸くしていると、肩の辺りに顔を埋めていたエミリアが顔を上げ、照れたように笑った。

 それを見ると、どうして急に?なんて疑問は一瞬で吹き飛んだ。ただこの、目の前の存在が愛おしくて、俺もまた力強くエミリアを抱き締め返す。


「っ………」


 俺の行動を予測できていなかったのか、エミリアが驚いた表情をする。

 赤くなった顔を隠すかのように、再び俺の肩に顔を押し当てたエミリア。


「や、やったー」


 小さくそう呟いたのは、せめてもの抵抗というか、俺への小さな仕返しだろう。

 俺はその小さな頭を撫でようとして、


「?」


 しかしその撫でようとした手は空を切った。


「エミリア?」


 人一人分の重みも、触れ合うところの熱も、抱き締めていたはずの柔らかな身体もない。

 いつのまにか、消えてしまっていた。


「────っ」


 青空は消え去り、代わりに暗い天井が目に飛び込んできた。俺の部屋の、天井だ。

 王都から見て北東側に位置し、かつて俺が師匠と共に暮らした場所に建つ一つの屋敷。俺たちの家の、俺の部屋の天井だ。


「夢、か……」


 ベッドから降りて窓に寄りカーテンを開けると、空はまだ朝とは程遠い暗さだった。

 窓を開けると、冷たい冬の冷気が入ってきて、いつもなら痛くて煩わしいそれも今はむしろありがたかった。今もう一度寝れば、あの夢の続きを見る羽目になるかもしれないから。


 昨日寝た時間からまだそれ程時間は経っていないが、もう一度眠りにつこうとは全く思わなかった。


「行くか……」


 折角早く起きたのなら。

 俺は急いで着替えて、窓から飛び降りる。


 寝起きだとか、そんなものは関係ない。長時間横になっていたせいで少しだけ強張っている筋肉を無理矢理動かし、俺は湖に向かう。


「スゥーーッ」


 暗い森の向こうにぼんやりと湖が見えてきた。俺は胸いっぱいに空気を吸い込み……


 ──バッシャーンッ!


 大きな水飛沫が生まれた。


「…………」


 真冬の湖。氷よりも冷たい水が身体を急激に冷やし、俺の身体が生きるために稼働を始める。

 この一瞬で、眠気は完全に消えた。今の敵は眠気ではなく、この水温だ。


 このままでは死んでしまう。が、簡単に湖から出ては面白くない。

 俺は〈ストレージ〉から手錠と足枷を取り出し、素早く自分の手と足に装着する。これで身動きはほとんど取れなくなった。何もしなければ、金属の重みで沈んでいって窒息死してしまう。


『水龍』


 それなら、何かすれば良い。

 俺が生み出したのは、魔狼の大群と戦った時に使ったのと同じ、水の龍を生み出す魔法。本来このような使い方をするものではないが、そんなことは術者が決めることだろう。

 生み出された水龍は俺を飲み込み、俺が指示する通り、水面を割ってさらに空高く登って行く。


 俺はそこで、水龍の制御を手放した。最後に、水龍に二つの指示をしてから。


「普通じゃないんだろうな、こういうの」


 一つは、俺を空中に放り出すこと。 

 そしてもう一つは……


「飛翔!」


 俺はこちらを噛み殺そうとしてきた水龍を咄嗟のところで回避し、風の刃で水龍の首を落とす。

 しかし場所は水が豊富にある湖の上、水龍はすぐに頭を再生し、再び俺を飲み込もうとしてくる。


「よしっ、うまくいってる……!」


 ()()()()

 その指示を、水龍は忠実に守ってくれている。


 湖にて、手枷足枷のある状態で水龍と戦う。普通なら絶対にしないことだ。

 

(でも、まだ足りない……)


 ……あの時、エミリアの心臓を何かが貫いた。

 何かが貫いた……そう、何が貫いたのか、俺は分かっていない。俺が見たものは、力なくこちらに倒れ込んでくるエミリアと、あの悪魔の表情だ。


 それから先は覚えていなくて、気が付いたら俺は世界図書館の医務室でベッドに横になっていた。

 隣のベッドには、エミリアが寝ていた。それを見た俺はすぐに、身体に穴があるかを確認するためエミリアのパジャマを脱がしてしまって……目を覚ましたエミリアに滅茶苦茶怒られたのだ。今でも鮮明に思い出せる。


 そう、エミリアは死んでいなかった。咲耶によれば、宝具が身体の中にある以上エミリアが殺されることはないはず、だとか。

 つまりエミリアは、奇跡的に生きていたのでも、誰かが蘇生したわけでもなく、あの悪魔の手によって生かされたのだ。


 ──俺はエミリアを守れなかった。


 その事実は、エミリアが生きていようが変わらない。

 

 あの悪魔、気が付いた時には背後にいて、そして気が付いた時には攻撃を終えていた。雪風のような超スピードとは全く違う。俺の全く知らない力だ。

 あの時、あの空間はあの悪魔のものだった。場の流れとか空気感、戦いの主導権とか、そういうものじゃない。文字通り、あの悪魔のものだったのだ。


 湖という舞台で、水龍と戦う。これならあの時の状況を少しでも再現できるかと思ったが……


「はぁっ!」

  

 真後ろから俺を飲み込もうとした水龍に、俺の代わりに特大の火球を飲み込ませた。水龍は一瞬で蒸発し、消えてしまう。

 消滅を確認した俺は手枷と足枷の鎖を風魔法で断ち、ゆっくり地面に着地した。


「駄目だ……これじゃ弱すぎる」


 確かに、水龍の攻撃は全方向から飛んできた。でも、何かが違うのだ。あの悪魔の攻撃は、もっと理不尽で有り得ない角度から飛んでくる……いや、生み出されるのだ。

 

 この感じじゃ、たとえ水龍があと何十体同時に襲って来ようがあまり効果はないだろう。

 もっと、意識と意識の隙間を突いてくるような、気配を完全に悟らせないような相手が……


「あの…………シン、さん?」

「っ!?」


 突然肩を叩かれ、俺は思わず全方向に魔力の衝撃波を放ってしまった。


「ひゃうぅっ! ご、ごめんなさい…………」

「ベルフェ!? ど、どうしてここに……というか、ベルフェ、で良いのか?」


 俺の肩を叩いたのは、ベルフェだった。衝撃波にびっくりして、その場でしゃがみ込んでいる。泣きそうになっているが、衝撃波の影響を受けた様子は全くない。


「お、お久しぶり……です、シンさん……。あの、その……驚かせようとした、とかじゃなくて……」

「い、いや俺こそごめん。……お久しぶりってことは、ベルフェはあの時のことを覚えているのか?」


 ベルフェと会うのは、実はかなり久しぶりだ。というのも、【調停管理】がいなくなって元の状態に戻ったベルフェはいつも部屋に引き篭もっていて……というか俺に会おうとしてくれなかったのだ。

 エミリアたちは会って話ができたというから、男というのが、ベルフェにとってやはり大きな心配事だったのだろう。


「は、はい……。覚えて、ます……。よく、して……くれたことも」

「そ、そうか……。なんか少し恥ずかしいな……」


 俺はこの状態のベルフェをほとんど知らないが、向こうは俺を知っているのだ。だからなのか、少し緊張する。

 でも、それだけじゃない。


「そっか……ベルフェはそんな感じなんだな」

「へっ? あ、こ、これ、は……っ!!」


 俺の知るベルフェは、面倒臭がりで、身嗜みに一切興味を持たない女性だった(それでも素材が良すぎて普通に美人だったが)。

 しかし今のベルフェは、違う。


 ボサボサだった髪はきちんと整えられており、目やにがついていたりすることもない。服もジャージではなくパジャマだった。

 ……いや、外でパジャマはやはり少しおかしいのだが……まぁ夜だし仕方ないか。


「あ、あまり……見ないで、ください……」


 か細い、今にも消えてしまいそうな声でベルフェがそう懇願する。

 その声で、俺はハッと我に帰った。

 

「…………?」

 

 目の前に、ベルフェのお尻がある。

 これはどういうことだろう。


 …………どうやら俺は、無意識のうちにじっくりベルフェの身体を鑑賞し始めていたらしい。ただでさえ男が苦手なのに、近距離からジロジロ見られるのだ。その恐怖といったら、とんでもないものだろう。

 だから俺は、


「ごめんなさい!!」


 迷うことなく土下座をした。このままベルフェを見ていたらまた見惚れてしまうような気がしたのも、勿論理由としてはある。しかし謝罪の気持ちは嘘じゃない。

 その気持ちが通じたのか、


「だ、大丈夫……です、よ……?」


 ベルフェは許してくれた。

 ありがたい! 俺は顔を上げ、もう一度謝罪の気持ちを伝えようとして……俺からしっかり二十メートルほど離れた場所からこちらを見るベルフェと目が合った。


 やけに声が遠く聞こえるなと思ったら、いつのまにそんな遠くに……!!


「…………?」


 俺がポカンとしているのを見て、ベルフェが首を傾げた。可愛い。……じゃなくて!


 全然、動いていたことに気が付かなかった……。二十メートルも離れるのなら、少しくらい音が出てもおかしくないのに……それもない。

 それにさっき、俺の肩に手を置いた時、俺は完全に背後を取られていたよな……? 氷の短剣で刺されていたら、今頃死んでいた。


「…………」

「シン、さん……?」


 と、その時、俺の頭にある考えが浮かんだ。 

 きっとこれは、今言うべきことじゃないのだろう。でも、今このチャンスを逃すわけには行かない、そう思えた。


「ベルフェ!」

「は、はい!」

「俺を強くしてください!」


 こんな短時間に二回も土下座をしたのは、もしかしたら初めてかも知れない。


次話は明日……に投稿したいです(願望)

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