四十一話:ティー
「ぅ……っ、ぇぅっ……、……っ」
小さな雪風は、泣いていた。
そこは雪風の内側、精神世界のような所。辺り一面真っ白で、地平線も見えない。
「シン……」
幼い雪風が、か細い声でその名を呼んだ。
その時、
「…………ッ!!」
──ピシッという音がして、世界に、小さな亀裂が走った。
空間に生まれた亀裂は、雪風の目の前で徐々に広がって行く。
雪風は立ち上がり、その亀裂に触ろうと歩き始める。
しかし、触ることはできなかった。
雪風が歩き始めた途端亀裂が一気に広がり、ガラスが割れるようにして世界に穴が開いたのだ。
「……ひっ……!」
ドサッ! と、人が穴から飛び出してきて、雪風の前に落ちた。
それは、人間だった。血だらけ傷だらけで倒れ伏し、少しも動かない人間だった。
否──白い地面を真っ赤に染め上げて行くそれは、人間だったものだ。
「っ……」
雪風がこれまで何度も見てきた、命の空箱。
これも、それと同じ既に絶命した人間だ……。
しかしすぐに、雪風はその評価を改めることになる。
なぜなら、突然、倒れ伏した人間の身体から黒い霧のようなものが噴出し、失われた部分を補うかのように一つ一つの傷に集まって行ったのだ。
そしてついに、その人物の身体から傷が消え去った。欠損していた部分も、欠けていたことが見間違いだったかのように元通りになっている。
血で赤く染まっていた衣服は、どうやら青色だったらしい。
そうしてようやく、倒れていた人物の容貌が見て取れるようになる。
「シン……っ!」
雪風は驚愕に……、そしてそれ以上の喜びに染まった声を発した。
普通は誰にも入ることはできないはずの、雪風の精神世界。そこに飛び込んできたのは、シン・ゼロワンだった。
シンは仰向けになると長く息を吐いて、笑いながら言った。
「やっぱり、殺されなかったか……!」
♦︎♦︎♦︎
「シンっ……シンっ……!」
泣きながら飛び付きしがみ付く雪風を抱き締めてやり、シンはその頭を優しく撫でた。
シンは、自分が医務室で眠っていた時、夢の中で出会った美しい女性の言葉を思い出す。
『あの子には、二つの面があるの。一つは貴方たちの言う雪風。そしてもう一つが、幼い頃に親と別れたことによって成長を止めたティー』
「成長を止めた?」
『感情をそのまま行動に移してしまう、という意味で成長できていないの。嫌なことをされた時でも、ある程度成長していれば我慢できるでしょ?』
「ティーは、それが我慢できない……」
『ええ、あの子の場合は原因を排除しようとするの。それが、暴走を引き起こしているのよ』
「…………」
『ティーがこれまでで一番嫌がった時のことを思い出してみて。あの子が初めて貴方の前で暴走した時のことよ』
「初めて……。まさか俺がアルディアに殺された時……っ! あいつの能力のせいで契約が消滅した時じゃ……っ!」
『貴方と離れ離れになることを嫌がったティーは、暴走してしまった。それ以降、常に貴方と離れることを恐れて、ティーは貴方の側にいようとしたのよ』
「それで子供の姿に?」
『ええ……基本は眠っていたティーが起きていたから、あの子の身体は子供になっていたの』
「……じゃあティーは雪風の狂暴な部分なんかじゃなくて……」
『ええ。不安定な状態じゃない限り、ティーが貴方たちを傷付けることはないわ。何故なら、雪風もティーも、貴方が、貴方たちが大好きだから』
『今あの子は、泣いているわ。貴方たちを傷付けてしまうことが怖くて、泣いている。そして取り返しのつかないことになる前に、消えようとしているわ』
シンが別世界から来た雪風を見ても驚かなかったのも、ここである程度話を聞いていたからだ。
(やっぱり、雪風は……ティーは俺を殺さない。だってそうじゃなきゃ、俺がここに辿り着けるわけがない)
あの女性の言っていたことは、本当だったのだ。
「……シン、ありがとう……」
落ち着いて来た頃、不意に雪風がお礼を言った。
「あの時、雪風を助けてくれて……。私に会いに来てくれて……、もう思い残すこと……何もないや」
そう言って微笑むティーは、本当にそう思っているようだった。
「……ちゃんと二人きりで会うのは、初めてだな」
「うん……初めて。シン、大きい。……それに、この匂い、好き……」
「そうか? 血と汗で酷いことになってると思うんだけど」
「ううん、綺麗。ずっと嗅いでたい」
ティーの言いように、シンは苦笑して頬を掻いた。
しかしすぐ真剣な顔になって、ティーにあることを聞く。
「ティー、俺と離れるのは嫌か?」
「…………」
その質問を聞いて、ティーが悲しそうな顔になった。
何かを言おうと口を開き、しかしすぐに頭を小さく横に振ってそれを誤魔化した。
そして……
「嫌じゃ……ない」
泣きそうな声で、そう言った。
「今すぐ、離れたい。もう……会いたくない。シンなんか……シン、なんかっ……」
どんなに頑張っても、最後の言葉だけが出てこない。
シンのローブをギュッと掴み、目に涙を溜めて、頑張って最後の言葉を言おうとするが、それでも"大嫌い"の一言が言えない。
「そうか、なら……」
「────?」
次の瞬間ティーは、何も言えなくなってしまった。
理由は単純。
シンがティーの耳下辺りに手を当てて──
「っ!!」
ティーの唇にちゅっ、と口づけたからだ。
その瞬間、ティーの身体の中に何か熱いものが流れ込んできた。
「んっ……あむっ……ちゅるっ、んちゅ……」
その熱いものを求めて、ティーは気が付けば息をすることも忘れてしまっていた。
「ぷはっ……」
呼吸のために仕方なく離れた二人の間に、ぬらぬら糸が引く。
「シン……」
「援護してくれ、ティー。一緒に戦おうぜ」
「っ……うん!」
次話は木曜日です




