三十二話:嫌な予感
沈むまいと耐えていた太陽も地平線の向こうに消えた頃、キラの心はひどくざわついていた。
──なんだか嫌な予感がするのじゃ。
ジッと本を読むような気にはなれず、キラは散歩でもしようとかと思い外に出た。
空を見上げると、闇色の空に見事な月が一つ浮かんでいた。気のせいだろうか、少し赤みがかっているように見える。
「いかんいかん……。すぐ悪い方向へ……む?」
月から目を背けたキラは、ベンチに座る人影を見つけた。
その人も、キラと同じく月を見上げて何かを否定するように頭を横に降っていた。
「お主も妾と同じか、雪風」
「……キラ」
ベンチの隣に腰掛け話しかけると、その相手──雪風は小さな声でポツリと名前を呼んだ。
眉は不安そうに垂れ、唇も乾いている。
雪風の手を取って強く握られた拳をほどいたキラは、雪風の身体が冷え切っていることに気が付く。
どれほど長い時間、この真冬の空の下で待っていたのか。キラには想像もつかなかった。
「これでも着ておれ。何、妾は龍じゃ。こんな寒さ、気合で吹き飛ばしてくれよう」
「ありがとう、なのです……」
自分の着ていた上着を脱いで雪風に渡してやりながら、キラはもしかしたら……と、ある考えに至っていた。
こうして自分と雪風の二人が、なんだが胸騒ぎを感じ、いてもたってもいられず、外に出て誰かを待っている。
誰か、というのが誰なのか、それは言うまでもないだろう。
「シンの身に、何かあったな」
「っ………」
雪風の掴む上着の打ち合わせに皺が生まれたが、雪風は何も言わずに自分の足の爪先を見ている。
しかし話を嫌がる様子はなかったので、キラは言葉を続けた。
「あやつと繋がっておるお主と妾が、時を同じくして胸騒ぎを覚えた。となれば、理由は一つしかあるまい?」
「……シンは、強いのです……。誰にも、負けない……」
自分に言い聞かせるように、雪風は言った。
その言葉を聞いた限りでは、単純にシンを心配していることからくる、傷付いていないで欲しいと言う願いに思える。
しかしキラは、それだけでないような気がした。そんな単純な話でなく……もっと大きな意味があるような、そんな気がした。
「……そうじゃな。妾も、あやつが倒れるとは思えんのじゃ……。あの再生能力もあるからの」
と、その時、キラは自分の背中を何か冷たい物が這いずったような、そんな気持ち悪い感覚を得た。
全身に鳥肌が立ち、呼吸がしづらくなる。
隣に座っている雪風を見ると、雪風も同様に不安そうな表情をしていた。
「「──っ!」」
次の瞬間、二人は同時に立ち上がり、走り始めた。ある方向、図書館とは反対側に向かって、一生懸命に。
心の中のざわめきは、これ以上ないほど大きくなっていた。
そして、それを見た時、誰かが声にならない悲鳴を上げた。キラなのか、雪風なのか、はたまた二人ともなのか。
「は、は……。ごめん、しくじったよ……」
「「……っ!!」」
そこには、血と泥で汚れたオメガと、ピクリとも動いていない背負われたシンがいた。
♦︎♦︎♦︎
「幸い、応急処置のおかげで命に別状はなさそうじゃな……」
シンの身体を診ていたキラが、長い長い安堵の息を吐く。
キラの言葉を聞いて、雪風の目から涙が溢れた。安心したことで張りっぱなしだった緊張の糸が緩み、ついでに涙腺まで緩んだのだ。
医務室のベッドに横たわるシンの手を握り、雪風は静かに泣く。
「……それで、一体何があったのじゃ?」
キラは隣のベッドに横たわるオメガに目を向ける。オメガはいつもの男装ではなく医務室にあった薄手の衣を身に付けているが、顔だけは今も狐の面で隠されている。
オメガも一般的な回復魔法では治らない怪我を負っていたため、こうして安静にすることになったのだ。
「何があったもないよ。……ただ、場所と相性が最悪だっただけだ」
「相性?」
「ああ……。まず、敵は最初シンに薬を飲ませようとしたんだ──」
オメガの声には、いつもの自信が感じられなかった。
しかしそれでも、オメガは一語一語はっきりと話す。
「──大きな空間では、敵が一人で待っていた。罠も探知できなかったしボクら二人なら圧勝だと思って、すぐさま攻撃を仕掛けた」
──でも、無理だったんだ。
オメガが悔しそうに語る。
「次の瞬間、ボクの隣にいたシンが消えた。そして、そのことに驚くボクもまた、気が付いたら空を飛んでいた」
「相手の力が予想以上だったということかの?」
「いや、そいつ自体の力はそんなに強くない。ボクらが見誤っていたのは、そいつらが命を気にしない奴だったってことだ」
そこで息を吸い、オメガは話を続ける。
「そいつらは悪魔と契約して配下になった人間で、お互いに魔力が繋がっていたんだ。ボクらが入り口で倒した敵は自殺をして、そいつら全員の魔力が一人に流れ込んだ」
「魔力許容量が特別多かったんじゃろうな。しかしそれだけでは強くはなるまい?」
「ああ、そうだ。でも、そいつはその魔力を全て使って身体強化をして、しかも口に何かを放り込んでいた」
シンが隣から消える直前、敵が何かを飲み込んでいたのを見たのだと、オメガは話した。
「魔狼事件の賢狼について、シンから聞いたことはないかい?」
「魔狼事件……? まさかっ……!」
「そのまさかだよ。賢狼が飲まされた薬をそいつは自ら飲み込み、限界を超えた力を得た。命を犠牲にして、そいつはボクらを超えた」
と、その時、雪風がポツリと呟いた。
「速度……」
「……そう、魔術師が最も苦手とする敵だよ。速い相手に、魔術師は滅法弱い。いくら君の動きで慣れていても、弱点なことに変わりはない。相手の身体が壊れた時には、シンはほとんど息をしていなかった」
「…………」
「丁度敵の攻撃でボクの面が外れていたからね。素顔を見られなくて良かったよ」
「…………」
戯けたようにオメガは言うが、重い空気が晴れることはなかった。
長い沈黙の後、ずっと俯いていた雪風が顔を上げて口を開いた。
「……シンには再生能力があるのです。なんで、シンがこんなになってるのです?」
「……分からない。回復魔法も効果はなかったし。他にどんな魔法をかけても、彼には意味がなかった」
「なっ……」
「そんな……それじゃあ……」
「本当だ。こうして寝ていることが、何よりの証拠だろう? …………彼を、これ以上働かせないでくれ。彼はもう、限界なんだ……。次戦えば、きっと死ぬ……!」
「「シンが……死ぬ……」」
初めて見るオメガの本気の訴えに、キラと雪風はただ想像することしかできなかった。
生き返ることなく、徐々に冷たくなっていくシンを。
「……みんなには、君たちから伝えておいてくれ。ボクは寝る。傷がまだ痛むんだ」
そう言うとオメガは仮面を外し、頭まで布団を被ってしまった。
もう構わないでくれ、という意思表示に他ならない。
「…………」
何も言わずに、雪風が粒子となって消えた。
どうやら、シンの身体の中に入ったらしい。受け止めきれず、閉じこもってしまったのだろう。
──無理もない。妾でさえ、人との別れは辛いのじゃから……。
「少なくとも今夜は、誰も入れさせぬようにせねばな……」
灯りを失い暗くなった医務室の扉を閉じながら、キラは一人呟いた。
次話は明日です




