七十話:絶望と希望
不思議なくらい、身体が動かなかった。
だけど、さっきみたいに緊張しているわけではない。力が入らないのだ。
どんなにエミリアが動こうとしても、筋肉が言うことを聞かない。
「さて、ハンゲル……エミリア・ハンゲルよ。もう逃げることはできんぞ?」
「…………」
「物を言うこともできんか。…………だが、今度は情けなどかけんぞ。また邪魔が入るのは困るからな」
ゆっくりと、ザーノスがこちらに近づいて来るのを、エミリアは見た。
その表情にあるのは、苛立ちと、そして歓喜。
得体の知れない恐怖を感じて、エミリアは声にならない悲鳴を上げる。
「ふむ、この様子だと薬は使わない方が面白そうだ。ハンゲル、貴様は処女か?」
「…………?」
「……なるほど、ならば、私が女の喜びというものを貴様に教えてやろうではないか。何、心配はするな。すぐに他の男のことは忘れて、私しか考えられぬようになる」
「…………!」
ザーノスの言っていることは半分以上分からなかったが、最後の言葉だけは、エミリアの心に深く刻まれた。
──みんな忘れてしまう。この男の人しか、考えられない。
それはつまり、父親も、兄も、そしてシンのことも忘れてしまうということだ。
特にシンは、これまで生きてきた時間の半分以上を共に過ごしていた。執務に忙しかった家族以上に、シンと一緒の時間は多かったのだ。
王族としての勉強にはシンと二人で参加していたし、それこそ昔は毎日のように二人で一緒に眠っていた。
その大切な思い出も、これから一緒にしていきたいことも、全て忘れてしまうのだ。
そんなのはもう、自分じゃない。
「ふむ、近くで見れば、ますます良い女ではないか。高貴さと幼さが複雑に絡み合っている。そしてまた、男を知らない無垢さが劣情を誘う」
「っ…………!!」
──痛い!
エミリアが、顎を掴んで乱暴に立ち上がらせるザーノスの行動に涙を浮かべるが、ザーノスはそれを謝ることなく、むしろ嗜虐的な笑みを浮かべた。
色に溺れた男の表情を間近で見たエミリアは、そこで初めて、女性としての本能的な恐怖を抱く。
(やだ……やだよ……)
頭を掴んで無理矢理立たせるこの男の目が、自分の身体を無遠慮に眺める時間。それは、ただエミリアにとって苦痛でしかなかった。
「いや…………」
「む?」
「そんなの嫌!!」
「っ!!」
エミリアの叫び声が森にこだまし、ブリザードのように、氷の礫が無差別に吹き荒れた。
慌てて手を離したザーノスが、驚きに目を見開く。だがすぐに笑みを浮かべて、
「なんだ、子供騙しではないか」
放出した魔力で、エミリアの魔法を掻き消した。
そして絶望に膝をつくエミリアに、下卑た笑みを浮かべてゆっくりと手を伸ばす。
「まぁ良い。強情な物を自分の物にすることほど、楽しいことはないからな」
「…………」
ザーノスの手が、エミリアの頬を優しく撫でた。
そしてそのまま指を這わせ細い肩を掴むと、ゆっくりとそのままエミリアを押し倒す。
男から目を背けたエミリアの視線が、キラと交わった。
キラはこちらに弱々しく手を伸ばすが、もちろん、それが届くことはない。
「さあ、私の物になるが良い」
耳元で囁かれて、理解する。
自分はもう、この男に心も身体も支配されるのだと。
精神系の魔法で洗脳されるのだろうか、それとも、全く他の方法で? 今、男が服を脱ごうとしていることに、何か関係があるのだろうか。
だが、それがなんであろうと関係ない。
多分、自分は、もうシンと言葉を交わすことはできないのだろう。当然、想いを伝えることも、シンと相思相愛になることもない。
そう、エミリアは直感で理解した。
────いやだ。
いやだいやだいやだいやだいやだいやだ。
でも、もう無理だ。
「助けて……シン……」
エミリアの目から、一粒の涙が溢れたと同時。
一発の銃声が、静寂を切り裂く。
驚き、その場から飛び退くザーノス。
だがエミリアは、それどころではなかった。
嬉しいのではなく、さらなる絶望。
「シンの……銃……!!」
その銀装の銃は、エミリアは銃に詳しくないが、シンが昔手に持って嬉しそうに眺めていたのを覚えている。
だが、今それを持っているのはシンではなかった。
「残念だが、俺は王子様とは違くてな。どっちかつうと敵。正神教徒『絶縁』、アルディアだ」
「「っ…………!!」」
燕尾服に仮面という奇妙な姿の男の手に握られている銀装の銃は、何故か、血に汚れていた。
「まさか…………!!」
最悪の予想が、キラとエミリア、二人の頭を過ぎる。
だが…………
「貞操の守りまでは契約外だぞ? これは謝礼が楽しみだなぁ?」
アルディアの足元に突然現れた魔法陣が、眩い光を放ち始め……
「…………ごめん、エミリア。それにありがとうございます、キラ先生」
次話は明後日投稿です。
明日の昼にラブコメを投稿し始める予定なので、読んでいただけると嬉しいです!




