六十九話:まずは一人目
ザーノス、それが、この正神教徒の語った名前だった。
どこかで、昔何かで聞いたことがあるような気がする名前だったが、エミリアは思い出せない。
ザーノスは必死に頭を巡らせるエミリアを見て、顎髭を撫でながら言った。
「ふむ、話すことができなくては会話もできんか」
「っ……!!」
ザーノスから放たれる威圧感がだいぶ少なくなり、エミリアは肺の中に溜まっていた空気を吐き出す。
だが、動くことはできない。足がガクガクと震えてしまい、立っていることすらやっとだ。
そんなエミリアを見て満足そうに頷いたザーノスは、ゆっくりと手をエミリアへと伸ばし……
「ッ!」
だが、何故か突然、その場で後ろに大きく跳躍した。
そして、舌打ちを一つ。エミリアは、舌打ちだけ身体を大きく震わせてしまった。
だが、辛うじて目を隣の地面に向けると、そこには
「ふん……貴様、あのザーノスか……。なんじゃ? ご自慢の美女たちには飽きたのか?」
龍の鱗に身体を包まれた、龍人化状態のキラが居た。
ザーノスがエミリアのために覇気を緩めたことで、キラの萎縮してしまった身体に動く自由が生まれたのだ。
ザーノスは、既にキラは震えることしかできないと思っていたのかも知れないが、キラは長い時を生きる龍種だ。
そう簡単に、心が折れるはずがない。
そういったことを正確に理解した上でザーノスは、動揺のない落ち着いた声で言葉を返した。
「新たな妻を迎えるのに、今までの妻に飽きる必要はないと思うが? 何、心配しなくとも、私は飽きることなくその身滅ぶまで愛を注ごうではないか」
「余計なお世話じゃ。何度言えば分かる、妾には、既に心に決めた男がおると」
「安心しろ龍種よ、私は精神系の術式にも知識があってな。何、記憶を消すことなど造作もない」
「貴様っ……!!」
寛容な笑みを浮かべるザーノスの言葉に、キラが強く奥歯を噛み締めた。
纏う赤のオーラは、色を真紅に変えていく。拳から流れた真っ赤な血すらも魔力に変換して、闘気の一部に組み込んだ。
キラは今、自身の全てを、自身の強化に利用していた。
「逃げるのじゃエミリア、そして全員を連れてすぐに王都へと戻れ。この男は王都に入ることができない、あそこにはハンゲルの迷宮があるからの。何、すぐに追いついてみせよう」
「ですが……」
「良いから走れ! そして決して振り返るでない! これは教師命令じゃ!」
「っ…………。…………っ────」
キラの勢いに負けたのか、一瞬躊躇ったものの、エミリアはキラに背を向けて走り出した。
「…………ザーノスか、よく知っておる」
エミリアが遠く離れたのを気配で確認したキラは、昔の思い出話を語るような口調で話し始めた。
「人神戦争にて愛する者を失い、敵味方関係なく殺戮の限りを尽くした男。戦争後期では色に溺れ、大魔女ノートにまで手を出そうし、ハンゲルの手によって封印された」
「ふむ……貴様、まさかあの戦争の生き残りなのか? だがしかし、龍種ともなれば私の耳に届いたはずだが……」
「妾が人側で戦ったのは、お主が引退した後じゃからな。当時、自身の遊郭に閉じこもっていた引きこもりの耳には届かんだろう」
「なるほど、では、私が知らないわけだ」
小さな皮肉を混ぜたキラの言葉にも、ザーノスは全く悪びれずに顎髭を撫でる。
「……それは惜しいことをした。これほど美しい女が、あの三人を除いて当時にまだ残っておったとはな」
「はっ、たとえ過去であろうと、妾と貴様が相入れることはありえん。
「ふふ、強気だな。実力差が分からないお前ではないだろうに。…………良いことを思い付いた」
「なんじゃと?」
何かとても嫌な予感がした。
そして、それがただの思い過ごしでなかったことを、キラはすぐに知ることとなる。
「貴様に愛を注ぐのは後だ。まずは、貴様が大事にしていた者たちから、私のものにするとしよう。大切な生徒だったか、それを無理矢理、私以外考えられない身体にする。それを見るお前の顔は、さぞ美しいのだろうなぁ?」
♦︎♦︎♦︎
「はぁ……はぁ、はぁ……」
──急がないと!
その一心で、エミリアは森の中を走った。
この時間は霧も出ないから、これまで歩いてきた道を逆に進めばアニルレイに辿り着く。
しかし何故か、アニルレイがとても遠い。
そんなに深く森に入った訳でもないのに、走っても走っても、景色が全く変わらないのだ。
「でもあとちょっとのはず……!!」
木の幹につけていた印の変化でのみ、自分がアニルレイに近づいていると知ることができた。
キラのことは心配だったが、あの小さな教師が負ける所など、エミリアには想像できなかった。
しかも最後に見た先生は、エミリアがこれまで見た中でも、おそらく一番の力を持っていた気がする。
そう、怒った時のシンよりも。
「キラ先生が倒してくれるよね」
だから、大丈夫。
徐々に主張を強める胸騒ぎから目を逸らして、エミリアは自分に言い聞かせるように一つ頷く。
と、その時、後ろから小さな何かが飛んできた。
「また魔物……?」
どうやらこの大森林には、物を投げる魔物がいるらしく、時々岩が飛んでくるのだ。
今までは倒さずに無視して進んで来たが、ちょっとくらいなら、相手しても良いかも知れない。
そう思ったエミリアは、さっき飛んできた岩に目を向ける。
「えっ……?」
そしてそれが何なのか、岩ではなかったことを理解した。
岩にしては、色が真っ赤だった。
そして何より、岩にしては、あまりに見覚えのありすぎる形だった。
「キラ……先生?」
呆然とその名を呼ぶエミリア。
その声が聞こえたのか、キラの目蓋がピクリと動く。
──まだ死んでない!
そのことに喜ぶエミリアだったが、すぐにハッと気がついた。
ここに、キラがいるとしたら。それも、こんな満身創痍の状態のキラが。
「へっ────?」
けれども何故か、警戒はできなかった。
身体が動かない。小さな衝撃が全身に響いたかと思うと、全身から力が抜け、そのまま腰が抜けたようにペタンと座り込んでしまった。
「まずは一人か。龍種よ、その場で見ているが良い」




