第二夜:壺
すっかり遅くなってしまった。終電の時間は、もうとっくに過ぎている。私に残業を押し付けた先輩は、奥さんが迎えに来たと言って、さっさと帰ってしまった。
「薄情者! せめてタクシー拾うぐらい、手伝ってくれてもいいじゃない!」
怒りに任せてヒールを鳴らし、大通りへ足を向ける。火照った身体に夜風は心地いい。汗ばんだ肌にへばり付いた髪を、歩きながら後ろに結んだ。
「ちょいと、そこのお嬢さん。覗いてみませんか」
不意にかけられた、しゃがれ声。通りの暗がりに目を向ければ、黒いフードを被った、いかにもなお婆さんが座っていた。
「そう。あなたですよ、お嬢さん」
小さなテーブルの上には、ぼんやりと光る行燈。お婆さんの手には、壺があった。
これはあれだ。いわゆる壺売りだ。人の弱みに付け込んで、幸運グッズと称して高額な壺を売り付ける。こういうのは、無視するに限る。
「ああ、勘違いしないで。これは売り物じゃありませんよ」
無視。無視だ。
「売らないって、書いてあるでしょう?」
え? 今、何て言った?
「ほら、これ。ここに書いてあるでしょう?」
おばあさんが指し示すのは、「うらない」の文字が書かれた行燈。まさか、駄洒落?
「駄洒落じゃありませんよ。二重の意味を持たせているだけです」
私は一言も喋っていないのに、まるで見透かすようにお婆さんは話す。これが、この人の客引きのやり方か。
「お嬢さん、悩みがあるでしょう。あなたの未来、覗いていきませんか?」
悩みは、ある。未来を知れるなら、知りたい。
「さあ。そこへ腰を下ろして」
「私、まだやるなんて言ってませんけど」
「料金は一回千円。でもお支払いは、占いの結果に納得出来たらでいいから」
「納得って。結果が嫌だったら、払わなくていいって言うんですか?」
「そうですよ。お嬢さんは初めてですから。私の占いの腕、信じられるか分からないでしょう? 信じられないものに、お金をかけたい人はいませんからね。納得してからでいいんです」
やるなんて言ってない。でも、悩みがあるのは事実。
「さあ、座って。手を見せて」
お婆さんの手は、温かかった。
「なるほどねぇ。お嬢さん、仕事じゃなくて人に疲れてるのね」
「どういう意味です?」
「職場の人間関係に、悩みがあるでしょう」
当たり障りのない内容。誰だってそうだろう。
「社内恋愛、してますね」
少し驚いたけど、それほど珍しくもない。
「お相手は結婚してる」
「え?」
「不倫ね」
遠くで、酔っ払いが笑い、歌う声が響く。
「どう? 当たってるでしょう?」
なぜ分かるの。
「分かりますよ。手相に出てますから」
またこの人は、私の心を読むんだ。手じゃなくて、顔に出やすいのかもしれない。
「そんな顔をしたら、皺になりますよ。別に顔で分かるわけじゃありませんから」
「本当に手相で分かったんですか?」
「ええ、そうです」
「それで、私の未来は?」
先輩は、奥さんと別れるって言ってたけど、本気なのか分からない。
「未来、覗いてみましょうか」
「お願いします」
「私が覗くんじゃないんですよ。お嬢さんが、自分で覗いてください」
お婆さんは、色の付いたガラス玉を取り出し、いくつも壺に入れ、差し出した。
「綺麗でしょう。このガラス玉がね、壺の中にありますから。何色が見えるか、言ってください」
「見えた色が、私の未来ってことですか?」
「ええ、そうです」
私の未来……私は幸せになれる?
「見えましたか?」
何これ……。
「何色ですか?」
「あの……ガラス玉って、色が付いてましたよね?」
「ええ、そうですよ。もう一度、見てみます?」
壺から取り出されたガラス玉は、赤や緑、黄色、水色……色鮮やかだ。
「色、付いてますね」
「ええ。それで、何色でした?」
「……もう一度見てもいいですか?」
「構いませんよ」
壺の中身は真っ黒で、何の色も見えなかった。
「やだ……」
「何色なんです?」
「何も色が見えないんです!」
「おや、そうですか」
なんでそんな冷静なの?
「それはつまり、黒に見えた。ということですね?」
「そうです。あの、これって、悪い未来ですか?」
救急車のサイレンが通り過ぎる。お婆さんは、壺からガラス玉を取り出した。
「悪いわけではありませんよ。ただ……」
「ただ?」
「お嬢さんが感じたのは、良くない気持ちだった。そうですね?」
「……はい」
空になった壺が、再び差し出された。
「はい。ここにどうぞ」
「は?」
「今、お嬢さんが感じた気持ちを、この壺に入れて下さい」
意味が分からない。
「お嬢さんは、未来がないと感じている。黒い色というのは、そういうことです」
「感じている?」
「お嬢さんは、未来を覗ける状態じゃないんですよ。不安な気持ちを吐き出しましょう。そうすれば、見えるものがあります」
吐き出す。不安を……。
「ここには、私とあなたしかいません。それに、壺に入れるだけです。ね?」
優しい声に押されて、壺を手にする。一度口を開いたら、止まらなかった。罪悪感、嫌悪感。でも離れたくない気持ち、嫉妬……。いつの間にか泣きながら、洗いざらい胸の内を話していた。
「……すみません。泣いてしまって」
「いいんですよ。お辛かったですね」
差し出されたティッシュで鼻をかむ。お婆さんは、また壺にガラス玉を入れた。
「さあ。今度は見えるはずですよ」
気持ちはスッキリしている。恐る恐る覗き込む。
でも、中に見えたのは、絶望と闇色。
「なんで……!」
「あらあら。まだ黒いのね。それなら、ほら。こうしてみたら?」
お婆さんは、ガラス玉を取り出し、空の壺を差し出した。
「この壺、持って帰っていいから。気持ちを全部吐き出して。それから来なさいな」
「でも、大事な商売道具じゃないですか」
「貸すだけですよ。また返してくれたらいいですから」
「でも、その間占いが出来なくなりますよ」
「そうね……それなら返すまでの分を、お嬢さんが立て替えてくれればいいですよ」
「立て替え?」
「ええ。大体一日に、十人ぐらいお客様が来るんです。私は毎日ここにいますから。明日返してもらえるなら、一万円置いていってもらえればいいです」
明日は土曜。会社は休みだ。返せるのは、月曜日。私は三万円を渡して、壺を持ち帰った。
お婆さんとは、二度と会えなかった。