第一夜:吐息に堕ちて
「明無、まだ残ってたのか」
不意にかけられた声に、仕事の手を止める。振り向くと、黒沼さんがいた。
「先輩こそ、今戻ったんですか?」
「まあな。ほら、これやるよ」
差し出されたのは、無糖と書かれた缶コーヒー。私が微糖派だって、知ってるくせに。
「私は甘い方が好きなんですが……」
「もう夜中だ。太るぞ」
「甘いのは元気が出るんですよ。先輩は、私を癒したいんじゃないんですか?」
「まだ終わらねえんだろ? 癒してどうすんだよ」
ディスプレイの明かりに照らされて、黒沼さんの顔がニィと歪んだ。
この人はいつもこうだ。人に残業を押し付けて、優しくしてきたかと思えば突き放すんだ。
引ったくるように黒い缶を受け取り、苦い液体を流し込む。怒りが冷たさに沈むと、頭が冴えてきた。再びキーボードに指を乗せ、リズミカルに音を立てる。
「なあ、明無」
終電に間に合うかどうか。一秒たりとも無駄に出来ない。それなのに、この人は。
「明無。んなに急がなくたっていいだろ?」
「先輩、手が邪魔です」
首に回された腕を振り払う時間すら惜しい。だというのに。
「まだ怒ってんのか?」
「別に甘くないぐらいで怒りませんよ」
「コーヒーの話じゃねえよ」
私は耳が弱い。それを知ってるから、この人は。
「先輩。もう少し離れてください」
「冷てえな。いいだろ、少しぐらい」
「何言ってるんですか。奥さんに怒られますよ?」
魔法の言葉で、耳に感じた熱も首にかかってた圧も消える。ペラペラと喋ってたくせに、黙り込むのか。
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ようやく仕事が終わった。データを保存しようと、クリックする。
カチリ
瞬間、視界が回り、椅子ごと床に倒れこんだ。
「……っ! 何する……!」
言いかけた言葉は、唇に押さえ込まれた。力強い腕に、抗うことも出来ない。この人は、いつもこうだ。私が弱いのを知ってるから、強引に、心も身体も奪っていく。
「明無。俺が嫌いか?」
歪んでいく視界に映る顔から、目が離せない。嫌いなんて、言えるわけがない。分かってて、この人は。
「泣くなよ。黙ってて、悪かった」
ずるい。そんな優しい目で、声で言われたら、何も言えないじゃないか。
「俺は、お前が好きだ」
吐息も肌も、温かい。でも、頬を伝う雫に温度はない。
「体が、じゃないんですか」
「体も好きだよ」
精一杯張った虚勢も、この人の前では意味を成さない。崩れぬように、しっかり固めていた髪も、シワのないシャツも、乱されていく。
この人はいつだって無遠慮に、土足で奥底まで入り込む。
もうやめようと決めたのに。叶わない想いに、別れを告げたはずなのに。
全てを知った私の、たった一度の気の迷い。でもそれは、終わらない夜の始まり。