―下―
そうして、その夜が来た。
八郎はこのところゆっくりと眠ることをしていない。疲れはあるものの、それでも今は特別な時なのだと思えた。だから、疲れたなどとは言っていられない。
心もとない灯りを手に、八郎は井戸へと足を運んだ。そこにはすでに史十郎がいた。
史十郎もこう夜半に出歩いてばかりでは疲れも取れぬだろうに、月明かりの下の史十郎の顔に疲れなど見えない。いつも毅然と美しくある。紅い唇がふと綻ぶ。
「来たか」
「へい」
八郎が大きくうなずくと、史十郎は満足げにうなずき返し、そうして足元の桶を手に取った。その中身は水ではない。それはとても黒く見えた。ツン、と鼻先に生臭さが届く。
「八郎、これはお前の分だ」
――いつも、史十郎はここで何かをしていた。ぴちゃん、と水音を立てて。
汁気が滴る何かを食らっているふうに見えた。
八郎はごくりと唾を呑んだ。その臭気に喉がぐ、と鳴る。
「芸事を身につけるには他人の血肉が何よりの肥やしだ。別人の所作、思い、経験、それが食らえば我がものとなる。だからこれはお前にやろう。何、これは色事師の肝だ。お前には色香が足らんのでな、きっとよい薬となろう」
フフ、と史十郎は艶やかに笑う。
しかし、語った内容は到底笑えるようなものではなかった。桶の中身は本当に人の肝であるのだろうか。野犬の――否、あれは魚の臓物で、八郎はたばかられているのではないだろうか。
そんなふうにも思う。
ためらわないわけがない。暑さなどこの時に感じるゆとりはなかった。尋常ではなく震えが止まらず、脂汗をかいて言葉を失った八郎に、史十郎は失望したような目をした。
「食えぬのか。それならば、お前はお下止まりだな」
煌びやかな舞台を下から眺める日々。それはいつまでも、いつまでも。
本当にそれでよいのか。これを食えば、史十郎のようになれるのか。
そうだ、史十郎は並の役者とは違う。人と同じことをしていてはそのような役者にはなれぬのだ。
八郎は史十郎が差し出した桶の縁に爪を立てて引き寄せた。恐ろしさは消えたわけではない。それでも、地獄へ落ちるとしても、観客で埋まった舞台の上の景色を一度は見たいと願ってしまうさがなのだ。
桶の中はねっとりと、黒い。
手を入れ、その生ぬるさにえずく。けれどそれを必死で堪え、八郎は手ですくった塊を口に含んだ。
くちゃり、とそれは容易く潰れた。
鉄の味。錆びついた、鉄の匂い。薄皮のような、舌の上に残った何か――
「ぐっ――」
喉の奥からせり上がってくるものを必死で押さえながら、八郎は口を動かした。次第に味も臭いもわからなくなったのは、八郎が考えることをやめたせいだろうか。くちゃりくちゃりと口を動かすだけである。
顔中を汚し、それでも臓物を食む八郎の顔を、史十郎が手ぬぐいで優しく拭ってくれた。
「お前は見どころがある。きっとよい役者となろう。その時が私も楽しみだ」
ああ、史十郎と同じ舞台に立てる日が来ると、そう八郎も夢見ていいのだろうか。
史十郎が楽しみだと言ってくれたのなら、きっと――
●
その翌日、八郎は起き上がることもできぬほどであった。慣れぬことに体に負荷がかかりすぎたのだろう。
同格の仲間たちは夏風邪かと心配してくれたけれど、座主は稲荷町一人になど関心もない様子であった。もしくは、役立たずの無駄飯ぐらいと思われただけだろうか。
けれど、八郎は史十郎を信じる。史十郎がああ言ったのだから、この状態から回復した後には、この身に何かが起こるはずだ。八郎自身、熱のこもる体の内に変化を感じていた。
そうして、さらに一日が過ぎると床から抜けることができた。
「もう大丈夫なのか」
八郎を案じてくれていた稲荷町の一人が八郎の肩に触れた。
「ああ、もうすっかり」
返事をし、微笑む。その時、自分でも表情には史十郎ほどとは言わぬが、ほんの少しの艶が出ていたように思う。色事師の肝が、年若い八郎にも色香をまとわせてくれたのか。
仲間の稲荷町――貞介は、指先から何かを感じ取ったかのように手を引いた。けれど、その何かの正体もわからず、軽く首を傾げただけであった。
「そうか、それなら――いいんだ」
爽やかさのある笑顔で貞介は呟いた。八郎はそっと目を細める。
この貞介、稲荷町の中では一番有望だと見られている若者である。動きの切れがよく、見栄えがするのだ。そうした貞介のことも、八郎は羨んでいたのではなかっただろうか。
――ああ、次は貞介がいい。
そうだ、そうしよう。
八郎の心は弾んだ。
まずは史十郎に相談しようと決めた。しっかりと休んだせいか、夜中になっても眠気は襲ってこなかった。月が明るいせいか、灯りさえ要らないと思えた。
そうして八郎が外へ出て少し歩くと、肩に重みを感じた。気のせいかと思うけれど、やはり体が重い。どうしたことかと立ち止まると、目の前にいつかの色子の亡霊が出た。キッとまなじりをつり上げ、八郎を睨む。
青い唇が動いた。
――うらめしい。
うらめしい。
おまえがうらめしい。
いきてあのかたのそばにいる。
おまえがうらめしい。
ああ、そうか、と八郎は納得した。
この色子は史十郎に食われたのだ。食われたけれど、食われたのは認められたからである。
そうして、史十郎の一部になった。
女方を目指していたのなら、八郎以上に史十郎への憧憬は強かったことだろう。
史十郎とひとつになれたことを誇っていた。だから、史十郎と秘密を共有する八郎が疎ましいのだ。
それがわかると、八郎はフ、と笑いが込み上げてきた。
「消えろ」
もう、恐ろしくはなかった。生きたまま食らう側になった八郎の方がよほど強いのだと。
色子はギリリと唇を噛み締め、そこから黒い血が滴る。血の涙も今は滑稽に映った。そんなやり取りを、いつからそこにいたのか、史十郎が眺めていた。
何も言わない。ただ、微笑んでいた。
八郎も何も問わなかった。死んだ者のことなど、もうこだわる必要もない。
形を保っていることができなくなったのか、色子の亡霊は足元から徐々に消えて行った。きっと、もう出ることもないだろうと八郎は思った。
そんなことよりも八郎には気がかりなことがある。
「史十郎様の仰る通り、食ろうて身につくことがわかりました。故に次に食らいたい者がおります。稲荷町の貞介と申す者なのですが、どうすれば食らうことができましょうや」
そう、史十郎をまっすぐに見据えて言った。史十郎は以前の八郎のおどおどとした部分が薄れたことを感じただろう。顎に指を添えて妖しく微笑んでいる。
「そうさな、しばし待て」
「待てば食らえましょうや」
「頼んでおこう」
頼むとはなんなのか。目を瞬かせた八郎に、史十郎はうなずく。
「何、私が頼めばどうとでもするような輩はたくさんおるのでな」
史十郎の色香に惑った者が、史十郎の頼みに応じて人を殺めているのか。もしかすると、辻斬りも史十郎の差し金かもしれない。食らいたい者を殺させ、その肝を抜いているとすれば――
しかし、今の八郎にはそれがどうしたと思うだけである。
目指す舞台に、どんなことをしても近づくのだと、覚悟を決めたのだから。
そうして数日後、貞介は行方知れずとなった。
けれど、八郎はその末路を知っている。正確には、その肝の行方を。
本体の行方を史十郎に訊ねることはしなかった。
それからしばらく、八郎と史十郎のおぞましい行いは続いていた。
八郎が両手では数え切れぬほどの肝を食った頃には、名題の立役が八郎に目をつけた。あれほど見どころのある稲荷町がいるとは知らなかったと褒めていたとの噂を聞き、八郎は天にも昇る心地がした。
その晩、さっそく史十郎にそのことを告げた。肝を食らい出してから力がみなぎるようで、あまり眠気を感じない。そんな二人だから、会うのはいつも夜半だ。
「史十郎様、おれは少しずつ認められ始めたようです。それは史十郎様のおかげに他なりませぬ」
そう、史十郎が手を差し伸べてくれたから今がある。史十郎は肝を握り血の滴った指先を軽く舐めた。その仕草は官能的ですらある。
「お前には見どころがあると申しただろう。それはお前の力よ」
血で汚れた姿も美しい。八郎はそんな史十郎に対し、胸が詰まる。
史十郎は憧れそのものである。そして、恩人でもある。師とも呼べる。
――ああ、血が。
あの血は違う。
八郎の喉がごくりと鳴った。
史十郎の血は、もっと鮮やかで美しい色をしているだろう。
見たい、と無性に思った。そうして、食らいたいと。
最高の役者である史十郎はどのような味がするのだろうか。
食った暁にはどのような芸が身につくのであろうか。
考えただけでぞくぞくと体が震える。
そんな八郎の心を、史十郎はどこまで読んでいたのだろうか。
食らいたい、けれど食らってしまえばあの素晴らしい芸を目にすることはできなくなる。こうしてそばにいることも――
もっと時をかけ、ことは慎重に行わなければならぬだろう。
●
行く秋――
八郎はそれと覚悟を決めた。
史十郎とは共に血肉を食らった。稲荷町から昇格した八郎は、少しばかり間近でその芸を目に焼きつけることもできた。
そろそろかと、思えたのだ。
今度は自分が花道に上がる。そのための糧として史十郎を食らうつもりであった。
あれからも二人して肝食いを続けた。史十郎は手際よく肝を手に入れることができたけれど、それでもそのうち数回は死体が上がり、同心たちが騒がしくうろついていた。
芝居を快く思わない幕府が裏で手を回してこの芝居町を潰そうとしているのではないかと囁かれている。だから、同心たちが回っているからといって安心する者の方が少ないのだ。
八郎自身はその手の不安を持ち合わせてはいないけれど。
楽屋番(役者の世話役)の目を盗み、八郎は化粧箱の剃刀を手ぬぐいで包んで懐へいれた。
この刃が誰に向かうのか、知っていたなら八郎の手の届くところになど置かなかっただろうに。
秋も末になり、肌寒さがある。
乾いた夜風が八郎の手にしていた灯火を僅かに揺らした。
稲荷町の頃のような灯芯に心もとない火を灯したものとは違う。今日ばかりは屋号の入った提灯を用意した。外出する時に使うものだが、今日ばかりは決して仕損じてはならない。灯りが消えるようなことは避けたかったのだ。
夜、いつもの井戸端に史十郎はいた。
ほっそりとした体躯のためか、季節のせいか、背には哀愁が漂う。夏とは違う綿入れの着物が血をよく吸いそうだと思った。
あのか細い腕ならば、力は八郎の方がよほど強いだろう。背も、もうそれほど変わりはしないのだ。
「来たか」
史十郎は八郎に背中を向けたまま、いつかと同じ台詞を吐いた。無言のままの八郎を振り返る。その面持ちに八郎は張り詰めていたものがフッと緩むのを感じた。
史十郎は柔らかく微笑んでいた。そこにあるのは師が弟子に向けるような慈愛に満ちた眼差しに似ていた。まるですべてを見通して、それでもなお微笑んでいるかのように感じられてしまう。
――まさか。
そんなはずはない。史十郎が八郎ごときに食われることを望むはずがない。
けれど、もしかすると、史十郎は疲れているのだろうか。頂きに立つことに。追われる立場に。
八郎に食われることでその苦しみから解放される。そう思えたのだろうか。
だから今、笑うのか。
八郎は剃刀を忍ばせた懐に手を添えた。胸が激しく高鳴る。
じり、と下駄が砂を擦る音がした。
震える指が懐の割れ目に潜る。手ぬぐい越しに硬い刃がぶつかる。
その時、史十郎が音もなく、まるで足のない幽霊のように八郎のそばへと動いた。びくりと固まった八郎の首筋にしなやかな指を這わせ、そうして耳元で囁く。
「ありがとうよ」
情感のこもった、熱のある吐息。
八郎の手から提灯が離れた。その火がどれだけの家屋を焼くことか、八郎が知る由もない。
それが最期の夜であった――
●
天保十二年十月七日。
堺町、葺屋町を焼く失火が起こった。芝居小屋からの失火であったが、浄瑠璃、人形劇の小屋も巻き込み、ようやく鎮火した。
幕府にとっては都合よく、この失火が芝居関係者たちを追い立てる。東北の地へ移転を余儀なくされた芝居関係者たちは、新天地でまた逞しく櫓を掲げるのである。火元とされる崎田座に咎めがなかったのは、幕府にとって願ったり叶ったりの結果をもたらしたからであろうか。
新天地でもあの立女形の美しさは群を抜いており、不思議と老いとも無縁のようにして長く語り継がれる。
あれはやはり、神仏にその芸が損なわるるを惜しまれたが故の加護であろうかと。
――旧芝居町の焼け跡から多くの亡骸が出たとしても、それは煙に巻かれた憐れな者たちである。
了
※この物語はフィクションです。実在の人物、団体とは一切関係がありません。
え? 何度もしつこいって?Σ(・ω・ノ)ノ!