―上―
※この物語はフィクションです。実在の人物、団体とは一切関係がありません。
華やかな江戸の町。
それは自由な民草たちが触書もなんのその、悔いのないよう生きる場所。
けれどそれを取り締まるのが幕府の務めであった。あまりに奔放な市井の風紀を正すため、当時の老中水野忠邦は天保の改革を推し進めた。それにより、江戸市民たちの愉悦の場はいくつか取り潰され、歴史を閉じることとなる。
しかし、それよりも少し前――天保十二年(1841年)、堺町にて火の手が上がり、十二、三の町を焼いて鎮火した。その火の手が上がったとされる芝居町もまた、幕府にとっては少々煙たい場所であった。
幕臣から河原者と別称された芝居関係者たちは焼け出されてもなお、新天地、猿若町にて再出発を果たすのだが、これはそれよりもさらに前のこと――
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「そりゃあもう、この世の者とも思えねぇほどの美しさだった」
町中で、老若男女問わず、恍惚と口の端にのぼる。その姿はどんな女よりも妖しく美しく、人の心を捕えて離さないと。
「お江戸にいながら崎田座の立女形(女方の最高位)、橘史十郎の芝居を見ずに何が語れる」
「狂言作者は皆、あの美貌をひと目見たら、その虜となって史十郎に演じてもらうために必死で話を書き上げるってぇ話だぜ」
「ありゃあもう、人じゃあねぇなぁ。人を越えちまってら。神仏か、妖しの者か――」
人々がそう囁く。
その橘史十郎を擁する崎田座は幕府公認の大芝居三座に数えられる。史十郎の演目の中でも特に復讐物が客によく受けており、その美貌が際立つとされていた。
座元からもそれは大切にされており、最下級の役者である稲荷町と呼ばれる者たちなど、そうそう口を利く機会すらなかった。
名題(幹部級の役者)である史十郎には部屋も用意され、雑魚寝の稲荷町とは格が違う。
その稲荷町の一人である八郎などはうっそりと史十郎を遠目で眺めるばかりであった。近づけば、心の臓が耐えきれずに破れてしまいそうな気すらする。史十郎の芸はもちろん天下一品であったけれど、その見目だけで人の生涯を狂わせてしまいそうな色香を持つのだ。
八郎は齢十五であり、立役(男役)を目指している。しかし、十四で初舞台を踏み、大変な人気を博した役者もいることを思うと、芽が出ぬのは何も年若いせいばかりではない。
八郎が目指すのは女方ではないが、史十郎の華やかさは崎田座のどの役者よりも秀でている。手本とするならばああした人物がよい。
そう、高嶺の花に憧れる芝草のような身であった。
八郎たち稲荷町は朝も早くから番立――舞台を開くにあたり、舞台を清めて成功を祈る三番叟を舞うことから始まり、番付に記されない『脇狂言』や本狂言には関わりのない『序開き』の一幕を演じる。しかしそれらの滑稽な舞で満たされるはずもない。いつか花道へと、誰もがそれを夢見る。
八郎もまたそうであった。人一倍、否、人の何倍もの野心を痩身に蓄えて日々を過ごしていた。
そうして、その日はやってきた。
舞台がはねた(終わった)そのあと、ずいぶん経ってからのことだ。夜も更けた、そんな頃――無性に喉が渇いていた。井戸の水を飲むべくどぶ板をまたいで井戸へと近づく。蒸し暑いせいか、どこか生臭さを感じさせた。
すると、妖しく月の煌めく最中、単姿の史十郎が井戸の前にいたのである。後ろ姿であれど、間違うはずもない。あれはまさしく史十郎である。その背中越しにポチャンと井戸の中に何かを落とした音がした。
八郎はそこに史十郎がいたことにより、何を疚しいこともないというのに板壁の陰に隠れてしまった。夜とはいえ、面と向かって挨拶を交わす心構えができていなかったがためのことである。
けれど、史十郎は何かを察したのか、舞台の上のようにして機敏に振り返る。化粧も施さず、月代の上の紫帽子もない。それでも野郎とはとても呼べない美貌である。
月が照らす史十郎に、八郎はただ見惚れていた。紅よりなお紅い唇が弓なりに笑む。
そうして、史十郎はまた井戸の方へと向き直った。ぴちゃ、ぴちゃ、と水気のある音がする。史十郎は何かを食うている。このような時刻だというのに。
あれは水菓子(果物)であろうか。史十郎が物を食うところなど、稲荷町の中の誰も見たことがないだろう。そう思ったら、八郎はぞくぞくと気が昂った。覗き見などすべきではないと思うが、それでもその場から離れることはできなかった。
史十郎は汲み上げてあった桶の水で丹念に手を洗い、口を濯いでいた。そんな所作も美しかった。
その夜のことは、八郎にとって大事な秘密であった。
翌朝のこと。
「なあ、近頃野犬が出るらしいぜ」
「そうなのか」
「ああ、どうも辻斬りに遭った若い娘の血の臭いを嗅ぎつけて、その臓腑を食い散らかしてあったって話だ」
「そりゃあひでぇ。くわばらくわばら」
同部屋の仲間たちがそんな話をしていた。
「野犬の前に辻斬りがやべぇ。幕府は風紀だの奢侈だの取り締まるくせしやがって、辻斬りなんざのさばらせてるんだからな、てぇしたことねぇよな」
舞台は民衆を惑わすだの、おかしな流行りをはびこらせるだの、蔑視されがちな芝居役者たちからすれば、幕府は偉ぶっているだけの無粋者である。
「しかしまあ、外回りの際には気をつけるに越したこたぁねぇな」
そう、皆で話し合ったのであった。
けれど、ほの明るい朝の神聖な舞台の上にいながらにして、八郎はその、命を奪われた挙句、野犬に食い荒らされた憐れな娘のことなど少しも気に留めてはいなかった。八郎の脳裏にあるのは、昨晩の特別な光景。
月が照らす史十郎の姿。
八郎だけが見た、特別な――
ただ、その浮かれた八郎のことなど置き去りに、事件は起こった。
崎田座の色子の一人が先日の娘と同じ目に遭ったのだ。史十郎のような女方を目指す色子は、常日頃から女子と変わらぬ装いをしている。
その日、その色子は娘のなりをして酒席に侍っていたらしい。金主(資金提供者)に気に入られれば大きな後ろ盾となる。色を売ることさえ稽古と同意である。
辻斬りは、そんな色子を娘と思ったのだろうか。その柔肌に刃を滑らせ、恍惚と眺めていたのだろうか。
しかし、臓腑を食い荒らした犬にとって、娘だろうと色子だろうと、食い物に変わりはなかったようだ。またしても、無残に散らばった血の跡が道端を染めていたという。
その色子は、あの史十郎の後に続くと将来を嘱望されていた。その輝かしい先は、もはや暗闇。凶刃と野犬の牙が、蕾を儚く散らしたのだ。
もし八郎がそのような目に遭ったらどうであろうか。
死んでも死にきれぬと、舞台を漂うことだろう。
この時になって八郎はようやく身につまされ、ぶるりと夏の暑さの中で震える体を掻き抱いた。
その晩、八郎はまた夜分に井戸へと向かっていた。喉が渇いたばかりではない。あそこにまた史十郎がいるかもしれないとの淡い期待もあった。
ただ、その暗い道を手元の小さな灯りを頼りに歩く。その時、建物の角にいたのだ。
史十郎ではなく、それは娘のなりをした色子であった。
あれは、誰だ。
死んだ色子ではなかったか。
死んだのならばそこにいるはずもない。
それとも、化粧を施せば皆、似通って見えるのか。
八郎は必死で考えた。けれど――
どうしてこの闇の中、あんなに遠くが手前以上にくっきりと浮かび上がるのだろう。まるで、あの色子自身が青白く光っているようではないか。
そう思い当たった瞬間に、八郎は小皿の油に灯芯を浸しただけの灯りを迂闊にも落としてしまった。パリン、と皿の割れる音がして、色子は八郎に流し目をくれた。
青い唇を薄く開き、動かす。けれど、そこに声は伴わなかった。八郎は縫い留められたように動けず、顔を背けることもできなかった。その唇から漏れることのない音を拾えぬ代わりに、唇が形作る思いを読む。
――うらめしい。
けれど、うれしい。
にいっと、青い唇が笑んだ。
史十郎の紅い唇と対を成すような――
眼窩はいつの間にか洞のような穴になり、そこにあった双眸が今は見えない。青い唇から黒い血の筋が滴る。
――うれしい。
うれしい。
あのかたとひとつに。
色子が華やかに結んだ前帯にじわりと水気が滲む。黒い血が色子の下半身を染め、重く垂れた前帯の端から血がひたひたと滴った。
ああ、やはり――最早あれは人ではない。亡霊だ。
それに気づいてしまった刹那、体中から血の気が引いた。八郎は己の叫びすら聞こえなかった。気を失い、その場に倒れたのだと知ったのは、目覚めてからのことである。
●
「起きろ」
パシ、と誰かが頬を打った鈍い痛みで八郎は目覚めた。
「――っ」
地べたに寝そべり、尋常ではない脂汗をかいていた八郎を起こした人物は、暗くて見えなかった。ただ、八郎が目覚めたことを知るや体を離した時、その顔が見えた。
まさかと思った。けれど、この美貌がこの世に二つとあるはずがない。
それは史十郎である。
麗しき姿の史十郎はほぅ、とひとつ息をつく。
「お下(稲荷町のこと)、こう暑い晩とはいえ、このようなところで寝るでない」
史十郎から声をかけられるなど、そんなことが起こり得るのか。あまりのことに八郎はくぐもった声を漏らしただけであった。そんな八郎を、史十郎はクツクツと笑う。
「寝ぼけよったか」
違う、と緊張のあまり声が出なかった。それを史十郎は知ってか知らずか、瓦灯を手に持ち、そうして立ち上がる。
「まあよい。風邪をひくなよ」
颯爽と去るその背に、八郎はとても声をかけられなかった。凛としたその背も歩む姿もやはり常人とは違う。
あの亡霊を見た恐ろしさと、史十郎に間近で声をかけられた高揚感。なんとも言えず八郎は張り裂けそうな胸を押さえて相部屋へと戻った。仲間たちの賑やかな寝息に八郎はようやく生きた心地がした。
けれどその晩、八郎は一睡もすることができなかった。相部屋に戻り、煎餅布団の上で震えて過ごしただけである。それでも、鼻先には血の臭いが突きつけられているような気分だった。
そんな翌日、八郎は舞台袖の片隅から、舞台の上で燦爛と舞う史十郎を見た。情念が具現したかのような、鬼気迫る様子。けれど、凄みを帯び、醜悪なはずの一幕ですら美しい。あの姿に、昨晩の八郎の怖気はどこかに消えてしまった。
あの艶姿に恋焦がれるほど魅せられた。史十郎の芸の素晴らしさに心が震えた。知らずのうちに涙が頬を伝っていた。
自分もいつか、あの極みへと昇り詰めることができたなら――
どうすればあれほどの存在となれるのか、今の八郎には想像だにできない。
また会うことができたなら。言葉を交わすことができたなら。
史十郎を唯一無二の役者たらしめる何かを探ることができぬだろうか。
昨晩、色子の亡霊になど怯えてしまったから、絶好の機会を失ってしまったのだ。
もう一度、あの機会があれば――
八郎はごくりと生唾を飲んだ。
またあの時刻に井戸へ向かえば、もしかすると史十郎と話ができるかもしれない。
ただ、そのためには色子の亡霊に再度出会う覚悟も要るだろう。
それは恐ろしい。けれど、史十郎には会いたい。
その思いが恐ろしさを凌駕した。
八郎は再び夜に井戸へと足を向ける。
八郎の懸念に対し、色子の亡霊が再び現れることはなかった。
怨念と呼べるほどの強い想いもなく、あの世へ向かったというのなら、そう悪い生き様でもなかったのだ。無念の死に嘆いてみたものの、思えば嬉しいなどとも呟いていたのではないか。
あれは――
そう考えて、八郎はぶるりとかぶりを振った。
ここであの色子の亡霊のことなど考えて、再び化けて出られては元も子もない。あのことは忘れてやろうと、そう強く思った。
井戸のそばに史十郎はいた。しゃがみ込んでいるその背が見えた。横に桶を置き、肩を小刻みに震わせている。
ぴちゃん、とまた水音がした。
声をかけるべきか迷い、八郎は史十郎が用を終えて立ち上がるまで待つことにした。
桶の水で手を洗い、その水をすっかり捨て去ってから史十郎はその場を動いた。フッと吹いた風が八郎の手にしていた灯火を消してしまったけれど、囲いのある瓦灯を持っていた史十郎の灯りはほんのりと明るいままだ。八郎はその灯りを目印に、史十郎へ向けて震える声を絞り出した。
「し、史十郎様、あの、おれは毎日の稽古は欠かしておりません。けれど、それだけでは足りぬのです。どうすればあなた様のような芸が身につきましょうや」
必死でそれだけを問うた。そんな八郎は史十郎からすれば滑稽であったのか、史十郎はまた低く声を立てて笑った。笑われたとて、怒ることすら心得違い。それほどに格が違うのだ。
そう感じた八郎の心まで見通したのか、史十郎は柔らかな声音で告げた。
「稽古だけでは辿りつけぬこともあろうな。そこには相応の覚悟が要る」
「覚悟でございますか」
寝食を共にする稲荷町連中を出し抜くことを言うのだろうか。それとも、格上の相中、中通でさえも蹴落とせと言うのだろうか。
どちらにせよ、綺麗事だけで渡っていける世ではない。舞台は欲と研鑽の末に生れるのだ。
ツ、と史十郎は滑るように八郎へ向けて歩む。引きずる裾の下の足は見えなくとも、舞台の上のように隙のない足さばきである。
史十郎が八郎の隣に着き、そうして八郎の肩に触れた。耳元に紅い唇を寄せて囁く。
「お前の名はなんだ」
「は、八郎にございます」
「八郎、その覚悟があるのならば、明日のこの時刻にもう一度ここへ来い」
明日の夜――
どくりと心の臓が跳ねた。極度の緊張から、体がカタカタと震える。その震えは史十郎にも伝わっただろう。小さな笑いが史十郎の喉から漏れ聞こえた。
史十郎が去ると、八郎は闇の中に取り残された。
一寸先も見えない。そのせいか、五感が研ぎ澄まされる。
生臭さが鼻先にあり、それは血のような臭いに感じられた。
あの色子の亡霊のことをハッと思い出し、八郎は闇の中を手探りで、それでも急いで戻った。
明日のことを考えるだけで気が昂る。
史十郎が明日の約束をしてくれたのは、少なからず八郎に見込みがあるということなのかもしれない、とこの時は思えたのだ。