第2話『空蝉』
人の一生には、幸せと不幸が必ず半分づつ訪れる。そう言った人がいた。
あの人は、きちんと幸せを半分受け取ったのだろうか…
病院のベッドの上には、すでに亡骸しか残っていなかった。
私が到着するほんの10分前に、祖母は息を引き取ったらしい。
冷たくなった祖母の手を取り、泣き崩れている母やその母の傍らで声を殺して泣いている父を見ても、私の心が熱くなる事はなかった。
それどころか、私は心の中でそんな父と母を冷たく罵った。
(厄介払いが、出来て良かったと思ってるくせに…)と。
だけど、当たり障りなく悲しい顔を作ってみた。後で、冷たい子だとか色々言われたりするのが、面倒だったから…。
久しぶりの実家は、18年過ごした家の筈なのにどうも居心地が悪い。
通夜や葬式の準備で、バタバタと駆けずり回っている父や母を余所に、私は朝早く起こされたツケが回ったのかリビングのソファーで、ウトウトしていた。
そんな私に気づいたのか、母が…
『愛子、お通夜は夜からだからまだゆっくりしていていいわよ。お母さんの部屋、まだ布団が敷いてあるから少し眠って来たら?』
私はコクリと頷いて、足早に母の寝室に行った。
布団に入ると、『ハァ』と小さく溜め息をついた。
布団からは母の匂いがした。
懐かしいはずの母の匂い、見慣れているはずの天井。
なのに私には、まるで他人の家に来たみたいな感覚だった。
何故かって…?
私は、母に抱かれて眠った記憶がないのだ。
記憶とは、視覚や聴覚や嗅覚といった感覚で覚えいるものだと、何かの本に書いてあった。
夜遅くまで、仕事をしていた母と私は顔を合わせる日がない時もあった。
その代わりに、祖母が母の変わりに毎日私の面倒を見てくれていた。
本当なら、そんな祖母が死んだんのだからもう少し動揺したっていいのだろうが、私は祖母がずっと疎ましかった。
うちは、両親が共働きなのもあってそれなりに裕福な家庭だった。
欲しい物は何でも買って貰えたし、家にいない母達は私にとても甘かった。
だけど、それとは正反対に祖母はよく怒る人だった。
そして、どこか貧乏臭く、田舎者丸出しの風体に私はいつの頃からか祖母と一緒に出歩くのが恥ずかしいと思う様になっていた。
それに、あの方言にはいつもビクビクさせられた。普通の会話でも言葉使いは汚いが、怒ると尚更酷くなる。
私は、今でも祖母の怒鳴り声が耳にハッキリ残っている。
だけど、一番忘れられない事は…。
いつの頃からか、よくお酒を飲む様になった祖母は、酔っている日が多くなっていた…。
いや、まだ小さかった私は酔っていたかどうかは解らなかったが、酒の匂いのする祖母を私はとても嫌いだった。
小さい私は、いつも心の中で何度もこう繰り返した。
(何で、お母さんは家に居てくれないの?友達の家のおばあちゃんは、優しいくて甘やかしてくれるおばあちゃんばかりなのに、何でうちのおばあちゃんはこんな人なの…)
みんな、私の事が好きじゃないんだ…!
私の頭の中で、幼かった頃の自分がそう叫んで泣いていた。
久しぶりに家に帰って来たせいか、昔の事が頭の中を駆け巡る。
なんで、この家はこんなに嫌な思い出しかないんだろう……
そんな想いを巡らせているうちに、いつの間にか私は深い眠りについていた。
『…う……ん…』
バタバタと、沢山の人の足音と話声にふと目が覚めた。
枕元に置いてある携帯を、ゴソゴソと手探りで探した。
(13時20分)
病院を出て家に着いたのが、確か朝の7時…
ソファーでウトウトしていた時に確か、テレビの時刻表示が7時40分位だったかな。
意外と長い時間眠っていた事に気が付いた。
どうせ何もする事がないから、母が呼びに来るまで布団から出るのは辞めよう…外から聞こえてきているのは、集まった親戚連中だけだろうし、そんな中に居てもつまらない思い出話しか出てこないのだから。
結局また、布団に潜ったわたしを母が呼びに来たのはもう夕方になろうとする時刻だった。
母の用意した喪服に着替えて、集まった親戚連中とつまらない思い出話をして、何事もなく通夜は終わった。
今朝の、祖母の不法の連絡がまるでとても昔の事の様に思える位、今日1日は長った。
葬式会場の一室に、死んだ人と一夜を過ごす様に用意された部屋の中、数人の親戚と父、母、私、そして亡骸となった祖母が残された。
話も尽きて、バタバタと忙しかった両親と、突然の祖母の死に慌てて駆けつけた親戚の人達は、疲れてしまったのかいつの間にか眠っていた。
うつせみ【空蝉】
セミの抜け殻。