番外 下 其の一
ゆらり、と無機質な暗闇にたゆたうものがあった。そこでは明確な距離も広さもなく、物質さえも幻と同じ価値しか見出されない。広大な世界の前では、その空間はただそこにあるだけの空虚な穴のようなものでしかなかった。
ただし、現実世界の時間にして百五十年に一度だけ、そこは特別な変容をきたす。世界から断絶された空間をこじ開け、唯一にして貴重な場所に成り変わるのだ。そのためだけに全てが在って全てがない、この幻のような空間は存在している。
ゆらり、ゆらゆらと深海の重たい海水のように闇は揺れて。突如として、そこに十二種類におよぶ色彩を灯らせた。まばゆいばかりに空間を照らすそれらは白、黒、赤、青、紫、橙、黄、緑、茶、黄緑、桃、紺の色合いを煌々と主張する。
徐々に暗中に灯った色彩は輝きの強さを落とし、やがて輝きの中にそれぞれの出入り口を作り上げる。それは素っ気ない木戸や絢爛豪華な彫刻入りの石扉、細かな刺繍入りのカーテンを取り付けた窓や錠付きの門など種類は様々だが、すべて現実世界とその空間を繋げる出入り口であることに変わりはない。
やがて十二の扉のうち、三ヵ所がそれぞれの軋みを上げて内側から開かれた。その色彩は黒、紫、橙の三色で、ほぼ同時に内側からの訪問者が姿を見せる。外見年齢や衣装はことごとく異なるものの、三人とも女である。
初めに動きを見せたのは黒の扉から現れた妙齢の女性だった。長く艶やかな黒髪を無造作に足元まで伸ばし、透明な漆黒の長い布を腰や肩にまとわりつけた衣装を着ている。女性は片手を頬に当て、他の二人を見つめてため息と共に零した。
「あらぁ、今回は三人だけなの? 少ないわねえ」
その言葉に、紫と橙の扉から現れた二人も反応を見せる。
「まだまだ始まったばかりではございませんの、漆お姉さま」
「気が早いんだよ」
ふふっと上品に笑むのは橙の扉から現れた西方の貴婦人だ。Aラインにふんわりと膨らんだ淡い朱色のドレスを着て、その両手には白い手袋が嵌められている。歳の頃は十代の後半といったところで、そのたおやかな微笑が他者の目を引く。
その隣に並んだ紫の扉から現れた女性は、深紫色のベストにゆったりしたズボンという男性衣装を着ている。少し苛立たしげに掻き上げられた髪は肩に掛かる程度の長さだ。凛々しい顔立ちをしていて、鋭い刃物を連想させる女性である。
漆お姉さま、と呼ばれた漆黒の女性は二人に艶然とした笑みを向ける。
「そうねえ、皆が集まるまで座って待ちましょうか。朽葉と藤もいらっしゃい。わたくしがお茶を入れるわ」
「ぜひ、ごちそうになりますわ」
「……暇つぶしにはちょうど良いだろ」
漆がすっと歩み出た先には、いつの間にか巨大な白色の円卓が現れていた。それぞれ座布団や木椅子などの座る場所が暗闇に浮かび、その主人を待っている。漆は背もたれにクッションの付いたチーク木の椅子のある席に向かい、円卓に用意されていた茶器に手を掛ける。
朽葉と呼ばれた貴婦人と藤と呼ばれた男装の女性も、漆に続いて自分用に設置された椅子に座る。朽葉は音も立てずにそっと優雅に腰掛け、藤はがたんっと乱雑に木椅子に座る。
しばらく、三人の間に不思議な沈黙が流れた。それぞれが何かを待つように、自分の作業と瞑想にふけっている。
不意に漆が茶器から手を離し、顔を上げた。その視線は離れた箇所に煌々と浮かぶ出入り口に向けられている。
「……来たようねえ、もう一人分お茶を作らなくては」
「萌葱か、遅れて来るなんて珍しいな」
「そうでしょうか? 前回も遅れて来られた気がいたしますが」
「そうだったっけ?」
三人がそれぞれ視線を向けた先、緑の扉からちょこんと小さな少女が現れた。明るい深緑色のふわっとした裾が胸下から広がる装束姿だ。ぱちぱちっと瞬きする瞳はぱっちりと丸く可愛らしい。
少女、萌葱は先に席に着いた三人を認めるとぱっと明るい笑みを浮かべた。とことこと駆け足でテーブルまで寄ってきて、快活に挨拶をする。
他の三人もそれぞれ表情を緩め、それを受け入れた。
「久しぶりっ、みんな早いね!」
「お前が遅いんだよ」
「お久しぶりでございますわ」
「今お茶を出すから待っていてちょうだいね」
萌葱は乳白色の床が広がった自分用の席に、片膝を立てて座る。ふんわりと深緑の裾が仮想の床に広がって、すっと伸ばされた背筋は曲がることなく姿勢が良い。
それからも四人の間に新たな会話が始まることはなかった。ふんふんふん、と萌葱の鼻歌が空間を軽快に跳ね回るが、他の三人は何も言わず、先ほどと同じような姿勢でただ座っている。
少し経つと漆のお茶も出来上がった。どこから現れたのか、茶菓子まできちんと添えられている。
「ほら、皆さま召し上がれ」
漆の一言で、ささやかな御茶会が始まった。だが相変わらず、萌葱の鼻歌と茶器に触れるかすかな音以外は空気を震わせない。
暇つぶし、と藤が称したように、それは四人にとって他の空席の主たちを待つためのものでしかなかった。空席がもっと埋まらない限り、この空間に集まった者たちは本題には決して入らない。
当初とは性質の異なる静けさと温もりが、幻に類似した空間を支配し始めていた。
まだ、百五十年に一度の宴は始まらない。
*****
――十二色の宴、と呼ばれる墓守の懇親会がある。
世界にたった十一人しかいない同胞と顔を合わせる貴重な機会で、その日は墓守も使命を忘れて丸一昼夜ほど宴に興じるのが慣例だった。
それは友人たちと遊びに興じるものでありながら、墓守の中で神聖視されるひとつの区切りである。千年を余裕で生きる墓守にとって、十二色の宴は時間の経過を認識させる機会であり、永い時の中で積もった疲労を発散させる大事な場でもあった。
無事に紅姫が百年に一度の眠りを乗り越えてしばらく。幾度目になるか分からない、十二色の宴が行われようとしていた。
紅姫は落ち着いた茜色の、牡丹や小松鶴の描かれた打掛の裾を払い、手に持った闇色の扇子を優雅に左から右へ薙いだ。ゆらりと空気が微風と共に揺らいで、突如として立派な閂の付いた門が眼前に出現する。
特に驚きもせず紅姫はその門を眺め、すぐに後ろに控えていた十澄を振り返った。
十澄は軽く目を見張って門を眺めていたが、紅姫の視線に気付くと小首を傾げる。その傍らには鬼丸と風切姫も控えて、じっと紅姫の言葉を待っている。
紅姫はすっと目を細めて小さく笑みを浮かべた。
「これが宴の間へ続く“道”じゃ、明日の夜までは繋がっておる」
「……この先で十二色の宴があるんだ?」
十澄は不思議そうな眼差しを、紅姫からまた門へと移す。
それぞれの墓守に用意された“道”を通る以外では、十二色の宴が開かれる宴の間へは行けない。宴の間は空間的に世界から剥離されており、墓守が集う時にしか、外に開かれないのだ。睡蓮邸も人の世からは隔絶されているが、妖に対して開かれている分、まだ宴の間より開放的だろう。
外に出る時は常に誰かが傍にいる紅姫だが、今回だけは一人で“道”を通って宴の間へ行くことになる。だから十澄や鬼丸、風切姫たちは睡蓮邸に留守を預かるのだ。
彼らはちょうど、十二色の宴に赴く紅姫を見送りに出て来ているところだった。
もう何度も紅姫を宴の間へ見送っている鬼丸や風切姫は慣れたものだが、十澄は物珍しそうにしている。そしてまた、紅姫に注ぐ視線は少し不安げでもあった。
「やがり、お主も共に行かぬか?」
「いや……、邪魔をしても悪いし、遠慮しておくよ」
「かまわんと言うに、強情じゃな」
「そうかな? 普通の判断だと思うけど」
ここ数日、何度も交わした会話を二名は繰り返す。
十二色の宴は本来墓守しか立ち入れない宴会である。永い時の流れの中で、一度たりとも部外者を招き入れたことはない。それは墓守の聖域を穢すのを憂いた、というよりも単純に墓守にそこまで近づけた者がいないという側面の方が強い。
鬼丸と風切姫が飽くまでも使用人として紅姫の傍に在るように、妖にとって至高の立場にある墓守と並び立とうと志す者など、なかなか存在しないのである。
だからこそ、墓守の孤独は深いと言える。
(わらわとしては皆に景を紹介しておきたいが……)
無理強いはできまい、と紅姫は独りごちる。
紅姫にとって十澄はもはや、自分と切り離して考えられない大切な存在だった。それゆえに、十一人の同胞にも認知してもらいたいと考えるのは自然の流れであった。
それでも十澄の遠慮する気持ちも、理解できないわけではない。むしろ意気揚々と乗り込むようであっては、逆に十澄らしくないだろう。
「ねえ、十純。その……もう、身体の方は大丈夫かい?」
「ふむ、何とも言い難いな」
紅姫は自分の小さな身体を見下ろし、顎に手を当てて少し考え込んだ。
百年に一度の眠りから、紅姫は異例の早さで目を覚ました。たった一日半という短い眠りだった弊害か、それ以降もふとした瞬間に眠気に襲われるようになったのだ。最近では生理現象として眠りを必要とする十澄と並んで寝具に入っていることもよくある。
ただ紅姫の眠りは時と場所を選ばない。何の突拍子もなく、強烈な眠気に襲われてすぐに寝てしまうのだ。それは妖の客が訪れている時もそうで、そのために客を待たせることもしばしばあった。一度寝たら自然に目を覚ますまで誰も起こせないのも、奇怪な特徴である。
十澄は十二色の宴の最中に紅姫が眠りかねないことを心配しているのだ。今回ばかりは、誰も紅姫の傍にいないから、睡蓮邸まで送り届けてもらえないだろう。
「とは言え、こればかりは仕方あるまい。あまりに心配になったら、お主が迎えに来ればよい」
「あー……分かった。ぼくだけでも通れるかな?」
「おそらく。試した者はおらぬが、大丈夫であろう」
いまいち確証のない言葉に、十澄は苦笑を零す。
だが紅姫には奇妙な確信があった。それぞれの墓守の“道”を他の墓守が通れないことは過去に立証されている。紅姫は他の墓守の“道”を通って、他の墓守の屋敷に行くことはできない。ただ墓守以外の者に対して“道”がどう対処するか、例がないため未知数だった。
それでも紅姫は他の誰でもなく十澄なら大丈夫だ、と直観的に判断していた。十澄はこの世で誰よりも紅姫と繋がっているから。
(いささか、感情論のようでもあるが)
幼い子どものような言い分に、紅姫自身も苦笑いするしかない。結局のところ、実際に行ってみるまではどうなるか、さっぱり分からないのだ。いくら議論しても意味はない。
さて、と紅姫は気分を切り替えて門へ視線を移す。
「少しばかり留守にする。あとは頼むぞ」
「いってらっしゃいませ、紅姫様」
「存分に楽しんで来てくださいね!」
鬼丸が深々と頭を下げ、風切姫が軽やかに天を舞う。
古くから仕える彼らが睡蓮邸にいるなら、何も心配することはない。厄介な客が現れようと丁重にお帰りを願える実力は充分にあった。
紅姫はそっと門に手を掛け、あっさりと太い閂を外す。ぎぎぎ、と勝手に門は外側に向かって開き始め、どこに続くとも分からない闇を奥にのぞかせた。一寸先は闇という喩えが現実化したような眺めだった。
その闇の中に大した躊躇もなく飛び込む寸前。もう一度紅姫は背後を振り返った。
そこに佇む人間の青年を見て、唇を綻ばせる。
「……ならば、待っていようか」
『迎えに行く』
あれほど渋っていたのに、十澄の唇がそう言葉を紡ぐのが分かった。
(ただの小娘じゃあるまいしのぅ)
自分の舞い上がった心を認めながら、紅姫は呆れに似た感覚に支配される。
十澄と出会ってから、紅姫は日常の些細なことに一喜一憂するようになった。十澄が人の世から採ってくる野花に喜んで、周りに虐げられて泣く十澄の姿に胸を痛めた。人間に馴染みのない睡蓮邸を十澄の過ごしやすいように気配りもした。紅姫の使命に寄り添う十澄に、安堵と一抹の不安を感じることもある。
だが明らかにそれは墓守の使命に忠実で厳格であった、かつての紅姫とは違うのだ。
「まさか、いまさらわらわに変化が訪れようとは……誰も考えていまいな」
ふっと脳裏に浮かんだのは、この世に十一人しかいない墓守の同胞の姿だった。墓守の業とでも言うのか、永い時の中でも変化を迎える者は数少ない。十二色の宴は同胞の変化を知る良い機会だが、誰もが変化を忘れて久しい。
今の紅姫を見て、同胞たちはどう思うのか。永い時を共にしても、予想ができなかった。
「……考えても仕方ない、か」
そう判断を下して、紅姫は意識を現実に戻す。
宴の間への“道”は足元すら覚束ない暗闇に覆われている。どちらに向かうべきか分からなくなりそうだが、一点の灯が遠くに宿って道しるべとなっている。それは紅姫を象徴する赤の灯。そこに紅姫に用意された墓守の居場所がある。
ひた、と下駄を履く足が音もなく煌々と輝く灯に向かう。永遠とも一瞬とも取れる間を置いて、赤の灯は確実に近づいた。その輝きが目を焼きそうなほど威力を持って、紅姫の小さな体躯を包み込む。色合いと相まって炎に飛び込むような錯覚を起こしそうだった。
神々しい輝きは徐々に収まりを見せ、紅姫の目に映る景観は一変した。
「……あらまぁ」
宴の間に着いて一番に耳朶を叩いたのは、おっとりとした意外そうな声音だった。
すっと暗闇の中に浮き彫りになった白色の宴の席に、流れるように視線を向ける。鮮やかな六色の影が、紅姫の方に視線を注いでいた。
初めに声を上げたのは、黒を司る第一の墓守。漆姫の名を冠する艶やかな妙齢の女性だ。
「紅も来てくれたのねえ、嬉しいわ」
「わらわは来ぬと思われたか?」
「ええ。貴方はいつも、早くに顔を見せてくれていたから」
ごめんなさい、と漆は困ったように眉を下げて言う。
紅姫は気にしていないと首を横に振り、改めて宴の席を見渡した。黒、紫、青、橙、茶、桃の六色を冠する墓守たちが円系の席にそれぞれ着いている。紅姫の席も合わせて六つの空席が空しく存在を主張していた。
「この度はこれだけか」
「ああ。少なくなったもんだぜ」
「本当ですわ」
紅姫がぽつりと漏らした言葉に、紫を司る第六の藤姫が皮肉げに唇を曲げて同意する。橙を司る第五の朽葉姫も残念そうに宴の席を見回していた。
そこに、落ち着いた低い声が鋭く響いた。
「それより早く、席に着かんか」
「桜か、六百年ぶりかえ?」
紅姫の視線の先で、身体にぴったりとした紅梅色の衣装を着た若い女性が茶をすすっていた。腰から入った切れ目から細長い足が晒され、髪は後ろで綺麗にまとめ上げられている。見た目の妖艶さに反して、その雰囲気はどこか硬く近寄り難い。
桃色を司る第十一の墓守、桜姫である。
紅姫の記憶が正しければここ四回ほど十二色の宴は欠席していたはずだ。その理由は定かではないが、六百年ぶりに会ってもそっけないところは変わっていない。今も桜は話しかけた紅姫の方を見ようともしない。
紅姫は桜との会話を諦めて、自分に用意された席へ向かった。睡蓮邸でよく見かける深緑色の柔らかい座布団が、ぽつんと宙に浮いた畳の上に添えられている。そこだけ普段の景色とよく似ていて、和の落ち着きより混沌とした感が否めない。
毎回のことながら、紅姫は高めの位置に浮く畳によじ登り、苦労して座布団に腰を落ち着ける。この時ほど自分の小柄な子どもの身体が恨めしい時はない。
「ほら、紅も召し上がれ」
そこへ、時を見計らって漆が煎れたお茶が出される。ほんのりと湯気を立てる湯呑に有り難く口を付けるとほろ苦い味が舌に染み渡った。
漆の出すお茶でまず落ち着くのが、十二色の宴での通例だった。
「……漆の茶の味は変わらぬな」
「それ、褒め言葉かしら?」
「無論のことじゃ」
「あらあら、嬉しいわぁ」
漆はふわりとなまめかしい笑みをたたえている。彼女は桜と同様に大人の魅力溢れる女性だが、色合いも雰囲気もこの二名は正反対と言えた。
紅姫が湯呑を置いたところで、ひょいっと小柄な少女が隣から身を乗り出してくる。青と白の縞々を描く、膝まで届く貫頭衣を身に付けた少し紅姫より年上の少女だ。青を司る第九の墓守、瑠璃姫はぱちぱちと目を瞬かせている。
「いかにした、瑠璃?」
「紅姉さんにしては珍しいね、その髪型」
「ああ……、今は結ってくれる者がいるからのぅ」
紅姫はそっと口角を持ち上げ、綺麗に結い上げた髪に手を添える。今回は瑪瑙の玉簪を使って下げ巻に結ってある。例に漏れず十澄の手に寄るもので、ここ十年で十澄の髪結いの腕もずいぶんと上達していた。
ほんの二十年前までは、誰も紅姫の長い髪を結うことができなかったため、いつも髪は下していた。紅姫自身、髪を結う必要性もあまり感じていなかったが、十澄は努力して人の世の流行を追っているようである。十澄が四苦八苦してまで髪を結ってくれることを紅姫も純粋に喜んでいた。
少し自慢するように、紅姫は頬を緩めて瑠璃に問うた。
「それなりに、似合うであろう?」
「う、うん。それはもちろん」
瑠璃は驚いたようにまじまじと紅姫を見つめる。
「ねえ……紅姉さん、何かあった? ちょっと変わったよね」
「そう見えるかえ?」
「だって、そんなによく笑ってたっけ?」
「わらわも人形ではない。笑うこともあるわ」
くすっと紅姫はまた笑うが、それを瑠璃はさらに不審そうな眼差しで見ている。
それは瑠璃だけではなく、集まった墓守たちのほとんどがそうだった。
「紅、何かございましたの? よろしければ、お話を聞かせて下さいな」
「面白い話題はもう出尽くしたからな、ちょうどいい」
朽葉と藤が興味津々といった様子で促してくる。
実際のところ、墓守の日常は不変すぎて百五十年ぶりに会っても話題は尽きがちだ。さらに墓守は十二色の宴に仕事の話を持ち込むのを嫌う傾向にある。どんな客が訪れて、何が起きたのか、一番の共通事項の話題を避けるのだ。
それは絶えず使命に追われているからこそ出来上がった、暗黙の了解である。
紅姫は顎に手を当てて、どこから話したものかと思案する。
「ふむ、一言で済ますなら……わらわにも大切な者ができたのじゃ」
「いや、一言で済ますなよ。もっと詳しく!」
「妖ですの? それとも精霊? 悪魔ではございませんわよね?」
「朽葉、日本に悪魔はいないでしょう」
「――それで、どんな者なの、紅姉さん」
一気に宴の間は騒然とした空気に包まれる。
皆の期待と好奇に輝いた顔を見比べ、紅姫はもったいぶるような沈黙の後、簡潔に答えた。
「ただの、人間じゃ」
その瞬間。――宴の間はぴしっと空気を凍りつかせた。先ほどまで詰め寄っていた墓守たちは一様に押し黙り、気まずさや苦々しさを感じさせる表情を滲ませている。
あらかじめ予想していた反応とは言え、紅姫は込み上げてくる嘆息を呑み込んだ。
永き時を過ごして来た同胞として、皆が何を憂えているのか分かっていた。それがまったくの杞憂でしかないことも。
初めに沈黙を破ったのは誰にとっても意外な者だった。
「何故、人を?」
「……琥珀?」
それまで円卓の片隅で黙していた茶を司る第四の墓守、琥珀姫が、感情の見えない瞳を紅姫に向けて来ていた。焦げ茶色の小袖に似た着物の上に黒の外衣を来て、頭には薄茶の布を被っている。本来男性用の衣装が、彼女をより抽象的に見せるのだ。
琥珀は墓守の中でも寡黙で、ごく最低限のことしか話さない。全てを行動で示し、淡々と使命をこなしていく、誰よりも墓守の仕事に忠実な女性である。
だから紅姫は今回も、沈黙を守って事態の推移を見守るのではないかと予測していた。
「人は、我らの歩みに付いて来られない。知らないわけではないだろうに」
「……人だからではないのだ」
紅姫は夜の瞳を伏せて囁くように反論する。その脳裏には永きに渡る生の記憶が、ほの暗い感情と共に生々しく蘇って来ていた。
そこに刻まれた感情の名は、全ての墓守たちが共有する――孤独。
紅姫は遥か昔から延々と繰り返してきた失望を思い出して、ぽつりぽつりと墓守なら言葉にしなくても理解しているはずのことを語る。
「たとえ妖であっても、精霊であっても……皆、等しくわらわの下を去るのじゃ。それを見送るのが仕事ゆえ、仕方あるまい。確かに人間の寿命は身近く、わらわたちに寄り添うには弱すぎる。しかしそれは問題にはならん。……人でなくとも、皆去ってゆくゆえのぅ」
「……」
しん、と重い沈黙が宴の間に落ちる。
紅姫の言葉は真を突いていた。――妖も精霊も、人外の多くは果て無い寿命を持っているというのに、彼らでさえも安息を求めて墓守の下から去っていく。人間に限らず、墓守は何者からも置いて逝かれる運命にあった。
だからこそ墓守は同胞との繋がりを大事にする。同じ立場に置かれた同胞ならば、自分を裏切ることも置いて逝くこともないからだ。遠く離れた地にいても、運命共同体であることに変わりはない。
つまるところ、十二色の宴は墓守たちの傷の舐め合いにも似た集まりだった。
そこへ、藤が唸るように低い声で紅姫に詰問した。
「お前も裏切られたら、どうすんだ?」
「白銀のことかえ?」
「ああ。人は簡単に、変わる生き物だろ」
藤は心底から忌々しげに凛々しい顔を歪め、罵るように続ける。
「今日愛し合っていたのに、次の日には憎しみ合うような奴らだ。自分で言ったことも守らず、無責任に忘れて行く。あいつらは生きるも死ぬもあっという間で、そのくせ自分勝手に世界を引っ掻き回していきやがる」
「まぁ、変化の目まぐるしい生き物ではあるか」
くすっと紅姫は十澄の姿を脳裏に思い浮かべて、無意識のうちに笑みを零す。
あまりに場違いなその表情に藤は怪訝そうな顔をした。
「何だよ?」
「いや、少し思い出してしまった。……少し前までぴーぴー泣いておったあの幼子が、今では立派な大人じゃ。ほんに人の成長は早い」
「そんなこと誰も聞いてねえ……っておい、幼子? いつから、一緒にいるんだ?」
「ざっと三十年近いか」
ちっと藤が外聞もなく舌打ちする。
「三十年? 人の寿命はもって五十年だぞ? あっという間に死んじまうな」
「本来ならばのぅ。あの者は、きっと百年後も生きておるよ」
「はぁ?」
藤は理解できないとばかりに、素っ頓狂な声を上げる。
その抗議が口の端に上る前に、朽葉が小首を傾げて尋ねた。
「人ではございませんの?」
「いや、種族としては人じゃ。ただわらわの傍に居すぎたのか、ここ十年身体の成長が止まってしまっておる。きっと、寿命も延びておろうなぁ。最近は妖の毒や妖気にも耐性ができたようじゃし、ほんに人の適応力には目を見張るわ」
紅姫は目を細めて何でもないことのように語るが、他の墓守たちは揃って半信半疑のようだった。
でも、と全員の疑念を代表するように瑠璃がつぶやく。
「そんなことってあるの? だって白銀姉さんの時だって人間は先に逝ったわ。白銀姉さんがどれだけ、あれのせいで苦しんだか、紅姉さんだって知ってるでしょ」
「白銀のことは、わらわもよく弁えておる。それでも白銀の時とわらわの場合は異なるはずじゃ」
この時、墓守たちの脳裏によぎったのは白を司る第二の墓守、白銀姫の姿だった。もう千年近く十二色の宴には顔を出していない彼女は、千年ほど前に起きた悲劇のせいで、墓守の使命も果たせないほどに狂ってしまった。
この場に集った七名の墓守はかつて白銀が狂った姿を直に目の当たりにしていた。そのために過剰に人間を忌み嫌い、紅姫の言葉を安易に信じることができない。かつての白銀もまた、紅姫と同様に傍に置いた人間の弁護をしていた。
(わらわとて、考えなかったわけではない)
千年経っても、紅姫の記憶から白銀の哀れな姿は焼き付いて離れない。
白銀は誰よりも繊細で優しい墓守だった。だから彼女は偶然にも屋敷に迷い込んだ人間を、手厚く保護した。人間の世ではお家取潰しの憂き目に会い、行く宛てのない憐れな男だった。白銀はその人間を屋敷に住まわせ、彼女たちはゆっくりと情を交わしていった。
永き時を白銀姫に寄り添う、とその人間が誓いを立てたのは必然的な流れだったに違いない。
(幸せそうであったのにのぅ)
当時の十二色の宴で、白銀はその人間のことをそれは嬉しそうに話していた。かつてと比べようもなく生き生きとした姿に、墓守たちは羨望と祝福を向けたものだ。誰もが白銀のその幸福がずっと続くと疑いもしなかった。
しかし、現実はそんなに甘くはなかった。
――人間は白銀の目の前で、腹を掻っ切って自殺した。
切腹は楽な死に方ではない。腹を切った程度ではなかなか死ねず、多量出血してもがき苦しみながら死する。その姿を見ていられなかった白銀は、自らの手で人間の首を切り落としたそうだ。
二人の間に何が起きたのか、誰も知らない。
ただ白銀は最後の十二色の宴にぼろぼろの体で姿を現し、こう告げた。
『人の身は弱い。我らの永き生に付いて来られなかった』
その人間は白銀と共に在るために、多くの秘薬や人外の手を借りて延命処置を施していたらしい。それは確実に人間の身体を歪に変え、精神を病ませた。
結局は寿命の違いが、二人に最悪の結末を迎えさせたのだ。
白銀は千年経った今も、墓守の使命さえ捨てて屋敷に閉じこもっている。今では同じ墓守たちにも彼女の様子をうかがい知る手段はない。
白銀の幸せとその崩壊を知るからこそ、墓守たちは紅姫の選択を受け入れがたい。
(あのようにならぬ、とは言えぬ)
十澄を失った時、どうなるかは紅姫自身にも分からない。
それでも紅姫は自分たちの寄り添える可能性を信じている。
「もし、あの者に最期が訪れたなら……わらわが送り出そう。あの者は我が睡蓮邸の片隅で眠ることになろうな。しかし、わらわはあの者の可能性を信じておるし、共に在れる時まで在ろうと思うのじゃ」
逆に白銀の例があったからこそ、いずれ来る別れの時も考えなければならなかった。その答えはおそらく、十年前に十澄を実家から連れ去った時に出している。
まったく動じない紅姫の姿に、誰かが呆れたような吐息を零した。
「仕方ないわねえ」
「漆!? 認めるのかよ!」
それまで事態の推移を見守っていた漆が、小さな嘆息と共に言う。
藤はそれに食ってかかるが、漆の方が一枚上手であった。
「だって、仕方ないでしょう? もう紅は選択してしまったのだもの。わたしたちにどうこう言えることではないの。すべては紅が決めることなのよ」
「っ……だからって」
「藤、それ以上はおよしなさい。ここは争う場ではなくってよ」
「そうだよー、ここまで言われちゃったら仕方ないよ、藤姉さん」
朽葉と瑠璃にまで揃って諌められ、藤は納得の入っていなさそうな顔で押し黙る。
一部異論はあっても十澄の存在が認められたことに、紅姫は内心でそっと安堵した。白銀の件もあって、話が難航することは事前に目に見えていたから、なおさらである。
さて、と漆が声を上げて話題を切り替えた。
「堅苦しい会話はここまでになさい。宴会を楽しみましょう」
「そうじゃのぅ、わらわからも土産がある」
ぱんっと紅姫は柏手を打つ。それに呼応して墓守たちの前に、それぞれが司る色合いの和菓子が出現する。花や果物を模した菓子は精巧で、食べ物というより芸術品の色が強い。
それに歓声を上げたのは、瑠璃と朽葉だった。
「まぁ!」
「やった、和菓子だぁ!」
墓守の中でも瑠璃と朽葉は甘味に際立って弱い。彼女たちの下を訪れる人外の者は、最後の手土産とばかりに菓子を持参するのが、礼儀と決められているほどだ。手土産がなくとも墓に送られるが、例外なく不機嫌になるともっぱら噂である。
だから紅姫も、毎回彼女たちの分だけ和菓子を多く使用人に用意させている。紅姫が和菓子を好むので、睡蓮邸には和菓子専門の使用人が長いこと仕えている。今回の和菓子も、自慢の使用人が手製した品だった。
「……すまない。食べてくれ」
「まぁ、ありがとうございます」
「あ、ずるい! あたしにもちょうだい!」
これも恒例ながら、一口食べたとこで琥珀は和菓子を朽葉に譲った。隣から顔を出した瑠璃も朽葉から半分、嬉々として和菓子を分けてもらっている。
それも半ば以上予想していたことなので、ぱんっとまた紅姫は柏手を打つ。口直しとばかりに、琥珀の前に緑茶を煎れた湯呑が現れた。
琥珀から目で無言の礼を受け取って、紅姫も蓮の形をした和菓子に手を付ける。
どういう仕組みになっているのか、宴の間は各屋敷で用意していたものなら、墓守の一存ですぐに取り寄せられる。紅姫が和菓子を、漆が茶を用意したように、何かしら十二色の宴に持ち寄るのが伝統だった。
紅姫は一気に騒々しくなった宴の間を見渡して、そっと唇を緩める。ぽつぽつと空席は見られるものの、記憶の通り再現された宴は前回から百五十年も経っていることを、つい忘れさせる。その空気が、降り積もった心の負担を軽くしてくれる。
もともとあまり話上手ではないから、十二色の宴では聞き手に回る方が多い。だが今回ばかりは事情が異なるようだった。
「――それで、聞かせてくれるのよね?」
「漆?」
怪訝な視線を送った紅姫に、漆はにこりとそれは麗しく微笑する。
「もちろん、その人間との馴れ初めとか、いつも何をしているのかとか……話すことはたくさんあってよ?」
「……」
あちこちから、注目を向けられていることは確かめなくても分かった。
紅姫はいつもと雰囲気の違う宴に、呆れや諦念の籠った嘆息を零すしかなかった。
それから根掘り葉掘り、紅姫が疲れきるまで事情を探られたのは言うまでもないだろう。