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番外 中 其の二

 恭二郎が二つ上の兄の存在を知ったのは、三歳の頃だった。同じ家に三年も住みながら、それまで恭二郎は兄の存在を誰からも伝えられず、会ったこともなかったのである。いつも傍に面倒を見てくれていた使用人たちが、おそらく両親の命を受けて二人を会わせないようにしていたのだろう。

 だから、二人が初めて会ったのは完全なる偶然で、珍しく恭二郎の傍に使用人も誰もいない時だった。幼い頃の記憶で曖昧な部分も多いが、その日は確か使用人とかくれんぼをしていたはずだ。まだ三歳の遊びたい時期、勉学にも手を出しておらず、名家ゆえに広すぎる家を存分に使って遊んでいた。

 幼い頃、恭二郎は両親から立ち入りを禁じられていた区域があった。そこに近づかなくても不便はなく、常に使用人が傍にいたことで、三歳まで恭二郎は家の半分がどういう構造をしているのかを知らなかった。

 そして、兄と出会ったのは立ち入り禁止区域に迷い込んだ時だった。当時恭二郎が暮らしていたのは、母屋と呼ばれる場所である。母屋からずいぶんと遠いところに離れがあり、当時景一郎は家族と別に離れで暮らすことを強いられていた。

 まさに目に入れても痛くないほど可愛がられた恭二郎とは違い、目にも入れたくないと言わんばかりの扱いを景一郎は受けていたのだ。

 庭で走り回っていた恭二郎は、使用人の目をかいくぐって離れの近くまで来ていた。当然、それまで足を踏み入れたことのない場所である。ふと気づけば恭二郎は独りになっており、自宅の敷地内で迷子になっていた。

 恭二郎にとって、両親も使用人も傍にいない状況はほぼ初めてであった。ふつふつと込み上げてくる心細さに半べそを掻き始めるのに、それほど時間はかからない。


「……ここ、どこぉ?」


 ぐずぐずと涙を目にためて、恭二郎は辺りを見渡す。

 一邸宅を収めるには広すぎる庭は、種類も分からない木々が茂り、手入れされた細道が迷路のように張り巡らされている。繁みの隙間からは石灯籠がのぞき、小さな湧水の出る池もある。近くにあるはずの建物は植物に完全に隠れ、日本庭園特有の静けさは幼子の不安を煽る効果しかない。

 そのまま道に沿って歩けば、いずれどこかの家屋に行き当たっただろう。だが幼い恭二郎はそこで立ち尽くし、不安げに周囲を見渡す。遊びの熱も、我に返ってしまえば冷めるのは早い。


「だれか」


 恭二郎は声を上げて人を呼ぼうとした。人を求めれば誰かが応えてくれるのは、当時の恭二郎にとって当たり前のことだった。それくらい、屋敷の内で大事にされていたのである。

 だが、そうする前に細道の向こうから小さな足音が聞こえてきた。

 恭二郎はぴたりと一度開いた口を閉じ、そちらに向かって駆け出す。両親か、もしくは使用人の誰かが、飛び石の続く細道の向こうにいると信じて疑わなかった。

 だから草葉の陰から現れた自分より少し年上の少年の姿にとても驚いた。


「「え……?」」


 二人の驚きの声が重なり、お互いにぴたりと足を止めて立ち尽くす。

 恭二郎は視線の先の見慣れない子どもの姿に戸惑った。生まれて以来住んでいる家に、自分以外の子どもがいるのを見たことがなかった。それどころか、同年代の子どもに会う機会にも恵まれておらず、まさに恭二郎にとって少年は未知の存在だった。

 硬直してしまった恭二郎とは反対に、すぐに少年は我に返った様子だった。どこか見覚えのある白皙の顔を小さく歪め、一歩二歩と恭二郎の方に近づいてくる。子どもの小さな足では二人の距離を縮めるのに多少の時間がかかり、それがずいぶんと長く恭二郎には感じられた。

 少年は瞳こそ黒かったが、伸ばされた髪は見慣れない栗色をしていた。その肌も他の人間よりずっと白く、今まで見たことのない薄い色彩がとても印象的だった。

 恭二郎の二歩先で立ち止まり、少年は厳しく強張った表情のまま口を開いた。


「まさか、恭二郎?」

「え……、は、はい」


 恭二郎は名前を当てられたことに驚き、こくこくと頷く。それを見た少年の表情が険しさを増したが、混乱の渦に陥った恭二郎は気づかない。

 少年は口を一文字に閉じ、じっと様々な感情の籠った暗い眼差しを恭二郎に注いだ。

 二人の間に緊迫した空気が流れ始め、居心地が悪くなった恭二郎は困惑した顔になる。


「あの、あなたはだれですか?」

「ぼくは……」


 少年は睨むように目を細め、よく耳を澄まさなければ聞き取れない、かすれた声で言った。


「お前の、兄だ」

「あに? ……ぼくの、あにうえ?」


 きょとん、と恭二郎は目を丸くして少年を見つめる。

 まだ三歳の恭二郎は兄、という存在の意味をきちんと理解していたわけではない。ただ兄とは自分の家族、あるいは同じ血を引く者のことだと曖昧ながら感覚で理解していた。

 当然、その存在を誰からも知らされていない恭二郎は困惑した。どう反応すべきか分からず、ぽかんと間抜けな顔で立ち尽くす。

 少年はそれを怒ったような、辛そうな顔でずっと見ていた。


「どうして、ここにいるんだ。ここには来るな、って言われていないのか」

「ぼ、ぼく。あそんでて……ここ、どこか、わからなくて」

「迷ったのか」

「あ、はい」


 はぁ、と重いため息を少年は吐く。

 どう見ても友好的ではない姿に恭二郎は身を縮め、おろおろと視線を彷徨わせる。


「――付いて来い」

「え……、あ、まって!」


 しばらくの沈黙の後、少年は恭二郎に背を向けて歩き出した。

 恭二郎は徐々に遠くなる少年の背を呆けた顔で見つめ、慌てて後を追いかけた。どこへ行くのか、と声を掛けるのも躊躇われて、黙ったまま一定の距離を空けて付いて行く。何度か、足元の飛び石が示す道は枝分かれしたが、少年は迷う素振りもなくすいすいと庭を分け入っていく。

 やがて、周囲の樹木が減って見覚えのある光景になり始めた頃、ぴたりと少年は足を止めて恭二郎を振り返った。その暗い眼差しに射られた恭二郎はびくっと身を震わせるが、少年は無視して細道の先を指し示す。


「あっちが母屋だ。もう、こっちには来るな」

「え?」


 それだけを少年は淡々と告げ、さっさと踵を返して細道の向こうに行ってしまう。

 恭二郎も慌てて後を追って行き、ぱっと視界が開けて見慣れた日本家屋が威風堂々と建っているのを見つけた。だが少年はそちらに足を向けず、別の細道からまた庭の奥へ消えていく。

 しばらく恭二郎は呆然と立ち尽くし、ようやく母屋まで送って少年にもらえたことを理解した。その直後に恭二郎を呼ぶ使用人の声が聞こえて来て、はっと我に返る。咄嗟に怒られる、と身を竦めて慌てて使用人の声のする方へ走り出した。


(あ……ありがとう、っていってない)


 そう思い至って恭二郎は振り返ったが、すでに少年の姿はどこにもなかった。


――これが、兄弟の初めての邂逅だった。




 *****





 この後、兄弟が再び出会うのは二年先の話となる。

 景一郎が七歳、恭二郎が五歳の年に初めて二人は両親によってお互いを紹介され、兄は離れから母屋に住まいを変えた。それは景一郎を両親が認めたからではなく、今後のことを考えると体裁が悪いかったからである。異人の血が濃い、と言っても景一郎が長子で後継であることに変わりなく、あからさまにないがしろにするのは良くなかったようである。

 住まいを母屋に移されても、景一郎への扱いは改善されなかった。景一郎の部屋は他の家族の部屋から一番遠い場所に指定され、同じ家に住んでいても滅多に顔を合わすことはない。唯一、朝食の時間だけは家族全員が同じ席に着いたが、景一郎は両親からまるで無視されていた。

 景一郎は両親から向けられる侮蔑の視線を黙って受け止めていた。謂れのない中傷も不遇な扱いも全て無視して、ただ冷めた眼差しを周囲に送っていた。それは恭二郎に対しても変わらず、兄弟は二度目の顔合わせ以降、挨拶さえろくに交わさない日々を続けた。

 幼い頃、恭二郎は景一郎がとても苦手だった。自分と異なる容姿が放つ独特の雰囲気は話しかけ辛く、何より恭二郎を見る目の冷ややかさが恐ろしかった。

 だが歳を取るに連れて、景一郎の置かれた状況を理解できるようになると別の想いが湧いてくるようになった。それは兄と真反対の扱いを受けることへの、罪悪感。ただ父方の血を濃く引いただけで、両親の愛情を一身に受けることへの申し訳なさと兄をないがしろにする周囲への不満だ。

 景一郎の異人の血は、母方の曾祖母から受け継がれた血である。母は日本人の血を濃く受け継いだが、景一郎は覚醒遺伝で曾祖母によく似て生まれた。もともと異人は忌避される傾向にあるが、十澄家においては母が誰よりもその血を疎んでいた。名家に生まれながら異人の血を引き、他者からそしりを受けて来た母は、景一郎を見ると自分の中の異人の血を自覚して酷い嫌悪に陥るようだった。

 私は異人ではない、日本人よ、というのが母のひそかな口癖だった。

 父は異人の血に関して強い批判はしなかったが、その代り弁護もしなかった。父は子どもに関して傍観の立ち位置を崩さなかった。その結果、母はとことん景一郎を異端視し、それは使用人に影響を与えて家全体の風潮となったのだ。

 その成り行きを理解すれば、恭二郎も自分が運よく父に似ただけで母や使用人に愛されていることが分かり、運が悪ければ景一郎と同じ立場になっていたことも理解できた。

 本来は長子である景一郎は屋敷の中で誰よりも愛される立場だったはずだ。次期当主として使用人に敬われ、両親は景一郎を第一に考えただろう。だが現実はそうならず、恭二郎がその立場にいた。屋敷の中では、景一郎を廃して恭二郎を後継にと望む声も高かった。

 自分を押す声を耳にする度に、恭二郎は景一郎への罪悪感を募らせた。景一郎は決して無能ではなかった。不平も不満も零さずに淡々と自らの役目をこなし、それだけの努力もしていた。家の中で誰も認めようとはしなかったが、景一郎はとても優秀だったのだ。

 それを、景一郎の背を見続けた恭二郎だけが知っていた。あるいは父も知っていたかもしれないが、父がそれを態度に表すことはなかった。

 兄弟は家の中でお互いに関して無関心な態度を取り続けた。だが恭一郎が景一郎をひそかに敬慕し、複雑な想いを抱えていたように、景一郎もまた恭二郎に並々ならぬ感情を抱いていただろう。むしろ景一郎の境遇を考えれば、恭二郎へ直接的な恨みを伝えて来てもおかしくはなかった。

 二人の関係が変化を見せたのは、景一郎が母屋で暮らし始めて四年が過ぎた頃だった。景一郎は十一歳、恭二郎は九歳になっていた。当時、二人は同じ学舎に通っていた。それぞれ七歳の時に入校し、学年が違うこともあって別の師に付いて学んでいた。学び舎を同じくすることで二人の接点は増えたが、二人が言葉を交わす機会はやはりなかった。

 学舎には基本的に見分の高い良家の子息子女ばかり集められていた。子どもの世界でも、家格の違いは大きく影響してくる。家格の高さを理由に他者を虐げる子どもも少なからず存在した。十澄家は決して低い家格ではなかったが、侯爵や公家に盾を付けるほど名家でもない。対外的に見ればそこそこの家格の、特筆すべき点のない普通の名家だった。

 恭二郎は学舎に通う子どもの中でも、大人しい子どもだった。周囲の大人の意に従順で、特に家格を理由に権力を奮うことも無く、学力も中の上と言ったところで、本人には目立つ要素は何もない。ただし、兄は学舎でも飛び抜けて目立っていた。もちろん、異人の血の混じった異端な容姿のせいもあるが、景一郎は学舎の中で誰よりも優秀だった。師たちの覚えも目出度く、堂々と学力において学び舎の首位を取っていたからだ。

 本来なら景一郎も、他者に目の敵にされて虐げられてもおかしくはなかった。だが景一郎の紛うことなき実力と他者を寄せ付けない独特な雰囲気が、それを許さなかった。何より、景一郎は他者と関わることを厭う反面、気遣いを忘れないお人よしでもあった。学舎には、分からないところを教えてもらった、師に怒られている時に助けてもらった、拾い物を届けてもらった、そんな些細な恩を持つ者は少なくなく、ひそかに景一郎は学び舎で尊敬を集めていたのだ。

 必然と恭二郎の周囲からの評価は、あの景一郎の弟というものになった。平々凡々な弟の存在は優秀すぎる兄のおかげでよく注目されていた。だから、恭二郎が同世代の子どもに目を付けられてもおかしくはなかった。良家の子息子女であっても、些細なことで上下を決めつけ、虐げることはよくあった。ただ庶民の子どもと違い、虐げられた理由は体格や性格ではなく、平凡すぎる学力や性格にあった。

 その日、恭二郎は学び舎の庭でうろうろと困った顔で彷徨っていた。休み時間の間に、同じ師に学ぶ子どもに教本を隠されたのだ。庭に隠した、と本人に意地悪そうな顔で告げられ、慌てて探しにきたものの、なかなか見つからない。失くした教本は貴重なもので、師から借り受けたものだった。汚すわけにも、まして失くすわけにもいかない。恭二郎は途方に暮れて、一人で探し続けるしかなかった。

 いよいよ日も暮れて、西から暗闇が迫り始める時間帯。普段ならとうに帰宅して、自室で師に教わったことを復習している頃合いだ。恭二郎は庭の繁みに顔と手を突っ込み、がさごそと土に汚れて教本を探した。そろそろ帰らねば、使用人や両親に心配されて大事になると分かっていたが、庭を離れることはできなかった。

 着物も袖があちこち破れ、手は真っ黒に汚れていた。夕暮れの冷たい空気に晒されて、手足も冷え切っている。繁みや木の枝に引っ掛かって、細かい擦り傷が幾つもできた。学び舎にはすっかり人気もなく、空は暗くなるばかりで、恭二郎は焦りと心細さに今にも泣きそうだった。

 近くから声を掛けられたのは、そんな時だった。


「そんなところで、何をしている?」

「っ……あ、兄上!?」


 ぱっと反射的に振り返った恭二郎は、目を見開いて薄暗い庭に立つ人影を認めた。蒼然とした暮れ方でも、うっすらとその白い肌が浮かび上がり、人影の訝しげな表情がよく見える。蓬色の長着に深緑色の羽織姿で、兄が恭二郎に視線を投げかけて来ていた。

 咄嗟に恭二郎はうろたえ、言葉に詰まった。予想外の人物の登場に驚いたこともあったが、簡単に言えば同じ学び舎の同士に苛められている状況を伝えることに、大きな躊躇いと情けなさがあった。

 悔しげに唇を噛んでうつむく恭二郎をしばらく眺め、景一郎はまた口を開く。


「何があった?」


 再度の静かな問いかけは、不思議なほどするりと恭二郎の心に響いた。侮蔑も嘲りも、疑念さえも含まれない声音はむしろ労わるようで、恭二郎の躊躇いを打ち消していく。

 気が付けば恭二郎は、どもりながらも説明していた。


「その、きょ……教本を、庭に隠され、て」

「まだ見つからないのか」

「は、はい」


 景一郎は恭二郎から視線を外して、暗く翳ってきた庭の全貌を見渡した。いつも人の手で綺麗に保たれた庭は恭二郎のせいでところどころ、荒れている。繁みの青葉が地面に散り、樹木の小枝がちらほらと落ちている。極めつけは、恭二郎の普段では考えられない泥だらけの姿が全てを物語っているはずだ。

 なるほど、と景一郎がつぶやく声を聞いて、恭二郎はいたたまれなくなり視線を彷徨わせた。改めて見回してみれば、教科書を探すためとは言え、ずいぶんと学び舎の敷地を手当たり次第に荒らしてしまったようだ。後日、師たちに謝罪しなくてはいけない。

 また恭二郎はずん、と気分を落ち込ませたが、景一郎の次の言葉にぱっと顔を上げた。


「恭二郎、今日はもう帰れ」

「あ、兄上……?」

「それだけ探して見つからないなら、庭に隠されてないんだろう。もう、日が暮れる。使用人たちも騒ぎ出していたから、帰りなさい」

「でも……」


 恭二郎は困った顔でもごもごと言葉に詰まり、その場に立ち尽くす。奪われた教本はそう簡単に諦められない代物で、景一郎の言い分は最もだが、まだ庭にあるのではという想いを拭いきれない。庭でなくても、外に隠されていて、夜のうちに雨が降ればと考えれば気が気ではなかった。

 それを見て取った景一郎は小さく嘆息した後、固い声音で諌めた。


「お前も大事にはしたくないはずだ。……もう少し、自分がどれほど家で大切にされているか、自覚を持った方がいい。特に母上はお前を溺愛しているからね」

「っ……それ、は」


 ただ事実を述べているだけ、というように淡々とした口調で景一郎は言う。だが表情は硬く、わずかに伏せられた瞳は冷やかな色を隠しきれていない。

 恭二郎は反論の余地もなく、顔を歪めて今度こそ返す言葉を完全に失った。確かに母は恭二郎を過剰に可愛がっている。普通上流階級に属する女主人は、子を産んだ後も生育のほとんどを家人に預けるものだ。例に漏れず、景一郎も躾全般を家人の手によって施されている。だが恭二郎は母に手ずからよく教育を受けていた。それは景一郎に手を掛けなかった反動のようですらあるのだ。

 その母が、帰りの遅い恭二郎を殊更心配していることは想像に難くない。完全に日が落ちれば家人に捜索させるなり、警邏に知らせるなり、必ずするだろう。そして父は何も言わず、母を止めもしないはずだ。そうなれば、教本の件は大事になって学び舎の師の下にまで届くだろう。

 恭二郎は自らの想像にさっと顔色を悪くした。それ以上、景一郎に反論することもできず、こくりと無言で頷いた。


「分かったら、急ぐんだ。日が落ち切る前に戻りなさい」


 それだけ告げると景一郎はあっさりと踵を返して、学舎の奥へ消えていく。

 薄闇に紛れていくその背を見送り、恭二郎は戸惑いの表情で小首を傾げた。景一郎は学舎の門のある方向とは逆の方角に向かって行った。おそらく、自宅に直帰する気がないのだろう。ここに至って、恭二郎は何故景一郎がここに来たのか、ようやく疑問を覚えた。

 しばらく難しい顔で考え込み、有り得ないような発想に達する。


「ぼくを、捜しに来てくれた……?」


 使用人たちが騒いでいた、と言っていたから一度は自宅に帰ったはずだ。ちょうどよく、日の暮れる時間帯に学舎に戻って来る用事ができるとも思えない。学舎に用があっても、奥まった位置にある庭まで来るものでもないだろう。にわかには信じがたいが、口に出せば現実感が湧いてくる。

 もう景一郎の背も見えなくなり、暮れゆくばかりの光景を見つめる。カァ、と空からカラスの鳴き声が届いてはっと我に返った。事実がどうであれ、今は帰宅を急いだ方がいい。一気に焦りを覚えて、恭二郎はたっと走り出した。


(兄上は、どこに行ったんだろう)


 帰宅の途に着き、ただそれだけが頭の中を占めた。そのおかげか、失くした教本の行方まで思考が追いつかず、束の間頭の痛い問題を忘れることができた。

 その後、自宅に帰ると屋敷内は蜂の巣をつついたような騒ぎだった。すでに何人か、捜索に出た家人もいるらしく、警邏に通報する寸前であったらしい。泥だらけ、傷だらけの格好を見咎められ確認されたが、恭二郎は曖昧に誤魔化して、心配する母と家人たちに謝り続けた。

 おかげで、当分の間は学舎への行き来に家人が付き添うことが決まってしまった。

 さすがに夜も更けると家人や母たちは寝つき、恭二郎もきっちり怒られ謝罪し尽くした疲労でぐったりと自室の文机に突っ伏していた。寝具は用意されており、すぐにでも寝たかったが、気にかかることがあった。

 今回の件で夕餉は普段より遅く振る舞われたが、その時に景一郎は姿を見せなかったのだ。食欲がなくて自室に籠っているのかとこっそりと部屋を覗きに行ったが、まるで景一郎の気配はしなかった。景一郎は、月が上ってくる頃になっても帰宅していなかった。

 大事な嫡男の不在に気付かず、あるいは無視して振る舞うこの家の何と可笑しなことか。景一郎の不在に気付いた恭二郎は、自分が大事にされているがゆえに忸怩たる想いを抱く。

 だから、今夜は景一郎が戻るまで起きているつもりだった。


(まだお礼を言っていないから)


 景一郎の本心がどこにあるのか定かではないが、彼が恭二郎に心を砕いてくれたことは事実である。不可解に思われても、一言くらいきちんと告げるべきだと思っていた。

 しかし、やはり今回子どもの身体に掛かった負荷は大きかったらしく、決意も虚しく恭二郎はうたた寝をしてしまった。薄ぼんやりとした意識で眠気に抗うが、どうしようもなく心地良い闇が迫って来て、いつの間にか陥落していた。

 ひんやりと急に温度の下がった空気に身をぶるりと震わせ、その反動で目を覚ました。文机から身を起こし、ぱちぱちと瞬いて暗闇をぼんやりと眺める。次第に部屋の中の陰影がくっきりと認識され、その頃には恭二郎も自分が寝過ごしたことを自覚した。

 さっと顔色を変えて、慌てて立ち上がる。障子窓から零れる夜光から、もう夜半というより夜明けに近いように思われた。この時間帯に景一郎が帰宅していないなら、それこそ大事である。恭二郎はあたふたと部屋を出て、景一郎の部屋のある方へ向かった。

 周囲を憚って足取りはそっと慎重なものになったが、強い焦りもあって歩はいつになく速い。景一郎の部屋が遠いことも、要因のひとつではあった。目を覚まして余計に意識される寒さに長着の袖を引き寄せ、中庭に向かい合う縁側を付き抜けようとした時だった。不意に、予感のようなものを覚えて、恭二郎は足を止めた。縁側の手前にある戸の影に隠れ、月明かりに照らされる中庭にそっと視線を這わせた。


「っ……!!」


 ぱっと視界に入った光景に、恭二郎は息を止めて身体を硬直させた。次の瞬間、兄上と動きそうになった口を両手で押さえ、戸の影に意識して身を潜ませる。

 中庭にいっそ幻想的とも言える場景ができていた。煌々と世界を照らす満月の下、中庭の砂利の上に設置された敷石に景一郎は立っていた。その格好は夕方に見た時と同じ羽織の上に、肩からさらに厚い布を羽織っている。その横には、丸みを帯びた小さい異様な生き物がいた。景一郎と対照的な浅黒い肌、何より頭頂部に生えた一本の角が非現実的である。にこにこと愛想の良い子鬼のような生物の頭上には、半透明の美しい少女が浮いている。きゃらきゃらと楽しげに笑う声が、恭二郎の下まで届いていた。

 見たことも聞いたこともない、不思議な生物を二体連れ添わせた兄の姿を、恭二郎はじっと気配を殺して見守った。初めは幻じみた光景に頭が混乱していたが、時間が経つに連れて彼らの様子を探れるほどに冷静になっていた。

 彼らは声を潜ませて、楽しげに会話していた。小鬼はしきりに丁寧なお辞儀を景一郎に向け、半透明の少女は高い声で笑いながら小鬼と景一郎の周囲をひっきりなしに舞っている。その度に微細な風が吹くようだった。

 何より恭二郎を驚かせたのは、景一郎の柔和な横顔だった。家にいる時は見たことのない、自然で温和な笑みを絶えず浮かべていた。身に纏う空気も、優しい月光に溶け込みそうなほど落ち着いていて穏やかである。さながら別人のようですらあった。

 景一郎が彼らに心を開いている、と一目で確信できる有様だった。


(兄上は……やはり)


 だが、その差異の激しさこそが実家での仕打ちの酷さを物語っている。その大部分において、恭二郎の存在が関わっているはずだ。そう考えれば、常々感じていた胸の痛みがさらに鋭くなった気がした。


(だけど、良かった)


 同時に恭二郎はほっと安堵していた。日常生活の中で味方の一人さえ、景一郎にはいない。どれだけ景一郎が他者に好かれようと努力しても、多くの人は評価してくれない。そんな辛い日々にも、景一郎を支えてくれる存在は確かにいたようだ。――それが異形であれ、妖怪であれ、何でも構わないから嬉しかった。

 やがて、彼らは話し終えた様子で、景一郎がひらひらと小さく手を振る。そのすぐ後にお辞儀していた小鬼の身体がふわっと宙に浮き、遅れてぶわっと一際大きな風が吹き上がった。咄嗟に目を瞑り、再び目を開けた時には二体の異形の姿は消えていた。

 恭二郎が唖然と見つめる先で、景一郎は少し名残惜しげに夜空を見上げていたが、身を翻して中庭の敷石を辿り、縁側の方へ近づいてくる。どうやら自室に戻るようだと気付き、恭二郎は慌てて戸の影に身を縮ませる。幸いながら、景一郎の部屋は恭二郎のいる場所とは反対の方角にある。鉢合わせをする心配はなかった。

 縁側のガラス戸をすっと開けて、景一郎は静かに家の中に入り込む。それから恭二郎の存在に気付く様子もなく、景一郎は足音を殺して縁側の奥へ歩いて行く。その背からは、先ほどの柔らかい雰囲気が嘘のように消え、硬質で見慣れた雰囲気があった。

 恭二郎はその背が視界から失せても、しばらくじっと戸の影に固まって動けなかった。この日はどう自室に辿り着き、寝具に入ったのか、記憶が曖昧である。

 次の日、朝食の席に景一郎は姿を現さなかった。使用人に聞けば、朝早くに師と約束があると言って学舎に出向いたようだった。朝一に声を掛けようと緊張していた恭二郎は、良くも悪くも拍子抜けしてしまい、微妙な気分で使用人に付き添われて学舎に向かった。

 門の前で使用人と別れ、学舎に入ったところで恭二郎は横から声をかけられた。聞き覚えのあるそれに、身を固くして振り返る。そこに、昨日教本を奪って庭に隠したと言って来た男子がきゅっと唇を引き結んで立っていた。

 恭二郎は只ならぬ厳しい面立ちをした男子を緊張した顔で見つめる。また意地悪な言葉を掛けられるかと身構えたが、男子は何も言わず睨み付けてくるばかりだった。


「……あの、」

「――これっ!」


 意を決して教本の返却を求めようとした恭二郎は、男子が勢いよく背後から取り出したものを見て呆気に取られた。それは昨日彼に奪われた、師から借り受けた教本だった。端の方がよれているが、目立つ損傷はない。恭二郎は昨日必死になって探した教本と男子に交互に視線を向け、困惑して立ち尽くした。

 何故、奪い取って隠した張本人がその手で返しに来るのか。恭二郎は事の流れがさっぱりと分からなかった。教本を受け取ることも忘れて、男子を眺める。景一郎に声を掛ける以上に、目の前の男子に掛けるべき言葉が分からなかった。

 男子は気まずそうにちらちらと恭二郎を見て、半ば怒鳴るような大きな声で言った。


「きっ、昨日は悪かった! お前のもの、盗んで……庭になんて、隠してなかったんだ。ちょっと意地悪するだけのつもりだった。っもう、しないから。本当に、ごめん。許してくれ」

「え、あ……うん。ぼくも、君の気に障ることしたのかもしれない」

「それはっ、お前が悪いんじゃない。……見苦しい真似をして、本当にごめん」

「う、うん」


 勢いを失って悄然と項垂れる男子を恭二郎は戸惑い、眺める。周囲に流れ出した重苦しい空気に息を詰まらせ、恭二郎は落ち着きなく視線を逸らした。どよん、と淀んだ空気は改善されず、事態は膠着したまま、しばしの時間が流れる。

 恭二郎は少し辟易とした想いで、目の前の男子を改めて見た。それから事態を打破するため、おそるおそる当初からの疑問を投げかけた。すなわち、いきなりどうしたのか、と。どう見ても男子の変貌は急激で、これだけ必死に謝る誠実さを男子が初めから持っていたなら、そもそも意地悪をすることもなかったはずだ。

 男子は罰が悪そうな顔で、神妙に語った。


「昨日、夕暮れ時に人が来たんだ。その人に言われた。――君は自分の行いを恥じずにいられるのか、って。よく分からなかったけど……あの人に聞かれたら、急に自分が恥ずかしくなった。弟とか、両親にこんなこと知られたら俺、自分が恥ずかしくてたまらなくなるって思ったんだ」

「……そうなんだ」


 だから謝りに来た、と真面目な顔で告げられ、恭二郎は相槌を打つことしかできなかった。男子を訪ねた人が誰かなど聞かなくても分かる。教本の件を知っているのは、当事者である恭二郎と男子、それ以外では景一郎しかいない。図ったように、他者がそんなことを子どもに聞くとも思えない。また一つ、お礼を言うべきことが増えた。

 その後、恭二郎は男子から教本をきちんと受け取って、何度も謝罪をされながら別れた。昨日とは態度を一変させた男子に戸惑いはあったが、これからは良い友人付き合いができそうな気がした。実際、大人になって互いの道を歩み始めても、男子とは友人として深い縁を持つことになった。

 その日は師の説法もろくに頭に入らないほど、この二日の出来事がぐるぐると思考を占拠した。六年前と同様にさりげなく助けてくれた景一郎へ、どう言葉を掛けるべきか。ありがとう、と一言残すだけでは足りないと思ったからこそ、悩んでいた。


(ぼくはもっと、兄上と話してみたい)


 いつも景一郎は何を考えているのか。恭二郎のことをどう思っているのか。少しずつでいいから景一郎のことを知りたかった。それは今までも心の隅で感じていたことだったが、この時ほどそれを切望したことは後にも先にもなかった。

 使用人の迎えを待って帰宅した後、恭二郎は景一郎の帰宅を待った。恭二郎は学舎で用事を済ませるとすぐに帰宅するが、景一郎は暮れ方に帰宅するのが常である。酷い時は昨日のように、朝帰りすることさえ、少なからずあった。

 恭二郎が帰宅すると出会う使用人たちは必ず、お帰りなさいと迎えの言葉を掛ける。だが景一郎が帰宅しても、使用人たちは必要以上に口を利かず、ただ頭を下げて脇を通り過ぎるだけだ。意図的に誰もが無視しているから、景一郎の帰宅を察知することは意外に難しかった。

 例に漏れず、この日も恭二郎は事前に景一郎の帰宅を察知することはできなかった。夕餉の時にふらりと姿を現したのを見て、帰宅を知ったほどである。この時ばかりは、広すぎる邸宅の構造が憎らしかった。

 就寝の時間帯が迫るとようやく恭二郎の周囲から使用人が消える。それまでは常に誰かが、恭二郎に目を配っていて家では景一郎に気安く声を掛けることはできないのだ。恭二郎は焦れながらその時を待ち、景一郎の部屋へ他者の目を憚りながら向かった。気配を潜ませて廊下を付き抜けて行くと緊張でドキドキと心臓が音を高めた。

 恭二郎の部屋とは真反対の位置にある景一郎の部屋に近づくほど、屋敷の喧騒とは遠ざかって過疎性を増して行く。いよいよ近くまで来ると自分の息さえ憚る静寂が廊下の辺りを覆う。人に囲まれ慣れている恭二郎には、それが寂しく見えて仕方なく、苦々しい想いをぶり返させる。

 景一郎の部屋のふすまを目にして、恭二郎は足を止めた。いざ、実行に移すとなると尋常ではない緊張で息を呑む。この九年間、ずっと躊躇ってできなかったことをしようと言うのだから、仕方ないことだ。

 だが恭二郎が一歩踏み出す前に、すっと目の前のふすまが横に開いて景一郎が出て来た。景一郎は廊下に出て恭二郎を認めると驚いた顔になる。すっと驚きはすぐに消え、秀麗な眉が怪訝そうに顰められた。意外、とその顔が言外に告げている。

 予想外の遭遇に恭二郎は慌てて口を開いた。


「あの、兄上」

「何か用でも?」


 淡々と感情の籠らない声で景一郎に問われ、早くも恭二郎はくじけてしまいそうになる。恭二郎はぐっと躊躇を呑み込み、まっすぐ景一郎を見た。そこだけは同じ、漆黒の瞳とぶつかる。

 意を固めると言葉はすんなりと口を出た。


「――ありがとうございました」

「……何のことだ?」

「心当たりがないなら、それでもかまいません。兄上にぼくが勝手に助けられたんです」

「そう、か」


 景一郎にも心当たりはあるらしく、ひとつ頷いて感謝の言葉を受け取る。

 恭二郎は変化をほとんど見せない白皙の顔をじっと眺め、不意に昨夜の光景を脳裏に思い浮かべた。あれほど柔らかい面差しを見せた顔は、別人のように無機質で触れ難い。だがどちらも違わず景一郎で、硬質な態度を取らせているのは恭二郎だ。

 そのことに気付いた恭二郎は、怖れを忘れて切り出していた。


「その、もし邪魔にならないなら……ぼくに勉学を、教えてもらえませんか」

「それはかまわないけど。……いいのか?」

「はい。ぜひ、お願いします」


 景一郎が何を以ていいのか、と確認したのかは理解していた。この家には嫡男の景一郎に関わるべからず、という暗黙の不文律が出来上がっている。もし表だって景一郎を庇えば、家の女主人である母が許さない。使用人なら追い出される可能性もあるが、たとえ母が良い顔をしなくても、恭二郎には大きな問題ではなかった。

 恭二郎が決然と頷くのを目にして、景一郎は小さく無言で頷いた。

 それにぱっと顔を輝かせて、恭二郎は頭を下げる。


「ありがとうございます! もう今日は遅いので、明日にでもお願いします」

「ああ。何かあれば、聞きにきてくれ」

「はい」


 ここに来るまでとは真反対の喜びを隠せない表情で、恭二郎は勢いよく頷く。

 景一郎は落ち着かなげに視線を逸らした。そのまま話は終わりとばかりに、また自分の部屋に戻ろうとする。どうやら部屋の前に立つ訪問者が気になって出て来ただけのようだ。

 恭二郎は慌てて、ふすまを閉じようとする景一郎に声を掛ける。


「お、おやすみなさい、兄上」

「……おやすみ」


 ふすまを引く手を一瞬止め、景一郎からも言葉少なに返事があった。

 それだけのことに、恭二郎はいたく感激する想いだった。先ほど以上に胸は高鳴り、体温が上昇して頬は上気していた。恭二郎はにこにことした顔で踵を返し、足取りも軽やかに自分の部屋に戻る。幸いにも、使用人と出会うことはなく、嬉しそうな様子を見咎められることもなかった。


――これが初めて兄弟がお互いに歩み寄ることにした瞬間である。


 これ以降、主に恭二郎から積極的に景一郎に声を掛ける形で、徐々に二人は関係を変えていくこ

とになる。本当にゆっくりと景一郎は恭二郎に心を開き、時には笑いかけてくれるようなるまでは十年近い年月が必要となった。



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