番外 上
しとしとと小雨が窓の向こう側で降り続いている。空は薄く広がる灰色の雲に覆い隠され、太陽の光は地上に届かない。雨音は小さいながら途切れることはなく、確実に外の世界を濡らしている。
外と内を隔てるガラス窓から十澄は静かに外の様子を眺めていた。
この雨が降り出したのは、だいたい一日ほど前だったか。睡蓮邸は良くも悪くも時間の流れが緩やかで時間感覚を麻痺させるため、その辺りは十澄も曖昧で自信がなかった。
それより問題なのは、睡蓮邸の空模様が一貫して変わらず、小雨続きだということである。
不思議なことに睡蓮邸の天候は客がいる時は客の感情を、それ以外の時は睡蓮邸の住人の感情を反映したものとなる。客が睡蓮邸で暴れた時は雷が落ち、睡蓮邸の主たる紅姫が微笑めば季節に関わらずうららかな日差しが降り注ぐのだ。
感情と言うのは変化しがちで、雨が降るにしても一定の雨足が一時間以上続くことはほとんどない。それが、雨足すら変えずに何十時間も雨が振り続けている。異常と呼んで差支えない事態であった。
「まったく……」
十澄は一向に変化の兆しを見せない空から視線を逸らし、はぁとため息を吐く。
この異様な天候の原因を十澄は知っていた。ここ数日は妖怪の客足も遠退いて睡蓮邸には住民しかいない状態が続いている。つまりこの天気の原因は睡蓮邸の住民にあるのだ。
ちらりと十澄は視線を今いる部屋の中央に移す。
睡蓮邸の最南端、蓮華の間と呼ばれる紫を基調にした和風の部屋の中央には、睡蓮邸では滅多に見かけられない寝具が敷かれている。それに横たわっているのは、睡蓮邸の主・紅姫その人だ。
艶やかな長い黒髪を敷き蒲団の上に広げ、寝着に包まれたあどけない顔は青白く、長いまつげは下りたまま上がらない。元の肌の白さや華奢な身体つきも手伝って、眠る紅姫の横顔は触れれば消えてしまいそうなほど儚く見えた。
降り続く小雨の原因、それは紅姫の意識不明という状況にあった。
「心配するな、なんて言われてもねぇ」
無理に決まっている、と十澄はつぶやく。
彼女の意識不明には明確な理由がある。十澄も彼女が寝込む前に紅姫から直接理由を聞かされていた。
紅姫は妖怪に唯一の安らかな眠りを与える墓守の一人だ。常に睡蓮邸を訪れる、永劫に続く長い生に絶望した妖怪たちを受け入れる睡蓮邸の主。妖怪以上に果てしない月日を生き続けなければならない墓守たちは、百年に一度、その魂を癒すために深い眠りに就く。
その百年目を今、紅姫は迎えているのだ。
墓守はただの人間には理解が及ばないほど永い歳月を生きていく。永劫の寿命を持つ妖怪でさえも永い時の流れに死という安寧を求め、墓守の下を訪れるのだ。彼らは自ら死を望めば終わりを迎えられるが、墓守に終わりはない。死という“救い”を持たない墓守たちは、長い時に魂と精神が摩耗し狂ってしまわないように深い眠りに就く。
百年周期の眠りが訪れた、長くても五日、最短で三日も経てば目覚めるだろうと紅姫は十澄に説明し、深い眠りに就いた。それ以来、紅姫は青白い寝顔を晒している。
紅姫が眠ってどれほど時間が過ぎたのか曖昧だが、十澄はそれから一時たりとも彼女の傍を離れていなかった。
――恐ろしいのだ。もしかしたら、彼女はもう二度と目覚めないのではないか、と要らぬ邪推が脳裏をよぎって仕方がない。
その懸念を睡蓮邸の住民も、紅姫自身も否定した。他の墓守も、これまでの永い時の中でも、眠りから墓守が戻らなかった例はない。
そうと分かっていても。
「……これを見てしまったら、信じられないよ」
苦々しい表情で十澄は立ち上がり、眠りに就く紅姫の傍に寄って腰を降ろす。
十澄はこれまで紅姫が眠っているところを数度しか見たことがない。睡蓮邸において、定期的な睡眠を必要とするのは人間の十澄だけだ。墓守の紅姫も、妖怪や精霊と言った人外の存在たちも生きていくために睡眠を必要としない。眠ることはできるが、それぞれの好みの範疇の問題だ。
紅姫は十澄の睡眠時間に本当に時折、面白半分で付き合って眠ることがある。十澄の知る紅姫の寝顔とはその時のもので、少なくとも今回のように青白い、病的な寝顔ではなかった。
今の彼女の、触れれば壊れてしまいそうな危うい雰囲気が、十澄に一抹の不安を与えている。
「早く、起きてよ。十純」
この眠りは墓守の紅姫にとって生きていくために必要不可欠な要素だ。
しかしそれを解っていてなお、十澄は切実にそう願ってやまない。十澄は人間の世界と縁を切って選び取った現在の生活が、ほんの偶然と小さな奇跡の上で成り立ったものだと思っている。それは何でもない弾みで壊れてしまいそうで、時折恐ろしくなる。
だから今この時が、不安にじわりじわりと侵食されて恐ろしい。
「十純」
吐息に紛れるほど小さく囁いて、十澄は手を伸ばす。敷き蒲団の上に広がる、艶を落とさない紅姫の黒髪を一房、拾い上げる。
手の平からさらさらと黒髪を落ちるのをじっと見つめ、十澄は自嘲気味に笑った。
「ぼくは弱くなったのかな」
たったこれだけのことで、これほど動揺する自分が十澄は信じられなかった。
生まれは裕福な家であったが、家庭環境には恵まれていたとは決して言えない。体面的な問題で顕著な暴力こそ振るわれなかったが、誹謗中傷は日常茶飯事、どこに行っても好奇心や不信の混じった目で見られ、心の休まる場所は幼い頃から通い詰めた睡蓮邸にしかなかった。
それでも十澄は敵にしか見えない周囲の人間たちに害されないよう、くじけないよう、それなりに精神を強固に頑なにする術を得ていたはずだ。些細な不安や傷ごときで歩みを止めてしまう不安定さは削ぎ棄てていた。
(昔なら、こんなことはなかった)
十年以上前、紅姫と永久に会えなくなるかもしれないという時でさえ、自暴自棄な面もあったとは言え、今ほどあからさまに不安定な気分にはならなかった。
本当に大切な居場所を見つけ、そこに居座ることを決めて十年と少し。睡蓮邸の特殊さゆえに苦労もあったし、時には命の危機すら感じたこともある。
(……でもここは、本当に居心地が良すぎたんだ)
十澄はもう抜け出せないほど、どっぷりとその沼にはまり込んでしまった。いまさら、手放せないのだ。
あまりの自分のふがいなさに、十澄は再度深く短いため息を吐く。
その時、蓮華の間に備え付けられたふすまの一つが、すっと横に開いた。
「あらぁ、まだ起きてたの?」
涼やかな微風と共に入ってきたのは、半透明の姿でふわふわ浮いた風切姫である。風切姫は十澄を認めて小首を傾げると風に乗って傍に寄ってくる。
普段の風切姫なら盛大な音を立ててふすまを開け、小さな竜巻を思わせる勢いで話しかけてくる。くるくるとよく動いてよく喋る、それが十澄の風切姫に対する印象だったが、紅姫が眠りに就いてからはそれもなりを潜めていた。
風切姫もまた、十澄ほどではないにしろ、眠りに就いた主を気遣っているのだ。
紅姫が眠りに就いてから、睡蓮邸はいつにも増して静かになっていた。その日常から離れた空気がまた、十澄の不安を煽る原因にもなっている。
風切姫は可愛らしい顔をしかめて、ほらほらと催促する。
「もう夜でしょ。人間はひ弱なんだからとっとと寝ちゃいなさいな」
「うーん……、それができたらいいんだけどね」
「んもぅ、まだ心配してるわけ!? 紅姫様は大丈夫よ、これまでだって何にも起こらなかったんだからね。貴方たち人間だってよく寝るじゃない。紅姫様もそれと一緒よ! ちょっと人間より周期が長いだけなの」
「そう言われるとぼくも反論できないなぁ」
十澄とて、この不安や心配が杞憂だと理性では分かっている。それでも感情は納得できず、こうして一睡もせずに紅姫の傍に付いているのだ。
それを風切姫も理解しているのだろう。風切姫は困った子を見るような目で十澄を眺め、子どものように頬を膨らませる。
「十澄ってば、昔からそういうところは頑固よねぇ。もう少し柔軟になったらどう?」
「……」
風切姫の言葉も最もで、十澄は何も言えずに苦笑を洩らす。十澄としても、そうしたいのは山々であったが、生まれ持った性格ばかりは矯正し難い。何よりもっと器用だったなら、十澄は今ここにいることはなかったかもしれない。
十澄の表情を見た風切姫は不満そうな顔のまま言った。
「ま、いいけど。それより、紅姫様の隣でもいいから横になっておきなさい。もしかしたら眠れるかもしれないわよ? それに紅姫様が起きたらお客様はどどっと来るんだからね、あんたの寝る暇なんてないわ」
「……うん。そうするよ」
本来、睡蓮邸には一日も途切れることなく妖怪の客たちが訪れるものだ。その唯一の例外が、墓守たる紅姫の百年に一度の眠りの時期である。紅姫が眠る間、睡蓮邸は妖怪の目から逃れて客の訪れを拒む。しかし睡蓮邸を求める妖怪たちの数が減るわけでもないので、紅姫が眠りの期間を過ぎた後は怒涛の勢いで客たちが訪れるらしい。
十澄も彼女の眠りの期間に遭遇するのは初めてだが、客が一日に何体も訪れて屋敷中が騒がしくなるのは容易く予想できた。
そして客が睡蓮邸に滞在する間、十澄は一睡もできない。睡蓮邸では紅姫の傍に控える以外に取り立ててすることもない十澄だが、客のいる時の最大の役割は無事にいることなのだ。
自由奔放な妖怪たちは自制を知らない。他人の屋敷であっても土足で踏み込んで騒ぐし、平気でそこらのものを食べたり壊したり害したりする。
うっかり、一人で客に遭遇してしまった時はまず逃げだすのが賢明だ。毒を嗅がされる、殺されかける、喰われかける、玩具にされる、など何をされるか分かったものではない。
ただでさえ人間は非力な生き物なのだ。妖怪を相手取った大立ち回りは、妖怪退治を専門とする者くらいにしか不可能である。
十澄は紅姫が目覚めた後の苦労を想像して、大人しく風切姫の言葉に従うことにする。眠れるかはどうかはともかく、少しでも身体を休めておいた方がいい。
「ほらほら、早く準備しなさいな。時間はそんなに残ってないわよ、きっと。すぐに寝具は鬼丸に持って来させるから」
「時間がないって?」
もし紅姫の話の通りなら、あと一日以上は目覚めないはずだ。それならば、十澄が身体を休める時間もそれなりに残っている。
不思議そうに十澄が小首を傾げると風切姫は秀麗な顔にしわを寄せて言う。
「それがねえ、今回は少し早くお目覚めになりそうな気配なのよ」
「十純が? というか、そんなこと分かるのか」
「分かるわよ。何年紅姫様にお仕えしてると思ってんの」
自信満々に風切姫は胸を張り、細い指を立ててくるっと回す。それと同時に微風が部屋の中に吹いて、開けっ放しになっていたふすまを抜け、さぁっと廊下の方角へ駆け抜けていく。
おそらく風に乗せて鬼丸に伝言を届けたのだろう。寝具を一式蓮華の間に持ってこい、と。風送りと呼ばれるそれは相手の耳元で囁くように言葉を伝える技である。唯一の欠点は風切姫からの一方通行であることだ。
「そうね、紅姫様の顔色を見てごらんなさい。少し顔色が良くなってるでしょ?」
「……うん、まぁ、初めに比べれば」
二人の視線の先では、真っ青な顔色で紅姫が眠っている。
眠りに就いた当初は紙のように真っ白な顔色で、端正な顔立ちと相まって精巧な蝋人形を思わせる様相をしていた。それは誰が見ても彼女の生命の危機を懸念せずにはいられない様子で、当初に比べると顔色は若干良くなったとは言え、いまだに十澄は心配になってくる。
複雑な表情をする十澄の頭上で、風切姫は説明を続行する。
「例年だと、これくらいの顔色になるのに三日は必要だったはずなのよ。でも今回は回復の速さが尋常じゃないわ。紅姫様は早ければ三日、なんて仰っていたけど紅姫様ご自身が三日で目覚められたことなんてないの。あれは他の墓守の方の例よ。――でも、この分だと三日と言わないわね」
もっと早く目覚められるかも、と風切姫は冷静に分析する。
今回初めて紅姫の眠りを体験する十澄には判断材料もないため、風切姫の言葉を信じるしかない。
「何となく分かったけど……何で、回復が早いんだろう?」
十澄が小首を傾げていると風切姫が眉を顰めて見てくる。
「風切姫?」
「うーん……、確証はないけど、貴方のせいかしらね?」
「ぼく?」
「だって、今までとの違いはそれしかないじゃない」
「そりゃ、そうなのかもしれないけど」
風切姫と十澄は不可解そうな顔を見合わせる。
十澄としても、自分が原因と言われても何をした覚えもないので困惑するしかない。第一、紅姫の目覚めが早くなることは良いことなのか、悪いことなのか、それすら判断は付きかねる。
二人の間に微妙な空気が流れ始めた時、ちょうどよく蓮華の間の入り口に何かの気配を感じた。
「……あれ?」
「あらぁ、蒲団に足が生えてるみたいねえ」
開け放たれたふすまの先、本来なら入室者の姿が見えるはずだが、今二人の側から見えているのは、敷き蒲団や枕の積み重ねられた寝具一式とその下にちょこんと生えた二つの小柄な足だった。
風切姫の言葉の通り、寝具から足が生えた新手の妖怪のようである。もちろん、そんなはずもなく正体は抱えた寝具で姿の見えない鬼丸だ。
「ひつれい、いたしまふ。ひんぐをおもちひたひました、そずみさま」
ふがふがと何かに口を塞がれたような声が届く。抱えた蒲団に顔が埋もれて上手く話せないのだ。
十澄は無意識に緩みそうになる顔を意識して引き締めた。ここで笑えば、いたく鬼丸を傷つけてしまうと配慮した結果だった。
しかし付き合いの長い風切姫はあっさりと笑い声を上げる。
「ぷっ、くくく、あははは、何よ、その格好! 鬼丸、貴方の今の格好を鏡で見せてあげたいわ!すっごく面白いわよ」
「ふぬぬぬ、わたしはへつにわらいほさそってるふぁけでは」
蒲団の向こう側で、涙目で顔をしかめる鬼丸の顔がありありと想像できた。つい、十澄も堪えきれなくなって口元が緩む。蒲団のおかげで鬼丸にそれを悟られなかったことだけが救いだ。
「ありがとう、鬼丸。それ重いだろ、代わるよ」
十澄が寝具を受け取ろうと近寄ると寝具がふるふると横に揺れた。
「鬼丸?」
「ひひえ、ほずみさまのおてをふぁずらわへるわけにはひきません」
「いや、でも……それぼくが使うものだし」
困った顔になって十澄が言うとまた寝具は拒絶するようにまたふるふると揺れる。
その様子に笑いを抑えながら眺めていた風切姫が割って入る。
「いいのよ、十澄。鬼丸にやらせなさいな。それが鬼丸の性分なんだから」
「……分かったよ」
十澄は苦笑して大人しく引き下がる。
鬼丸の世話焼き気質は幼い頃に睡蓮邸に入りびたり始めてから今までで、嫌と言うほど理解していた。多少ドジな面を除けば、彼は立派な使用人気質なのである。
許可を得た鬼丸は蓮華の間の中央にとことこと歩いてくる。自分の身体より面積のある寝具を抱えても、その足取りはしっかりとしている。鬼丸は危うげない動作で寝具を床に下し、てきぱきと無駄なく寝具を広げていく。
ものの数秒も経たずきっちり揃えられた寝具を眺め、十澄は感嘆の吐息を洩らした。
「ありがとう、鬼丸。面倒を掛けさせたね」
「いえいえ、お気になさらないでください。私は十澄様のお役に立てれば満足でございます」
「そうよぉ、鬼丸は働かせてなんぼなんだから」
余りと言えば余りの風切姫の言い様にも、鬼丸はにこにこと笑って頷く。
十澄は鬼丸が何かに怒ったり、面倒くさがるところを一度も見たことがない。他の者にしても、鬼丸のそんな姿は見たことがないらしい。
たまには休みでも取れば、と思って進言したことがあるが、本人は暇な時間があると逆にそわそわしてしまうと困った顔で言っていた。鬼丸にとっては働くことが趣味なのだろう。
「それでは、良きお眠りを、十澄様」
深々と頭を下げて鬼丸はそそと蓮華の間を出て行く。
それに風切姫もふわふわと宙を移動して後に続いた。
「しっかり休みなさいよー?」
「うん、善処するよ」
「信用ならない答えねえ」
懐疑的な視線を十澄に向け、風切姫はため息を吐く。それ以上は言っても無駄だと風切姫も悟ったのだろう、文句はそれだけに留めて蓮華の間を出て行った。
ゆっくりと絶妙な風加減でふすまは閉まる。
紅姫と二人きりで残された十澄は、眉を下げ申し訳なさそうな顔でふすまを眺めていたが、首を振って視線を寝具に移す。
あれだけ言われたのだ、ふりだけでも眠る態勢になった方がいい。
「次に目が覚めた時には……会えるかな」
十澄が目を覚ました時、紅姫も目を覚ましていたらいい。
望みの薄い願望を口にして、十澄はごそごそと用意された寝具に横たわる。横を向くとすぐ傍に紅姫の人形のように端正な顔が目に留まった。
しばらくじっと紅姫の青白い横顔を見つめ、そっと手を伸ばす。掛け蒲団の下に隠れていた紅姫の華奢な手を取り出して握り締めた。ほんのわずかだが、確かに生物の体温を感じる。
「……お休み、十純」
十澄は紅姫と手を繋げたまま、ゆっくりとまぶたを閉じた。十澄の意識は変わらず明朗で、なかなか眠りの訪れる兆しはなかったが、紅姫の手から伝わる微かな体温が徐々に十澄に安らぎを与えてくれる気がした。
ぴちょん、と耳に入っても気付かないような小さな音を捉えた。
うつらうつらとした意識には、些細な音は捉えても認識するまで及ばない。ぴちょん、と長い間を置いて続く音を聞くともなしにぼんやりと耳にする。
ふと自分の身が普段と比べて温かい気がした。熱すぎるわけではない、新たなまどろみを誘うような魅惑の温かさだ。ずっと、その温もりに身体を浸していたくなる。
うっすらと目を開くと温かさに違わぬ、穏やかな日差しが降り注いでいるのが判った。
(……日差し?)
そこでようやく、違和感を覚える。最近はこれほど落ち着いた天気を見た記憶は――
「っ……!?」
次の瞬間、十澄は息を呑んで目を見開いていた。
太陽の日差し、それは紅姫が寝込んでから久しく睡蓮邸に訪れていなかった自然の恵みである。睡蓮邸の主がその深い眠りから目覚めない限り、見られないはずだった。
今までゆっくりと覚醒に向かって移ろっていた意識は、すでにこれ以上ないほどはっきりとしていた。ほとんど飛び起きるように上半身を起こし、何かを探して視線を彷徨わせる。
「おや、もう少し寝ていても良かったであろうに」
少し残念がるような、透き通る声に惹かれて視線を一点に寄せる。
そこには白い寝着姿で敷かれた寝具の上に座った、恐ろしいほど美しい少女がいた。寝着から覗く肌はより白く、小ぶりな唇は健康的な桃色、背より長い髪は艶やかで、その双眸は夜を思わせる純粋な漆黒だ。
十澄はどれほど傍にいても見慣れない美貌の女性を呆然と見つめた。
「十、純」
「良い眠りであったか? 十澄」
「……それは、ぼくの台詞じゃ、ないかな」
普段と何も変わらない調子で問いかけられ、十澄は混乱をきたしながらも言い返す。
紅姫は端正な顔に微笑を浮かべ、それもそうじゃなと頷く。
「えーと、ずいぶん……早かったね?」
「眠りのことかの?」
「うん」
風切姫から紅姫の目覚めの時が例年より早まっているとは聞いた。しかし眠った感触からして、十澄はあれからそう長くは眠っていないだろう。少なくとも一日は経過していないはずだ。それを考えると異例の速さで紅姫は目覚めている。
紅姫も考え込む様子を見せる。
「ふむ。そうじゃな、今回はわらわの魂に掛かった負担が少なかったということであろう。眠りの深さは魂に蓄積された疲労の度合いに寄るゆえ」
「そっか。それは良いこと、だよね?」
「無論じゃ」
眠りに落ちる前の風切姫との会話を思い出しつつ、十澄はほっと安堵する。起きてすぐに緊張で強張った身体が弛緩して、どっと身体の重さを感じた。ゆるゆると息を吐き出し、今まで寝ていた寝具に再び身体を横たえる。
紅姫はまだ何かを考え込んでいるようだった。
「……十純」
「何じゃ?」
「風切姫が言ってたんだけど、今回の目覚めが早かったのはぼくのせい?」
「ううむ、その可能性は高いの」
紅姫は華奢な身体を動かして隣の寝具に横たわった十澄の真横に寄ってくる。そのまま、寝起きにも関わらず弱冠疲労の見える十澄の顔を覗き込む。
十澄は目を瞬かせて、何も言わずにその行動を見守っていた。
「十澄よ、わらわたち墓守が百年で積み重ねる魂の傷で、最も大きな傷は何だと思う?」
「最も大きな傷……?」
「そうじゃ、簡単に言えば心の傷かのぅ」
あどけない顔に似合わない、年を経て得た穏やかな表情で紅姫は笑っている。
十澄はしばらく一人で頭を悩ませたが、所詮三十年と少ししか生きていない人間には確信を持って言える答えはなかった。
分からない、と正直に首を横に振ると紅姫は一瞬だけ瞑目して答えた。
「――孤独じゃ」
「……孤独?」
「そう。わらわたち墓守は常に独りきり、例えどれほど他の者が使えてくれようとも、あやつらは客を墓池に送るわらわの傍にはいてくれぬ。独りで多くの死に触れ、その終わりを見送る……それはとても、重く寂しいものじゃ。わらわたちには死すらないと言うに、その死を他の者に贈らねばならぬ。――その羨ましさや醜い嫉妬、そして独りで延々と使命を果たす孤独感。それこそが、墓守の最大の魂の傷よ」
紅姫は淡々と事実を語っていたが、その表情は雄弁に内心を表現していた。夜を秘めた瞳には暗い影がちらちらと浮かび、いつも柔らかに持ち上がった頬は強張っている。
千年どころではなく何万年の歳月を歩み、傷つきぼろぼろになった墓守の姿がそこにあった。
(……あぁ、やっぱり)
滅多に見られない紅姫の弱った姿を、十澄は納得と少しの既視感を覚えて見つめる。
誰よりも熟成した女性の中にこの弱さを初めて見つけたのは、十澄がまだ幼い子どもの時分だった。睡蓮邸に入りびたり始めて一年ほど経った頃に、やっと十澄は紅姫の傷を認めた。
それは他の誰とも違う、異物として扱われる自分の孤独によく似ていて。誰も傍にいてくれない、どこにも自分と同じ存在がいない、そんな寂しい傷だ。
だから十澄は紅姫の傍にいようと決めた。紅姫に無茶を言って頼み込んで、彼女が妖怪たちの魂を墓池に眠らせるその時も、ずっと傍にいようとした。そのせいで何度身体に傷を作ったか分からないが、今でも十澄はそれをやめようとは思わない。
客が来る度に紅姫や睡蓮邸の住民に心配を掛けてしまい、申し訳なくなる。それでも今の紅姫の言葉と態度を見れば、十澄の選択は間違っていないと思えるのだ。
「……ぼくは少しでも君の傷を減らせた?」
すっと手を伸ばして、紅姫の強張った頬に触れて問う。
紅姫は一瞬泣きそうな顔をして微笑んだ。
「これでもお主には感謝しておる」
「それは、ぼくの台詞なんだけどな」
初めに手を差し伸べてくれたのは紅姫の方だった。彼女が十澄を地獄のような世界から助け出してくれたから、十澄は紅姫の手を取ることができたのだ。
紅姫は頬に触れる十澄の手の甲に自分の小さな手の平を重ねる。
「わらわは怖い」
「……十純?」
「お主は人間。高い知性を持つ生き物の中で最も弱く、儚い生き物じゃ。……お主もまた、いつかわらわを置いて逝く」
「それ、は」
反論できない真理に十澄は言葉を詰まらせる。
単純に考えて、十澄が紅姫を置いて逝くことはあっても紅姫が十澄を置いて逝くことはない。生まれ持った身体の機能が違う。二人の別れは必ず、いつか訪れるだろう。
だが十澄はそれでも反論せずにはいられなかった。例えそれが、夢よりも脆い考えであっても。
「大丈夫だよ、十純」
「ほう?」
「ぼくは十純を置いて逝かない。ぼくの時計は君が消滅する瞬間まで、針を止めたりしないよ」
「……何の保証がある?」
「さぁ、この場所では有り得ないことも現実になるみたいだから」
十澄は曖昧に微笑んで、十年経っても張りの一向に衰えない自分の手に視線を向ける。
その言葉の意図を読んだ紅姫もじっと十澄の顔を見つめた。
「お主は変わらぬな」
「そうだね。君か、ぼくか、それとも他の何かが……そうなることを望んでる。だからぼくは十純から離れたりしないよ」
しばらく二人は互いに無言で見つめ合ったが、どちらからともなく表情を崩した。
「よい、わらわがつまらぬことを申した」
「ぼくもだ」
例え墓守とは言え、これから先に広がる未来は分からない。十澄の言葉が成るか、違えられるか、それも永い年月が経てば自然と分かることだろう。
紅姫は身を引いて十澄から少し身体を離し、自分の寝具の上に戻る。
「不思議なことに、わらわはまだ眠い。今しばらく寝ることにする」
「そっか。じゃあ、一緒に寝よう」
「ふむ、新鮮じゃな」
「普段十純は寝ないからねえ」
二人は面白そうに顔を見合わせると自分たちの寝具に身体をごそごそと潜り込ませる。
十澄は自然な動作で隣の紅姫に片手を差し出していた。
紅姫は目を細めてそれを見つめ、同じように手を差し出して握る。
「懐かしい。お主が子どもの頃、よく泣き寝入りしておった時にこうして手を繋いでやったものじゃ」
「そうだったかな」
「そうじゃ。あの子どもが、もうここまで大きくなるとはのぅ」
人間の成長はほんに早い、と寂しさや懐かしさの混じった眼差しで紅姫はつぶやく。だがその目はすでに押し寄せる眠気でとろんとしてきている。
普段見ることのできない眠気の混じった表情は、紅姫の容姿をさらに幼く見せる。とろとろと紅姫の目は閉じられ、ほどなくして穏やかな寝息が辺りに響く。今の紅姫の顔色は以前よりも回復して、本当にただの少女が寝ているように見えた。
十澄はじっと紅姫の眠る様子を眺めていたが、ふっと微笑んで目を閉じる。
やがて蓮華の間に二人分の穏やかな寝息が静寂の中に響き出す。眠りに就く二人の表情はどちらも前回までのものより格段に穏やかだった。