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 二日の猶予期間はあっという間に過ぎ去った。

 互いの別れを知っても二人は普段と大差ない会話を交わし、別れのことは気にしないように努めてわずかな時を費やした。

 そして三日目。紅姫が睡蓮邸と共にこの地を去るその日に、十澄は忌々しいほど立派な礼装を纏って背筋を伸ばし、無表情で畳の上にじっと座っていた。

 三つ紋の入った薄い色彩の長着と羽織に無地の袴、角帯を締めた格好は純粋な日本人なら様になるだろう。身体の色素の薄い十澄にも似合ってはいるが、不思議な違和感の含まれた雰囲気を醸し出している。

 見合いの相手は遅れているらしく、本来の顔合わせの時間から二十分が過ぎても見合いの場に顔を出していない。十澄は沈鬱な気分をさらに降下させて、黙して父と二人並んで待っている。

 予定外の延長のおかげで十澄には黙考する時間がたくさん与えられている。睡蓮邸が今日のいつ引っ越すのか、引っ越し先がどこになるかも分からない。こうして時間を無駄にしている間にも、紅姫はこの地から消えているのかも知れない。

 十澄は今すぐ睡蓮邸へ走り出したいような、決定的な別れを目にしたくないような、複雑な心境で見合いの待ち時間を過ごす。

 この時ばかりは父との間に流れる重い沈黙が気にならなかった。

 もやもやした想いをこらえていると、耳にぱたぱたと複数の足音が届く。随分急いでいる様子なので、おそらくは見合い相手だろう。


「失礼いたします」


 女性の声が外から掛けられ、部屋の障子戸が開かれる。

 十澄と父が姿勢を正して視線を向けると母子らしき女性が二人、入室してくる。

年配の女性の後に現れた、髪を結い上げて若草色の振袖を着た十代後半ほどの女性が、十澄の見合い相手だった。絵姿にあった通り、育ちの良さが垣間見える上品な雰囲気の女性だ。

 二人は楚々とした動作で十澄たちの向かいの席に座る。


「この度はお待たせして申し訳ありませんでした。来る途中に急な事故に巻き込まれ、遅れてしまいました」


 落ち着いた桔梗色の小袖を着た母親が恐縮した態度で頭を下げてくる。それに追随して娘も頭を下げる。

 父は普段十澄には見せることのない愛想の良い笑顔で、それを穏やかに受け流す。


「いえ、それほど待っておりませんのでお気になさらないでください」


 今回の縁談相手は十澄家より古い歴史を持ち、家格も上の家の娘である。例え気に食わないとしても、表面上は良好な関係を保つ必要がある。十澄にこの縁談がもたらされたのも、家格が上の娘を嫁にとって十澄家の地位向上を図るためだろう。

 十澄は冷めた目で見合いが進むのを見ていた。


「こちらが娘の美津子です」

「美津子と申します。よろしくお願いいたします」


 娘を紹介されて視線を移すと礼を取った美津子と目が合う。その瞬間、美しい彼女の顔にわずかな嫌悪がよぎったのを、十澄は見逃さなかった。

 異人の子が、と侮蔑の言葉を吐かれた気がした。


「これが息子の景一郎です。本日はよろしくお願いします」

「……景一郎です」


 父に紹介されて小さく頭を下げる。絞り出した声は酷く冷たく十澄の耳の奥にまで響いた。

 普段に増して愛想の無い十澄を父は睨み付ける。

それに応える余裕もなく、十澄は視線を下に落としてじっと時が過ぎるのを待つ。握りしめた拳を隠して、荒れる感情を抑え込んで、ひたすら耐える。

 幼い頃に舞い戻ったような感覚で、十澄はようやく最近忘れ始めていた辛い記憶を振り返っていた。

十澄は外国人であった母方の曾祖母の血を色濃く受け継いでいる。不気味なほど白い肌と栗色の髪がその証左だ。母の実家は十澄家と同程度の家格を持つ名家だったが、いかなる理由からか、外国の娘を本妻として迎え、外国の血を取り入れた。

 母方の祖父は十澄とよく似た色素を持ち、その子である母は純粋な日本人の色素を持っている。十澄の容姿は祖父からの隔世遺伝なのだ。

 長い鎖国を終えて激動の時も過ぎ、文明開化で日々の生活様式が刻一刻と変わる現在は、街中を歩けば外国人に出会うこともしばしばである。そのため、外国人への風当たりは昔に比べると圧倒的に弱い。

 しかし、やはり人間は異端を嫌う。それはプライド高い名家の人間ならなおさらだ。外国の血を引く母は十澄家に嫁ぎ、長男として生んだ子は外国の血を濃く引いていた。異人の子を産んだ、と母は十澄家で散々になじられ、その恨みを子へ――十澄へ向けた。

 次男の恭二郎が日本人らしい容姿だったこともあり、十澄は弟を除いた十澄家の人間に疎ましがられた。

『何故、よりにもよって長男があんなみっともない子なのだ』

『異人の子が』

『汚らわしい』

 そんな罵詈雑言を生まれた頃から十澄は家族から投げかけられてきた。その筆頭は実母で、彼女はことあるごとに十澄に暴力と暴言を繰り返した。その母が亡くなっても、

十澄への中傷は止まっていない。

 家の外に出ても多くの人は十澄を敬遠し、あるいは嫌悪し、好奇の目で見てくる。色素の薄い十澄の居場所はどこにもなかった。



――六歳の時に紅姫と出会うまでは。



 紅姫と出会ったのは、有名な祭りが開かれた日の夜だった。

普段は名家の嫡男として厳しく学問や作法を叩きこまれるが、その祭りの夜は両親も寛容になって子どもらが遊ぶことを許していた。

 もっと正確に言うなら、遊ぶという名目の下に両親は十澄を放置した。当時四歳だった恭二郎を連れて親子三人で祭りに出かけ、好きにしろと言って十澄を家に置いて行ったのだ。

 悲しかった。弟が妬ましかった。両親を恨んでいた。

 子ども心に黒々とした感情を抱え込んで、十澄は一人でふらふらと祭りの中に紛れ込んで行った。

 祭りで人が賑わっていたとしても、夜に六歳の子どもが一人で出歩くのは危険な行為だ。どこで怪我をするか、攫われるか、襲われるか、分かったものではない。だが両親はおそらくそれでもいいと思っていたのだろう。十澄が攫われて行方不明になれば、怪我をして一生傷物になれば、跡取りの座は十澄から恭二郎へと移行するから。

 当時はそんな両親の考えまで頭になかったが、疎まれて憎まれているのは分かっていた。むしゃくしゃした気分で楽になれる場所を探しても、物珍しい祭りの光景さえ十澄の心を癒してはくれない。一銭も持っていないため、食べ物を買うこともできない。実家に戻っても夕食は準備されていないのは分かっていた。

 人の目を逸れた暗がりで祭りの輝きをぼんやりと見つめ、空腹と心痛を抱えて道端にうずくまっていた。


「おや……、お主は何故そんな顔をしておる?」


 その声に顔を上げて十澄は硬直した。

 赤い唐傘を差し、猩々緋色の艶やかな衣装を纏った年上の少女が十澄を見下ろしていた。祭りのかがり火に照らされる姿は幼さの中に妖艶な、大人の色香を含んでいる。

 名家の生まれの十澄も、彼女ほど豪華な小袖を着る者は知らない。だがそれは彼女にはよく似合っており、彼女の魅力を引き立てている。


「綺麗……」

「ほう?」


 気が付けば、十澄は初対面の少女を見上げてつぶやいていた。

十澄の母も美しい人であったが彼女には到底及ばない。彼女は容姿も美しいが、何より身に纏う静かな雰囲気が美しいと思ったのだ。

 唐突な褒め言葉に目を細めた彼女は、すっと手を差し出して十澄を立たせた。


「お主、神聖な祭りの夜に暗い顔をしておるかと思えば、良い顔をするではないか」

「うん?」


 楽しげな微笑に見惚れながら、十澄は首を傾げる。

 あとから聞いた話では、この世の終わりのような顔をしていた子どもが突然にきらきらと顔を輝かせたからそう言ったらしい。

 言葉の意味を聞き返す前に少女は十澄の手を引いて歩き出す。


「ど、どこ行くの?」

「わらわの屋敷へ。……腹が減っておるのじゃろう? そこらで買っても良いが、わらわは目立つからのう」


 戸惑って周囲に視線を巡らせ、十澄は驚く。誰も十澄と少女を見ていなかった。視線を感じない上に、誰とも目が合わないのだ。

 少女の格好は祭りの中にあってもよく目立つ。その手に引かれる十澄は特異な容姿でいつも誰かの視線を掻き集める。そんな二人組の子どもが誰の目にも留まらないのはおかしい。


「どうして?」


 疑問に目を白黒させる十澄に、少女はあっさりと仕掛けを暴露した。


「わらわの姿は人間には視えぬ。わらわが声を掛けぬ限り、ではあるが」

「ええ? そんなことってあるの?」

「世の中には星の数ほど不思議はあるのじゃぞ?」


 涼やかな声で諭されると常識的な反論も無意味に思えて、十澄はよく分からないながらに頷いて受け入れた。

 それを少女が楽しそうに笑って見ていたことに、十澄は最後まで気付かなかった。十澄に声を掛けたのも、食事を与えようとしたことも、少女の気まぐれと良心による行為だったが、この時初めて彼女は十澄に深い興味を抱いたのだ。


「この良き日に何を悩んでいた?」

「……父上と母上と、ぼくも一緒に祭りに行きたかったんだ」

「迷子ではなかったのか」

「父上たちは恭二郎……弟だけ連れて、祭りに行ったから。ぼくは一人で来たよ」

「一人で? 何じゃ、親に叱られたのか? 一緒に来なかったのは、何かの罰かの?」


 違うよ、と十澄は歯噛みして首を横に振る。

 祭りに出掛ける前に声を掛けて来た母の姿を思い浮かべる。冷ややかな目で、侮蔑の混じった目で、好きにしろと言われた。嬉しそうに笑って両親に手を繋がれて出かける弟を、十澄は妬みと羨望の混じった目で見送った。

 今回に限らず、弟の持っている居場所が自分も欲しかった。


「母上と父上はぼくがいらないから連れて行かなかったんだ。ぼくは他の子と違うから、おかしいから捨てて行った」


 十澄は日頃の両親の言動を思い出して、事実だけを口にした。そこには無意識のうちに十澄の受けた辛苦や悲哀がこもっていただろう。それからぽつりぽつりと両親や実家の事情を話した。

 少女は黙って十澄の話に耳を傾けていた。


「よう、頑張っておるわ」


 思いの丈を語り尽くし涙で顔をぐしゃぐしゃにした十澄を、少女は優しく頭を撫でて慰めてくれた。

 話をするうちに二人の足は止まり、手近な芝生の上で座り込んでいた。

 いつの間にか、十澄はされるがまま少女に抱き締められて、彼女の綺麗な着物を涙で汚して、すがりついて声が枯れるまで泣いて感情をぶちまけていた。


「他の者が何と言うのか、わらわには分からぬが……。お主の栗色の髪は綺麗だとわらわは思うぞ? 大陸の者はもっと派手な色合いをしておるし、お主の髪はお主にしか出せない希少な価値のある髪じゃ」


 そう言って、本当に綺麗なものを見るように少女は目を細める。

 十澄はこの時初めて、自分の髪が栗色で良かったと感じていた。純粋な金髪でも、深い漆黒でもない中途半端な色合いが、ずっと十澄は大嫌いだった。その中途半端な色が混血である自分の存在を暗示しているように思えていたのだ。

 ぐずぐずと酷い顔でなかなか落ち着きを取り戻さない十澄をあやして、少女は気が紛れるように他愛無い話をした。それは真っ黒な毛玉や一つ目の鬼などが出てくる不思議な物語で、時に物悲しくも可笑しな話だった。

 当初は作り話だと思っていたそれが、少女が実際に体験した話だと悟るのは、それから少し後の話である。


「……ねえ、お姉さんのお名前は?」

「……お姉さんと呼ばれる歳ではないのじゃが」


 ふと相手の名前を知らないことに気が付いて尋ねると、少女は苦々しく笑う。少し悩む素振りを見せたので根気強く待った。

 少女は声を潜めて十澄の耳に顔を寄せると言った。


「わらわの名は十純じゃ。他の者は紅姫と呼ぶが……お主はわらわの友人、そう呼ぶ必要はあるまい」

「……十純?」

「そうじゃ」


 さりげなく友人と言われたことも嬉しかったが、それ以上の偶然に十澄は衝撃を受けて目を見開いた。

 口をぱくぱくさせる十澄に、少女――紅姫は心配そうに眉を寄せる。


「どうした?」

「ぼ、ぼくも“とずみ”なんだ、苗字が」

「苗字が? ではお主の名は?」

「十澄、景一郎」

「ほう……、凄まじい偶然じゃな」


 感嘆の吐息を洩らして紅姫は口角を上げる。

 あとから分かったことだが、“紅姫”とは妖怪の墓を守る墓守に対する尊称らしい。妖怪は死という安息を守る墓守を敬う義務があるが、人間の十澄には関係ない。紅姫は友人として他の誰も呼べない自らの名を教えたのだ。

 その時は、紅姫の唯一の真名を呼ぶことがどれほど大事な意味を持つことか、十澄は理解できていなかった。


「同じ名では紛らわしいゆえ、わらわはお主を景と呼ぼう。景一郎、というのは少し響きが長い」

「本当!?」


 十澄にとって紅姫は初めての友人で、初めて十澄を否定せずに受け入れてくれた者だった。親しげにあだ名を付けられたことも、友人ができたことも嬉しくて、十澄の頭からは完全に両親の存在は抜け落ちていた。

 そして、この日は十澄にとって初めての連続になる。


「ねえ、十純お姉さん」

「お姉さんは止めよ。十純、だけで良い」

「うん。じゃあ、十純。……ここどこ?」


 泣いたことも忘れてにこにこし始めた十澄を、紅姫は約束通りに睡蓮邸へ連れ帰った。

 見知った道を歩き、竹藪の中に分け入って視界が揺らいだ次の瞬間、十澄は見知らぬ土地にいた。背後に深い竹林、目の前には端の見えない高い塀を持つ日本風の屋敷が威圧感を放っている。

 内裏よりも広いように思える屋敷を前にして、十澄は完全に呆ける。


「わらわの屋敷じゃ!」

「……おっきいねえ」


 大人びた雰囲気を一転して、子どものように胸を張った紅姫を横目に、十澄は口を半開きにして周囲を見渡す。立派なものばかりで、賛美の言葉すら浮かんでこない。

 それから十澄は紅姫に手を引かれて睡蓮邸に招かれ、鬼丸や風切姫に紹介されて目を丸くし、出された食事の美味しさにまた泣いた。

 怒涛のように時間は過ぎ、西の空が薄ぼんやりと明るくなり始めた暁闇に、紅姫たちに送られて睡蓮邸を出た。

 また来てもいいか、と問えば笑顔で紅姫に頷かれる。


「いつでも来るがよい。ここは穏やかな屋敷ではないが、お主一人くらいわらわが守ってやろう。次に会いに来るのを待っておるぞ」


 何から守るのか、その時の十澄には分からなかったが、のちに睡蓮邸を訪れた客たちの習性を知って納得することになる。妖怪は人間を主食にする者も人間に過多な好奇を抱く者も、接触するだけで人間の害になる妖怪もいるのだ。紅姫は睡蓮邸の客から十澄の身を守ると言ったのである。

 睡蓮邸という居場所を見つけた十澄は、辛くなる度に睡蓮邸を訪れた。妖怪に喰われかけても、怪我を負っても、訪れるのを止めなかった。妖怪という脅威はあっても、十澄が飢えていた愛情や親愛を睡蓮邸は惜しみなく与えてくれたからだ。

 いつしか、過ぎ去った歳月の中で不仲な両親との折り合いの付け方も学んだ。妬みの対象であった弟と親交を持った。好奇の視線も気にしなくなり、近所にはそれなりに親しい人もできた。

 人間としての十澄の成長を手助けしたのは、間違いなく睡蓮邸に住む者たちだった。

 紅姫と出会って十六年。十澄の傍にはいつも紅姫がいて、その未熟な背を押して肩を支えていてくれたのだ。

 界渡りという睡蓮邸の引っ越しによる紅姫との別れを直前にして、成長した十澄は苦笑いを禁じ得ない。

 振り返って見れば、十澄の短い人生の記憶のほとんどを睡蓮邸での日々が占めている。中には弟との触れ合いや両親との衝突、近所の子どもたちとの親交の記憶もあるが、今の十澄はそれらを些細な記憶と言える。

 着々と進行していく見合い話に適当に相槌を打つ自分が、不意に十澄はおかしくなってしまった。


(ぼくは、何をしているんだか)


 紅姫は間違いなく十澄にとって最も重要な人物だ。その紅姫との最後の別れを済まさずに、十澄は最もどうでもいいと思っている父の用事を優先しているのである。これが笑わずにいられるだろうか。

 自虐的な笑みが表情に出たのか、目の前で見合い相手の美津子がいぶかしげに顔を歪める。


「景一郎様、どうかなさいましたか?」


 美津子に尋ねられて、十澄はにっこりと笑顔を作る。

 十澄に視線を集中させていた他の三人は、驚いた顔をする。いままで鉄の無表情を崩さなかった十澄が、明確な表情を見せたからだ。


「申し訳ありませんが、急用を思い出しましたので、ここで私は失礼させていただきます。皆様はここでゆっくりと歓談をお続けください。私が抜けても大した問題はないでしょうから」


 破綻だらけの理論を一気にまくし立てて、十澄はすっと立ち上がる。心はすでに睡蓮邸の紅姫の方へ向けられていた。

 あまりの出来事に呆気に取られた三人は、部屋を出て行こうとする十澄を呆然と見守る。一番初めに我に返ったのは十澄の父だった。


「景一郎! 何を馬鹿なことを……!」

「失礼いたします。父上」


 慌てて立ち上がった父を一瞥して、十澄は障子戸から廊下へ出る。正規の出入り口に回るのもまどろっこしく、縁側から外に飛び降りて、据え置かれていた下駄を拝借すると走り出す。

 背後から父の怒声が届く。


「景一郎、貴様! 早く戻れっ、我が十澄家の顔に泥を塗るつもりか!!」

「泥を塗るも何も……貴方にとって私はすでに家の恥でしょうに!!」


 一度だけ背後を振り返って叫ぶと追いかけようとする父の足が一瞬止まる。すぐに父に背を向けて走り出すが、父の歪んだ顔がつぶさに想像できた。

 見合いのために縫われた一張羅は着慣れず、十澄の動きを阻害する。それが何とももどかしく、貴重な時間を無駄にしていた自分にも歯がゆくなる。

 もう睡蓮邸はとっくに界渡りを終えたのではないか、という最悪の予想が頭をよぎったが、それはすぐに否定されることなった。


「兄上!」


 ここにいるはずのない恭二郎の声が聞こえて、十澄は足を止める。声の方向を振り返るとふわっとした柔らかい風が吹いて来て、目を見開く。


「っ……十純!? 風切姫と鬼丸まで……」


 そこに珊瑚色の打掛姿で赤い唐傘を差した紅姫が、周囲にふわふわと舞う風切姫と傍に鬼丸を付き従えて、何故か恭二郎と一緒に立っていた。

 彼らが睡蓮邸の外にいることも、恭二郎と一緒にいることも意外で、十澄は唖然と立ち尽くす。


「兄上、こちらが大事だと言っていた御友人でしょう? 家に来られたので、案内して来ましたよ」


 兄に近づいてきた弟はにっこりと笑顔で紅姫を手の平で示す。にこにこした笑顔からは恭二郎の考えは読み取れない。

 十澄は戸惑って曖昧に頷く。


「……十純?」

「何じゃ、子どもの頃のような顔をしおって」


 紅姫に視線を向けるとそう笑われる。自分がどんな顔をしているのか、十澄には分からないが、情けない顔だろう。先ほど睡蓮邸に駆けつけようとした威勢を失って、十澄は紅姫たちに近づく。

 彼らは普段通りに迎えてくれた。


「あらまぁ、ろくろ首にでも化かされたみたい顔ね」

「急にお訪ねして申し訳ありません、十澄様。連絡が取れなかったものですから、恐縮ながら弟君のお手を煩わせていただきました」


 くすくす笑う風切姫が微風を吹かせ、鬼丸が深々と頭を下げて説明する。

 反射的にかまわないよ、と返して十澄は紅姫を見つめる。


「……界渡りは?」

「これからじゃ」

「どうして、ここに?」

「まぁ、何と言うか……」


 一度言葉を止めて、紅姫は桃色の唇を艶然と持ち上げる。

 十澄はまだ混乱を引きずって、戸惑いの混じった視線を向ける。


「ここはひとつ、年性もなく可愛らしい我が侭を言ってみようと思ってのう」

「我が侭?」

「聞いてはくれぬか?」

「それは……ぼくにできることなら、何でも」


 外見は幼い少女であっても、その実紅姫は何千という年齢を重ねてきた女である。子どもっぽい顔を覗かせることはあっても、十澄に対して本当に子どもじみた我が侭や無茶を要求したことはなかった。

 意外な要求に十澄は思わず動揺する。

 紅姫はふっと笑って、振袖から覗く小さな手を十澄に差し出す。


「わらわにお主をくれぬか?」

「……何だって?」

「考えたのじゃが、やはりお主と離れるのは惜しい。わらわは景が欲しいのじゃ。

――だから、わらわと共に来い」


 臆面もなく告げられた口説き文句に、十澄は頬が赤くなるのを感じた。わたわたと動揺して、途方に暮れた顔になる。

 紅姫はそれに面白そうに微笑して見ている。


「ほんにお主は仕様のない奴じゃ。女にここまで言わせておいて、一言もなしとはいかがなものかと思うぞ?」

「うぅ、ごめん」


 からかい混じりの指摘は十澄の胸をぐさりと突く。真実だから余計に耳に痛い。

 十澄は落ち着きなく漂う視線を地面に落として深呼吸をする。数秒の間、目を閉じて心に平静を取り戻そうとする。

 再び目を開いた時、十澄の目はまっすぐ紅姫を見据えていた。


「ぼくも、十純の隣にいたい。君がいなくなったら、ぼくはきっと壊れてしまう」

 それは誇張ではなく、事実として十澄の心の中にあった。界渡りのことを知ってから十澄の精神はバランスを崩した。感情は理由もなく上下して、元より少なかった物事への意欲はさらに低下した。普段なら気にならない周囲の中傷や嘲笑に、ひどく心を乱されて傷ついた。

 知らないうちに十澄は手放せば壊れてしまいそうなほど、紅姫に依存していたのだ。

 それに気付いた今、十澄は躊躇いもなく差し出された手を取る。


「ぼくも一緒に連れて行ってよ、十純」

「よう言ったな、景」


 ぎゅっと繋がれた手に力が篭もる。

 紅姫の力強い笑みを見つめて、十澄は嬉しそうに微笑む。その目元は早くも涙で潤み始めていた。


「上手くまとまって良かったわ! さぁ、紅姫様、そろそろ睡蓮邸に戻りませんと。

有り得ないとは思いますけど、界渡りが失敗して妙なことになったら大変ですもの!」


 事の成り行きを見守っていた風切姫は甲高い声で周囲を舞って、主を催促する。鬼丸も口には出さないが、同じ懸念を抱いているようだ。

 十澄は紅姫と目を合わせて、すっと視線を弟へ向ける。


「……恭二郎」

「はい、兄上」


 弟に対して十澄は何と言っていいのか分からない。恭二郎の目からも紅姫たちの姿は異様に見えるだろう。風切姫と鬼丸はどう見ても妖怪だ。それにも関わらず、恭二郎は笑顔でこちらを見守っているのだ。

 言葉に迷う不器用な兄に、弟の方から口を開く。


「行かれるのですね、兄上」

「ああ」

「では、あとのことは任せてください。兄上と義姉上の幸せを祈っています」

「あ、義姉上!?」

「え? 違うのですか? そちらの方が兄上の御友人で、想い人では?」


 きょとんと首を傾げる恭二郎に、十澄は慌てて紅姫を見る。紅姫を大事に思っていることは否定しないが、それが恋愛感情かと言うと分からないのだ。

 唸る十澄に紅姫は意味深に微笑しただけだった。

 その真偽は保留にしておいて、十澄は最後まで世話をかけっぱなしになる弟に目を向ける。


「すまない」


 嫡男である十澄が消えれば、次男の恭二郎が家を背負って行くことになる。どれほど疎まれても跡取り息子である十澄は、家を背負うことの重みを知っている。それを全て弟に丸投げして十澄は去ろうとしているのだ。

 恭二郎は困ったような顔をする。


「兄上。どうせなら、お礼が欲しいのですが」

「それもそうか。――ありがとう、恭二郎」

「ご達者で、兄上」


 遠い昔から確執を持つ兄弟は、互いに曇りのない笑顔を交わす。

 その時、しんみりとした空気を打ち壊す怒声が遠くから届く。低く太い声は十澄の名を呼んでいる父のものだ。

 十澄と恭二郎は思わず苦笑を洩らす。


「それじゃあ、恭二郎。……結婚式くらいには顔を出すよ」

「さようなら、兄上」


 遠目に追いかけて来た父の姿を認め、弟と最後の挨拶を交わす。

 ふんわりと柔らかくも強い風が十澄たちを包み込み、小さな竜巻を作り出す。風切姫が風を操って睡蓮邸へ運ぼうとしているのだ。

 片手に紅姫の温もりを握りしめ、ふわっと身体が竜巻に浮き上がるのを感じながら、その姿が見えなくなるまで十澄は置いて行く家族を見つめ続けた。


「……景」

「いいんだよ」


 心配そうな顔をする紅姫にやんわりと告げて、十澄は目を閉じる。

 色素の薄さを原因に十澄を苛み苦しめた父と両親に愛されながら必死に兄を立ててくれた弟、二年前に儚くなるまで笑顔ひとつ見せてくれなかった母、見て見ぬふりで孤立する十澄を敬遠した使用人たち。

 良い記憶などほとんど持てなかった家族と故郷。それを名残惜しむ気持ちが残っているとは、十澄自身が何より驚いていた。



――それでも。



「帰ろう、睡蓮邸へ」


 十澄は穏やかに睡蓮邸の住人たちに微笑む。

 家族を捨てても、故郷を失っても、十澄のいるべき場所は唯一つ、睡蓮邸なのだ。


「うむ、そう言えば界渡りの後はアゲハ蝶が舞うのじゃ。皆で見るのも楽しかろう」

「では帰り次第、すぐに用意をいたします」

「あっ、鬼丸! 力仕事はともかく、台所には近寄っちゃ駄目よっ、もう皿は割らせないんだから!」

「わ、私はいつも転んでるわけでは……」

「無駄な言い訳をするんじゃないの!」


 ぷりぷり怒り出す風切姫としょぼんと肩を落とす鬼丸。その会話を見て、十澄と紅姫は顔を合わせると同時に吹き出す。

 鬼丸の悲壮な抗議を受け流して、十澄は目を細めてつぶやいた。


「やっぱり、ぼくはここがいい」


 妖怪たちに襲われても、脅されても、毒されても。愉快で温かな睡蓮邸の住人たちが十澄は大好きなのだ。

 紅姫に寄り添って十澄は幸せそうに笑った。





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