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 瓦を乗せた低く白い塀が左右に広がっている。数十メートル先で直角に塀は曲がっているため、睡蓮邸のように塀の先が見えない非常識なことはない。

 普通の民家や長屋に比べれば格段に大きな屋敷は、やはり睡蓮邸と比べれば見劣りして十澄の目に映る。

 閉じられた門を押し開けて敷居をくぐり、十澄は名門と呼ばれるのにふさわしい様相を呈した実家を見上げる。無駄に大きい屋敷は十澄の家族だけではなく、使用人まで多くの人間を養っている。

 足早に十澄は玄関まで歩く。数時間ぶりに実家に戻った十澄の表情は硬く、睡蓮邸にいた時のような柔らかさはない。無造作に玄関の戸を開けると、ちょうど廊下に出て来ていた使用人と目が合った。


「お、お帰りなさいませ、景一郎様」


 動揺しながら掛けられた言葉に、ただいまと返す。

 使用人はそそくさと奥へ引っ込んで行った。


「……まったく」


 どれだけ時間が経っても傷まない睡蓮邸とは違い、年季の入った板の床に下駄を脱いで上がる。少し黒ずんだ床は意外にしっかりとした感触で軋む音は小さい。

 足早に私室まで歩を進めていると何度か使用人が通りかかり、会釈してくる。それに会釈を返しながら、十澄の顔からは少しずつ感情が抜けて行った。


「いつまで経っても、ここは変わらない」


 淡々とつぶやく声は冷ややかだ。

 十澄の実家は古くから続く名門である。華族ではないがそれに準ずる家格を持ち、財力だけを見れば下手な華族よりよほど上だ。家格も財も持った家の嫡男に生まれたことが幸いだったのか、十澄には分からない。

 生まれた時から、この格式深い家の者たちの十澄に対する扱いは変わらない。次期当主として敬いながら――忌避している。それは十澄が生まれる前から延々と作られてきた差別意識によるものだ。


「変化が欲しいのですか。兄上」


 背後から声を掛けられて十澄は振り返る。

 そこに十澄の二つ年下の弟がいた。ちょうど脇の部屋から出て来たらしく、ふすまを片手で閉めている。


「恭二郎」

「こんばんは、兄上」


 今の十澄とは正反対に柔らかな物腰で恭二郎は近づいてくる。

 二人は父母を同じくする兄弟でも容姿に似た部分は少ない。外国人であった曾祖母の血を濃く引く十澄は色素が薄いが、恭二郎はどこから見ても純粋な日本人だ。黒い髪と瞳、背丈は日本人の平均身長で肌も黄色系だ。

 しかし顔の骨格や性格には似た部分も見られる。二人が並んで兄弟だと思われることは少ないが、紅姫が二人を見たら兄弟だと分かっただろう。兄の傍まで来た恭二郎の物腰の柔らかさは、睡蓮邸にいる時の十澄とよく似た雰囲気をしている。

 恭二郎は苦笑を浮かべて、ぴっと十澄の顔を指差す。


「また顔が強張っていますよ、兄上」

「え? あぁ……すまない」


 指摘されて十澄は自分の頬に触れる。触っただけでは分からないが、だいたいどんな顔をしているのか検討は付く。感情の抜け落ちた酷い顔をしていたのだろう。

 無意識の内に強張っていた身体から力を抜き、十澄は頬を緩める。


「今日会うのは初めてかな。朝はどこへ?」

「上官に早朝から収集命令を掛けられまして。おかげで朝食は食べられませんでしたよ」


 朝は習慣的に家族全員で居間に集まって朝食を取る。それに遅れると朝食は食べられないのだが、今朝は恭二郎の姿はなかった。だから夕方になって初めて十澄は弟と顔を合わせている。

 恭二郎は現在陸軍の将兵で、普段は陸軍へ出勤している。いつもは十澄と同じ時間帯に起きてくるが、時たま今日のように早朝出勤しなければならない時がある。

 十澄は運よく徴兵を免れて軍属になったことはない。陸軍という場所がどんなものかは知らないが、弟が訓練している様や出勤する姿を見ていると大変そうだと思う。


「朝食を抜くのは身体に悪い。厨房で誰かにおむすびでも作ってもらって、持って行くといいんじゃないか? お前になら、快く作ってくれるよ」

「……兄上でも快く作ってくれますよ。でも次からはそうします」


 恭二郎は兄の言葉に一瞬だけ顔を曇らせる。

 十澄は微笑んで頷くだけだ。恭二郎は気遣ってくれるが、この家で十澄が使用人を呼び止めると迷惑な顔をされるのは事実である。生まれてこの方そうだったことが、早々に変わるはずもない。


「兄上こそ、いつもどこに行かれているんです? 帰って来る時は決まって機嫌がいいか、疲れ果てていますよね」

「うーん、友人の家だよ。……大事な、友人なんだ」


 恭二郎が言っているのは睡蓮邸に行った日のことだろう。たまに疲れ果てているのは、睡蓮邸を訪れた客の癇癪や我が侭に付き合わされて精神も身体も消耗するからだ。

 睡蓮邸で起こった客の騒動を振り返って十澄は苦笑を洩らす。


「またそれですか。兄上は誤魔化すのが下手でいけません」

「誤魔化してる気はないんだけど……。詳しく説明できないなら、同じか」

「ええ。とは言え、兄上はご友人の家にいた方がよほど生き生きされていそうです。女性なら妻にされたらどうです?」

「………………は!?」


 悪気のない笑顔で言われた内容に、十澄は目を丸くする。思考が真っ白に焼かれて数秒の間、停止していた。


(十純を嫁に? いやいやいや、有り得ない)


 紅姫の顔を思い浮かべて慌てて否定する。二人はまず種族からして異なるし、紅姫には大事な役割もある。第一、あの容姿ではとても成人には見えない。歳の差は何千歳になるのだろう? それ以前に二人の間にそんな甘い感情は……。

 完全に混乱する兄を見て恭二郎はくすっと笑う。


「もう兄上と知り合われて十五年近く経っているでしょう? そろそろ兄上も結婚を考える時期ですし、そう悪いことでもないと思いますが」

「ええ? 恭二郎、ぼくは友人が女だと言ったことがある?」

「男の方なのですか?」

「いや、女だけど」


 なら大丈夫ではないですか、と良い笑顔で言われる。

 十澄は信頼している恭二郎にも睡蓮邸の話はしたことがない。単純に、話しても頭を疑われかねない内容だからである。十澄は紅姫の性別すら教えていなかったのに、何故初めから恭二郎は友人が女だと思ったのか。

 それを尋ねると恭二郎はきょとんとする。


「そんなこと、兄上の顔を見ていれば分かりますよ」

「……この家でぼくの表情が分かるのは恭二郎くらいだ」


 納得がいかないまま、苦々しく十澄はぼやく。家族や親戚の前だと途端に表情を失くす十澄の感情を見分けられるのは、昔から恭二郎だけだ。この家で、できた弟だけが十澄を理解してくれる。

 十澄は紅姫を脳裏に思い浮かべながら、首を横に振る。


「……有り得ないよ。彼女には大切な役目があって家を離れられない。ぼくは嫡男で家を出るわけにはいかないし、他にも問題は山積みだ」

「そうですか、残念です」


 本当に落胆した様子の恭二郎を眺めて、不意に睡蓮邸で聞いた紅姫の独白を思い出す。こんな毎日が続けば楽しいと言った、彼女。出会って十六年も変わらなかった関係は、だからと言って永遠に変わらないわけではない。


(本当に、変わって欲しくないものはあっさりと変わってしまいそうで、怖い)


 十澄は紅姫との関係が変わることに怖れを抱いている。

どうか今の日常が永遠に変わらなければいい。紅姫さえいてくれたら、十澄はどんな辛いことも耐えられる。


「ああ、そうだ。兄上、父上が探しておられたはずです。会いに行かれた方がいいかもしれません」

「……父上がぼくを?」


 朝食と夕食の席でしか見かけない父を思い浮かべ、十澄は不審そうな顔をする。ろくに話もしない父が持って来る話が、良いものであるはずがない。

 十澄の嫌そうな顔を見て、恭二郎は渋い顔をする。


「兄上、差し出がましいですが……。母上はもう亡くなられました。父上は不器用な人であるだけで、決して兄上をないがしろにはされていません」

「そうだといいけどね」


 恭二郎が嘘を吐いているとは思わないが、十澄にはその真偽を考察できる判断材料がない。物心が付いてから十澄は父に必要以上の言葉を掛けられたことがなかった。父が寡黙なのかも知れないが、恭二郎はよく父に遊んでもらっていたようだ。

 父と兄の確執を心配する弟に心配ない、と笑いかける。


「今から父上に会って来るよ。ぼくだって父上を憎んでいるわけじゃない」


 その言葉に恭二郎は余計に眉を寄せる。

 言葉の選択を誤ったこと悟りつつ、訂正はしないで十澄は声を掛ける。


「じゃあ、また後でね」

「はい」


 くるりと背を向けても恭二郎は無理に引き留めては来ない。その代わりに一言だけ投げかけてくる。


「兄上、母上が亡くなって……この家も少しずつ変わって来ています」


 十澄は振り返らず、無言でひらひらと手だけ振った。

 二人の実母は二年前の夏に風邪をこじらせてあっけなく亡くなった。この家で十澄の最大の脅威であった母が亡くなって、十澄への風当たりが弱くなったのは事実である。だがそれは十澄が受け入れられたというわけではない。単に、十澄を最も忌み嫌った人が消えただけなのだ。

 優しい弟に乾いた苦笑を洩らし、十澄は行き先を私室から父の部屋へと変更する。何の用時かは知らないが、嫌なことは早めに済ませたい。

 恭二郎と別れた場所からまっすぐ突き進むと左右に廊下が分かれる。右に折れて、一番奥にあたる部屋が父の私室である。用事を早く済ませたい反面、十澄の足は進むほどに重くなる。居間以外の場所で父と相対することに十澄は慣れていない。

 のろのろと廊下を進んで、父の部屋のふすまの前で足を止める。ずっと突っ立っているわけにもいかず、廊下に膝を突いて中に声を掛ける。


「父上、景一郎です。入ってもよろしいでしょうか」


 すぐに応えは返されなかった。父の不在を疑い始める頃になって、入れ、と低い声がふすまの奥から届く。

 父の重厚な声を耳にすると十澄の身体はいつも強張る。顔に残るわずかな感情も抜け落として、十澄は薄いふすまに手を掛ける。簡単に開くはずのふすまが、十澄にはとても重く感じられた。


「失礼いたします」


 ふすまを開いて頭を下げ、室内に身体を滑り込ませて、ふすまを閉じる。この動作の間、十澄は視線を床に落として父の顔には一度も目を向けていない。立ち上がって父の座る文机に前に腰を下して、十澄は初めて父を見る。

 父は十澄とあまり似ていない。どちらかと言えば恭二郎と似ている。鍛えられて太い四肢、肌はよく焼けて白さとは無縁である。白髪混じりの黒髪はみっともなさより、年齢を重ねて得た熟年の魅力を感じさせる。細身で色素の薄い十澄とは正反対だ。

 どっしりと構えた父を十澄は見据える。


「お前から私を訪ねるとは珍しいな」

「恭二郎から、父上が私を探していると聞きました。何か、私に用事があったのでしょうか?」


 二人の間に流れる空気は親子とは思えないほど単調で淡泊である。十澄は硬い無表情で、父の額には深いしわが寄っている。親愛というものが、二人からはまったく感じられない。

 ふむ、と父は髭を生やした顎に手を添える。


「十澄家の長男であるお前は、いずれ私の跡を継がねばならん。それはまだ先の話だが……家を支えてくれる嫁はそろそろ必要だろう。お前に見合い話が来ているから、受けなさい」

「……見合い?」


 突然の命令に十澄は眉を寄せる。その時に十澄が感じていたのは、衝撃でも混乱でもなく諦めの混じった不快感だ。

 十澄は今年で二十二歳になる。そろそろ結婚話が出されてもおかしくない年齢で、先ほども恭二郎から打診されたばかりである。女の影がない十澄にいずれ見合い話が上がることは予想できていた。

 長男とは言え、十澄は家長命令に逆らえない。見合い話は勝手に進められ、相手が父のお眼鏡に適えば結婚まで簡単に成されるだろう。そこに十澄の意思は微塵にも混じらない。


(もともと仲は良くなかったけど……ここまでか)


 十澄は胸中に湧き上る嘲笑と自虐を抑えられない。結婚は間違いなく、十澄の一生を決める大事な出来事だ。それを一言の断りもなく、意見を言う隙もなく勝手に決められる。父の傲慢さに怒りと嘆きが交互に押し寄せてくる。

 感情が表に出たのだろう、父が不愉快そうに顔を歪める。


「何だ、その顔は。文句があるなら遠慮なく言いなさい」

「……何でもありませんよ。私には元から父上の提案を拒否できる権限はありませんからね」

「景一郎!」

「お話はそれだけですね?」


 唸る父に無言で退室の意を伝える。

 父は肩を怒らせて十澄を睨んでいたが、不機嫌そうに嘆息する。それから脇に置いていた書類の山から一枚、取り出して十澄の前に放る。


「見合い相手の絵姿だ。日取りは三日後の昼時、きちんと準備をして十澄家の恥にならないよう気をつけろ」

「分かりました」


 無理だろう、と心中で反抗しながら頷く。

 外国の血を色濃く受け継いだ十澄では、どれほど努力しても生まれ直さない限り、家の恥となる。文明開化で外国の物品や人が溢れ出したと言っても、外国の血は厭われる。特に格式の高い家ほどそれは顕著だ。

 差し出された絵姿を手に取って、入室した時とは逆の手順で父の部屋を出る。ふすまをぴしっと閉めると、十澄はふぅっと肩の力を抜く。力ない表情で手の中の絵姿に目を落とす。

 絵姿には東雲色の小袖を纏った妙齢の女性が描かれている。これが正確なら、それなりに美しい品格のある女性なのだろう。

 以前に見たことがある東雲色の打掛姿の紅姫を思い出し、比べてしまう。どんなに見合い相手が美しく完璧であっても、紅姫ほど気高くも綺麗でもない。――どんな女性も紅姫ほど大事にはできない。

 十澄は大きくため息を零して、ぐしゃっと絵姿を握りつぶす。その場で絵姿を捨ててしまいたい衝動を噛み殺し、足早に父の部屋から離れる。

 たまらなく、紅姫に会いに行きたかった。




 *****




 分厚い雲が空を覆い、残光を隠す夜。暗闇に紛れて十澄は実家を抜け出し、人気のない街並みを足早に通り過ぎて睡蓮邸を訪れる。

 息詰まる実家を離れて、安息を得るために紅姫に会いに行く。紅姫と出会った日から十澄にとって彼女の存在は唯一の安寧で、希望で、世界が与えた優しさだった。

 夜に家を抜け出すことも、十澄には珍しくない。幼子の頃から、実家は十澄に辛く厳しい場所だった。外にしか十澄の居場所はないが、外にも居場所は少ない。

 十澄の数少ない居場所、睡蓮邸の門を叩くと鬼丸に出迎えられる。


「こんばんは、鬼丸」

「お帰りなさいませ、十澄様」


 丁寧に一礼する鬼丸に十澄はにこにこと笑いかける。

 十澄が睡蓮邸を訪れるようになって、鬼丸の出迎えはいつも『お帰りなさいませ』だ。その言葉を初めて言われた幼い日、十澄は思わず涙を零して鬼丸を慌てさせた。お帰り、などと実家で言われたことは一度もなかった。


「姫様は庭でお待ちでございます。ご案内いたしますので、付いて来られてください」

「うん。頼むよ」


 普段なら玄関に向かうところを、脇に逸れて庭に向かう。

睡蓮邸を囲む高い塀に沿って散策するのは珍しくて楽しいのだが、目の前をちょこちょこ歩く鬼丸が気になる。鬼丸は一日に三度は転ぶ天才で、今日は何度こけたのか知らないが、また転びそうで怖い。


「ええっと、鬼丸。足元には気を付けて」

「はい。お気遣いありがとうございます」


 鬼丸は愛嬌のある顔を嬉しそうに笑わせる。

 その可愛らしさに十澄は頬を緩めるが、前方にあるものを見つけて目を見開く。


「あ」

「え? っ……わわっ」


 鬼丸が足を下そうとした先に、黄色の花が素朴に咲き誇っている。

 十澄の声で花に気が付いた鬼丸は下しかけた足を慌てて持ち上げたのだが、次の瞬間にはぐらっと身体を傾けていた。急な動作にバランスを崩したのだ。十澄が手を伸ばす暇もなく、鬼丸はべしゃっと真横に倒れる。同時にごん、と痛そうな音が空気を震わせる。


「あぁ……」

「ふがっ」


 十澄は天を仰いで鬼丸に同情の視線を向ける。

 横に倒れたはずみに睡蓮邸のでっぱりに頭を打ち付けた鬼丸は、よほど痛かったのか地面に倒れ込んでのたうち回っている。

 鬼丸はよく頭を打つが、今回もたんこぶをこしらえたようだ。一日にいくつの痣やたんこぶを作る気だろうか。


「鬼丸、大丈夫かい? あんまり痛いなら氷でも持って来るけど」

「と……十澄様にそのような雑事は、させられ……っません!」


 叫んで飛び起きようとした鬼丸は言葉の途中で痛みにうずくまる。真ん丸の目が涙に潤んで、羞恥に頬は赤く染まっている。

 十澄は生暖かい目で鬼丸を見守り、手を差し出す。畏れ多い、とおののく鬼丸の手を掴んで優しく立たせる。


「もう痛みは引いた?」

「は、はいっ。申し訳ございません!」

「うん、花が無事で良かったね」


 鬼丸と十澄の視線の先で、黄色の花は変わらず咲いている。目立つ花ではないが、一度目に入ると心を和ませられる。雑草でも、睡蓮邸にはよく似合った花だ。

 鬼丸と目を合わせて、互いに頬を緩ませる。


「さぁ、十澄様。今度こそきちんと姫様の下にご案内いたします」


 しゃきんっと背筋を正して鬼丸はまた歩き出す。

 十澄は小さな鬼の背を追いかける。

 睡蓮邸を囲む塀は見えなくなり、飛び石もない自然の道をすいすいと鬼丸は分け入っていく。十澄はまだ庭の全貌を把握できていないが、鬼丸は当然把握している。時々見かける石灯籠や石碑、小さな池や滝を目印に進んでいるのだろうが、鬼丸は十澄が行ったことのない場所へ案内しているようだ。

 鬼丸とはぐれたら迷子になると確信して、十澄は目の前の背を凝視する。鬼丸ばかりに目を取られて、草木の枝葉にぶつかって引っ掻き傷が少しできた。

 そろそろ道行が不安になってきた頃、十澄の目に紅姫の姿が飛び込んできた。赤い唐傘を差して、昼とは違う桜色の打掛を纏い、夜を見上げている。


「あぁ、やはり綺麗でございますね、この時期の蛍は」

「え?」


 言われて初めて十澄は辺りの様子に気付く。

 閑静な夜に数多の瞬きが淡く、儚く、周囲を浮き彫りにしている。ちかちかと輝く光点は飛び回り、睡蓮邸の木々や枝葉、繁みの一部を数秒だけ明瞭にさせる。蛍の群舞だった。

 十澄は幻想的な光景に一瞬呆けて、はっと我に返る。傍に控えている鬼丸の横を抜けて紅姫の下に足早に近づく。

 足音で十澄の来訪に気付いた紅姫が、くるっと赤い唐傘を回す。


「景、よく来た」

「うん。綺麗な夜だね」

「そうじゃな、綺麗なことが幸せの象徴とは思わんがのう」

「……?」


 紅姫の言葉の意味を理解できずに十澄は首を傾げる。

 大量の蛍がふよふよと宙を行き来して、紅姫の差す唐傘に一匹留まる。お尻を緩やかに点滅させて蛍は唐傘の赤みを際立たせるが、少しすると唐傘から飛び立っていく。それを目で追ったが、すぐに他の蛍に紛れて区別がつかなくなる。

 何の蛍だろうかと十澄は考えて、あることに気付く。


「十純、蛍が飛ぶには早すぎない?」


 日本の蛍のほとんどは初夏に成虫になる。夏の風物詩とも言われる蛍が、春風の吹き始めた肌寒い時期に飛ぶはずがない。今は蛍ではなく桜の時期である。

 まさか睡蓮邸の蛍は時季など関係ないのか、と考えていると紅姫が十澄を見上げて口を開く。


「こやつらは界渡りの先触れじゃ」

「……界渡り?」


 耳慣れない単語に嫌な予感がもたらされる。

 眉を顰めた十澄に、いやに淡々とした声で紅姫は説明する。


「わらわたち、墓守の屋敷は数十年ごとに場所を変える。国中を転々として、各地の妖怪たちを迎えに行くのじゃ。それをわらわたちは界渡りと呼ぶ。この蛍どもは、界渡りの起こる先触れよ」


 簡潔にまとめると睡蓮邸が屋敷ごと引っ越しをするということだ。墓守とは紅姫のように、寿命を持たない妖怪たちに安らかな死を与える役目を負った者を指す。妖怪たちの墓である墓池は各地に存在し、それを守る墓守も数多くいるらしい。

 紅姫の言葉の意味を理解して十澄は愕然と瞠目する。


「昨日の夜、初めて蛍どもが舞いよった。……あと三日も立てば、わらわたちはこの地を去らねばならん」

「っ…………次はどこに?」

「分からぬ。この屋敷は気まぐれゆえ、墓守のわらわにも想定できんのだ。これまでは――想定する必要もなかったからのう」


 かろうじて質問を絞り出すが、紅姫は寂しげに首を横に振る。

 十澄は強すぎる衝撃に思考を停止させて、じっと紅姫を凝視する。


(もう、会えなくなる)


 睡蓮邸が別の場所へ移ろえば、十澄は二度と紅姫に会えなくなるだろう。幼い時分に紅姫と出会えたことすら奇跡的な幸運であったのに、二度も奇跡が起こるわけがない。

 厳しすぎる世の中で、十澄にとって唯一の寄る辺は消え失せようとしている。


(……三日後、か)


 鈍い思考でひとつの符合に気が付き、十澄は無意識の内に自虐的な空笑いを洩らし始めていた。


「景?」

「ふ、ふふ……三日後、ね。本当にどこまで運命的なんだろう」


 その日付は夕方に父に打診されたばかりの、十澄の見合いの日と一致する。見合いを受けて、相手と結婚すれば紅姫との関係が変わりそうで怖かった。しかし事態はもっと切迫していたのだ。

 変化が起きたのは十澄だけではなかった。

 秀麗な面差しをいぶかしげにする紅姫に、見合いの話を知らせる。


「……そうか、見合いか」

「うん。たぶんその人と結婚するんじゃないかな、顔もまだ知らないけど」


 二人は揃って苦々しい笑みを浮かべる。


「むぅ、お主が結婚とは……。ほんの少し前はわらわより小さかったのに、人の成長は早いものよ」

「人間の寿命は短いから」


 寿命を持たない妖怪よりも永い年月を歩んできた紅姫には、十澄の成長もあっという間に感じられるのだろう。普段は気にしない年齢の差をこんな時に実感する。

 互いに形容しがたい複雑な感情を胸に押し込めて、二人は睡蓮邸を群舞する蛍たちを無言で眺める。

 蛍の成虫は一週間から二週間の命しか持たない。睡蓮邸を舞う蛍が一般の蛍と同じかは知らないが、この蛍たちもそう長くない命だろう。彼らは子孫を残し、息絶えて土へ返って行く。

 あと数十年も経てば十澄は土の下に埋まるはずだ。長生きできると思っていないが、もしも死ぬ時が来たら睡蓮邸の庭の端にでも埋まりたかったと今更のように思う。


「……ねえ、十純」

「どうした?」

「ぼくが死んだら、一度だけ会いに来てよ。どんなに時間がかかっても、墓の下で待ってるから、会いに来て」


 できる限り平静を装って懇願する。それは遠回しな別れの挨拶でもある。

 紅姫はつぶらな瞳を大きく見開いて数秒間絶句する。止めた息をゆるゆると吐き出して、紅姫はまぶたを閉じると小さく頷く。


「良かろう。わらわは睡蓮邸をあまり離れられぬ。遅くなるかもしれんが……必ず、行こう」

「良かった」


 その確約に十澄はくしゃっと顔を歪めて安堵する。

 互いの顔を見ないまま、紅姫と十澄は月を遮る雲居の夜の下、立ち尽くす。赤い唐傘に隠されて見えない紅姫の顔も、わざとらしく夜空を仰ぐ十澄の顔も、酷い有様なのは見なくても分かる。

 蛍の光に薄ぼんやりと照らし出される二人の顔を確認できるのは、二人の傍に無言で控えている鬼丸だけだった。

 結局その夜、互いの顔をまともに確認できないまま二人は別れた。



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