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番外 下 其の二

二話連続更新しています。


 すっかり皆の話題の種も切れる頃、紅姫は疲れの見える表情で脇息にもたれかかっていた。あれから矢継ぎ早に質問を繰り返され、皆の好奇心が満たされるまで付き合った結果、ずいぶんと疲労が重なっていた。普段、必要以上に話さない反動だろう。

 今でも、他の墓守はそれぞれ他愛無いお喋りや簡単な遊びで盛り上がっているが、紅姫はどれにも参加する気力がない。琥珀にならってこれ以上は傍観に徹したかった。

 そっと目を閉じて黙していると、耳に届く喧騒が遠退く気がする。紅姫は百五十年に一度の宴を歓迎しているが、やはりそれは年を空けて開くから価値がある。毎日この宴の喧騒に包まれていたいとは思えない。

 睡蓮邸は生き物の気配ぐらいしか、辺りに感じさせない森閑とした屋敷だ。紅姫がそうであるように願って、使用人たちもそれを尊重している。十澄と紅姫の関係も、その屋敷に沿うように穏やかさを保ち続けている。


(とは言え、景が来てからはいささか活気も付いたか)


 人は睡蓮邸で暮らすには弱すぎる生き物だ。やれ十澄が熱を出した、妖怪に襲われた、池にうっかり落ちたと最近では少なくなってきたが、周囲は冷や冷やしながら面倒を見てきたものだ。紅姫も何度肝を冷やしたか、数え知れない。

 だが十澄が睡蓮邸に来てから、使用人たちは以前より親しみやすくなったようだ。昔から忠義を尽くして仕えてくれていたが、どこか遠慮がちで主人と使用人の間の交流は少なかった。十澄の存在がゆっくりと睡蓮邸を変化させてきたのだ。

 あるいは、最も変化したのは紅姫かもしれない。


(まさか、時間を貴重に思う日が来ようとはのぅ)


 墓守にとって時間は無限に溢れるもので、今という時間を大切にすることはない。

だが人間にとっての時間は極めて有限だ。その時間を惜しむように、瞬く間に人間は成長していく。ついさっきまで幼子であった者が、気付けば三十路になっている。かつて紅姫が背を撫でて慰めていた子が、今では紅姫を心身ともに支えるようになった。これからも十澄は紅姫を置いて、成長し変化し続けるのだろう。

 たとえ、外見上の成長が止まっても。十澄が人であるからには、変化を止められない。


(それでも良い。わらわはそれを見届けるのみじゃ)


 親が子の成長を喜び、見守るように。紅姫もまた十澄の変化を受け入れる覚悟があった。片時も目を離さず、限られた時間を精一杯共に楽しみたいのだ。

 時間が限られているからこその、喜び。人が生まれ持った宿命であり、人外の者には縁のないそれを、紅姫は十澄から与えられた。

 紅姫はここ三十年で得た全ての変化を愛おしんでいる。墓守は数千年を生きながら変化を怖れる生き物だが、変化はそう悪いことでもないように思えた。不変でいるのは楽だが、決して幸せに繋がるとは限らないのだ。その逆もまた、白銀の例は表しているけれども。


「……行き付いてみなければ、何も分からぬか」


 そうつぶやいて、紅姫はまぶたを押し上げる。すっと夜の瞳を滑らせた先、“道”に繋がる十二色の扉の一角が、煌々と強い輝きを押し広げていた。

 新たな同胞の来訪を告げるのは、緑の扉だ。

 他の墓守も気付いたようで、自然と話し声は途切れて皆の視線が一点に集う。


「たっだいまぁ!」


 墓守たちが見守る中 元気よく“道”から現れたのは、緑を司る第六の墓守、萌葱姫である。萌葱はふんわりと深緑色の衣装をなびかせて、くるっとその場で舞って見せた。彼女は十二色の宴に出席するものの、よく屋敷と宴の間を行き来するのだ。何でも屋敷の料理がとても美味しく、一度でも食べ過ごせないらしい。

 萌葱に一番に声を掛けたのは、それまで置物さながらに黙していた桜だった。桜はその秀麗な眉を吊り上げて、一言鋭く叱りつける。


「お前はもう少し落ち着きが持てんのか、萌葱」

「あれぇ? 桜がいる! 久しぶりだね、元気にしてたっ?」

「……お前は相変わらずのようで、何より」


 萌葱はその叱責にこたえた風もなく、人懐こい笑みを浮かべてとことこと桜に近づく。桜も忌々しそうな顔をしているが、それは表面上だけだ。墓守の中でも、気難しい桜と天真爛漫な萌葱は何故か気が合うようで、十二色の宴ではよく一緒にいる。逆を言えば、桜は萌葱以外の墓守に進んで関わろうとはしない。それは紅姫の件に唯一、何も口出しをしなかった点からも明らかだ。

 そのまま、普段通り萌葱は桜に構い始めるかと思いきや、くるっと紅姫の方を見た。


「そうそう、忘れるとこだった。紅、あなたのとこの“道”が妙な感じに歪んでるよ?」

「なに……?」


 その場の全員の視線が紅姫の“道”に注がれる。

 萌葱の言葉通り、紅姫の“道”は内側から軋むようにたわんでいた。木造の閂を締めた門が、グギィと聞き苦しい悲鳴を上げている。

 誰もが目を見張って凝視する中で、紅姫はそっと笑みを浮かべて静かに席から立ち上がった。

 それを墓守の誰かが見咎め、怪訝な声を上げる。


「紅……?」

「ようやっと、来たようじゃ」


 その隠しきれない喜色の混じったつぶやきは、すっと宴の間に響き渡った。

 紅姫には“道”の異常の理由に見当が付いていた。だからこそ、胸の奥の脈動を高鳴らせて、期待に頬を朱に染める。それは色香さえ覗かせる艶やかな笑みである。

 茜色の振袖を払って、同胞の注目も無視して睡蓮邸に繋がる“道”に歩を進める。

 やがて紅姫はそっと小ぶりな手の平を、門を閉じる鉄の閂に添えた。その途端、がしゃんと音を立てて簡単に閂は外れる。ギギィと軋みを上げて門は外側に開かれた。それに合わせて紅姫も二歩ほど後ろに下がって、“道”を辿って来るだろう人物を待つ。

 ゆら、と“道”の奥に広がった闇色にうねりが見られた。

 次の瞬間。まるで闇から吐き出されるように、人影は飛び出て来た。


「わ、わ、わぁっ?」

「――景!」


 あまりに勢いよく出て来た影を、紅姫は両手をいっぱいに広げて受け止めた。それでも元の体格が違い過ぎて、紅姫はたたらを踏む。後ろに倒れなかったのは、ひとえに相手が必死で踏みとどまったおかげである。

 用事は済んだとばかりに“道”に続く門は勝手に閉じ、閂も油断なく締められる。

 その門前で、たった今十二色の宴に飛び入り参加してきた人影――十澄は、自分を抱き留めた小さな身体に半ばもたれかかるようにして、長い吐息を漏らしていた。

 十澄はそっと紅姫のかんばせをのぞき込み、苦笑混じりに告げる。


「まったく。……苦労したよ、十純」

「無事なようで何より」


 紅姫は目を細め、小さな子どもにするように十澄の栗色の髪をぽんぽんと撫でた。

 これには十澄も気恥ずかしげに眼を逸らす。


「“道”はどうであった?」

「正直、真っ暗でどちらに行っていいかも分からなかったから、困った。ずいぶん長いこと、宛てもなく歩いていたら、いきなり空間からこう……ぽいっと弾き出されたような感じ」

「ふむ、面白いのぅ」

「いやいや、あのままずっと迷っていたらどうするんだい?」

「その時はわらわが無理矢理迎えにいくだけじゃ。こうして無事なら何でも良い」

「……まぁ、そうだけどね」


 十澄はそれ以上の抗議を諦めた様子で小さく笑う。

 その見慣れた笑みに、紅姫は何か言い知れない安堵のようなものを覚えた。きゅっと十澄の身体を支える手に力を込める。そこにある温もりが当たり前になってから、まだ三十年も経っていないのが信じられない。

 今度は十澄も微笑を浮かべて抱き返し、ふっと何かに気付いた様子で小首を傾げた。


「……十純、ずいぶん――」

「紅、その者はどなた?」


 すっと通る声に言葉をさえぎられて、十澄は目を瞬かせて口をつぐむ。

 墓守の座する円卓の一角、漆がチーク木の椅子から立ち上がり、見定めるような鋭い眼差しを十澄に向けていた。宴の間は彼女に引きずられるように、異様な緊張感に包まれている。

墓守たちは皆、それぞれ好奇心や苛立ちの混ざった眼差しを十澄に向けていた。

 それを見て取った十澄は困ったような顔をして、紅姫に触れていた身体を離して立ち上がる。

 紅姫もすっと表情を改めて、同胞たちを振り返った。その顔には先ほどまでの柔らかな微笑は欠片も浮かんでいない。十澄をかばうように前に出て、紅姫は平然と言葉を発した。


「聞かずとも分かっているように、わらわには見えるがのぅ?」

「あら、まずは紹介を待つのが礼儀でしょう?」

「ものは言い様じゃな。――では改めて紹介しよう。この者が、わらわが選んだ人間じゃ」


 紅姫は微笑ひとつで簡単に紹介すると、首を斜め上に傾けて十澄と目を合わせる。

 それだけで十澄は紅姫の意図を理解したようで、ひとつ頷いて墓守たちを見据える。


「はじめまして。十澄景一郎と申します」


 十澄は伸ばし放題の栗色の髪をなびかせながら、ぴりぴりとした雰囲気を纏う墓守たちに頭を下げる。場所が畳の上なら丁寧に膝を突いて挨拶しただろうが、さすがに闇一色の地面に正座をすることはない。自分から行動する気はないようで、十澄は黙ってその場の様子をうかがっていた。

 だが十澄が名乗った後、微妙な雰囲気が宴の間を覆った。

 初めに声を漏らしたのは瑠璃だった。じっと十澄を凝視して、困惑の表情を作っている。


とずみ・・・……? それって本名なの? えっと、苗字だよ、ね?」

「ああ、はい。本名ですよ」


 あっさりと十澄が肯定すると、瑠璃は驚いた様子で口をつぐむ。

 紅姫と十澄は何が墓守たちを困惑させているのか察して、顔を見合わせた。


「ふ、ふふふふっ」

「くっ」


 突然、二つの笑い声が宴の間に響く。朽葉が上品に口元を手で隠し、藤は遠慮なく声を立てて、それぞれの顔に笑みを広げていた。他の墓守を無視して、さもおかしげに笑い続ける。

 やがて笑いを抑え込むと朽葉と藤はお互いに視線を交差させる。彼女たちはどことなくすっきりした顔で、十澄と紅姫に視線を向けた。

 その口が墓守たちの困惑の原因をあっさりと明かす。


「まったく……、“とずみ”だって? 名前と苗字の違いがあるとは言え、同じ名を冠しているのか! これほど傑作なことがあるかよ?」

「あら、言い方が悪くってよ。とても運命的な出会いではないの!」

「まぁ、早々あることじゃあ、ないよなぁ」

「ええ。これは喜ばしいことでしょう?」



――十澄と十純。



 何の作為もなく、仕組まれたように同じ名を持つ二人は出会った。そこには紅姫が珍しく人の世に降りて来ていたこと、十澄が不遇な身に生まれたこと、そうした様々な偶然が折り重なって生まれた奇跡的な繋がりがある。

 まさに運命、そう結論付けても構わないほどの因果が、紅姫と十澄の間にはあった。

 墓守にとって名前はその者の本質を表す、大事に秘匿されるべきものである。たとえ同胞でも名前を呼び合うことはなく、各称号で呼び合うならわしだ。今まで名前を他者に預け、呼ばせた墓守は存在しない。あの白銀でさえも、番となった人間に名を託さなかった。

 それをいとも簡単に、かつての紅姫はその意味すら分かっていない人間の子どもに託した。今でも十澄は、紅姫の名を呼べる特別性を正確には理解していない。

 約三十年前を紅姫は今も鮮やかに思い出す。

 ほんの気まぐれで紅姫は人の世の祭りに紛れ込んだ。誰もが数多の提灯の明かりに照らされながら一時の騒ぎに興じる中で、闇に埋もれるようにして、うずくまり泣いていた異国の子。その子に手を差し伸べたのは、何とはなく紅姫の気を引くものがあったからだ。

 その白色の肌や金混じりの髪は、日々妖に見慣れた紅姫の眼には奇異に映らない。だが顔を歪めて泣く子どもの、涙を流し続ける虚ろ気味の瞳に惹かれた。その暗夜の瞳に、紅姫は自分の姿を映してみたくなったのだ。


(わらわは……あの子を憐れに見たのではない)


 ただその虚ろに周囲を眺めるほの暗い色が。


(わらわと重なっただけじゃ)


 孤独。癒えもしない心の傷が、祭りに賑わう喧騒の中で浮き立って見えた。

 それは傷を負った者同士の、傷の舐め合いだったのかも知れない。幼い十澄に自己投影をして、彼を慰めることで身勝手な満足感を求めただけかもしれない。

 それでも紅姫は、次第に身近になる十澄の存在に救われた。


『考えたのじゃが、やはりお主と離れるのは惜しい。わらわは景が欲しいのじゃ。――だから、わらわと共に来い』


 あの時、そう言って十澄を人の世から引き離したことを紅姫は欠片も後悔していない。いつか悔いる日が来るとも、思っていない。

 何の掛け値もなく、紅姫には十澄が必要だった。


(まったく、何という因果であろうな)


 紅姫は誰にも気づかれないほど小さく、苦笑を零す。


「ねーえ、よく分からないけど、それってもう決着がついた話なんでしょ? 紅も、そこの人間も席に座ったら?」


 緊張感の漂う中でも変わらず桜にまとわりついていた萌葱が、小首を傾げて提案する。

 すでに宴の間は硬い雰囲気をとうに失せさせ、いくぶん和やかな雰囲気になりつつあった。他の墓守たちも、萌葱の提案に反対することない。

 漆も椅子に座り直し、紅姫と十澄の方に席へ座るよう促す。


「そうね、わたしたちもまだ聞きたいことはあるし、席に着かれたら? 紅と同じ席で大丈夫でしょう?」


 その言葉を肯定するように、紅姫の席に浮く畳に二つの座布団が現れる。子どもの形をした紅姫と男性として細身な十澄なら充分にくつろげる広さがあった。

 根ほり葉ほり、十澄を質問攻めする気満々に見える同胞たちの様子に、紅姫は胸の奥から込み上げてくるため息を無理矢理呑み込んだ。すでにこれまでの会話で疲弊した紅姫には、遠慮しておきたい流れができつつあった。

 仕方があるまい、と紅姫が席に向かおうとした時。

 その手を軽く引いて、十澄が紅姫の歩を制した。


「景?」

「――うん、駄目だよ」

「どうしたのじゃ?」

「いや、だって……。十純、そろそろお昼寝の時間帯だと思うんだ」


 十澄の困ったような言葉に、紅姫は軽く目を見張る。次いで、すっかり頭から抜け落ちていた懸念を思い出して納得する。

 つまり十澄は、最近の紅姫の悪癖が出るのを怖れているのだ。紅姫を送り出す時も気にしていたように、突然ぱたりと気絶するように寝入ってしまう墓守として謎の症例が出るかもしれない。

 そしてそれは、紅姫が疲労を感じている時ほど顕著に表れる傾向にあった。


「そうであったな……。確かにもう、危ないかもしれぬ」

「うん。だから迎えに来たんだ」


 十澄はそう、小さく笑みを浮かべて頷く。

 その姿を尻目に紅姫は自然と浮かんでくる笑みをこらえ、円卓に集った同胞たちの方を見た。まず彼女たちを説得することが難題である。

 漆は何を考えているのか計り知れない、艶やかな笑みを湛えて小首を傾げる。


「どうかされて?」

「……漆、すまないが――」

「申し訳ありません。ぼくとしても惜しいのですが、今は十純も疲れているようなので帰らせていただきます。元より、十純を迎えに来ただけですので、お話はまたの機会にお願いします」


 紅姫が慎重に言葉を選でいる隙に、すらすらと十澄は口上を述べて頭を下げる。

 一瞬、唖然とした空気が辺りを支配した。

 その隙に十澄は腰を折り、いつも共に歩む時のように紅姫に片手を差し出す。紅姫にまっすぐ向けられた視線は穏やかだが、有無を言わせない強張りが見て取れた。

 ほぼ反射で十澄の手を取った紅姫は、表面に出されない彼の心配の大きさをやっと理解した。そこまで理解すれば、紅姫も彼の意思を尊重する。もとより、これ以上宴の間に留まる気も失せていた。


「ではわらわたちはこれで失礼しよう。皆の者、また次の宴会での」

「ってちょっと待て! いくら何でも薄情だろう」

「そうだよ、紅姉さん。もう少し一緒にいられないの?」


 はっと我に返った藤と瑠璃が引き留めるように、円卓に身を乗り出して声を上げる。

 紅姫はさらに断りを入れようとして、やや疲労で青白くなった頬を強張らせた。一瞬にして遠退いた聴覚に、漆と朽葉の声が曖昧に届く。


「あら、疲れているなら返して差し上げましょうよ」

「そうねえ、先に紅からは話を聞いていたのだから、良いのではなぁい?」


 ぱちぱちと瞬いた視界をぐるりと回すほど強烈な衝動。それに抗いきれずに、紅姫はこめかみに片手を当てて足元をふらつかせる。

 その異変に真っ先に気付いたのは、宴の間の喧騒を見ていた十澄だった。はっとした顔でその場に膝を突き、紅姫の顔をのぞきこんで息を呑む。


「十純!」

「ああ……、眠いのぉ」


 ぽつりと口を出た本音が異様に大きく宴の間に響いた。

 まるで人間の子どものように、体力を使い切った頃に押し寄せてくる眠気。十澄をわざわざ十二色の宴まで赴かせた懸念が、現実になろうとしていた。十澄が傍に居るのは幸いであるが、逆に十澄の顔を見たから心の緊張の糸が決壊したようにも思える。

 紅姫は力の入らない腕で十澄にすがりつき、困ったように眉根を寄せて言った。


「むぅ、すまない。景――あとは、任せ……る」

「十純! だから言ったのに……!」


 自分を抱き寄せる十澄の狼狽えきった声を耳にしながら、紅姫は遠くから強引な誘いを掛けてくる眠りに身を浸していく。急速に意識を闇の底へ落としていく中も、不思議と同胞たちの中に残す十澄への不安や心配はなかった。どうにか上手く、皆を取り繕ってくれるだろう。

 紅姫は何の憂いもなく、安心して眠りの縁に落ちて行った。




 *****




 紅姫には始まりの記憶がない。人間であれば、母親の胎内から生まれ出た時の原始的な記憶のことである。人間にとって当たり前の話だが、人外の精霊や妖、悪魔のような存在の中には、自分が生まれ落ちた瞬間の記憶がある者は少なくない。

 墓守が世界に生まれたのは、もう一万年以上も昔の話である。突然、紅姫はそこに在る自分というものを認識した。人間にとっての親や、妖のように生まれる元となった道具や思想という下地が墓守にはなかった。世界が必要としたから、突然そこにぽっと現れただけの、厳密には生命を持たない“世界の一部”なのだ。

 紅姫は生まれた瞬間から墓守としての役割を自覚し、まず自分の生まれた空間に睡蓮邸を建てた。そして、その場に救いを求めてやってきた妖をすぐに迎え入れて、彼らに“死”を与えた。当時の睡蓮邸は今の面影もない、粗末な掘っ立て小屋であったが、紅姫は何の不便も感じていなかった。

 生まれたばかりの紅姫は、赤子のようなもので、自分の役割以外のことをさっぱり理解していなかった。世界に美しい風景や美味しい食べ物、楽しい逸話がたくさんあることも知らず、ただ純粋に墓守の機能だけに忠実な人形だった。

 それがいつしか、紅姫に仕えようと訪れた者に囲まれ、彼らに言われるがまま睡蓮邸を造り変え、年月を重ねるうちに世界の在り様を理解するようになった。自分の嗜好を把握し、喜怒哀楽を知って、妖たちが墓守に畏怖と尊敬を向けていることを知った。

 世界の美しさを知ると共に、紅姫は自らの孤独や墓守の使命の残酷さを自覚せずにはいられなかった。誰もが時の流れに負けて紅姫の下を去っていく。初めに紅姫に仕えた者たちも、一万年も過ぎれば誰も傍にいない。永久の暇を願い出て、睡蓮邸の池に美しく咲き誇っている。

 初めこそ紅姫の心を躍らせた全てのものは、千年も過ぎる頃には意味を失くし、色を失くした。裕福な暮らしも贅沢な調度品や衣類も、紅姫の心には響かなくなった。ただ誰かに“死”を与える度に深みを増す暗い穴が胸の隅を占拠するようになった。

 紅姫は墓守の使命に全てを捧げるだけの存在だった。世界にとって都合の良い操り人形であろうと、自らそうしていた。紅姫たち墓守は妖のように時の流れの長さに狂うことはできない。――死という救いは永遠に与えられない。

 ただただ無為に、墓守の使命に溺れて存在し続け一万年を超え――ようやく、紅姫は出会えた。


『……十純』


 誰かに真名を呼ばれることが、これほど嬉しいものとは紅姫は知らなかった。

 墓守にとって真名は存在の本質を表すものである。生まれた同時に当然のように知り、世界と自分を別物と捉えるための唯一の鍵だ。真名を失くして墓守はアイデンティティを確立できない。真名が意味を失くした時、墓守は世界の一部に還元されて存在を消去される。

 それは“死”よりも恐れるべき、虚無への廃棄である。墓守として生まれた自分を否定され、駆逐される行為なのだ。

 だから墓守は他者に真名を預けない。真名の意味を穢された時、墓守は世界から消される。真名を預けるということは、他者に生殺与奪権を渡すという行為だった。

 それを知りながら、紅姫は十澄に名を預けることを躊躇わなかった。たとえ彼の悪意によって真名を穢されたとしても紅姫は本望と思うに違いない。

 何より恐ろしいものなれど――それは墓守に与えられた唯一の終わりへの道なのだ。

 今の紅姫は終わりを望んではいないが、自分の持てる唯一の宝を預けられる者がいることをとても尊んでいた。その者を深く、愛するがゆえに。



「――景」



 紅姫はその名を口ずさみ、目尻から生暖かい雫が流れていくのを感じる。ぼんやりと滲んだ視界を認めて、紅姫はようやく眠りから目を覚ましたことを察した。しぱしぱと瞬きを繰り返すと視界は正されて、溜まった涙は引っ込んで行く。

 すっかり意識も明瞭になり、紅姫は身を包む寝具の感触を確かめながら目を彷徨わせる。寝落ちする寸前まで十二色の宴に参加していたことを覚えていた。今睡蓮邸にいることから、十澄がしっかりと連れ帰ってくれたのだろう。

 紅姫はわりとすぐに探す影を見つけ出した。


「ああ、十純。目を覚ましたんだ、気分はどう?」

「少し疲れが取れたかも知れぬ。……お主の方はどうであった?」

「まったく、ぼくも慌てたよ。何とか、十純の身体に異常があるわけではないって曖昧に誤魔化して逃げるように帰って来た。……次の機会に問い質されるかもねえ」

「なるほど、面倒なことよ」


 今回の十二色の宴を思い出して、紅姫はいささか憂鬱そうな顔をする。同胞たちの興味も理解はできるが、質問攻めにされるのは並々ならぬ疲労を伴った。喧騒より静寂を好む紅姫としては、何度も経験したいものではない。

 しかしどの道それは、百五十年は先の話である。墓守たちの興味が他に移っている可能性は薄いが、その頃には紅姫の気の持ち様も変わっているだろう。もう十澄の存在は知らせてあるから、今度こそ一緒に赴いても良い。

 頭を悩ませる紅姫の隣から、くすっと苦笑する気配がする。


「ずいぶん疲れたみたいだけど……宴は楽しかった?」

「まぁ、悪い気はせぬ。何であれ、同胞ゆえ」

「それは良かった」


 紅姫は他の十一名の墓守を好いている。この一万年以上に渡る時間を乗り越えて来たのは、間違いなく同じ境遇にいる彼女たちと繋がりを持てたからだ。そうでなければ、紅姫は自ら真名を穢して消滅を願っていたかもしれない。

 たとえ次の宴が多少面倒な事態になろうとも、紅姫は十二色の宴に参加し続ける。もうすでに四名の墓守が遠退いた宴の、五番目に名を連ねる気はなかった。


「わらわはどれほど眠っておった?」

「半日くらいかな」


 その言葉を確かめるように紅姫は部屋の窓の方に視線を移す。わざわざ確認するまでもなく部屋は暗く、障子戸で閉め切られた窓は光を通さない。その向こうには夜の帳が降りていることだろう。

 もうすぐ、十二色の宴も終わりを迎える。つかの間の休息もこれで終わりだ。

 紅姫はそっと息を吐いて寝具から身を起こした。半日も寝続けると身体を動かすのも億劫に感じられて、重たい動作で立ち上がる。おそらく使用人が着替えさせた真っ白な襦袢も、灯籠で辺りを照らすばかりの部屋ではよく映えた。

 不思議そうに十澄はその動向を見守っている。

 紅姫は乱れた白襦袢の裾を直しもせず、窓に向かって障子戸に手を伸ばす。障子戸を開けた向こうには、西洋から伝わったガラスが嵌められ、外の闇夜を透かしていた。

 今夜の月は、満月には少し足りない十三夜の月だった。冴え冴えとした月光が何にも遮られずに庭に息づく植物をひそやかに照らしている。

 紅姫はガラス窓の枠に手を掛けて横に引く。ふわっと解放された窓から冷たい夜気が、紅姫の身体にぶつかって奥に流れていく。


「今宵は月の美しい夜じゃ」


 ぽつりとつぶやいて、紅姫はじっと様子をうかがっている十澄を振り返る。

 しばらくの間、穏やかな沈黙が辺りを支配した。


「……どうして泣くんだ?」

「何?」

「だって、涙が……」


 そう指摘されてようやく、紅姫は自分の頬を伝う生温かな雫の存在を意識した。つー、と一筋の跡を頬に残し、透明な雫は顎に溜まって、ぽたっと襦袢の裾を濡らす。

 何故涙が眦を濡らしたのか、紅姫自身にもよく分からなかった。ただ漆黒の瞳を瞬かせ、不思議そうに涙を吸収して濡れた襦袢の裾を見つめる。

 十澄は困った風に眉を下げてそれを見守り、辺りの静寂を侵さない動作で立ち上がった。紅姫の傍らに立って、紅姫が先ほど見上げた夜空を同じように眺めた。望月に満たない月を捉えて、紅姫の言葉に同意する。


「ああ……確かに綺麗だ」

「そうであろう?」


 月明で照らされた夜空には雲一つなく、代わりに数々の星がきらめきを増して天の川をはっきりと作っている。睡蓮邸の上空から降る輝きは闇夜と思えないほど、月下を仄明るく照らしていた。

 涼やかに深みを増す天空は、睡蓮邸の主の心を反映して静かに凪いでいる。それは紅姫の心に憂慮が潜んでいないことを何よりも証明している。紅姫はその空のように穏やかな気分で、十三夜の月に魅入られていた。


「十純……また泣いてる」

「ああ、そのようじゃ」


 傍らから十澄の伸ばした手が、はらはらと紅姫の頬を流れ落ちる涙を丁寧に拭い取る。その間も紅姫は夜空から視線を逸らさなかった。

 十澄は止まらないその涙を見つめ、そっと紅姫の小さな身体に黙って寄り添った。


「ほんに、綺麗じゃ」

「うん……いつでも睡蓮邸は綺麗だけど、今夜は一段とね」




――二つの影はぴったり寄り添って。いつしかひとつになった。

――それがまた、二つに分かれることはきっと、ない。




ここまで読了ありがとうございます。

この作品はこれにて完結させていただきますが、こんな話が読みたい! というようなリクエストがありましたら、作者の方にどうぞ。

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