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 太陽の燦々と降り仕切るさなか、適度に湿った空気が道行く人々の心を潤わす。軽い通り雨の後をじめっとした湿気ではなく、気分を良くする爽やかな空気が支配している。一日で最も気温の高い真昼であっても、今の時期の陽光は不快な暑さを感じさせない。雨の余韻に草木が露を濡らしていなければ、まさに春のうららかな御日柄である。

 きちんと大きさの揃った石畳の上を様々な人が歩いている。伝統的な和装の者、最近になって伝来した洋装の者、人力車が走って行く光景、街並みにもレンガ造りの家から木造の家まで、和洋折衷である。

 全体的に和風のものがまだ多く占める街並みを、周囲から奇異の視線を集めてのんびり歩く青年の姿がある。文明開化に忙しい時代でも、その姿はやはり異彩を放つ。黒髪黒目の日本人の中で、青年は外国の色彩を色濃く持った容姿をしているのだ。栗色の髪は肩にかかるほどで、紺色の袖から覗く肌は白すぎる。瞳だけが周囲と同じ漆黒だ。

 見るからに外国の血を引く青年は、刺すような視線にも慣れた様子で気にする素振りはない。柔らかい、優しそうな雰囲気を保ったまま歩いている。

 青年は上機嫌だった。周りにはのんびりとしているように映るが、本人は普段より少し早く足を動かしている。青年の手には一輪の花が握られている。赤く色付いた雛罌粟の花である。

 目的地に向かう途中に寄り道をしたところ、満開に咲いているのを見つけて一輪手折ってきたのだ。手の中の雛罌粟は美しく、手折っても色鮮やかさを保っている。

 青年は一輪の雛罌粟に時折視線を落として目元を和やかにする。

 初めは整備された石畳が足元を覆い、石橋が川に掛けられ、道の両脇をいくつもの店が賑わっていたが、青年が進むに連れてそれらは少しずつ姿を消していく。石畳は剥き出しの地面へ、両脇の店はまばらになって耳に届く喧騒も音を小さくする。開国に伴って変化してきた街並みが、ひと昔前の光景を醸し出す。

 速度を緩めないまま向かう先に、青年の待ち望んでいたものが見えた。青年はぱっと嬉しそうな顔をする。視線の先では何の変哲もない竹藪があった。それほど奥深くない竹藪で、反対側には小さな道も通っている。

 青年は迷わずに竹藪の中に足を踏み入れていく。ざくざくと雑草を踏み分け長く伸びる竹を避けて、そろそろ反対側の道が見えてくる頃。明らかにおかしな現象が起こる。

ゆらりと目の前の空間が揺らいで、向こうの風景が歪んだ。

 普通の人間ならぎょっと目を剥くところだが、青年は逆に嬉しそうに揺らいだ空間に手を伸ばす。歪みに触れた瞬間、青年の姿はぱっと竹藪から消え去る。

 一瞬の揺れを感じた後、青年の前に広がる光景は一転していた。先ほどまでは確かになかった大きな日本家屋がどん、と威圧感も露わに建っている。背後には竹藪が見られるがその向こうは見通せず、目の前の屋敷にしても横に広く塀が伸びているので視界に映るのは空と屋敷のみである。

 動揺もなく青年が屋敷に近寄ると、閉ざされた門扉の横に“睡蓮邸”と掘られた木札が下げられている。青年が立派な門扉を叩く前に、内側から門はぎぎ、と軋みを上げて開けられた。

 青年が遠慮なく門をくぐると、屋敷の大きさに比例して大きな門を開いた小さな影がちょこちょこと出てくる。


「こんにちは、鬼丸」


 にっこりと青年が挨拶した先に、奇妙なものがいた。人間にして五歳ほどの背丈の小鬼だ。浅黒い肌に菖蒲色の着流しを纏い、頭の頂点に鋭い角を一本生やしている。おそろしげな外見だが、その身長と顔に浮かぶ笑顔が可愛らしく見せている。

 鬼丸と呼ばれた子鬼は青年の前に立つと、深々と頭を下げる。


「お帰りなさいませ、()(ずみ)様。姫様もお待ちでございます」

「そっか。今日は少し遅れてきちゃったからね。でも手土産はあるんだよ」

「それは雛罌粟でございますね、お喜びになるでしょう」


 青年、十澄の手の中にある花を認めて鬼丸はにこにこと険しい造りの顔を和ませる。人間と鬼の種族の違いはあっても、互いの間に流れる空気は友好的で和やかだ。

 鬼丸は笑顔を崩さないまま、十澄を奥に控える屋敷まで先導する。ここまで歩いてきた大通りの石畳より綺麗に手入れされた石畳を辿ると、開け放たれた玄関の先の三和土が見える。

 これまでの経験から不安になった十澄は、前を歩く鬼丸に声を掛けようとした。


「鬼丸、そこの段差に気を付け……」

「はい? っ……ぎゃん!」

「あちゃあ」


 すべて言い終える前に、前方不注意になった鬼丸がびたん、と痛そうな音を立てて転ぶ。玄関前の段差につまずいて、開け放たれた入り口の敷居に鬼丸の顔がぶつかっている。

 一瞬遅かったと十澄は手を額に当てて天を仰ぐ。


「ぐぬぬぬぅ」


 鬼丸は敷居にぶつけた額を手で押さえ、痛そうに呻いている。

 十澄は心配半分、呆れ半分の表情で鬼丸に近寄る。


「大丈夫、鬼丸? 怪我はしてない?」

「はい。大丈夫でございます」


 生来生真面目な鬼丸は情けない姿を晒すのを厭ったのか、ばっと立ち上がって十澄に何もなかった風を装う。だが真ん丸な目は痛みに潤み、額には敷居にぶつけた痕がくっきり残っている状態では逆に愛らしく見える。

 親の見ている前で些細な失敗をして恥ずかしがる子どもを見ている気分だ。

 十澄は苦笑を堪えて、優しく労わる。


「あとで額を冷やしておくといいよ。じゃないと打撲になるかも」

「むむ。情けないお姿をお見せして申し訳ありません」


 額を押さえて転んだ痕に気付いた鬼丸は浅黒い肌を赤くする。それから誤魔化すようにわたわたと十澄を屋敷の中に招き入れる。

 十澄が三和土で下駄を脱ぐといつもの通り、鬼丸は屋敷を案内しようとする。それを十澄は引き留めた。


「鬼丸。額を冷やしておいで。ぼくは一人でも行けるから」

「ですが、貴方様を案内するのが私のお役目でござれば」

「ああ、そっか。それじゃあ、今度はぼくのお願いを聞いてくれない? 彼女にはぼくから言っておくから」

「ぬぅ、十澄様がそこまでおっしゃられるなら、致し方ありません」


 鬼丸は渋々と引き下がると、廊下の奥を指し示して言う。


「今日の姫様は鈴蘭の間にいらっしゃられます。このままお進みになって、突き当りを右にお曲り下さい」

「うん。鈴蘭の間ならぼくにも分かるよ」


 広大な屋敷には百以上の部屋があるので、初めて来た客は迷いやすい。十澄も屋敷に上がった当初は散々に迷って半泣きになったこともあるが、今はもう屋敷の構造はほとんど頭に入っている。すべて、と言えないのが、大きすぎる屋敷の恐ろしいところだ。

 鬼丸に見送られて十澄は一人で鈴蘭の間に向かう。広い邸宅だが、長い廊下を歩いてもなかなか住人には出会わない。大きさに反して利用者が少ないのだ。

 口頭で教えられた通り、何分もまっすぐ廊下を歩いた先の突き当りで右に曲がる。その先をまたずっと直進した場所に鈴蘭の間はある。時間を掛けて辿り着いた部屋の横壁には、名の通り鈴蘭の絵が彫られている。

 十澄が部屋の中に声を掛けようとした途端、すっとふすまが静かに開けられる。室内にも関わらず、涼しい微風が頬を撫でた。


「あれぇ? 鬼丸がいないじゃない」


 素っ頓狂な甲高い声を上げて顔を出したのは、小柄な少女だ。やや釣り目気味の目元が気の強さを表して、小作りな桃色の唇が可愛らしい。一見すると七、八歳ほどの将来が楽しみな普通の子どもだが、その身体は宙にふわふわと浮き、半透明である。

 十澄はきょろきょろと廊下を見回す半透明な少女に苦笑する。


「鬼丸は玄関で転んだから、額を冷やしに行ってもらったよ」

「うんまぁ! また転んだの、あの子! おっちょこちょいねえ」


 桜色の頬に手を当てて、少女は困った子を見るような顔をする。

 鬼丸が礼儀正しく有能な家令なのは事実だが、少しドジな面があるのは屋敷に住む者の共通認識である。


「それで(かざ)(きり)(ひめ)、彼女は中にいる?」

「え? ええ、もちろんよ。中に入ってちょうだい」


 風の精霊である少女は慌てて入り口から退いて、十澄を部屋に招き入れる。

 鈴蘭の間は白を基調に造られた部屋だ。二十畳の広さの鈴蘭の間には柱や梁に凝った紋様と共に鈴蘭が刻み込まれ、違い棚に置かれる小物も白く、床の間に飾られる花は鈴蘭、掛け軸も白を基調にしている。

 一目見て立派な構造に目を奪われるが、部屋の中にはそれを上回って余りある存在感を放つ者が居座っている。


「ずいぶんと遅かったのう、(けい)


 笑みを含んだ声が部屋に入ってすぐ掛けられる。

 鈴蘭の間の中央に、部屋の主が肘掛けにもたれてくつろいでいる。広大な睡蓮邸の主にして、十澄が会いに来た人物は外見だけは年端のいかない幼女だ。緋色の打掛に牡丹の縫いこまれた振袖を着て、漆黒の背丈以上に伸びる髪の毛を結わずに背に流している。

 客人を迎えるには非礼な態度と格好であるが、不思議と小さな外見に反して大人びた彼女にはそれがよく似合っている。


「ごめん、()(ずみ)。でも手土産を持って来たんだ」

「あら、綺麗な雛罌粟じゃないの。良かったですわね、(くれない)(ひめ)様」


 十澄の手にある花に気付いた風切姫が歓声を上げ、主を振り返る。

 二人の視線の先で睡蓮邸の主、紅姫は面白そうにくすっと笑った。


「綺麗な花じゃ。景、もっとこちらに寄れ。話すなら近くにいた方が楽であろう」

「そうだね。座布団は……あった」


 部屋の中を見回して予備の座布団を見つけると、十澄はそれを持って紅姫の傍へ寄って行く。隣に座り込むと、見慣れた幼女の美貌をのぞきこんだ。

 紅姫は一輪の雛罌粟を近くで目にすると、わずかに嬉しそうに目元を和ませる。


「ちょうど良く色付いておるわ。我が屋敷にこれほど相応しく鮮やかな色はあるまい。しかし、景よ。一輪だけでは花瓶にも差せぬ。この屋敷の花瓶は大きすぎるゆえ」

「うん。でもたくさん手折るのは気が引けてね。あんまりに綺麗に咲いてたから」


 十澄は雛罌粟を持った手を伸ばして紅姫の漆黒の髪に添える。結っていない髪に花を差すことはできないが、差せば雛罌粟が彼女の美しさを引き立てることは分かる。

 その証拠に、二人の会話を聞いていた風切姫が声を上げる。


「まぁ、まぁ! 姫様、とってもお綺麗ですわ。ぜひ、御髪に差しましょうよ」

「だろう? ぼくもそう思って持って来たんだ」


 実家の近くに毎年雛罌粟が咲くのは知っていた。これまでは機会を逃してきたが、いつか綺麗な雛罌粟で紅姫の髪を飾りたいと思っていたのである。

 十澄が視線だけで問うと、紅姫は仕方ないという笑みで頷く。


「なら、今すぐ結おう。風切姫、彼女の櫛とリボンはどこにあるかな」

「少し待ってね。取り出すから」


 声を弾ませて風切姫はふわふわと宙を移動し、鈴蘭の間の端に設置された和箪笥に近寄る。風切姫がふいっと指を動かすと、風が吹いて箪笥の引き出しが一つ開けられる。そこから純白の櫛と赤いリボンが風に攫われて出てくる。

 風切姫の操る穏やかな風に運ばれて十澄の手元に櫛とリボンが届いた。部屋を荒らさない程度の微風が二人の髪を揺らす。


「さて、どうしよう。十純、希望はあるかい?」

「この後は客が来る。見られる髪型なら、何でもかまわん」

「それなら普通に下げ髪でいいね」


 十澄はいそいそと紅姫の背後に回り込むと、櫛を彼女の髪に通し始める。紅姫の髪は梳かすまでもなくさらさらで、気を抜けば結おうとする十澄の指をすり抜けてしまう。

 本来なら成人に達した男子が女子の髪を結うなど、有り得ない。しかし二人に関して言えば、出会った頃から繰り返してきた当たり前のことである。

 初めは会う度に髪を結わずに背に流している紅姫を見て、もったいないと思ったのだ。せっかく綺麗な髪だから少しは着飾ればいいのに、と。それから許可を取って十澄が彼女の髪を結うようになった。これが力加減や結い方にこつが必要で、慣れるまで苦労したものだ。

 さすがに出会って十六年も経つと、彼女の髪を結う十澄の手つきもなめらかで手早くなる。短い間に髪をまとめると手元の赤いリボンで飾る。


「よし、できたよ。風切り姫、どう思う?」

「いいんじゃない? あぁ、私も姫様の御髪に触れられたら毎日でも結って差し上げるのに!」


 本気で悔しそうに風切姫は叫ぶ。風の精霊である風切姫は半透明で実体を持たない。物を取る時などは風を操って移動させるが、物に触れることはできないのだ。

 そもそも十澄が現れるまで紅姫が髪を結っていなかったのも、結える者がいなかったからだ。


「さぁ、姫様。ご覧くださいな」


 先ほど櫛とリボンを取り出した和箪笥から風で手鏡を取り出して、風切姫は紅姫の手に手鏡を渡す。

 綺麗に髪を結うと紅姫の印象はまた変わる。もともと幼い外見をしているが、それに輪を掛けて可愛らしく映るのである。その反対に雰囲気は乱れを知らない、年を経た落ち着きを宿すのだから不思議だ。


「ほぅ、やはり上手いな、景」

「ずっと君の髪を結ってきたからね」

「これからも頼む」


 十澄が笑って了承すると、紅姫は手鏡を床に置いて突然すっと立ち上がる。首を西の方角、屋敷の門のある方向に向けて目を細める。

 彼女の仕草で十澄と風切姫もすぐに事態を把握した。


「客が参ったようじゃ。また一つ、睡蓮の墓標が立とう」

「鬼丸と客を案内して来ますわ。姫様、お庭で御準備なされてくださいまし」


 ぱっと顔を引き締めた風切姫は慌ただしく告げると、適度な風圧で鈴蘭の間のふすまを開けて飛んで行く。風の精霊である彼女の移動は素早く、他の二人が反応する頃には鈴蘭の間にその姿はない。

 開け放たれたままの入り口を一瞥し、十澄は睡蓮邸の主を仰ぐ。


「ぼくが一緒にいても?」

「かまわん。この度の客は人間を主食にはしておらんよ」

「じゃあ、隠れてなくて済むね」


 ほっと安堵の息を吐き、十澄も立ち上がる。

 睡蓮邸を訪れる者のほとんどは異形の者である。生粋の人間である十澄の方が珍しく、訪問者の中には人間を主食にする者も少なくない。もしも出会うことがあれば、睡蓮邸の主の守護下にある十澄であっても無事では済まないだろう。

 以前に一度だけ十澄は人間を好物とする大蛇に睡蓮邸で遭遇して、追いかけ回されたことがある。あの時は本気で死ぬかと思った。それから十澄は不用意に睡蓮邸を一人で出歩くことを止めた。

 十澄は慣れた動作で紅姫の傍に寄ると、すっと腕を差し出す。


「どうぞ」

「ふむ。お主も随分とエスコートが上手になったものよ」

「こんなことする相手は、十純くらいしかいないけどね」


 感心した顔で紅姫は十澄の腕に小さな手を置き、連れだって歩き出す。外見はあどけない子どもの紅姫と日本人の平均を上回る高身長の十澄では身長差が激しい。しかし、並ぶ二人の姿は妙にしっくりと馴染んで絵になる。

 風切姫の開け放った戸口から二人は鈴蘭の間を出る。紅姫の歩幅に合わせてゆっくりと廊下を進むと、きしきしと床がかすかな軋みを上げる。


「今日の客は誰?」

「天狗じゃ。もう千八百年近く生きてきたようでの、疲れておる」

「千八百年……。確かにそれは、疲れるかもしれないね」


 人間である十澄には千年を生きる者の心境は理解できない。無限に近い寿命を持つ者はとにかく気長で、人間には悠長な態度に見えることもしばしばだ。それでも千八百年の歳月は彼らにとっても長い時間の流れのようである。


――生きることに疲れてしまうほどに。


 まだ見ない天狗に想いを馳せて紅姫と共に歩く廊下は長い。一定間隔ごとに戸締りされた部屋が両脇に並び、戸口の横にはそれぞれ花の絵が彫られている。広大な睡蓮邸の数ある部屋はどこも花や草の名が冠され、工夫を凝らした内装にされているのだ。

 途中、何度か廊下の分かれ道を曲がって行くと、やっと前方に庭に面した縁側が見えてくる。外からの日差しが白く縁側を照らしつけて長閑な雰囲気が窺える。だがそこに待ち受けるものが、決して穏やかなものだけではないと十澄は知っている。

 焦らずに縁側まで出ると紅姫は外の様子を目にしてつぶやく。


「……よく落ち着いておるわ。客を迎えるのに、これほど穏やかなのも珍しい」

「本当に。今回の天狗は良い人そうで安心だよ」

「人、ではなかろう?」

「ああ、うん。分かってるけど、つい」


 間違いの指摘を小さく笑って受け流し、十澄は縁側に張られたガラスの戸を引く。建築にガラスが組み込まれ始めたのは文明開化が起きた最近であるが、睡蓮邸には何故か大昔からこのガラス窓や戸が当然のように据え置かれてきたらしい。

 両側のガラス戸を全開にして十澄がひょいっと庇に顔を出すと、大きな石を埋め込んで造った足場にきちんと下駄が二組揃えられている。


「あぁ、鬼丸だね。やっぱり彼は気が利く」

「あのおっちょこちょいを治したら、もっと最高の家令なのじゃが」

「駄目だよ、十純。鬼丸からドジを奪ったら鬼丸じゃないって」

「何気に酷くないか、お主?」


 そんな冗談を交わしながら縁側に腰を下し、紅姫は朱色の緒の下駄を履く。続いて十澄もその横に置かれた大きい下駄に足を通して、また紅姫に手を差し出す。

彼女はその体躯のせいで、比較的小さな段差にもつまずくことが多い。十澄のエスコートが上達した理由はそこにある。

 でこぼこした足元に気を配って綺麗に整えられた庭園を歩き出す。形の不揃いな飛び石が間隔を開けて地面に埋め込まれ、長く続いている。足の長い十澄には楽に行ける道筋でも、紅姫は大きく歩幅を取らなければならない。

 初めは飛び石の両脇に流水を模した白い砂紋が広がっていたが、道しるべに沿って狭まる道筋を辿ると、適度に刈られた松の木や大きめの景石が辺りを散りばめ始める。砂の無機質さより緑が多く目に入り始めると、地面も芝生混じりに変わって前方に深い水の色が見えてきた。

 木々の間から覗く水が二人の前に全貌を表すと、十澄は思わず足を止めて見入る。紅姫も見慣れた庭模様にかすかに目元を引き締めて対岸の見えない池を眺める。


「何度見ても、圧巻だよ」

「ほんにお主は慣れんのだな、これを見るのも数百度目であろうに」


 紅姫の呆れの視線を受けても十澄は眼前の池に見惚れている。

 池、とは言ってもその大きさは並大抵ではない。海、と評してもおかしくないほどの面積を持ち、対岸は地平線の彼方である。睡蓮邸との付き合いも長い十澄も反対岸までは歩いたことがない。紅姫によると、行くには人間の足で二日以上かかるそうだ。

 底の見えない澄碧の池は、凪いだ水面の上に数えきれない花を咲かせている。大きな円状の葉が重なる合間に水面ぎりぎりに咲くのは睡蓮だ。赤や白、薄紅の睡蓮が池全体に広がって咲き誇る。この睡蓮こそが、睡蓮邸の名の由来である。

 十澄が初めてこの池を目にしたのは十年以上も昔の話だ。当時は想像を超える景色に圧倒されて三十分近くも立ち呆けた。しかし、今ではそんなこともなく、紅姫に着物の裾を引っ張られて我に返る。


「そろそろ行かねば、客を待たせてしまうぞ?」

「あ、あぁ、ごめん」


 慌てて十澄は池から視線を剥がして、飛び石に沿って歩き出す。行く先には一般的な石灯籠の他にも、鬼や河童など異形を彫った石もところどころに据え置かれている。十澄は慣れたが、睡蓮邸は一般の人間の目にはずいぶんと奇妙に映る屋敷だ。

 心持ち急いで向かう先に、目的の東屋が見えてくる。池に面して造られた小さな東屋は素朴に美しい細工が凝らされ、ひっそりと緑の合間に建っている。

 丘陵になった東屋へ飛び石は続き、二人は下駄をかつ、かつ、と鳴らして上って行く。東屋の目の前に渡された細い石橋まで来ると、十澄が一歩前に出て慎重に橋を渡る。子どもの頃に一度、池に落ちた時は意外な深さに足を取られて溺れたのを思い出した。


「……お主、まだ怖いのか?」

「うーん、どうだろうね。溺れるのはそりゃあ、怖いけど……この池は怖くないよ」

「大丈夫じゃ、溺れても死ぬ前にわらわが助けよう」

「……昔はともかく、今は体格差が」

「その時は他の者を呼べばよい。わらわが一声掛ければ、飛んで来よる」


 石橋に踏み入って十澄の顔色が曇ったのを敏感に察して、紅姫は小さな胸を張って励ます。実際に溺れた当時は紅姫の手を借りて池から這い上がったのだが、今はそうはいかないだろう。


(それに、綺麗な着物を汚すのも嫌だからね)


 要は十澄が池に落ちなければいいのである。睡蓮邸において、池に落ちて自力で上がれないのは人間の十澄だけなのだ。

 紅姫の心遣いを有り難く思いながら、十澄は彼女の手を引いて東屋の前まで来る。年季が入って黒ずんだ木目の段差に気を付けて上がると、東屋の両端に木の長椅子が取り付けられている。十澄はそこに案内して紅姫を座らせる。


「客はまだのようじゃ。間に合って良かったわ」

「うん、ここまで来てまた待たせるのも嫌だからね」


 睡蓮邸を訪れる者は多かれ少なかれ、待つことに疲労を感じている。彼らは延々と流れる時間を無為に過ごすことに疲労して、ここまで足を運ぶのだ。客よりも位の高い紅姫が先に来て待つのは、そういった優しさに寄る。

 鈴蘭の間にいた時とは違い、物腰も上品に座る紅姫の横に十澄は立つ。この東屋で客を迎える時、十澄はできるだけ影に徹することにしている。睡蓮邸において、この東屋や客の前において、明らかに十澄は不要な異端分子だからだ。

 紅姫や睡蓮邸の住人はそんな差別意識は欠片にも抱いていないが、自分の分を忘れた時に生死すら危うくなるのが、この睡蓮邸の厄介な面なのである。


「十純、来たみたいだ」


 ふわっと温かい微風が頬を撫でて、十澄は声を掛ける。穏やかな風の流れは風切姫がいつも身に纏う気配で、この場合は客の到来を告げている。

 二人が来た道とは逆の方向から、見慣れた使用人二体と客らしき異形が向かって来ている。風切姫と鬼丸に案内されてくる天狗は、十澄の想像と大差ない特徴をしていた。       

 厳しく引き締まった顔はやや赤く、鼻は高い。背には漆黒の翼を立派に生やし、服装は着古した常盤色の袴姿だ。遠目にも老人を彷彿とさせる覇気のなさが見て取れる。


(なるほど)


 庭園の空模様が穏やかな理由に十澄は納得する。非常におかしなことに、睡蓮邸は異形の客が訪れる間は客の気分に応じた天気を引き起こすのだ。怒り狂った客の時は大嵐になり、沈んだ客が来ると雨が降る。その点、今回の天狗は怒りも悲しみもとっくに超越して忘れてしまったような雰囲気を纏っており、それが今の穏やかな空模様に繋がっている。

 紅姫と十澄よりもゆっくりと歩いてきた天狗は東屋に上がると、紅姫の前で丁寧にお辞儀をした。紅姫も一つ頷いて礼を受け取る。


「お初にお目にかかります、紅姫様。わしは天狗の古暮と申しまして、こちらの噂を耳にしまして、来た次第にございます」

「ほぅ、わらわは睡蓮邸の主、紅姫じゃ。して、噂とは? わらわの噂は溢れておるからのう」


 紅姫の向かいの長椅子に腰を下した天狗は、これまでの客と比べて格段に礼儀正しい。彼らにとって紅姫は上位の存在でも、基本的に彼らは自由で礼儀に捕らわれることがないため、多くの客は粗雑な態度を取るのである。

 紅姫も天狗の態度に少し驚いた様子だった。


「それが、この地に来ればわしのような者でも救われる、楽になれると聞きまして。本当でございましょうか?」

「それを答える前に聞こう。――お主はわらわに何を求める? お主のような者とは、どのような者なのじゃ?」

「また難しい質問でございますな」

「聞いておかねば、間違った後では取り返しがつかぬゆえ」


 東屋で客を迎える時、紅姫は必ず客と向かい合って話をする。客が何を求めて睡蓮邸を訪れているのか、見極めた後に眼鏡に適った者だけに手を差し伸べる。

 天狗は白髭の伸びた顎に手を当てて考え込む。


「……一言で申せば、命を終えたい者でしょうか。わしはもう二千年近く自由に生きて参りました。若気の至りで暴れ回ったことも、山の妖怪の頭目になったことも、人間と取引してひと財産築いたこともあります。ですが、この歳になると……疲れてしまいまして。

 紅姫様、我らはいつまで生きなければならんのでしょうか?」

「妖怪とは言え、お主ほど生きる者は少ない。お主の言いたいことも分かるつもりじゃ、わらわはこう見えてお主より歳を重ねておるからの。しかし、ここに来なくとも自ら死ぬことも、他の者に討たれることも、できたであろう?」


 基本的に彼ら、妖怪は寿命を持たない。ある日、唐突に世界に生み出されて自由に過ごし、多くの者は他の妖怪に殺され、あるいは事故で世を去る。妖怪の世界は弱肉強食で、人間よりよほど死と向い合せの日常だ。そんな彼らの中で千八百年も生きられたことは珍しいとしか言いようがない。

 天狗は彫りの深い顔に苦い笑みを浮かべる。


「……それができたら苦労はしません。わしはこれでも名の通った妖怪でして、わし自身もプライドが高すぎる。むざむざ格下の妖怪に討たれることも、自死することも、プライドが許さんのです」

「なるほどのう」


 穏やかな天狗の顔に一瞬だけ険しい表情が浮かび、かつての猛々しさを覗かせる。紅姫はそれを見逃さず、じっと天狗を見定めている様子だ。

 しかし十澄の目には紅姫がとうの昔に結論を出しているように見えた。おそらくそれは間違いではない。天狗はどう見ても、果て無き命という終わりの見えない生に疲れ果てている。

 そして睡蓮邸は、紅姫は、彼らを救う唯一の穏やかな導き手なのだ。


「もう、未練はないのじゃな?」

「ありませんよ」


 天狗と紅姫の間で視線が交差する。双方にどんな無言の応酬があったのかは分からないが、紅姫は一度目を伏せると東屋の長椅子から立ち上がる。


「良かろう。わらわは睡蓮邸の主としてお主を迎え入れよう、天狗の古暮よ」


 まっすぐに天狗を見据えて、紅姫は愛らしい目元を崩す。互いの短い距離を縮めると紅姫は小さな両手で大きな天狗の赤い頬を挟む。まるで母親のような慈愛で、紅姫は天狗に微笑んだ。


「よく、ここまで来た。疲れたであろう、ここでゆるりと休むがよい。お主の魂が消えるその時まで、わらわが見守ろう」


 年老いた天狗の顔に大きな狼狽が浮かぶ。

 紅姫の幼い造りの顔に浮かぶ表情は鮮やかで、どこまでも優しく温かい。想像もできないほど永い歳月を睡蓮邸で過ごしてきた彼女は、精一杯の愛情を持って天狗の望みを叶えようとしている。

 全てを受け入れてくれるような安心感をもたらす紅姫の笑みを前に、天狗は幼い子どものように顔を崩した。数百年前は周りを震撼させた赤い瞳から、雫を一滴、零す。


「……ありがとう、ございます……」


 感涙のあまりかすれた声で、天狗は背中を丸めてうつむく。

 紅姫は天狗の幅広い肩をぽんぽんと優しく撫で、視線だけを東屋に控える使用人たちに向ける。

鬼丸と風切姫はすぐに主の意向を読み取って、東屋の奥に伸びるもう一つの出入り口の両脇に寄り添った。

 東屋には十澄たちが上ってきた東の門と、池に下るための西の門の二つの出入り口がある。東の門は客が来るたびに使われるが、西の門は紅姫が許した者しか下ることができない。

 今から天狗は睡蓮邸の主と西の門を下るのだろう。


「……いやはや、お恥ずかしいところをお見せして、申し訳ありません」


 紅姫に慰められて落ち着きを取り戻した天狗は、元から赤い顔をさらに染めて頭を下げる。東屋にいる者は全員、気にするな、という顔で首を横に振った。

 睡蓮邸を訪れる者の多くはこの東屋で心を乱す。天狗の態度はまだ穏やかな方で、中には泣き叫ぶ者も怒り狂う者も、会話ができないほど自分の殻に閉じこもる者もいる。    

 年の功と言うべきか、すっかり元の調子を取り戻した天狗を見据えて紅姫は厳かに切り出す。


「古暮、――死を、望むか?」

「望みます」


 天狗の返答に迷いはなかった。

 ならば、と紅姫が寂しげに微笑む。


「我が手を取れ、古暮」


 差し出された小さな手を天狗のしわの刻まれた手が取った。

差異の大きな二つの手の甲に、数秒間だけ異変が起きた。幾つもの花弁を鮮やかに伸ばした睡蓮花の紋様が、淡く深く朱色に浮かんで消えたのだ。

 目に見えなくなった紋様は相互の魂に刻まれた刻印。

 


――契約は為された。



 紅姫は繋いだ手を離さないまま、天狗を東屋の西の門へと誘う。

西の門の両脇に控えた鬼丸と風切姫は、門の前で立ち止まった紅姫と天狗に深々と丁寧に頭を下げる。


「行ってらっしゃいませ、姫様。良いお眠りを心からお祈りいたします、天狗様」

「貴方に目覚めの無い安らぎがありますように、天狗様」


 睡蓮邸の使用人たちの祝福の言葉に、天狗は穏やかに頷きを返す。

 紅姫は一度止めた足を再開させて、一瞬だけ十澄に視線を向けた。その漆黒の瞳は十澄に付いて来るように促している。

 先を行く天狗と紅姫から少し遅れて十澄はその後ろに付き従う。

 西の門をくぐると、長い階段が緩やかな曲線を描いて池の畔まで続いている。優に人間の男が五人は横に並べる幅の階段を、殊更ゆっくりと十澄たちは下った。ぎしぎしと足元を支える木の軋む音と三種類の足音が静寂に響く。

 東屋のすぐ下にある池の畔は半円に凹んだ地形で、水と大地の境界線ぎりぎりまで背の高い木々が茂っている。周囲を囲む自然によって十澄たちの位置からは池の全貌は見渡せない。池の大きさに反して狭さを感じさせる地形は、秘匿されたような雰囲気を醸し出している。

 紅姫は着物の裾が濡れそうなほど池に近づくと天狗を見上げる。


「お主はこの地で永久に眠ることになろう。お主の眠りはわらわが守り、何にも邪魔はさせぬ。最後に言い残すことはあるか?」

「ありませんよ。大事なものは、とうにわしを置いて去って行きましたからな」


 少しだけ寂しげに、晴れやかに天狗は笑う。千八百年も荒波に揉まれ続けた、たくましいその身体は徐々に光を透過し薄れてきていた。まるで生者が幽霊へと存在を変えるかのような現象だ。

 十澄と紅姫は黙って彼が実体を失くしていくのを見守る。最後まで穏やかな笑顔で天狗は存在を大気の中に溶け込ましていく。頭上から降りかかる日光は天狗を照らさずに、緩やかに彼を光の中に受け入れている。

 やがて完全に天狗の姿が掻き消えると紅姫は両手をくっつけて、椀の形を作る。その手の平の上に、徐々に大気から浮き出して実体を持ち始めるものがある。鮮やかな、血に近い赤色の睡蓮が一輪、紅姫の手に現れていた。

 紅姫は愛おしげに、慈しむように睡蓮を眺める。


「美しい、睡蓮じゃ」

「……うん。ここまで深い赤はなかなか見ないよ。大変な生涯だったんだね」


 時を見計らって傍に寄った十澄は、赤い睡蓮を見下ろして感嘆の吐息を洩らす。

紅姫の手にする睡蓮は、天狗の魂が変化した姿だ。色味の深さによって、その魂の宿す想いの強さが分かる。それは順風満帆な生涯だった者ほど薄く、波乱万丈な生涯だった者ほど濃くなる傾向にある。

 しばらく睡蓮に見惚れていたが、十澄は紅姫の目元に光るものを見つける。そっと手を伸ばして十澄は彼女の涙をぬぐう。


「さぁ、見送ろう。十純」


 ぽんぽんと低い位置にある頭を撫でると紅姫は無言で頷く。

 こんな時、誰よりも長く生きて来た紅姫と二十二年しか生きていない十澄の関係は逆転する。一時だけ、紅姫は弱く幼い面を覗かせるのだ。それを慰めるのは出会ってから十澄の役割となった。

 紅姫は池の畔に膝を突き、睡蓮を口元に持ってきてふっと息を吹きかける。ささやかな息にふわっと睡蓮は飛ばされて、池の水面に落ちて行く。小さな波紋を作って、睡蓮は池の奥へと運ばれる。

 天狗の睡蓮が他の睡蓮たちに混ざって分からなくなると、紅姫は立ち上がる。


「あの睡蓮が白く染まるまで、長い時間が掛かろう。あの者の浄化はいくら墓池でも容易くはあるまい」


 墓池、とは目の前に広がる巨大な池の名称だ。

 紅姫は池の上に浮かぶ幾つもの睡蓮を視界に入れて、天を仰ぐ。


「また一つ、睡蓮の墓標が浮かんだ」


 墓池に浮かぶ全ての睡蓮は、この地で眠る妖怪たちの墓標だ。寿命を持たない妖怪が安らかな死を望む時、彼らは睡蓮邸を訪れ紅姫の手によって墓池に浮かぶ。

 睡蓮を彩る赤がいつしか白へと色を落とした時、その魂は穢れを浄化して死を迎えるだろう。それまで彼らは長い眠りに就くのだ。

 十澄は表情に影を落とした紅姫をのぞき込んで、優しく微笑む。


「……戻ろう。そろそろ疲れたんじゃない? 風切姫と鬼丸も心配しているよ」


 東屋の西の門で鬼丸と風切姫は今も二人の帰りを待っている。遠目に彼らの様子はうかがえないが、長い付き合いで彼らの心境は十澄にも簡単に予想できる。

 表情に影を落としていた紅姫は東屋を振り返り、苦笑する。


「……やれやれ、あの者らは本当にいつまでも心配性じゃ。わらわは子どもではないと言っておるのに」

「その姿でそれを言われても……」

「むぅ、余計なお世話じゃ!」


 実際の年齢は別にして、紅姫の外見は紛う方なき幼女である。頬を膨らませて抗議する姿は余計に幼さに拍車をかけて、可愛らしいとしか言い様がない。

 ばしばしと腰の辺りを叩かれても痛みはなく、十澄は笑って紅姫の手を取り、墓池に背を向ける。

 紅姫も文句は言わずに付いて来る。


「景、この度の客は良い魂を持っておったな」

「うん。珍しく、丁寧な妖怪だったよ」


 東屋へと階段を上りながら、二人は意識を墓池に眠った天狗へと向ける。

 紅姫はあの天狗のような妖怪たちを幾度も、死と言う安寧へと導いてきた。それは十澄と出会う以前の何千年も、出会ってからは十澄のいない時にも、独りで幾つもの魂を見送ってきたのだ。

 眠りゆく者たちを見守る紅姫は、終わりのない役目を誇りとしている。しかし、独りで役目を果たす彼女の姿はいつも影を帯びているのだ。

 その影を少しでも払拭したいと出会った頃から十澄は願ってきた。


「なぁ、景。今宵はまた来てはくれぬか?」

「今日の夜? いいけど……どうかした?」

「お主に見せたいものがあるのじゃ」


 少し首を傾げて十澄は快く承諾する。今でも足しげく睡蓮邸に通い詰めており、本音を言えば睡蓮邸に住み付きたいくらいなのだが、家族の存在がそれを許さない。

 そりの合わない家族の顔を脳裏に浮かべて、十澄は一瞬だけ顔に影を落とす。上り階段の先に鬼丸と風切姫の姿を認めて、すぐにそれは打ち消された。


「お帰りなさいませ、姫様、十澄様」

「今日はいつもより早かったですねえ、紅姫様?」


 鬼丸がいつものように頭を下げ、風切姫が二人の周りをくるくると舞う。

 紅姫は幼い容貌に大人びた微笑をたたえて言う。


「もう仕舞いじゃ。屋敷に戻るぞ」

「はぁい。鈴蘭の間で待っててくださいね、紅姫様。すぐにお茶を出しに行きますわ」

「風切姫、それなら私が……」

「駄目! 鬼丸はこけてお茶を零すじゃないの。貴方は鈴蘭の間を綺麗にしておきなさいよ!」


 風になって飛んで行く風切姫を見送り、鬼丸が小さな背を丸めてうなだれる。残念ながら風切姫の指摘は正確で、誰も慰めの言葉は掛けられない。

 十澄は苦笑するとその背を促す。


「ほら、そんなに落ち込まないで、鬼丸。君の仕事はちゃんとあるじゃないか」

「……そうでございますね。では十澄様、姫様をよろしくお願いいたします。我らは先に準備を整えて待っておりますので」

「うん。じゃあ、また後でね」


 気分を切り替えた鬼丸は二人に一礼して素早く風切姫の後を追っていく。小柄な身体をせかせかと動かし、早足で去る様は見慣れたいつもの家令である。

 主に仕えることを至上とする鬼丸を、紅姫と十澄は微笑ましげに見送った。


「さて、ぼくらもゆっくり帰ろうか」

「あまり早く帰るとあの者らも困るであろうな」


 風切姫のお茶は遅れても構わないが、鈴蘭の間に戻った時に鬼丸の掃除が済んでいなければ、鬼丸は激しく落ち込むことだろう。その様がありありと想像できる。

 十澄はできるだけ庭を散策して帰ることにして、紅姫の手を引く。


「十純?」


 紅姫が立ち止まって動かない。十澄が振り返ると紅姫はやけに真剣な顔でつぶやくように言った。


「こんな毎日が続けば、楽しいものよ」

「……十純?」


 普段と様子の違う紅姫に不安になった十澄は腰をかがめて、その美貌を覗き込む。

 紅姫はそれ以上、何も言わなかった。


「ええっと、何かよく分からないけど……帰ろうか」


 無理矢理手を引いて帰るのも気が進まないので、十澄は何気なく両手を伸ばす。男性にしては細い腕でも楽々と紅姫の身体は抱き上げられる。本当に小さな子どもにするように抱いて、十澄は間近で紅姫の様子をうかがう。

 そんなに天狗との別れが辛かったのか、と心配していると紅姫がじろっと睨んできた。


「お主、わらわは子どもではないと何度言えば済むのじゃ?」

「えーと、ごめん」

「謝るならわらわを下せ」

「うん、ごめん」

「おい」


 突き刺すような視線を間近で感じながらも、十澄は紅姫を離さない。そのまま紅姫を腕に収めて睡蓮邸の庭を飛び石に沿って歩き始める。

 初めは紅姫も抗議の言葉を発していたが、徐々に諦めを強くする。


「……時々、お主はほんに強情じゃ」

「あはは、これがぼくだから仕方ないよ」


 楽しそうに笑って十澄はその言葉を受け流す。

 鈴蘭の間に戻るまでの時間稼ぎのために、時々飛び石の示す道順を逸れて庭を散策する。長年睡蓮邸に通い詰めいても全容を把握できない庭で、紅姫は奇怪なものを見つけるたびに説明をしてくれる。

『こんな毎日が続けば、楽しいものよ』

 紅姫の先ほどの一言が十澄の脳裏をよぎる。ふとした瞬間に紅姫の顔を盗み見て、本当に彼女の言う通りだと思う。



――睡蓮邸の波乱に満ちつつも楽しい日常が、ずっと続けばいい。




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