山山山山山月記
山山山山月記
中島敦
隴西の李徴は博学才穎、天宝の末年、若くして名を虎榜に連ね、ついで江南尉に補せられた。性、狷介、自ら恃むところ頗る厚く、賤吏に甘んずるを潔しとしなかった。いくばくもなく官を退いた後は、詩作に耽ったが数年の後、貧窮に迫られ、また江南尉に補せられた。かつての同輩が既に遥か高位に進んでいるのを見て、李徴の自尊心は傷つきついに発狂した。ある夜半、人々は彼が忽然として姿を消したのを知った。その後、彼の行方を知る者はなかった。
一年の後、監察御史、陳郡の袁傪という者、勅命を奉じて嶺南に使し、たまたま商於の地に宿った。駅吏が言うには、これから先の道に人を食う獣が出るので、旅人はみな夜明けを待ってから通ることになっているとのことである。袁傪は、しかし、供回りの者どもに命じて、夜明け前に出発した。
まだ夜の明けきらぬうちに、彼らは一つの林の中に差しかかった。すると、突然、一匹の虎が叢の中から躍り出た。袁傪は驚いて身をひるがえしたが、虎は、はっとして、叢の中に身を隠した。そして、低い声で呟いた。
「あぶないところだった。」
その声は、我が友、李徴子ではないか?
袁傪は驚愕した。叢の中から、また、声がした。
「そうだ。己は隴西の李徴である。」
袁傪は、しばらく声も出なかった。ややあって、ようやく言った。
「李徴ではないか。まことに李徴ではないか。」
「如何にも己は李徴である。」
「何故、姿を見せぬのだ。」
「己の姿を見ることを恐れるからだ。」
袁傪は、叢の中の声に向かって、さらに問うた。
「いったい、どうしたというのだ。何故、こんな所にいるのだ。」
「己にも分からぬ。何故こんな事になったのか、全く分からぬ。」
袁傪は、恐怖を忘れて、旧友の身の上を思いやった。
「お前は、今、どうしているのだ。」
「己は虎になった。」
袁傪は、息をのんだ。
「虎に?」
「そうだ。己は虎になった。」
「いつから?」
「いつからかは分からぬ。ある夜、己は自分が虎になっていることに気づいた。」
袁傪は、まだ信じることができなかった。しかし、叢の中から聞こえる声は、まぎれもなく昔の友人の声であった。
「どうして虎になったのだ。」
「それが分からぬのだ。何故こんな事になったのだろう。分らぬ。全く何事も我々には判らぬ。理由も分らずに押付けられたものを大人しく受取つて、理由も分らずに生きて行くのが、我々生きもののさだめだ。自分はすぐに死を想うた。しかし、その時、眼の前を何か黒いものが走つた。何かは分らぬ。ただ、己はそれを追つた。追つて、追つて、追つているうちに、気がついて見ると、己はこのざまだ。」
「しかし、何故、虎になったのだ。」
「分らぬ。分らぬが、しかし、己は、己の中に何かがあつたのだと思う。」
李徴はしばらく黙った。
するとまた突然、一匹の虎が叢の中から躍り出た。袁傪は驚いて身をひるがえしたが、虎は、はっとして、叢の中に身を隠した。そして、低い声で呟いた。
「あぶないところだった。」
その声も、先ほどの李徴とまた同じであった。
「李徴」
袁傪は叢の中に問いかける。
「今のを見たか」
「見た」
「あれは、なんだ」
「私だ。李徴子だ。ただし私とは別個体の」
「二匹いるのか」
「そういうことになるな」
「しかし、何故、二匹になったのだ。」
「分らぬ。分らぬが、しかし、己は、己の中に何かがあつたのだと思う。」
「そう言われると、納得せざるを得ぬ。虎になることがあるのだから、虎が増えることもあるだろう」
するとまた突然、一匹の虎が叢の中から躍り出た。袁傪は驚いて身をひるがえしたが、虎は、はっとして、叢の中に身を隠した。そして、低い声で呟いた。
「あぶないところだった。」
その声も同じであった。
「そろそろ疲れてきた。李徴か。」
「如何にも己は李徴である。」
「どれだけ増えたのだ、李徴」
「分らぬ。分らぬが、しかし、己は、己の中に何かがあつたのだと思う。」
「その言葉は万能ではないぞ、李徴」
すると突然、一匹の梟が袁傪の頭めがけて急降下してきた。袁傪は驚いて身をひるがえしたが、梟ははっとして、叢の中に身を隠した。そして、低い声で呟いた。
「あぶないところだった。」
「さすがにちょっと待て」
「なんだ。」
「李徴子か。」
「如何にも己は李徴である。」
「なぜ、梟になったのだ。」
「分らぬ。分らぬが、しかし、己は、己の中に何かがあつたのだと思う。」
「誰に聞いてもそれを言うか。人を襲う獣が少なくとも四匹。駅吏の言うことを素直に聞いておくべきだった。」
すると突然、一台の原付が袁傪めがけて突っ込んできた。袁傪は驚いて身をひるがえしたが、原付ははっとして、叢の中に身を隠した。そして、低い声で呟いた。
「危ないところだった」
「なんだお前は。」
「己は李徴である。」
「李徴なのはわかった。なんだその姿は」
「原付だ」
「原付とはなんだ」
「原動力付き自転車だ」
「原動力も自転車もわからん。物の怪のたぐいか」
「分らぬ。分らぬが、しかし、己は、己の中に何かがあつたのだと思う。」
「あったのか、原付が。」
いよいよ得体のしれないものも出てきてしまった。
このままここにいると、夜が明けるまで増え続ける李徴の相手をすることになりそうである。
袁傪は早めに切り上げることにした。
「李徴たち。何か言い残しておくことはないか。」
叢の中から声が聞こえた。方向からして、三匹目の李徴であろう。
「己には、臆病な自尊心があつた。そして、尊大な羞恥心があつた。己は、他人と交わることを避けた。自分より才能のある者に会うのが怖かつた。自分より劣つた者に会うのは、己の自尊心が許さなかつた。己は、誰とも交わらず、誰にも教えを乞わず、ただ自分の中に閉じこもつた。己は、己の詩を聞いてほしい。」
李徴はそう言った。
「己が虎になつた後も、詩だけは忘れなかつた。いや、詩を忘れなかつたからこそ、己は今もまだ人間の心を持つているのかもしれぬ。」
「よかろう。聞かせてくれ。」
「では、己の詩を記録してくれ。己が口で言うから、そなたの従者に書き取らせてくれ。」
袁傪は従者に命じた。
李徴は、しばらく考えた後、詩を吟じた。
「「「「「偶因狂疾成殊類 災患相仍不可逃 今日爪牙誰敢敵 当時声跡共相高 我為異物蓬茅下 君已乗軺気勢豪 此夕渓山対明月 不成長嘯但成嘷」」」」」
五重奏で聞こえてきた。
袁傪はなぜだか、少し嫌な気分になるのを感じながら詩を聞き終わった。
「どうだ。」
「すばらしい詩だ。」
「本当にそう思うか。」
「思う思う」
袁傪は、もう面倒になっていた。
一刻も早く、切り上げたかった。
李徴は、しばらく黙っていた。
「帰途には、この道を通らないでくれ。」
「何故だ。」
「己は、もうすぐ、完全な虎になる。他の己もだ。もし、そなたに会えば、己は、そなたを襲うかもしれぬ。己は、そなたを食うかもしれぬ。そなたは、もう行け。」
「李徴。」
「行け。」
やがて、袁傪一行は林を出た。
彼らが丘の上に登り、振り返って先程の林を望むと、叢の中から三匹の虎と、梟と原付が現れた。それらは、丘の上の人影を認めると、しばらく立ち止まつて見つめていたが、やがて、月に向かつて二声三声咆哮したかと思うと、また元の叢に躍り入つて、再びその姿を見なかつた。
袁傪はその後二ヶ月ほど行く先々で様々な李徴に付きまとわれ、あくる日狂って虎になった。 袁傪の行方は誰も知らない。




