クズ職業【記録師】と笑われたけどスキル合成するたびに最強が更新されるんだが
ルーレットが止まった瞬間、空気が抜けるような音がした。金と青と赤の光が減速し、中央のウィンドウがゆっくりと文字を結ぶ。
——【記録師】
周囲で歓声が飛び交う中、俺だけが、その一語を黙って睨んでいた。剣士でも魔法使いでも僧侶でもない。記録師、ときたか。
「『剣士』キタ! ガチ当たり!」
「僧侶だって。回復職かー、まあアリ」
「魔法使い引いた! 火力! 火力!」
声が遠い。周囲のプレイヤーたちは、金色のフレームに囲まれたルーレットの前で、それぞれの当たりを掲げている。ここはVRMMO『グリムアビス・オンライン』、本日正式サービス開始。白い塔と青空の下、初期広場は祭りの熱気で満ちていた。
俺はといえば、祭りの隅で一人、見慣れない職業名と向き合っている。
——職業ガチャ、ランダム配布、一度きり、引き直し不可。発売前の掲示板が「クソゲー確定」で焦土と化した仕様だ。配られた手札で勝ち筋を見つけるのがゲーマーの矜持——そう構えてヘッドセットをかぶったはずなのに、配られた手札の名前すら聞いたことがない。
攻略サイトのタブを六枚も開いて予習した情報の中に、記録師という単語はなかった。掲示板のスレ三本にも出てこなかった。
「記録師……珍しい職業なのだ」
足元で声がした。視線を落とすと、丸い目にふわふわの尻尾、体長三十センチのタヌキが宙に浮かんでいる。冒険者のガイド、ポコ。マスコットそのものの造形で、声にも感情は読み取れない。馬鹿にするでも励ますでもなく、ただ事実を述べている口調だ。珍しい、というのは、まあ見ればわかる話だった。
「珍しいって、どのくらい?」
「うーん、ポコもあんまり見たことないのだ」
「ガイドのお前が見たことないレベルか」
「でも、安心してほしいのだ! ポコは全部の職業を応援してるのだ!」
ポコは前足をぴんと立てて、胸を張るような仕草をした。応援の強さと性能がまったく連動していないのが、逆にすごい。
「……ありがとよ」
ヘッドセット越しの没入感は、想像していたよりずっとえげつなかった。足の裏に広場の石畳の冷たさがじわっと広がり、遠くの丘陵は風に撫でられて緑色にうねっている。草と少しだけの潮の香り。視覚と触覚と嗅覚が同時に立ち上がってきて、脳の方が「これは現実じゃない」と理解するのに一拍遅れる。
そのえげつないリアリティの中で、俺はたった今、最弱の札を引いたらしい。
周囲をざっと見回す。剣士を引いた男が、仮想の長剣を軽く振って素振りのフォームを確認している。魔法使いの女が、指先で小さな火球を試し撃ちして笑っていた。僧侶のパーティは早くも輪になって、回復ローテーションの相談に入っている。どの職業も、引いた瞬間から次の手が具体的に組める。剣を振れば斬れるし、火を撃てば焼ける。それがプリセットされている。
俺の手札には、そういうプリセットがない。記録する、並び替える、1ダメージ与える。日常業務のマクロかと言いたくなる並びだ。
画面をタップして、職業説明を開く。
《記録師——世界の記録を司る職業。情報の収集・整理・活用に長ける》
戦闘の「せ」の字もない。嫌な予感が薄く広がる中、続けて固定スキルの一覧が展開された。
```
《Lv1固定スキル》
【記録】——出来事を自動で記録する
【索引】——記録を検索・並び替えする
【一筆】——通常攻撃(固定1ダメージ)
```
たった三つ。順番に読んでいく。
【記録】は出来事を勝手に記録してくれるスキル。書類仕事を、しかも自動で。【索引】は記録を検索・並び替えする。完全に図書館司書だ、これ。
そして【一筆】。通常攻撃、固定1ダメージ。
1ダメージって。
「ポコ。これ、スライム一匹倒すのに何発要るんだ?」
「えーと、初心者ダンジョンのスライムはHP20くらいなのだ」
「二十発」
「がんばるのだ!」
応援のテンプレが、今日ばかりは刺さる。攻撃スキルが一つだけ用意されていて、そのダメージが固定で1。スライム一匹に何回スキルを使えばHPが削り切れるのか、想像するだけで気が遠くなる。クズ職業にクズ攻撃スキル、完璧に揃った絶望のセットだった。
ついでに、ポコに世界のルールも確認しておく。
「このゲーム、最初の目的地って?」
「初心者ダンジョンなのだ。全十階を踏破すれば、次のエリアが解放されるのだ!」
「全滅した時のペナルティは」
「デスワープで階層が戻されるだけなのだ。経験値もスキルも、失うのは階層の進行度だけなのだ」
キャラロストなし、試行回数は実質無限。そこだけは良心的な設計だった。挑戦の幅が広いなら、最弱職でも打てる手はある——理屈の上では、まだ。
ステータスメニューを開く。視界に半透明のウィンドウがすっと展開された。
```
《ステータス》
名前:カナタ
職業:記録師(ランク1)
Lv:1 EXP:0 / 10
職業熟練度:0 / 50
HP:30 / 30
MP:10 / 10
STR:3
DEF:3
MAG:1
RES:2
AGI:5
《スキル》
【記録】 《固有》
【索引】 《固有》
【一筆】 《固有・スケーリング対応》
```
数値を上から舐めるように読んでいって、途中で口の端が引きつった。
HPが30しかない。剣士の初期値は公式情報で60前後だから、ざっくり半分。MPは10、魔法使いの三分の一以下。STRとDEFは仲良く3、MAGに至っては1だ。AGI5だけが目立つが、それも逃げ足が速いだけの話だろう。
隣のプレイヤーが見せびらかしている剣士のステータスをちらっと覗いてみる。HPもSTRも軒並み二倍以上あった。
しかも職業詳細欄には、親切にも成長率の予測値まで表示されている。
《Lv UP時平均上昇——HP+2 STR+1 DEF+1 MAG+0 RES+1 AGI+1》
MAG成長ゼロ。二度見した。Lv10まで育てても剣士の半分にすら届かない計算だ。クズ職業、クズ攻撃、クズ成長率、三拍子揃ってきた。
肩の力が、ふっと抜ける。怒りでも失望でもなく、ここまで振り切れていると逆に清々しい。最弱——OK、理解した。最弱だとわかったなら、あとは腹を括るだけだ。
画面をスクロールする。職業詳細の下に、まだ項目が残っていた。
《スキル合成システム》
指が止まった。
《2つのスキルを組み合わせて、新しいスキルを発見できます》
《レシピは隠されています。組み合わせを試して発見してください》
合成、しかも隠しレシピ。頭の奥で、スイッチの入る小さな音がした。
隠されているレシピ、というのは、ゲーマーにとって一種の麻薬だ。既に誰かが解いた最適解を後追いするのと、誰もまだ触っていない未踏の穴を自分の手で掘るのとでは、面白さの質がまったく違う。しかも正式サービス初日、攻略Wikiはまだ空っぽに近い。全プレイヤーが横並びのスタート地点に立っている、数時間しか続かない瞬間だ。
試しにメニューから合成画面を呼び出してみる。
《スキル合成》
《素材1:―― 素材2:――》
《組み合わせを選択してください》
選択欄は空白のまま、じっと俺の入力を待っていた。システム側はレシピを保持しているが、教えるつもりはない、という顔をしている。
さらに下を読むと、小さく注意書きが添えられていた。
《※組み合わせに失敗した場合、素材スキルは消費されません》
失敗は無料、成功には対価。試行回数は実質無限——キャラロストもなし、合成失敗もノーコスト。走り込める試行の深さが、剣士や魔法使いの比じゃない。クズ職業は、クズである代わりに、地下にだけ異様に深く潜れる構造になっているらしい。
なら、深く潜るしかない。
気になって、他職業のスキル一覧を覗いてみる。剣士は【斬撃】【突進】【鉄壁】。振れば斬れ、走れば突け、構えれば守れる。魔法使いは【火球】【氷槍】【雷撃】、属性攻撃のラインナップがきれいに揃っていた。
どれも単体完結型だ。組み合わせる必要がなく、スキル一個ずつが完成品として配られている。
対して、記録師はどうだ。
【記録】と【索引】は明らかに情報管理基盤のセット運用前提で、それ単体じゃ敵を一匹も倒せない。【一筆】の固定1ダメージも、普通に考えれば使い物にならない数値だ。
普通に考えれば。
もう一度、【一筆】の詳細欄を開く。下に追記。小さな注釈が、隅に仕込まれている。
《※スケーリング対応》
固定1ダメージは初期値であって、上限じゃない。
条件次第で威力が変動する。そういう設計だ。情報系スキル二つ、スケーリング前提の攻撃スキル一つ。三つを並べて見直したとき、頭の中で仮説がゆっくり形になり始めた。
記録した情報を、攻撃に乗せる。
たぶん、そういう設計思想だ。剣士は剣で殴り、魔法使いは魔法で焼くから、スキルが単体完結でいい。記録師は違う。パーツを組み合わせて初めて機能するタイプで、一個ずつ見ればジャンクでも、噛み合った瞬間に意味が生まれる構造になっているはずだ。
仮説の温度を上げながら、もう一度ステータスを眺め直す。AGI5という数値が、急に別の意味を帯びて見え始めた。逃げ足が速いだけのステータス——そう読んでいたが、情報を集める側のキャラクターにとって、機動力は「観察の回数」に直結する。距離を取って相手を見続けられる側は、情報を稼ぎやすい。HPが低くて前に出られない弱さと、AGIが高くて後ろで動ける強さは、同じコインの裏表かもしれない。
職業デザインとして、妙に筋が通っている。クズと呼ばれているだけで、設計思想の段階では、むしろ丁寧に作り込まれている側の職業なんじゃないか。
心臓が少し速くなる。具体的な合成レシピなんて、まだ何ひとつ見当もつかない。それでも、可能性の輪郭だけは指で掴めるところまで来ていた。
他の職業は完成品。記録師はパーツだ。
この手持ちは、ジャンクじゃない。解くべきパズルだ。
顔を上げる。街の外れに石造りのアーチが見えた。初心者ダンジョンの入口だ。剣士が剣を担いで、魔法使いが杖を掲げて、堂々と吸い込まれていく。迷いがない。
俺の手持ちは、書記スキル二つと1ダメージの筆しかない。だが、こっちには合成がある。レシピは誰も知らないし、攻略サイトにもまだ載っていない。全プレイヤーが同じスタートラインに並んでいるなら、むしろ隠しレシピを探す意味では情報職の俺の方が分があるかもしれない。
剣士は剣で殴ることしかできない。魔法使いは火と氷と雷しか撃てない。彼らのスキルセットは完成されているぶん、組み合わせの余地が薄い。対して、こっちには空欄の組み合わせウィンドウが待っている。素材は三つしかないが、パターンを回す余地は残っている。
実際に潜り、実際に記録を積み、実際にスキルを突き合わせる。現物合わせの世界だ。机上でいくら睨んでも答えは降ってこない。
「ポコ、ダンジョンの入口ってあそこ?」
「そうなのだ。準備ができたら、いつでも入れるのだ」
「……記録師で十階まで行ったやつ、過去にいるか?」
「ポコの知る限り、まだ一人もいないのだ」
「前人未到か。上等だ」
「が、がんばるのだ!」
前例がないというのは、劣等感と自由の両方を連れてくる。参考にできる先達はいないが、代わりに踏み荒らされていない地面がそのまま残っている。
足が動き出していた。
他の職業には真似できない組み合わせが、この手の中に眠っているかもしれない。机上で睨んでもわからない。潜って、叩いて、記録して、合成して、答えを自分の指で確かめるしかない。
確かめに行こう。
◇◇◇
石造りのアーチを抜けると、空気がひやりと首筋に触れた。
初心者ダンジョン1階の通路だ。足の裏には砂混じりの石畳の感触があって、壁には青白い苔が点々と光っている。奥の暗がりからは何かが擦れる音が絶え間なく漏れ出してきた。湿った土の匂いに鉄錆の気配が薄く混じっているあたり、血の染み込んだ地形を再現しているんだろう。VRの作り込みは相変わらずえげつない。
通路を少し進むと、視界に敵シンボルが浮かんだ。表示はLv1・ゴブリン。緑色の小柄な体躯が、錆びた棍棒を肩に担いでこちらに気づき、ぎゃっと短く鳴いて駆け出してくる。
先手で【一筆】を発動した。筆先のような白い軌跡が空を走ってゴブリンの肩を掠め、ダメージ表示が1とふわりと浮き上がる。
うん、1。覚悟していた数字がそのまま出てきただけだ。足を止める意味はない。
ゴブリンが棍棒を振りかぶる。縦振り、直線、大振り、読みやすい。軸足をずらしてかわすと、風切り音だけが耳の横を通り抜けていった。視界の端で【記録】が勝手に動いているのがわかる。
《記録中:棍棒縦振り→硬直2秒→左軸横薙ぎ→硬直1秒》
こいつ、自動でログ取ってくれるのか。しかも時系列と硬直秒数まで添えてある。書類仕事が仕事してるな、偉い。3巡分のログが流れたところで、パターンが見えてきた。縦振り、横薙ぎ、また縦振り。律儀なくらい単純にループしている。
硬直2秒の窓を狙って【一筆】を滑り込ませ、1ダメを刻む。次の硬直でもう1ダメを重ねた。数値で勝てないなら頭で勝つ。そう腹を括ったなら、迷う理由はどこにもない。
ゴブリンのHPが尽き、体が光の粒になって通路に散った。
その瞬間、視界の中央に通知が走った。
《Lv UP — Lv2》
《ステータス上昇——HP+2 STR+1 DEF+1 RES+1 AGI+1》
《職業熟練度+2(2/50)》
《スキル選択画面を開きます》
通知が順に降ってくるのを、目で追いかける。
上昇値、少なっ。表示で見ていた成長率の数字が、そのまま現実になって落ちてきた感じだ。熟練度の通知は、たしかガイドのタヌキがちらっと言っていた、戦闘で熟練度がたまるとかなんとか。あれの実物がこれか、と頭の隅で結びつける。
考えるより先に、視界の中央で空気が震えた。
光の粒が三つ、ふわりと膨らみながら集まっていく。膨らみがそれぞれカードの形に整っていって、半透明の青い光をまとったまま、ゆっくりと回転を始めた。三枚、横に並んでいる。指で押せば届きそうな距離に、確かに浮かんでいる。
息を呑んだ。
『スキル選択画面』。目の前で実体を伴って組み上がっていく演出の圧が、想像していたよりずっと重い。VRの没入感がこういうところで効いてくる。引けるのは1枚、選ぶのは俺、やり直しはなし。ローグライクの心臓部みたいな仕組みが、今この瞬間に俺の前で起動した。
左から順にA枠、B枠、C枠、と頭の中でラベルを振る。
A枠に視線を送ると、カードがすっと正面を向いた。スキル名は【校正】。青地の枠の隅に「固有」の表記。職業の固有スキルのことか。詳細欄を開くと、記録を書き換える、結果は変わらない、と書いてあった。
……結果が変わらない書き換えって、何だ。一見では何の意味があるのかわからない。記録を書き換えて結果が変わらないなら、いったい何のためのスキルなんだ、と普通は切り捨てて終わる——だろう、普通なら。
ただ、手札と並べた瞬間に妙な匂いが立った。【記録】とセットで何かが起きそうな気配があって、固有枠というレアリティがその予感を後ろから補強してくる。少なくとも合成素材としては候補に入れられる。
B枠に視線を移した。浮かんでいるのは【強打】。灰色のラベルに「コモン」の文字が並んでいて、効果は通常攻撃の1.5倍固定となっている。1ダメの1.5倍は切り捨てで結局1のままだが、それでも底上げが効くなら——と指が伸びかけたところで、詳細欄の隅に小さな注釈が見えた。
《※コモンスキルは合成素材として使用不可》
あー。
思わず声が漏れた。コモンは合成に使えない。そういう仕様だったのか。表面性能の1.5倍固定だけで一生戦わされる運命で、記録師の基礎値に掛け算を乗せても天井の位置は動かないわけだ。合成の可能性がゼロのスキルに貴重な1枠を使う気にはなれない。なら話は別だ、と頭の中の天秤がはっきり傾いた。
C枠に目を移す。浮かんでいたのは【硬化】。こちらも灰色ラベルのコモンで、効果は被ダメージの固定値軽減だった。さっきのゴブリンの棍棒なら実質ノーダメに近い数字まで落ちる。悪くない、悪くないけれど、やっぱりコモンだ。固定値軽減は階層が進むほど敵の火力に追いつかなくなる運命で、10階まで持たせられる数字ではない。コモン共通の天井が、ここでもくっきり見えてくる。
視線が自然とA枠に戻った。
【校正】で記録を書き換える、ただし結果は変わらない——いや、待て。結果が変わらないと明言しているということは、システムは「書き換え」自体は認めているってことだ。【記録】という受け皿があって、【校正】という書き換え機能がある。この2つを並べたとき、合成レシピの輪郭は俺の側にだけ見えてきた。
匂う。固有同士、しかも片方は記録師の基盤スキルとくれば、これは当たりの組み合わせだと踏んでいい。
指をA枠に伸ばす。触れた瞬間、カードが軽い音を立てて砕け、光の粒になった。粒は螺旋を描きながらスキルスロットに吸い込まれていく。
《スキル取得——【校正】》
通路の端に寄って、合成ウィンドウを開いた。左スロットと右スロットが並んでいて、手持ちのアイコンが下段にずらりと表示されている。これも初めて触る画面だが、UIの作りはどのソシャゲでも見たような素直なドラッグ式で、迷うところはひとつもなかった。
左に【記録】をドラッグし、右に【校正】を重ねる。実行ボタンが青く光った。
押す。
画面が白く弾けた。光が視界いっぱいに広がって、瞼の裏にまで残像が焼きついた数瞬の後、文字がゆっくりと浮かび上がる。
《新スキル発見——【予兆】》
「……来た」
短く呟いた声が、自分でも驚くほど落ち着いていた。
効果欄を開く。
《【予兆】——敵の直前の行動を記録保持し、同一パターン検知時に視界へ行動予告を表示する》
記録の保持と書き換え、この2つが噛み合って出てきたのは未来予測だった。正確には予測じゃなくて、観察済みパターンの再出現を検知して次の一手を視界に表示してくれる仕組みであり、戦えば戦うほどログが溜まって予告の精度が上がっていく設計になっている。1巡目で観察、2巡目から予告——そういう段階制らしかった。
記録師のスキルと、完璧に噛み合っていた。
【記録】で行動をため込み、【予兆】で再出現を先読みできれば、1ダメの【一筆】でもパターンが見えているぶんだけ被弾ゼロで削り切れる計算になる。パーティを組めたときには、情報だけ出して火力は味方に任せるという戦い方も成立しそうだった。1ダメでも仕事になるルートが、設計思想としてちゃんと用意されている。
口の端が緩んだ。
ひとつ気をつけないといけないのは、このスキルが「観察済みの戦闘」にしか反応しない点だ。他プレイヤーから伝聞で聞いた敵の情報はスキルに乗らない。自分の目で見て、自分の記録にログが積まれた敵だけが予告対象になる。——わかった。なら愚直に、出会った敵を1体ずつ観察すればいい。記録師の仕事として、むしろ性に合ってる。
通路の奥から、また敵シンボルの気配がした。足を進める。
1階の残りの雑魚を何体か流し、通路の突き当たりに到着した。扉の手前に、プレイヤー同士の書き込みらしきメモ板が置いてある。見るからに攻略情報サイトの掲示板を再現したオブジェクトで、カーソルを合わせると文章が浮かび上がる。
『1階ボスは初心者の壁』
『火力不足のPTだと厳しい。回復役を連れてから挑め』
火力不足のPTで厳しいと書かれている相手に、火力ゼロ寄りの俺がひとりで突っ込むのか。普通ならここで回れ右だ。でも、こっちには【予兆】がある。情報戦で勝てるなら、火力の壁は迂回できるはずだった。
扉を押す。
部屋は円形で、中央に大柄なゴブリンチーフが鎮座していた。Lv3、両手に錆びた斧。体格は雑魚の2倍で、こちらを認識すると低く唸ってゆっくり立ち上がる。
1巡目は観察に徹した。
右斧の横薙ぎ、左斧の振り下ろし、そのあとタメ——3種のモーションが順番に確認できた。【記録】がパターンを淡々とログ化していくのが視界の端でちらつく。当たらない位置取りだけを意識して、無理に攻撃は差し込まない。観察が本体で、戦闘はその答え合わせだと最初から決めていた。
2巡目。視界の中央に文字が浮かぶ。
《予告表示開始》
《次の行動予告:右斧・横薙ぎ》
来た、と胸の中で呟きながら、横薙ぎの軌道に合わせて左に抜けた。風圧だけが頬を撫で、斧は空を切る。
《次の行動予告:左斧・振り下ろし》
後退。振り下ろしが石畳に叩きつけられ、砂埃が舞った。硬直。
《次の行動予告:タメ》
タメの硬直は長く、踏み込んで【一筆】を滑り込ませれば1ダメが確実に通る。戻って距離を取り、次の予告を待った。
避けて、避けて、隙に【一筆】を差し込む。
この繰り返しだ。派手な演出はどこにもなく、1ダメを律儀に積み上げていくだけの極めてシステマチックな処理が続いた。HPバーが目に見えて削れていき、予告が1手出るたびにボスの動きが妙にゆっくり見えてくる。見えているから焦らない。焦らないから被弾もしなかった。
計算通り、と胸の内で確認する。
ボスの体が大きく傾いで、光の粒になって崩れていった。
《1階フロアボス撃破。2階への通路が開放されました》
Lv UPの通知は来ない。経験値バーがじわりと伸びて、次のLvまであと少し、というところで止まる。ボスは重い経験値だった。それでもLv3には届かない。Lv UPは次の戦闘で受け取ればいい。
部屋の奥の壁が音を立てて割れ、下り階段が顔を出した。
一段、また一段と足を降ろしていくうちに、空気が少しだけ冷たくなり、壁の石の組み方も粗石から滑らかな切り石へと変わっていく。作り込みが1階よりひとつ上の階層に入ったらしい。ダンジョンがここから本気を出し始めたという合図だろう。
合成がこの調子なら、もっと上を狙えるはずだった。【予兆】ひとつで1階ボスが完封できたのなら、固有スキルをもう1枚拾えたとき、確実にもう1段引き上がる。
2階の通路に足を踏み入れた、その瞬間——悲鳴が聞こえた。
遠くない。通路の先、数十メートルあるかないかの距離で、金属が打ち合う音と短い叫びが連続している。
足が止まった。戦闘音と悲鳴がこの近さで重なっているなら、誰かが詰みかけている。俺の火力は1ダメで、殴り合いに加わっても戦力にはならない。ならない——けれど【予兆】がある。観察できれば、情報なら渡せる。
気がつくと、走り出していた。
◇◇◇
2階の通路は、1階よりひとまわり天井が高かった。
壁の切り石がさらに滑らかに整えられていて、等間隔に埋め込まれた青い燐光が足元まで薄く届く。遠くで金属が打ち合う音がまだ続いている。悲鳴はあの一声以降は聞こえていない。息を切らすほど走るのは悪手だ。2階の雑魚がどの程度のものか、まだ見ていない。
通路を駆け抜けて一つ目の曲がり角を曲がると、視界に敵シンボルが浮かんだ。Lv2・コボルト、と書いてある。犬頭の人型が二体、片方は錆びた短剣、もう片方は小ぶりな盾と片手斧を構えてこちらへ向かってくる。
1階の棍棒ゴブリンとは別種だ。【予兆】は観察済みのパターンにしか反応しない。ゴブリンのログはコボルトには乗らない。つまり今は予告は出ない。いつも通りの1巡目観察、と頭を切り替える。
短剣持ちの方が先に飛び込んできた。下段から掬い上げてくる刺突を、軸足をずらして紙一重で抜ける。遅い。視界の端では、【記録】が淡々と仕事を始めているのがわかった。
《記録中:コボルト短剣——下段掬い刺突→硬直1秒→水平斬り》
《記録中:コボルト斧——盾構え前進→片手斧上段振り》
律儀にログが積まれていく。盾持ちの方が距離を詰めてきたので、いったん後退してコボルト二体のループを2巡目まで眺めきった。
《予告表示開始》
《次の行動予告:短剣・下段掬い刺突》
《次の行動予告:斧・上段振り》
来た。2巡目、予告が降りてきたところで一気に加速する。短剣の刺突は軌道が見えていた。踏み込んで横に流し、硬直1秒の窓に【一筆】を滑り込ませて1ダメ。次の水平斬りも回避できる軌道だと【記録】が教えてくれる。斧持ちの上段振りはタメが重い。予告通りのタイミングで一歩下がり、振り下ろされた斧が石畳を叩いた硬直に【一筆】を差し込んだ。
避けて、差し込み、避けて、差し込む。
数値で勝てないなら頭で勝つ。その方針はこの階でもまだ機能していた。コボルト二体のHPバーが同時進行で削れきると、短剣持ちの方がまず光の粒になり、少し遅れて斧持ちも崩れ落ちた。
視界の中央に通知が降ってきた。
《Lv UP — Lv3》
《ステータス上昇——HP+1 STR+0 DEF+1 MAG+0 RES+0 AGI+2》
《職業熟練度+4(14/50)》
《スキル選択画面を開きます》
上昇値、相変わらず雑魚成長率だな。STRとMAGとRESがゼロというのが記録師らしくて、もはや笑いも出ない。AGIが+2伸びたのがせめてもの救いで、避けるために振られた成長枠だと思えば腑に落ちる。熟練度の方はじわじわ積み上がっていて、このペースなら後半のどこかでランクが動く計算だ。
光の粒が三つ、ふわりと膨らみながら目の前に整う。半透明の青い光をまとった三枚のカードが、左から順にゆっくりと回転を始めた。
二度目だ。一度目の重さはもう通り過ぎたあとで、頭の方が先に動く。
A枠に視線を送ると、カードが正面を向いた。スキル名は【装丁】とある。青地の枠に、固有の表記が添えられていた。詳細欄を開くと、記録の見た目を変える、と書いてある。
……表示系、か。単体で読む限り、これだけじゃ何の役にも立たない類だ。ただ、見た目を変えられるということは、記録をプレイヤー側に整形して出せるということでもある。合成素材として何かと組めば化ける匂いがする。少なくとも【予兆】と噛み合う可能性は高い。
B枠に目を移した。【見切り】。灰色のラベルに、コモン、効果は次の1撃だけ回避率UPとある。C枠は【強打】。これもコモンで、三度目のご対面だった。
詳細欄の隅に、見慣れた注記が並んでいる。
《※コモンスキルは合成素材として使用不可》
合成不可。パス。思考というより反射だった。【予兆】で3手先まで見えているのに1撃分だけ回避を足しても天井は動かないし、1.5倍固定も前回と同じ理屈で切り捨てられる。コモン2枚は視線を落とすまでもなく終了。残りはA枠だけだ。
指を【装丁】に伸ばす。触れた瞬間、カードが軽い音を立てて砕け、光の粒がスキルスロットに吸い込まれていく。
《スキル取得——【装丁】》
通路の奥から、また金属音が響いた。今度のは近い。
走り出す。
通路はそこからゆるく下り、広めの部屋に抜けた。天井は吹き抜けに近く、壁際には折れた石柱が転がっている。部屋の中央。そこに、ひとり立っていた。
銀髪のショート。毛先が頬の高さで軽く跳ねている。頭の上には三角の獣耳がピンと立ち、耳の少し下に、長く尖ったエルフ耳の先がのぞいていた。腰の後ろから銀白の尻尾が伸び、集中のためか真っ直ぐに張っている。手に握られているのは、細身の片手剣、レイピアだった。
ネコミミとエルフ耳の両方を持つ姿。両方の特徴を併せ持つキャラは、攻略サイトの種族一覧でも見た覚えがない。ハーフ種族か、それとも何かのレアエンカウントか、と頭の隅で分類しかける。
正面と側面から、2階のモブ二体が彼女を挟み込んでいた。さっきのコボルトより一回り大きい、毛並みの厚い獣人型だ。Lv4、格上。
彼女の剣筋が見えた。正面の獣人の爪を最小動作で逸らし、軸を返して突き込もうとする。速い。新人の動きじゃない。
ただ、二体同時は処理しきれていなかった。側面の獣人の爪が、彼女の背中側から振り下ろされようとしている。視野の外だ。
こいつ、筋がいい。独白がそれだけで済んだのは、頭が自然と次の動きに走り出していたからだ。
【予兆】は獣人のログをまだ持っていない。だが入室してからの数秒で、俺の目が拾ったものはあった。側面の個体は左爪を振る前に、わずかに肩を引く癖を持っていて、正面の個体は突進の前に必ず後ろ足を沈めている。粗いログではあるが、観察済みパターンとしては、もう十分に成立している計算だった。
《予告表示開始》
《次の行動予告:側面個体・左爪振り下ろし》
《次の行動予告:正面個体・突進(3カウント後)》
声を張る。
「左の奴! 次は上段振り下ろし! その後すぐ右薙ぎ!」
彼女の耳がぴくりと動いた。視線はこちらに向けず、体だけがもう反応している。
「右の奴は3カウント後に突進!」
左の獣人の爪が振り下ろされる瞬間、彼女はレイピアの切っ先を最小限に持ち上げて軌道を逸らし、体を一歩流した。爪が石畳を削る。その硬直の窓に、彼女の刺突が一閃した。獣人の喉元に細い穴が穿たれ、毛皮が赤くにじむ。
続けて、正面の突進が来る。3カウント。声を出さずに指を折って数えていたのが、俺からも見えた。
離脱ではなく、回り込みだった。彼女は突進の軸線から身体一つぶん外に抜け、獣人の横腹へ滑り込むように刺突を差し込んだ。狙いは肋骨の隙間、完全な急所。
二体の獣人が、ほぼ同時に光の粒になって崩れていく。
やっぱり筋がいい。声を渡すだけでこれか、と口の中で呟いた。経験値バーが少し伸びたが、次のLv UPには届いていない。当然だ。格上二体でも、記録師の取り分としてはそんなものだろう。
彼女がレイピアの切っ先を下ろし、こちらに向き直った。息が上がっている。頬が上気していて、三角耳は前方に向けたまま固まり、尻尾が真っ直ぐに張ったままだった——戦闘モードが、まだ抜けていないらしい。
間が、あった。
彼女が深く息を吸って、吐いた。尻尾の先が、ふっと力を抜いたのがわかる。
「……あ、ありがとう、ございます、です」
声がまだ少し震えている。
さらに間を置いて、彼女はおそるおそる続ける。
「あの、今の声……どうして、敵の動きが、分かったんです?」
好奇心と、警戒と、戸惑いが混ざったような声色だった。
「記録師って職業のスキル」俺は軽く肩をすくめた。
「記録師……」彼女は小さく繰り返す。「聞いたこと、ない、です」
そりゃそうだろう。三角耳がぴくりと動いた。知らない職業名を噛み締めるような、短い間が流れる。
なんとなく、彼女のステータスを覗く操作をしてみる。他プレイヤーのレベルはステータスで確認できる仕様だったはずで、半透明のサブウィンドウが視界の端に小さく開いた。Lv2、前衛剣士。
Lv2か。新人にしては動ける方だ。3巡目の回り込みなんて、1日目のプレイヤーが咄嗟に出せる判断じゃない。
「……あの」彼女が剣をすっと鞘に戻しながら、視線を少し落とす。「1つ、聞いて、いいですか」
「なに」
しばらく、言葉を探すような沈黙があった。三角耳が少しだけ伏せる。尻尾の先が小さく左右に揺れる——警戒と逡巡のあいだの動き。
「……セナ、ハーフ、です。エルフと、獣人の」
耳を伏せたまま、彼女は返事を待っている。
「そうか、苦労したんだな。剣は使える?」
三角耳がピコッと立った。尻尾がふわっと揺れる。
「……はい、です」
声が少しだけ明るくなる。
「じゃあ組もう。前衛が足りてない」
仮パーティ申請、という操作項目が視界のメニューにあった。指先で選ぶと、対象選択のカーソルが出てくる。目の前の彼女——セナ、にカーソルを合わせて確定させた。
彼女の視界の中央に、半透明のポップアップが浮かび上がったのが、俺の側からも薄く透けて見えた。《仮パーティ申請——カナタ》と書かれている。彼女の指先がためらいなく承認に触れた。
《仮パーティ成立》
「セナ、よろしくお願いします、です」彼女は小さく頭を下げてから、少しだけ顔を上げた。「あの——マスター、と呼んでも、いいですか?」
マスター? まあなんでもいい、前衛が組めれば。
「カナタだ」俺は言った。「好きに呼んでくれ」
「ん、マスター」
三角耳がぴこっと揺れる。嬉しい、の耳だ——と、動物の行動学にそんなに詳しくない俺でもわかる程度には、信号としてわかりやすかった。
2階の奥へ向かって歩き出す。セナは少し後ろをついてきた。ちらちらと、こちらの横顔を窺う視線を感じる。足音は軽かった。獣人寄りの骨格なのか、石畳を踏む音がほとんど立たない。
「マスター、さっきの指示……すごかった、です」セナがぽつりと言った。「耳が、いい、です」
耳とかじゃないんだが、まあ褒められて悪い気はしない。
「そういうことにしておくか」
三角耳がぴこぴこと小刻みに揺れ、尻尾の先がゆらゆらと揺れている。戦闘のあいだ張り詰めていたものが、歩き出してから徐々にほどけているらしかった。可愛い、というよりは、安心したときの動物そのままの動き方をしている。
通路の先には、また敵シンボルの気配がある。このまま進めば、もう一戦はまず発生するだろう——そう読みながら、頭の片隅で少し別のことを考えていた。
口で叫んで指示するのは、正直限界がある。喉が枯れる。距離が開いたら声は届かないし、ボス戦みたいに長丁場になったら、一回一回叫び続けるのは物理的に無理だ。
何か——情報を、直接渡せる手段が欲しい。スキルの組み合わせで、何とかならないものか。
セナの足音が背後で軽く続いている。三角耳が時折ぴこっと動いて、俺の独り言めいた呟きを拾おうとしているのが、気配でわかった。
情報を、直接渡せる手段——。
◇◇◇
2階から3階へ下りる階段は、途中で一度踊り場を挟んでから、さらに深く折れ曲がっていた。
壁の石組みがまた一段細かくなり、継ぎ目の目地に薄い苔が走っている。踏板の縁がわずかに丸く磨り減っているのは、ここまで辿り着いたプレイヤーの足数ぶんだけ演出を刻んでいるということだろう。VRの作り込みがいちいち丁寧で、つい足の裏の感触まで意識が寄ってしまう。
3階に下り切ったところで、セナが先にすっと歩幅を落とした。
「マスター、こっち、です」
通路の側壁にぽっかりと開いた小部屋を、セナが指差している。中を覗いた。
壁に埋め込まれた青い結晶がゆっくりとした呼吸のように明滅していて、床には石を削り出しただけの簡素なベンチが二つ並んでいた。結晶の光が床を淡く染め、部屋の空気だけがひやりと静まっている。通路のほうから流れてくる湿った土の匂いも、この一室ではほとんど消えていた。
「ここ、3階のセーフルーム、です。敵が入ってこないので、少し休めます」
セーフルーム。
へえ、そういう仕組みか、と頭の中で相槌を打つ。初心者ダンジョンの中に安全地帯が点在する設計らしい、というのは掲示板で流し見したきりで、実物に入るのは初めてだった。結晶が淡く息づくのを眺めていると、敵シンボルの気配が本当に途切れていて、入った瞬間に首の後ろがすっと軽くなる。
「助かる。一回腰を据えたかった」
セナがベンチの片方に先に腰を下ろし、ぽん、と隣の石をてのひらで叩いた。空けている、と言っているわりに、てのひらの位置が真ん中よりこちら寄りにある。結果として空いているスペースは、拳ひとつぶんほどしかない。
並んで座った。
石は冷たくて硬いが、立ちっぱなしで通路を走ってきた足にはありがたい温度差だった。セナの尻尾が俺の側でゆらり、ゆらりと揺れている。本人の意識は前を向いているので、尻尾の向きは本人の意思とは独立に動いているらしい。動物の尻尾はそういうものだと、なんとなく獣人寄りの生態として処理しておく。
「マスター」
「ん」
「記録師のスキル、説明文だけじゃ用途、掴みづらい、です」
掴みづらい、というのは随分丁寧な言い方で、内心もう少し率直な言葉を選びそうになったが呑み込んだ。
「そうなんだよ。特に【装丁】。『記録の見た目を変える』としか書いてない」
「【装丁】って、何に使うスキル、です?」
セナの三角耳が、興味を向けるときの角度にくいと動いた。獣耳の付け根からエルフ耳の先までの長い輪郭が、結晶の光をうっすら縁取っている。
「それを今から確かめる」
セナの尻尾の先が、ふっと力を緩めた。納得した、というよりは、任せるという意思表示に見える。
「はい、です」
しばらく黙って座っていると、結晶の明滅に合わせて呼吸のリズムが勝手に合ってきた。ダンジョンから一度出る必要がない、というのはプレイ感覚として結構助かる。歩いて、戦って、拾って、そのまま座って休める導線が同じ空間のなかで完結しているのは、ダンジョンとしては当然なのかもしれないが、体感としてはテンポの区切りがついて落ち着く。
【装丁】単体で何ができるか。俺の視界の見た目を変えられる。書いてあるのはそこまでだ。
「ちょっと試すぞ。【装丁】」
試しにスキルを発動してみる。視界の端に展開していた【記録】のログウィンドウが、ふわりと輪郭を変えた。フォントの太さが少し変わり、行間が広がり、重要語らしきキーワードに淡い青のマーカーが引かれていく。指先で余白をつまむと、ウィンドウのサイズや配置までつまみ直せるようになっていた。
地味だ。
率直な感想だった。【記録】の見え方が少し読みやすくなった、以外の効果が出てこない。戦闘に直接効く実感はないし、派手な見映えもない。ただ、ログが読みやすくなるというのは、記録師の本業である「情報整理」には確かに刺さる。単体で何かを殴れる種類の力ではなく、他のスキルに噛ませて初めて意味が立ち上がる骨格寄りのスキルだ。
つまり、合成素材として匂う。【記録】や【予兆】と並べたときに何が起きるのか、単体で見ている限りでは輪郭が掴みきれない。なら、合成したときに何が起きるのか、そっちのほうが気になって仕方がない。
ベンチから腰を上げる。
「そろそろ行くか。雑魚を1体狩ればLvが動く計算だ」
セナが小さく頷いて、レイピアの握りを確かめ直す。
セーフルームを出ると、通路の湿った空気がまた首筋に戻ってきた。
3階の敵シンボルが通路の奥に一体、浮かんでいる。Lv3・ゴブリンメイジ。小柄な体に粗末なローブを纏い、木の杖を握っていた。2階までの近接型とは違う、明らかな後衛タイプだ。
新種だった。【予兆】のログはまだ持っていない。
「セナ、1巡目は様子見。観察してから」
「ん、了解、です」
ゴブリンメイジがこちらを見つけて、杖の先に青白い火花を溜め始めた。短い溜め。指を一回振るほどで、火花が弾け飛び、小ぶりな火の玉が通路の中央を走ってくる。
セナが半歩だけ右に流れて、軌道から身体を抜いた。風切り音を置き去りに、火の玉が壁にぱちりと弾ける。
《記録中:ゴブリンメイジ——指振り溜め1秒→火の玉直進(単体・直線)》
1巡目観察、終わり、と胸の中で区切る。
セナに目で合図を送り、先に間合いを詰めた。ゴブリンメイジが杖の先にまた火花を溜め始める。2巡目。指の振り方が同じだった。
《予告表示開始》
《次の行動予告:指振り溜め1秒→火の玉直進》
セナが足を弾ませた。火花が弾ける瞬間に、セナの体はもう杖の射線から外れていて、そのまま踏み込みの延長でレイピアの切っ先が斜めに伸びる。細身の刃がゴブリンメイジの胸元に滑り込み、ローブの生地がぺらりと割れた。
メイジが悲鳴を上げる間もなく、光の粒になって崩れていく。
俺の視界の中央に通知が降ってきた。
《Lv UP — Lv4》
《ステータス上昇——HP+3 STR+1 DEF+0 MAG+0 RES+1 AGI+0》
《職業熟練度+2(21/50)》
《スキル選択画面を開きます》
HPは3伸びた。STRが1、RESが1。DEFとMAGとAGIは据え置きだった。ゼロが三つ並ぶのはさすがに悲しい数字だが、記録師の成長率表を見たときの覚悟と比べればむしろ出来のいい方で、もう落ち込むポイントでもない。熟練度はじわじわ積み上がって、そろそろカンストが視界に入ってきていた。28/50、あと四戦か五戦で動く計算になる。
通知が視界の中央から下に流れると、入れ違いに光の粒が三つ膨らんできた。半透明の青い光を纏った三枚のカードが、左からA枠、B枠、C枠と並んで、ゆっくり回転を始めた。
三度目の3択になる。手つきはもう慣れた。
A枠に視線を送ると、カードが正面を向いた。スキル名は【装丁】。青地の枠に、固有、の表記が添えられている。
重複引きだった。
詳細欄を開く。流し読みした視線が、追記のところで止まった。
《※同種スキル所持時、合成により進化可能》
息が止まった。
同種スキル所持時、合成により進化可能?
そんな機能があったのか。以前の3択画面には出ていない表記だ。追記が出ているということは、俺の手札に【装丁】が既にあるから、重複引きした詳細欄にだけ表記が浮き上がってきた、と読むのが素直だ。ガチャの仕様として、同じ固有が重複で引けたときに初めて見える情報が仕込まれている。
頭の中で整理する。合成不可のコモン、合成可能の固有、そして固有の2枚目で進化。ルールのレイヤーがまた1枚めくれた。
B枠に視線を移す。浮かんでいたのは【強打】で、灰色ラベルのコモンが添えられていた。
3回目のご対面か。合成不可なのは変わらない、もういい。
検討時間ゼロで切り捨てた。
C枠は【註釈】だった。青地の枠に、固有の表記が添えられている。詳細欄には、記録に注釈を付け加える、とだけ書いてあった。
……これはこれで欲しい。【記録】と組めば予兆に補足情報が乗るかもしれないし、【予兆】と直接組んでも面白い派生が出そうな匂いがする。合成素材の候補としては手札に入れておきたい1枚だ。
固有2枚を同時に引きたくなる欲はあるが、選べるのは1枚。
A枠の追記に戻る。同種2枚で進化、と断定して書かれているわけではなく、「可能」という書き方だから、試してみて初めて何が起きるかわかる類の文言だ。試す価値がある。註釈は合成素材としてずっと魅力的だが、それは次のLv UPで回ってくればいい話で、今この瞬間にしか検証できないのは装丁の進化のほうだ。
「装丁、もう1枚引けた。進化の検証をやる」
「ん、はい、です」
セナは黙って見守っている。合成の仕組みについては2階で一度【予兆】が生まれる瞬間を隣で見ていたから、また何か作るんだな、くらいの温度感で受け止めているらしい。
A枠に指を伸ばす。触れた瞬間、カードが軽い音を立てて砕け、光の粒がスキルスロットに吸い込まれていった。
《スキル取得——【装丁】》
手札に【装丁】が2枚並んだ。
通路の端に寄って、合成ウィンドウを開く。左スロットと右スロットが並んでいて、下段の手札アイコンから【装丁】をふたつ、左と右に順番にドラッグして落とした。同じアイコンがふたつ、対になって光っている画面はちょっと見慣れない絵面で、少しだけ手の先がざわつく。
「やってみないとわからない」
自分に言い聞かせる調子で呟いて、実行ボタンに指を乗せた。
押す。
画面が、白く、弾けた。
光の密度が前回の【予兆】発見のときよりも一段強い。瞼の奥に白い粒が残る。視界が戻るまでの一呼吸ぶん、周囲の通路の色が抜け落ちて見えた。隣でセナが息を呑んだ気配が、音になって耳に届く。
光が引く。文字が浮かんだ。
《スキル進化——【装丁+】》
……進化。
やっぱり同種2枚で上位互換になるのか、と頭の中で仮説が答え合わせされる。レシピが存在するわけじゃない。2枚揃えれば、元スキルの上に「+」がひとつ乗る。これも合成システムの一部だが、固有2枚合成の「新スキル発見」とは明確に挙動が違う。同じ系統を重ねれば純粋強化、別系統を重ねれば新発見。そういう切り分けだ。
効果欄を開いた。
《【装丁+】——記録情報をパーティメンバーの視界に常時視覚表示する》
効果説明を、繰り返し目で追った。
パーティメンバーの視界に、常時、視覚表示。
これまで【装丁】単体では俺の視界の見た目を整えることしかできなくて、セナに情報を渡すときは「左、上段振り下ろし来る」と口で叫ぶしかなかった。声の届く距離、喉の限界、戦闘中に言葉を組み立てるラグ——物理的な制約が、この追記で丸ごと外れる。
パーティ全員が、俺の【予兆】を常時見れる。
口の端が勝手に緩んだ。
「セナ」
「はい、です」
「試したい。ちょっと予兆を発動させるから、自分の視界を確認してくれ」
セナが首を傾ける。三角耳が、わずかに前に倒れた。
【予兆】を明示的に起動して、直近の【記録】——ゴブリンメイジの指振り溜めの行動ログ——を視界に呼び出した。俺の視界には慣れた《予告表示開始》のメッセージが降りてくる。
同時に、セナの表情が動いた。
「——ひゃっ」
三角耳がピンと立ち、尻尾がぶわっと膨らむ。
「マスター、これ、……見えます。目の前に、文字、です」
「俺の視界と同じものが出てるか?」
「《次の行動予告:指振り溜め1秒→火の玉直進》、って、出てます」
完璧に共有できている。
「これが【装丁+】の効果だ。俺が記録した情報を、セナの視界に同時に流せる」
セナの尻尾の先が、ぱたり、ぱたりと小さく揺れた。毛並みが落ち着いて、立ちかけていた三角耳もゆっくり角度を戻していく。驚きから納得に移っていく動物リアクションが、これほど素直に読み取れる相手も珍しい。
「……すごい、です」
「これ、ボスで試すぞ」
口の中が乾いていた。行くか。通路の奥の敵シンボルを視界で追うと、少し先に大きなマーカーが表示されている。3階フロアボス、Lv5、巨体の表示が並んでいた。デカい。
ボス部屋の扉の手前に、プレイヤー共用のメモ板オブジェクトが置いてあった。カーソルを合わせると、過去にここを通った連中の書き込みが順繰りに浮かび上がる。
『3階ボス、攻撃モーションが多すぎる』
『パターン読みが追いつかない。少人数PTでは撤退推奨』
『大斧と盾の切り替えタイミングが掴めない』
どれも伝聞だから、【予兆】には直接は乗らない。けれど、こちらには【装丁+】がある。観察さえこなせば、読める側に回れる。
通路の突き当たりの扉を押した。天井の高い円形の部屋に出る。中央にオーガ型の巨体が片膝を立てて座り込んでいる。皮膚は暗い灰色。右肩に粗造りの大斧を担ぎ、左手には鉄の盾を持っている。体高は3メートル近く、立ち上がったときに天井との隙間がほとんどない。
立ち上がる。
足音が石畳を揺らした。
「セナ、1巡目は観察に徹する。攻撃は通してくれていい。当たらない位置取りだけに集中」
「ん、了解、です」
オーガが大斧を振りかぶる。上段振り下ろし。軌道は広く、粗い。セナが軽く右に流れ、俺は左に抜けた。斧が石畳を叩き、砂埃が高く舞う。衝撃で足元の石の破片が飛んでくるのを、腕で払った。
続けて左手の盾で殴りにきた。横薙ぎ気味の直線で、避けられる速度だ。セナが低く沈んで躱す。
三手目。体を丸める予備動作が入った。これは見たことのないモーションで、【予兆】は予告を出さず、視界の隅に別種の通知が点滅した。
《警告:未観測パターン検知——体丸めモーション》
ためて、解放、と同時に周囲へ衝撃波。踏み込みを止めて後ろに跳んだ。足の裏を伝って地響きが届き、遅れて熱を帯びない風圧が頬を撫でる。
1巡目で三種を拾った。振り下ろし、盾薙ぎ、衝撃波の順で並ぶ。
ログが十分に溜まったのを視界の端で確認して、セナに目で合図を送った。【装丁+】はもう常時接続されている。俺が【予兆】を能動的に回さなくても、観察済みパターンの検知が始まれば、セナの視界にも自動で予告が降りる。
オーガが再び大斧を振りかぶる。2巡目。
《予告表示開始》
《次の行動予告:大斧・上段振り下ろし》
「マスター、見えます」
セナの声から「です」が落ちた。戦闘スイッチが入った合図だ。三角耳は前方に固定され、尻尾が真っ直ぐ伸びている。
「次の攻撃も、その次も」
セナが踏み込んだ。
大斧の軌道に入る直前、右に流れる。斧が振り下ろされて硬直に入った窓へ、内側から滑り込んだレイピアの切っ先がオーガの脇腹に吸い込まれ、皮膚の硬い一枚を細く穿った。
《次の行動予告:鉄盾・横薙ぎ》
予告が降りた瞬間、セナはもう軌道の外にいた。盾が空を薙ぐ風圧だけが頬をかすめる。続く硬直の窓にレイピアが二度突き立ち、狙いは肋の隙間、同じ場所で切っ先が重なった。
《次の行動予告:タメ→衝撃波》
セナが一歩で後ろに跳ねた。俺も同時に下がる。タメの間合いは既に読めていて、衝撃波が到達する位置から二人とも抜けきっていた。風圧が石畳に触れて、砂埃だけが広く舞う。
硬直。
セナが前に戻って、オーガの膝裏へ切っ先を差し込んだ。巨体がぐらりと傾ぎ、体勢を崩したところへ俺も【一筆】を一発、差し込んだ。1ダメが律儀にポップする。
オーガの体が横に倒れ、光の粒になって霧散していく。
《3階フロアボス撃破。4階への通路が開放されました》
部屋の奥の壁が割れ、下り階段が顔を出した。
記録師単体では1ダメが限界。でも情報を渡す側に回れば、戦い方が根本から変わる。
胸の中で呟く。肩の力を抜くと、セナがレイピアを鞘に納めながらこちらに向き直った。息は少し上がっているが、戦闘のあいだ張り詰めていた三角耳の角度が、もう平常に戻ってきている。尻尾の先だけがまだ小刻みに揺れていた。
「……私、こんなに楽に戦えたの、初めて、です」
少しだけ目を丸くしている。
「マスターのパーティにいると、もっと強くなれる気がします」
声に甘えや誇張はなく、素の感想として出てきた言葉だった。
「いや、君が強いんだ」
俺は首を振った。
「情報があれば、君の体は最適解を出し続ける。俺はデータを渡してるだけだ」
セナの三角耳が、ピコッ、と一回だけ跳ねた。
合流してから繰り返し見た、照れの耳だ。尻尾の先がさっきより少し大きく揺れている。それを本人が自覚していないのが一番具合が悪いところで、俺の目のやり場としては一旦視線を天井の吹き抜けのほうに逃がした。
3階クリア、と胸の中でスコアを締めた。合成のストックが【註釈】以外にもう1枚あれば、もっと先の派生が見える。頭の片隅で合成ロードマップの更新だけ済ませて、視線を下ろす。
そこで、視界の隅にじわりと時計表示が浮かんだのに気づいた。
現実世界の時計だった。もう深夜に近い。
「セナ」
「はい、です」
「今日はここまでにしよう。明日また続ける」
セナの三角耳がわずかに下がり、尻尾の揺れが落ち着いた。
「はい、です。お待ちしてます、マスター」
またな、と軽く手を上げて、視界の端のメニューからログアウトを選んだ。《ログアウトしますか?》の確認に指で触れる。
視界が、ゆっくりと暗転した。
両手でヘッドセットの側面に触れ、持ち上げて頭から外す。耳の後ろの圧迫感が抜けて、空調の音が戻ってくる。自分の部屋の天井が、デスクライトの淡いオレンジに照らされていた。
椅子にもたれかかる。机の上のペットボトルを掴んで口をつけると、生ぬるい水が喉を通っていった。
【装丁+】であの連携になるなら、次はもっと上が見えるはずだ。そう独り言ちて、天井を見上げた。
◇◇◇
4階の通路は、天井がさらに低くなっていた。
壁の石組みに走る目地が、3階までとは違って斜めに切られている。斜交いの継ぎ目を光が走ると、通路ぜんたいが奥に向かってわずかに絞り込まれていくような錯視が生まれた。足元の石の温度も、3階よりひとつぶん冷えていた。足の裏からじわりと冷気が上がってきて、歩くたびに踵の芯が締まる感覚があった。
通路の先に敵シンボルが浮かんでいる。Lv4・ホブゴブリン、と視界の隅に表示が出た。3階までより一回り大柄で、鉄の棍棒を肩に担いでいる。2巡目からは【予兆】が仕事をする距離感だ。
「セナ、1巡目は観察。俺が数える」
「ん、了解、です」
セナがレイピアの握りを確かめ直して、一歩前に出た。三角耳が前方に固定されている。戦闘モードへの切り替わりが、ここ数戦で一段洗練されてきた。
ホブゴブリンが棍棒を肩から下ろし、両手で握り直して踏み込んできた。大振りの袈裟打ちが右上から左下に走る。セナが軸を落として軌道から抜け、返す手で切っ先を脇腹に滑らせる。棍棒が石畳を叩いた硬直の窓に、さらに一撃が入った。
二巡目の袈裟打ち。【予兆】が正面に文字を落とす。
《予告表示開始》
《次の行動予告:棍棒・袈裟打ち(右上→左下)》
セナの視界にも同じ予告が降りているはずだ。【装丁+】は進化してから、毎戦でこの常時接続を維持してくれている。
セナが踏み込んで、棍棒の軌道の内側に入り込んだ。レイピアの切っ先がホブゴブリンの喉元に一直線に伸びて、ひと突きで決まる。巨体が光の粒になって崩れた。
視界の中央に、通知が降ってくる。
《Lv UP — Lv5》
《ステータス上昇——HP+1 STR+0 DEF+1 MAG+1 RES+0 AGI+1》
《職業熟練度+2(31/50)》
《スキル選択画面を開きます》
戦闘終了と同時にレベルが動いた。ホブゴブリンの経験値で押し切れる計算だったから、想定通りだ。
上昇値はHPが1、DEFが1、MAGが1、AGIが1で、STRとRESがゼロだった。今回もゼロが二つ並んでいる。記録師らしい成長の仕方だとは思うが、見るたびに口の端が下がる。MAGが1伸びたのは珍しい。魔法スキルを持っていない俺には使い所がないが、どこかで何かに繋がるかもしれない、という期待はもう持たないことにしている。
熟練度は42/50まで来た。あと一、二戦でランクが動く圏内だ。ランクアップで合成スロットが拡張されると聞いている。そこに素材が揃っているかどうかで、この先の伸び方が変わる。
光の粒が三つ、ふわりと膨らんでカードになった。半透明の青い光を纏って、左からA枠、B枠、C枠と並ぶ。四度目の3択は、もう手つきが体に馴染んでいる。
A枠に視線を送ると、カードが正面を向いた。【註釈】。青地の枠に固有の表記。詳細欄には「記録に注釈・補足を付け加える」とある。
B枠に視線。【硬化】。灰色ラベルのコモンで、効果は被ダメの固定値軽減だった。
固定値。論外。検討時間ゼロで切り捨てる。
C枠。【照合】。青地の枠に固有の表記。異なる記録を突き合わせる、と詳細欄にある。
固有が二枚並んだ。二度目の固有二択だ。
照合も捨てがたい。記録と記録を突き合わせるなら、【予兆】で集めたパターン同士を照らし合わせて共通項を抜き出す使い方が見える。汎用性は高い。
ただ、註釈のほうが今の手札との噛み合わせがいい。【記録】と【註釈】を重ねれば、行動予告に補足情報が乗る可能性がある。予兆の精度が一段上がる絵が頭の中で描ける。今の主力は【予兆】だ。その拡張に回せるカードを先に握る方が、合成ロードマップとしては素直だ。
註釈、照合、装丁、校正。合成素材の手札を指折り数えて、素材の組み合わせが三種から四種に増えることを確認する。
次のLv2合成が楽しみだ。
A枠に指を伸ばす。触れた瞬間にカードが砕け、光の粒がスキルスロットに吸い込まれていった。
《スキル取得——【註釈】》
手札が更新される感覚は、何度味わっても気持ちがいい。
「【註釈】、取った。合成素材が一枚増えた」
「ん、マスターの作戦の幅が、広がる、です」
セナの三角耳がぴこぴこと動いている。合成というシステム自体への理解はまだ深くはないはずだが、主人公が手札を増やすと戦いが楽になる、という因果だけは体で覚え始めているらしい。
通路の先にもう一つ、曲がり角を挟んだ先の広間から、人の声が流れてくる。複数人。息が上がっている。
角を曲がると、そこは小さな広場になっていて、4人組らしきパーティが壁際にへたり込んでいた。全員が装備を整える素振りではなく、荒い呼吸を整えている段階にある。こちらに気づいた一人が、顔を上げる。
「……そっちも、ボス行く口?」
「今から偵察するところだ。何か聞ける?」
男が乾いた笑いをこぼして、頭を振った。
「あのボス、範囲攻撃が痛ェ。パターンも読みづらい。うちは一回死に戻って来た。今日はもう撤退する」
「範囲はいくつ見えた?」
「少なくとも二つ。あと、途中でデカい予備動作が入る。あれ食らったら即溶ける」
他の三人も口々に同じ趣旨のことを言った。どれも伝聞として頭に入れる。【予兆】は他人の証言を直接は拾わない。観察したログにしか予告は乗らない。ただし、方向性のアタリをつけるには十分な情報だった。
礼を言って、広間を抜ける。セーフルームの青い結晶が、次の曲がり角の先で淡く息づいていた。
ボス部屋の扉の手前、セーフルームのひとつ前の曲がり角で立ち止まる。壁のくぼみに身を寄せて、扉の隙間の向こうを視界で拾った。
巨体の影が揺れている。ボス部屋の中をゆっくりと歩き回っているらしく、足音の間隔から、歩幅が大きく、旋回は重い。直接の交戦はまだ始まっていないが、【予兆】は観察済みパターンにしか反応しないルールだ。ここから拾うのは予告ではなく、行動の下書きに相当するログになる。
扉の隙間に視線を固定して、【予兆】をあえて明示的に起動した。視界の端にログウィンドウが広がっていく。
《記録中:フロアボス——旋回(鈍)/歩行(重)》
扉の隙間から見える範囲で、ボスが一度、大きく右手を振り上げて、壁の柱に叩きつけた。斧か、大ぶりの片手武器らしい。叩きつけの反動で、石の粉が宙に舞い上がるのが遠くからでも見える。攻撃パターンの素振り。リハーサルを、本人がやってくれている。
《記録中:大剣・上段叩きつけ(硬直長)》
続いて、体を丸めて一拍溜めてから、片手を大きく横に振る動作に入った。派手な風圧がこちらまで届かない距離で、ボスの足元から砂埃が半円状に広がる。範囲攻撃の一種だ。
《記録中:横薙ぎ範囲——予備動作1秒/半円》
ボスの所作は無駄が多かった。リハーサルのなかで五つ、行動の下書きが取れた。叩きつけ、横薙ぎ範囲、突進、後退からの直線突き、そして、体ごと丸めてから、両腕を地面に叩きつけて大きく揺れる動作。これだけ予備動作が長い。明らかに大技の匂いがする。
遠距離から拾えたのが五種で、うち二つが範囲。大技はおそらく三巡に一度、溜めの入る位置で来る。
初めての偵察運用だった。扉越しに、戦う前からここまで下書きが取れるとは、自分でも知らなかった。戦いながら観察するのと比べて、落ち着いて拾える情報量がまるで違った。これは今後のテンプレに組み込もう。ボス部屋の前で必ず一度、扉の隙間からログを取ることにしておきたい。
ログを抱えて、セーフルームに入った。
壁の青い結晶が淡く息をしていて、石のベンチが二つ並んでいた。セナがベンチの片方に腰を下ろす。俺はベンチには座らず、セナの正面に立って、手のひらに作戦図を描くように指を動かした。
「パターンは五種。うち二つは範囲攻撃」
「ん、はい、です」
「ひとつめの範囲は、横薙ぎ。予備動作が一秒。距離を取れば届かない。ふたつめは、体を丸めて溜めてから両腕叩きつけ——これが三巡目に来る大技だ。射程が読めない。そこだけ、全力で離れろ」
セナの三角耳が、ゆっくりと伏せた。
今までの動物リアクションにはなかった角度だった。驚きでも、警戒でも、照れでもない。集中の耳だ。戦闘スイッチの手前、覚悟を決めている合図だった。
「……わかりました、です。範囲攻撃の合間に入ります」
「大技の前に溜めのモーションが入る。俺が声を出す。それまでは予兆が予告を流すから、視界の指示に従ってくれていい」
「はい」
「です」が落ちた。
セナが自分の中で、攻撃の順番と距離を一度、二度と反芻しているのがわかる。三角耳は前方に固定されたまま伏せていて、尻尾は真っ直ぐに張っている。戦闘モードの、さらに一段深いところに入っていた。
「勝ち確にしてから行く。俺らの戦い方はそれだ」
セナがゆっくり息を吸って、吐いた。尻尾の先が、ほんのわずかだけ揺れた。
扉を押すと、円形の広間に、重たい空気がのしかかっていた。
天井が高い。中央に、灰色の巨体が片膝を立てて座っている。立ち上がると高さが四メートル近い。右手に大剣を握り、左手はむき出しのままだ。腰のあたりに金属の輪がはまっていて、ボス個体の印になっている。
立ち上がる。
一歩、石畳を踏んだ音が、部屋ぜんたいを揺らした。
【装丁+】は常時接続されている。観察済みパターンは五つ。下書きの精度は偵察の段階で拾った分だけで、あとは実戦のなかで埋まっていく。
ボスが大剣を振り上げる。一発目、上段叩きつけ。【予兆】が先に声を出す。
《予告表示開始》
《次の行動予告:大剣・上段叩きつけ》
「左、回避——刺突」
セナの声から「です」が落ちていた。戦闘スイッチが入った合図だ。三角耳が前方に固定され、尻尾が真っ直ぐに伸びる。
セナが踏み込んだ。大剣の軌道の内側、右足から左足への踏み替えで、身体ひとつぶん左に流れる。叩きつけの風圧が背中の後ろで炸裂して、石畳が陥没した砂埃だけが上がる。
その砂埃の中から、セナの切っ先が伸びた。
ボスの右脇、大剣を振り下ろした硬直の窓に、レイピアの刃が一直線に差し込まれる。狙いは肋の隙間だ。細い刃が、皮膚の硬い層を薄く切り抜き、内側に届いた。
二撃目は横薙ぎの範囲攻撃だった。予備動作一秒の合図が、視界に降りる。
《次の行動予告:横薙ぎ範囲・半円》
「範囲——退避、入る」
セナがすでに下がっていた。半円の外縁から身体ひとつ外側に抜けて、風圧が届かない距離で膝を落として待機する。ボスの横薙ぎが空を切って、硬直に入る。
戻り動作の隙に、セナがまた踏み込んだ。レイピアが二度、同じ肋の隙間に突き立つ。
ボスの巨体が一歩、後ろにぐらついた。
《次の行動予告:後退→直線突き》
「突き、左——外して入る」
声と同時にセナの体はもう左に流れていた。ボスの直線突きが右側を駆け抜ける。外された突きの延長線で、ボスの前腕がさらされた。セナがレイピアの切っ先を跳ね上げて、前腕の内側、腱の走る位置に刃を差し込む。
ボスが大剣を取り落としそうになりながら、握り直した。
三巡目が来る。
ボスが体を丸めた。両腕を地面に叩きつける予備動作に入っている。タメが長い。足元の石畳がミシリと鳴り、ボスの周囲に重力が集まっていくような気配が広がる。射程が読めない。
「セナ、大技。全力で離脱」
俺の声より早く、セナは動いていた。三巡目に大技が来ると事前に告げてあったとおり、予備動作のタメの立ち上がりで、もう後ろに全力で跳んでいる。こちらが声を出し切る前に、彼女の身体は広間の壁際まで戻りきっていた。
俺の予兆より、速い。
頭の隅でそう記録した。
ボスの両腕が地面に叩きつけられ、広間ぜんたいが揺れた。衝撃波が半径いっぱいに広がって、石畳が波打つ。熱を持たない風圧が頬を撫でて、奥歯の根がじんと痺れる。
俺は広間の縁で伏せていた。セナは壁際で膝を突いて、衝撃を受け流している。二人とも射程の外にいた。
衝撃波が収まった直後、ボスの巨体には硬直の窓が広く開いていた。両腕を地面に叩きつけた反動で、上体が前に傾き、胴が無防備に晒されている。
セナが踏み込んだ。
壁際からボスの懐まで、一息で届く。
レイピアの切っ先が、胴の中央、心臓にあたる位置めがけて伸びる。刺突の姿勢が、今日いちばん低く、速かった。刃の軌道に迷いがない。
「——っ、貫く」
声が落ちた。
切っ先がボスの胴に吸い込まれ、金属と皮膚の抵抗を一枚ずつ剝いでいく手応えが、こちらからでも伝わってくるようだった。セナの体重が刃の柄にぜんぶ乗って、刺突がそのまま貫通の深さに達する。
ボスの巨体が、ゆっくりと光の粒になって霧散していった。
《4階フロアボス撃破。5階への通路が開放されました》
部屋の奥の壁が割れて、下り階段がのぞいた。
セナがレイピアを抜いたまま、こちらを振り返った。
息が少し上がっている。頬が上気していて、三角耳は前方に固定されたまま、戦闘の余韻でまだ角度が戻りきっていない。尻尾の先が、ほどけるように揺れ始めている。
「……勝ちました、です」
「です」が戻った瞬間に、戦闘スイッチが抜けていくのがわかる。
そして、セナが、笑った。
小さく、だけど確かに。
口角がほんの少しだけ上がっている。派手に破顔するでも、声を立てて笑うでもなかった。戦闘のあいだ緩まなかった頬の線が、ひとつぶんだけ柔らかくなった、という程度の笑い方だ。
三角耳がぴくぴく動き、尻尾がぱたぱたと左右に揺れている。動物のほうが、本人の笑顔の幅よりよほど雄弁に見える。
その笑いを見ていて、手が先に動いた。
気づいたときには、セナの頭にぽんと手を置いている。労いのつもりだ。長いプレイの区切りでパーティメンバーの頭を叩いたり肩を叩いたりする感覚の、ごく延長線のつもりでしかない。
セナが、固まった。
三角耳がピンと、真っ直ぐに立ち上がる。尻尾の毛がぶわっと膨らんで、付け根から先までひとまわり太くなった。頬が、耳の先まで真っ赤に染まっていく。視線が宙で行き場を失って、口が薄く開いたまま、言葉が出てこなくなっている。
「あ、悪い。つい——」
手を引いた。NPC相手でもプレイヤー相手でも、そもそも誰が相手でも、いきなり頭に手を置くのは自分の普段の距離感じゃない。戦闘の勢いのまま手が出ていた。
「……いえ、その……平気、です」
声が小さい。耳がまだ真っ赤で、視線が斜め下に落ちている。「平気」と言っているのに、尻尾の毛はまだ膨らんだままで、自己申告と身体の主張が一致していなかった。
短い間が落ちる。
俺のほうも、自分の手のひらに残った髪の感触の処理に困りかけた。戦闘の答え合わせに戻れば、いつもの距離感でまた喋れる。
「パターン通り。完璧だった」
「マスターの情報があったから、です」
セナが、ゆっくり息を整えながら返す。
「いや」
俺は首を振った。
「あの3巡目の離脱判断は俺の予兆より速かった。溜めのモーションの一瞬目で動けてた。自分の判断で動いてる」
セナの三角耳が、ピコッと一回だけ跳ねた。
褒められたときの耳だ。まだ真っ赤なままだったが、動物のほうだけが先に通常運転に戻り始めている。
情報を渡せば、セナの体は最適解を出し続ける——それは3階でわかった。今日わかったのはその次だ。情報の手前で、セナは自分の判断の速度をすでに持っている。俺の【予兆】は、最後のひと押しを担当していたに過ぎない。
階段の下り口に立つと、空気が変わるのがわかった。
4階までは、石の目地から滲む冷気の匂いがほとんどだった。5階の入り口は、それに加えて、もうひとつ別の空気層が降りてきている。湿度が一段高く、通路の先の気配が、ひとつではなく複数重なって届く。
敵シンボルが、すでに視界の奥に複数浮かんでいた。単体ではなく、ふたつ、みっつが近い距離でまとまっている。種類も違う。
4階までは敵のパターンが少なかった。同じ敵が何度も出て、同じ予告が流れて、同じ窓に刃を差し込めば終わる、という世界だった。でも——5階から先は違う空気がある。複数エンカウントが当たり前になりそうな気配があって、敵の種類も増えるだろう。
【予兆】が複数同時に走ったら、情報量を自分の側で処理しきれるか、怪しい。
記録データを呼び出して、既知パターンの数を数える。4階までで拾ったパターンは合計で二十数種にのぼっていた。これが倍、あるいはそれ以上になったら——予告は出るが、優先順位がつかない、という状態が起こりうる。
そうなったら、新しい合成を試す時だ。Lv2合成の素材は、もう揃っている。【記録】【校正】【装丁】【註釈】の四枚が手札に並んでいた。ランクアップで合成スロットが拡張されれば、三枚合成の枠も開く。熟練度は42/50まで来ていて、あと少しでカンストに届く圏内だった。
頭の中で、次の手札の組み立てを整える。
でも、今日はここまでにしよう。
「セナ、今日はここまでにする」
「はい、です。明日もよろしく、マスター」
セナの三角耳が、ゆっくりと元の角度に戻った。尻尾の揺れも落ち着いている。戦闘の余熱と、頭に手を置かれた動揺と、褒められた照れが、階段の前の冷たい空気で少しずつ中和されていくのが、動物のリアクションの順番でわかった。
5階の入り口で、ひとまず足を止める。
奥の通路から届く気配が、規則性を持たない形で重なって感じられる。明日、あの先に入っていく。その前に、手札をもう一度組み直す必要があった。
明日からは、別のゲームだ。
◇◇◇
5階に踏み込んだ瞬間、視界の端の予告表示がちらついた。
通路の先で、敵シンボルが三つまとめて浮かんでいる。距離にして十メートル、種類もばらばらだった。片手斧を握ったコボルド兵長、ひと回り大きいグレーウルフ、奥で杖を構えているコボルド術師。四階までは敵シンボルがひとつずつ現れて、ひとつずつ片付ければよかった。ここは違う。
「ん、マスター、三匹同時——です」
セナのレイピアがするりと鞘から抜け出ている。三角耳が前方に固定されたが、尻尾の先が細かく震えていた。集中モードに入ろうとして、何かに引っかかっている仕草だ。
【予兆】が仕事を始める。視界の正面に、予告の文字列が上から順に流れ落ちてきた。
《予告表示開始》
《次の行動予告:コボルド兵長——片手斧・袈裟打ち》
《次の行動予告:コボルド兵長——盾殴り》
《次の行動予告:コボルド兵長——後退ステップ》
《次の行動予告:グレーウルフ——飛びかかり》
《次の行動予告:グレーウルフ——牙薙ぎ》
《次の行動予告:グレーウルフ——背後回り込み》
《次の行動予告:コボルド術師——火弾》
《次の行動予告:コボルド術師——氷槍》
《次の行動予告:コボルド術師——後方詠唱ステップ》
止まらない。
四階までは観察済みパターンが合計二十数種だった。今この瞬間、画面に同時に流れているのが十種近い。三匹がそれぞれ三から五の行動パターンを持っていて、【予兆】は律儀に全部を並列で吐き出していた。
「マスター、情報が多すぎて、どれを見ればいいか……」
セナの声に戸惑いが混じる。戦闘スイッチが入ったのではない。判断に詰まっている方の抜け方だ。尻尾が震える角度が、いつもの集中のそれよりひとつ浅い。
俺も【索引】を走らせて、流れる予告のうち範囲攻撃だけを抽出しようとしたが、検索結果がぎっしり詰まったまま三秒経っても上位が出てこない。データ量に検索が追いつかない。
「——セナ、今は目の前の一匹だけ見ろ。グレーウルフが先に来る。飛びかかり」
「ん、了解、です」
声に出して誘導すれば、セナの体はちゃんと動く。レイピアの軌道が、予告の洪水を押しのけるように一本だけ引き抜かれて、飛びかかってきた狼の喉元に差し込まれる。狼が崩れる。続いてコボルド兵長の袈裟打ち——これも口頭で指示を出して、セナの側で処理させる。術師は俺が回り込んで【一筆】を当てた。詠唱中の硬直に差し込んだから、火弾は発動しきれなかった。
三匹撃破。長い戦いだった。
《Lv UP — Lv6》
《ステータス上昇——HP+2 STR+1 DEF+0 MAG+0 RES+1 AGI+0》
《職業熟練度+2(41/50)》
《スキル選択画面を開きます》
戦闘終了と同時に通知が降りてきた。HPとSTRとRESが伸びて、DEFとMAGとAGIがゼロ。ゼロが三つ並んだ。記録師の成長カーブは、見るたびに口の端が下がる。熟練度は41、あと一歩でランクアップ圏内にもう片足を突っ込んでいる。
ただ、通知より先に、自分の中で答え合わせを終えている感覚があった。
いま、俺たちが詰みかけたのは、敵が強かったからじゃない。自分のスキルが吐く情報量を、自分たちで捌けなかったからだ。喉の奥がまだ乾いている。
三枚のカードが浮かび上がる。
A枠——【照合】。青地の枠に固有の表記。詳細欄に「異なる記録を突き合わせ、差分を抽出する」とある。
B枠——【見切り】。灰色のラベル。次の一撃だけ回避率UP。コモン。
C枠——【付箋】。青地の枠に固有。対象にタグを貼る。タグは見えない。
今の課題は、新しい武器じゃない。情報の整理だ。
コモンは即却下する。【予兆】で三手先が読めるパーティに一撃ぶんの回避補助は、手札の厚みを増やさない。【見切り】よ、また会おう。
固有二択になった。【付箋】も惹かれる。タグを貼るというのは優先度を付与する挙動に転用できる匂いがして、あとで効く手だ。ただ、今この瞬間、視界にあの洪水を流し込まないための道具はどっちか、と問い直すと、答えはひとつしかない。
【照合】だ。記録同士を突き合わせて差分を抜き出すスキル。過去のログと今のログを比較して、変わった部分だけを残せる。
A枠に指を伸ばす。カードが砕けて、光の粒がスキルスロットに吸い込まれていった。
《スキル取得——【照合】》
「【照合】にした。合成は試さない」
「ん、じゃあ、どうするんですか、です?」
セナの三角耳がぴくっと持ち上がった。好奇の方の耳だ。尻尾の震えは、さっきよりは収まっている。
「——使い方を変える」
【記録】【索引】【照合】。手持ちの三枚をどう連動させるかを、頭の中でつなぎ直す。
【予兆】が吐く予告は、敵の全行動パターンをそのまま羅列するだけだ。そのまま全部を【装丁+】でセナの視界に流せば、さっきの洪水になる。でも、間に【照合】を噛ませたら——過去の記録と今の敵の動きを突き合わせて、パターン通りの動きは弾いて、いつもと違う動きをした瞬間の予告だけを残せる。
つまり、「次に何をするか」じゃなく、「いつもと違う動きをした瞬間」だけを通知にする。
【索引】で予告をパターンIDごとに並べ替えて、【照合】で直近ログとの差分を取って、差分が出たものだけを【装丁+】に流す。運用の組み替えだけだ。新しい合成は試していない。既存スキルの配線を変えただけで、扱う情報量の質が入れ替わる。
「【装丁+】に流す予告を絞り込む。いつも通りの動きは出さない。いつもと違う動きをした瞬間だけ、セナの視界に落とす」
「ん、……それだけ、ですか」
「それだけで足りるはずだ」
セナがまばたきをして、尻尾の先を小さく揺らした。
「——すっきりしました、です。これなら読めます」
三角耳の角度が戻っている。震えの取れた尻尾が、後ろで軽く左右に揺れた。
通路の先から、別の敵影が出てきた。
Lv7、オーガ・ヴァンガード。一体だが、大きい。四階フロアボスよりまだ上だ。肩から腰まで黒い鉄の鎧を巻きつけていて、右手には俺の胴ほどの太さの木の幹を削り出したらしい大槌を下げている。周囲には雑魚シンボルがいない。単独で通路をふさぐ形で立っていた。
出た。壁際にへたり込んでいた他パーティが噂していたやつだ。『パターンが多くて対応しきれない』『複数エンカに連動されるとキツい』。伝聞の情報は【予兆】には乗らない。が、覚悟の目安にはなる。
「マスター、格上、です」
「ああ。でも大丈夫。いまの配線なら読める」
オーガが動いた。
【予兆】が走る。視界の予告——ではなく、【照合】を挟んだフィルタリング後の表示が、すっきりと差分だけを落としてきた。
《差分検知:大槌・右袈裟打ち——予備動作(新規パターン)》
新規。つまり、いつもの動きじゃない。セナの視界にも同じ差分だけが流れているはずだ。
「右、来る」
セナはもう動いていた。レイピアの踏み込みが、軸足の石畳を小さく鳴らして、オーガの懐の斜め内側に流れ込む。大槌が振り下ろされた風圧がセナの背後の石壁に当たって、粉が舞い上がった。振り下ろしの硬直の窓に、刃先が鎧の合わせ目、脇の下の継ぎ目に差し込まれる。
普段のオーガなら続けて盾で殴りに来るはずが、と、視界の差分が続きを落とす。
《差分検知:鎧肩当て——前傾タックル(新規パターン)》
「下、肩タックル」
セナが沈み込んだ。オーガの肩が頭上を削る角度で通り抜けていく。鎧の肩当てがセナの三角耳のすぐ上を空振りして、そのまま壁に突き刺さった。
——抜けない。
鎧の肩当てが壁に刺さったまま、オーガの上半身が固定されている。差分検知は出ていない。つまり、ここから先はいつも通りの「振りほどき」に入る動作で、予告としては流れない。セナも俺も、それが見えていた。
セナのレイピアの二撃目が、喉の下、鎖骨のすぐ上の隙間に差し込まれた。
一拍。オーガが、ゆっくりと膝から崩れた。
《フロア敵撃破》
《職業熟練度+7(48/50)》
巨体が光の粒になって、通路に広がる。
48/50。あとひとつ。熟練度カンストが視界の端で文字を明滅させている。
新しいスキルは、取ったには取ったが、合成には使っていない。【見切り】も【付箋】もまだ手札にない。既存の三枚の配線を変えただけで、さっきまで視界を洪水にしていた情報量が、差分通知だけに圧縮された。
組み合わせの深さは、まだ底が見えない。ひとりでそう呟きかけて、口のなかに留めておいた。言葉に出すほど整理できた話でもない。
「マスター、いまの、楽勝、でした」
セナの尻尾が後ろでゆったりと左右に揺れている。耳はぺたんと寝て、満足の仕草だ。
「ああ。この情報量を捌く手段がなきゃ、ここから先は無理だ。——たぶん、この運用ができるのは俺たちだけだ」
「セナたちだけ、ですか」
「たぶんな」
通路の奥、五階の最終区画に至る階段口の先に、下りの通路がもう一段続いているのが見えた。六階に繋がる道だ。他パーティは、ここを越えられないでUターンしている。
足を踏み入れた瞬間、肌の表面の温度がひとつぶん、下がった。
五階の通路は石の継ぎ目から青い微光が滲んでいた。六階は、それがない。通路全体が、暗い。光源が途切れていて、先がよく見えない。
そして、静かだ。
五階の通路は敵シンボルが常時いくつか浮かんでいた。ここは、視界の奥まで、ひとつも浮かんでいない。
「マスター、空気が……重い、です」
セナの尻尾が、ぶわっと膨らんだ。耳が前方にぴんと立ち上がって、全身の毛がうっすら逆立つような警戒モードに入っている。動物リアクションの辞書で、驚きでも集中でもない、純粋な警戒の角度だ。
【予兆】を走らせた。
予告が、ほとんど落ちてこない。敵の観察ログがそもそも存在しないから当然だが、それにしても、周囲に動く気配が薄すぎる。
「敵が、いない……?」
言ってから、言い直す。
「いや——隠れてる、のか」
通路の左側、石壁の表面に、文字が刻まれていた。他プレイヤーが残したメモ板だ。
《黒兜PT、この先で全滅》
その下に、別の筆跡で追記がある。
《七階のアレに注意。六階で削られたら、七階で立てない》
さらにもう一言、より新しい筆跡で、短く。
《気配のない相手がいる。気づいたら背後》
気配がない、か。
【予兆】は観察済みの行動パターンにしか反応しない。仕組み上、そもそも接敵する前の「気配」は扱わない領域だ。他のパーティが気配で察していたものが消えるなら、俺の手札の入り口にも入ってこない。観察できなければ、予告も組み立てられない。どちらから見ても、前提が崩れる話だった。
六階の通路の奥、暗がりの向こうから、こちらに風が吹いてきた。
重い。押し返してくる方向の風だ。湿度はないのに、肌に圧が残る。
「……六階は、様子がおかしい」
セナの尻尾の毛は膨らんだままだった。俺の声に、うなずきが返る気配だけがあって、言葉が返ってこない。ここで返事を強いるのは違う、と思って、俺も口を閉じた。
さっき、壁を越えたばかりだった。新しいスキルが無くても勝てる、と胸のどこかで呟いた直後に、これだ。
油断は、できないな。
六階の暗がりに、もう一歩だけ、足を踏み入れる。
セナの尻尾の先が、俺の一歩後ろで、ぴたりと真っ直ぐに伸びた。
◇◇◇
六階の通路は、光よりも先に音を失った場所だった。
石壁に埋め込まれた青い結晶は五階の半分以下の間隔で途切れていて、次の光源までの距離が伸びると、通路全体がいったん闇に沈んだ。自分の足音が戻ってこない。普段なら石畳の継ぎ目で跳ね返ってくるはずの反響が、黒い綿に吸い込まれるように消える。空気の温度が二段下がって、吸い込んだ息が肺のどこかに重りとして引っかかった。
セナの三角耳はずっと伏せたままだった。尻尾の毛は膨らみきる手前で止まっていて、先端だけが小刻みに左右に動いている。警戒の角度が、五階から連続して抜けていない。
敵は、出ない。
十メートル進んでも、二十メートル進んでも、視界の敵シンボルはひとつも浮かばなかった。代わりにメモ板の書き置きだけが増えていく。歩くたびに左右のメモ板が流れていった。
《剣豪とゆかいな仲間たちPT、第二通路で全滅》
《四人PT、全員デスワープ。救援不可》
《蜘蛛型、糸の網に注意。網に触れたら抜けられない》
最後の一枚の前で、俺は足を止めた。
蜘蛛型、糸の網。形状が書いてある。つまり誰かが一瞬でも目視まで至っていて、帰ってはこられなかった——までは読める書き置きだった。接触条件も限定的で、範囲妨害型の可能性が高い。観察ログに落とせる種類の手がかりが、ここに来て初めて混ざった。
「マスター、この先、嫌な感じがする、です」
セナの声が、遅れた。
「情報が少ないのが逆に怖いな。こっちが記録しようにも、相手がいない」
言い終わる前に、通路の右手奥に敵シンボルが一つ浮かび上がった。
Lv7、シャドウ・クロウラー。四本足の、黒曜石の殻をまとった蜘蛛型のエネミーだ。図体は俺の胸の高さまであって、六本の節足が石畳を舐めるように動いている。眼球らしき器官が頭部の左右に三つずつ、合計六つ並んでいた。ステータスだけで言えば五階の格上に近い。ただ、単独で出てきたことと、視界を埋めていた沈黙の末にひとつだけ現れた、という出方の方が気味が悪かった。
「ん、来ます」
セナの語尾から「です」が抜けた。戦闘スイッチ。
予告は、出ない。観察ログにまだ存在しない敵に、【予兆】は仕事ができない。代わりに【照合】の差分フィルタが、ログ不在そのものを異常として拾って、警告だけを視界に叩き出した。
《警告:未観測パターン検知——側頭部発光・前方噴射》
セナの視界にも同じ警告が流れていた。彼女の踏み込みが遅れて、その分だけ横にずれた。俺の右肩の脇を黒い糸の束が通り抜けていって、背後の石壁に音もなく張り付いた。糸が壁の表面で広がって、小さな六角形の網になる。範囲妨害。初見。
「セナ、網は後回し。本体の脚、右の二本目」
「——っ」
セナのレイピアが、鞘から抜け切らないままの角度で横に滑り出た。差し込みが黒曜石の節足の継ぎ目に入る。脚が砕けて、クロウラーの図体が右に傾いだ。傾いだ先の眼球三つが俺に向く。が、姿勢が崩れている側の視野には糸を撃てる器官がない。
【一筆】を額の中央、六つの眼球の交差点に当てた。固定一ダメージ。当たった場所が正しければ、これで硬直が一拍伸びる。伸びた硬直に、セナの二撃目が胸部の合わせ目に差し込まれた。
クロウラーが音もなく崩れて、光の粒に変わる。
《Lv UP — Lv7》
《ステータス上昇——HP+2 STR+0 DEF+1 MAG+0 RES+0 AGI+1》
《職業熟練度カンスト——記録師:ランク2へ昇格》
《合成スロット拡張:左右2枠 → 3枠》
《ガチャプール拡張:固有スキル候補が追加されました》
《スキル選択画面を開きます》
通知が一気に視界へ降ってきた。
HPと防御と敏捷が上がって、攻撃と魔力と抵抗がゼロ。記録師の成長カーブは今日も口の端を下げに来る。が、それよりも——
職業熟練度カンスト。ランク2へ昇格。
「……ランクアップ。ポコが最初に言ってたやつか」
タヌキのマスコットが浮かびながら「ランクアップで強くなるのだ」と軽く言ったあの一言が、今になって実装された形で視界に降りている。
合成スロットが、三枠に拡張された。
左右二枠だった合成ウィンドウに、中央の枠が増える。つまり三枚合成——これまで二枚でしか組めなかったレシピの探索空間が、一段分、縦に伸びる。掛け算で増えた手札の組み合わせを頭の中で見渡しただけで、まだ試していない合成が十通り以上、候補として浮き上がった。
さらに、ガチャプール拡張。三択画面に出る固有スキルの候補が新しく足される。ランク1の頃には絶対に出てこなかったスキルが、次の三択から混ざり始める。
「マスター、どうしたんですか」
「——記録師がランク2に上がった。合成スロットが三枠になって、三枚合成が試せる。それとガチャプールが拡張された」
「三枚、ですか」
セナの三角耳がぴくっと持ち上がった。警戒の角度がわずかに抜けて、好奇の方に傾いている。尻尾の毛は膨らんだままだが、先端の震えは止まっていた。
視界の中央で、三枚のカードが浮かび上がる。
A枠。【強打】。灰色のラベルに「コモン」の文字。攻撃力一.五倍。詳細欄に《※コモンスキルは合成素材として使用不可》。
もう何度目かになる再会だった。コモンの合成不可ルールはランク2でも変わらない。視線を落とすまでもなく却下する。
B枠。【註釈】。青地の枠に「固有」。記録に注釈と補足を付け加える編集系のスキル。既に一枚手持ちにある種類で、詳細欄に追記が出ていた。
《※同種スキル所持時、合成により進化可能》
【装丁】を二枚重ねて【装丁+】に進化させたときと同じ表記だ。つまり二枚目を取れば進化ルートが開く。
C枠。【目録】。青地の枠に「固有」。手持ちスキルの目次を生成して構造を可視化する表示系——の、初見スキル。ランク1の三択では顔を出さなかった枠だ。ガチャプール拡張で新しく混ざってきた候補だ。
息を漏らした。
新規追加のスキルが、ランクアップ直後の三択にいきなり出てくる。【目録】は合成素材として面白い匂いもあった。自分の手持ちの構造を可視化できるなら、レシピ探索の効率が変わる。
惹かれた。
が、今やりたいことは別にある。合成スロットが三枠になった直後だ。試したいのは三枚合成。手持ちの中で最も拡張余地があるのは【予兆】系で、【註釈】がもう一枚あれば、【予兆】+【註釈】+【註釈】の三枚を同時にセットできる。進化ではなく合成の素材として【註釈】を二枚使う。
【目録】は、次のガチャで再登場する可能性が残っている。三枚合成の検証機会は今しかない。
C枠から指を引いて、B枠に触れた。
カードが砕けて、光の粒がスキルスロットに吸い込まれていく。
《スキル取得——【註釈】》
セーフルームは、その先のゆるい下り坂の途中にあった。
壁に埋め込まれた青い結晶が淡く光っていて、敵シンボルがひとつも浮かばない安全地帯。石のベンチが通路の両脇に二つ並んでいて、表面が微かに冷たい。セナがベンチの端に腰を下ろして、尻尾を膝の横に巻きつけた。俺はその正面に立って、合成ウィンドウを開いた。
「左、中、右の三スロット……」
指先で【予兆】のアイコンを掴んで、左にドラッグした。続いて【註釈】の一枚目を中央に、【註釈】の二枚目を右に。三つのアイコンが三角形の底辺に並んで、中心で青い光が微かに脈打ち始めた。
「気になる、です」
セナが覗き込んでくる。尻尾の巻きつけが緩んで、先端が床に触れるかどうかの高さまで伸びた。
「ランク2の特権だ。使わない手はない」
「マスター、の、顔が、ちょっと」
「顔?」
「……楽しそう、です」
セナが小さく言って、耳の角度を一段戻した。
指摘されて初めて、自分の口角が上がっていることに気づいた。脳が全開で回っているときの癖だ。否定する理由もないので、そのままにして実行ボタンを押す。
三つのアイコンが、中心に向かって収束した。
白い光が、弾けた。
二枚合成のときより明らかに大きい。視界の中央で光の粒が外側に広がっていって、通常なら一拍で収束する閃光が二拍、三拍と残る。セーフルームの青い結晶の光まで押し流されて、セナの銀髪がその白さの中で輪郭だけになった。
息を、呑んだ。
《Lv2L3合成——【集団予兆】》
《【集団予兆】——観察した範囲内の全エネミーの行動を同時に予測。各個体の差分を自動分類する》
ゆっくり、息を吐いた。
範囲内の全エネミー。同時予測。各個体の差分を自動分類。説明文を三回読み直して、一回ごとに使い道が三つずつ浮かんだ。
【予兆】単体は、観察した敵の行動パターンを一体ずつ予告する。だから一対一なら十分だった。ただ、複数体戦や、本体に護衛が付いている混成だと、人間の側の処理が追いつかなくなる。五階で視界を埋めた情報の洪水は、この処理落ちが表に出た形だった。
【集団予兆】は、その一段上に行く。複数の敵を同時に読めて、個体ごとの差分をシステム側が勝手に分類してくれる。つまり、何体いようと、視界に出てくるのは「注目すべき変化」だけになる。
「これ……複数の敵を同時に読めるってことだ」
「同時、ですか」
「一対一なら【予兆】で間に合ってた。でも集団戦、特にボスと雑魚の混成——これがあれば同時に読める。雑魚の動きを俺が読んで回避ルートを出しながら、セナは本体だけに集中できる」
セナの三角耳が、ぴたりと前を向いた。集中の角度だ。戦闘スイッチの前段階。
「マスター、試したい、です?」
「試したい。合成できたばっかりのスキルは、現場で動かさないと本物にならない」
七階に繋がる階段は、セーフルームから十歩ほどの距離にあった。
下り口の先で、空気が一段重くなる。六階より光が遠い。通路そのものがいったん広場状に開けていて、その先にホールらしい大空間の輪郭がぼんやりと浮かんでいた。奥に、巨大な気配。周囲に、小さな気配が複数。
ホールの入口の手前、物陰に身を入れて、【集団予兆】を起動した。
視界が白く明滅して、落ち着く。
中央に、大型個体の行動予告が並んだ。左右に細い列で、小型個体の予告がそれぞれ走っている。【集団予兆】の差分分類が働いて、同系統の予告が同じ色でグルーピングされた状態で流れてくる。情報量は多い。多いが、洪水ではない。処理できる形に圧縮されている。
大型個体の方を目で追った。
最初に見えたのは、両手の鎌だった。右薙ぎ、左突き、胸前で交差させる構え。三つの型が続けざまに繰り出される。鎌が下ろされたあとは尾部が鞭のように走って、翼が広がれば風圧が範囲に変わる。そこに分身が割り込んで、足元から毒霧が噴き上がる。
一巡を見届けたところで、視界の端に観察ログが縦に並んだ。
十を超えている。
これまでの敵は、多くても五種か六種で、分岐も一段だった。桁が違う。
「……パターン十を超えます、です」
セナの声も、同じものを見ていた。
視界の端、大型個体の周囲に小型個体が四つ。前方二体、左右に一体ずつ、奥が本体。四体が連動して本体を守っている。本来なら、すべての動きが視界を埋め尽くして、どこを見ればいいか分からなくなる場面だった。
それが、起きていない。
【集団予兆】が差分だけを抽出してくるから、視界の大半は静かなままだった。
雑魚と本体を、同時に読めている。
【予兆】単体の頃なら、どちらか一方に絞るしかなかった。
【集団予兆】なら、その穴が埋まる。
「セナ、雑魚四体と本体、同時に読めてる」
「ん、セナの視界にも、流れてます……違う色で」
「色分けか。差分分類の副産物だな」
視界のログが、音もなく更新を続けている。本体の十二パターンと、雑魚四体の十二パターン。合計二十四。これまでの最大観察パターン数を、一戦も交えないうちに超えた。
行ける。
頭の中で、そう呟きそうになった。
呟きかけて、飲み込んだ。
「セナ、一回下がる」
セナの尻尾の先が、ぴくっと動いた。
「……攻めないんですか?」
声の端に、わずかな硬さが混じった。耳の角度が一段下がる。少し悔しがっている方の仕草だ。戦闘スイッチの前まで入っていた集中が、ぶつけ先を失って宙に浮いている。
「データが足りない。もう少し記録を溜めてから仕掛ける」
「でも、マスター、読めてる、です」
「読めてる。だからこそだ」
物陰から一歩だけ退いて、セナの方に向き直った。
「二十四種のパターンが見えてる。でも派生の分岐は、一巡目じゃ全部は拾えない。【集団予兆】の差分分類も、観察ログが厚くなるほど精度が上がる仕様のはずだ。今仕掛けて七割で勝てるのと、一回戻って九割九分で勝てるのと、選べるなら後者を選ぶ」
「……慎重、です」
「慎重なんじゃない。勝ち確にしてから行きたいだけだ」
「……わかりました、です。マスターの判断を、セナは信じる、です」
戻りの足取りは、行きより早かった。
セーフルームまで戻って、俺は石のベンチに腰を下ろした。合成ウィンドウを閉じて、【索引】で【集団予兆】のログを呼び出す。観察できた二十四パターンの一覧が、縦にずらりと並んだ。
「護衛四体と本体。本体のパターンは十二。雑魚は一体三種で四体分、合計十二。足して二十四」
「多い、です」
「多い。でも、同時に読めるなら多くても関係ない。これまで俺たちが詰みそうになったのは、情報量の処理が追いつかない時だった。スキルが足を引っ張るか、逆に整理してくれるかで、同じ敵が別の敵になる」
「六階の入口で、マスターがやったやつ、ですか」
「あれは配線の組み替えで整理した。今回はスキル側が自動でやってくれる」
セナの尻尾が、ベンチの縁でゆっくり左右に振れた。納得の仕草だ。
セーフルームのメモ板に、別の書き置きが刻まれていた。六階に入ってからよりも新しい筆跡。
《七階中ボス、三PTが挑んで全滅。パターン変化が読めない》
読んでから、目を閉じた。
パターン変化が読めない。他のパーティにとってはそうだろう。人間の記憶で十二パターンを覚えて、さらに派生の分岐を追って、そこに護衛四体の動きまで重ねる——それは、処理しきれないのが普通だ。全滅して戻って、覚え直そうとしても、次の挑戦で派生がずれて、また全滅する。
でも、俺たちは、違う。
システム側がパターンを保持している。差分だけを抽出している。暗記の必要がない。処理の限界は、人間の記憶じゃなくて、反応速度だけに絞られる。セナの反応速度は、四階のフロアボス戦で俺の予兆より速く離脱判断を出したのを、俺は覚えている。
目を開けた。
セナが、こちらを見ていた。
「明日、仕掛ける。中ボスのパターン十二種。護衛の雑魚が四体。俺が雑魚の動きを同時に読んで回避ルートを出し続ける。セナが本体を斬る」
「ん、了解です」
「今日はもう一巡、遠くから観察だけして戻る。二巡すれば派生の分岐も大体見えるはずだ」
セナが、ゆっくりと頷いた。
尻尾の先が、ベンチの表面を軽く叩いた。満足の方ではなく、準備の方の仕草だった。
——中ボスは、他PT全滅の噂。
でも、俺たちには読める。
◇◇◇
セーフルームの青い結晶の光が、石の床に長い影を落としていた。
昨晩、7階のセーフルームで一度ログアウトして、現実の部屋で数時間眠った。朝起きてもう一度ヘッドセットを装着すると、視界はセーブ地点の結晶の前に滑り込むように戻って、空気の温度だけが昨夜より一段低く感じられた。復帰判定のコンマ数秒で耳の奥に軽い圧が残る。
石のベンチでセナが待っていた。NPCはプレイヤーのログアウト中も世界に留まる仕様で、長い耳の先がこちらの復帰音を拾って先に動いた。尻尾がベンチの縁でゆっくり跳ねる。
「おはようございます、マスター」
「ああ。昨日の続きだ」
【索引】を叩いて、昨日の偵察ログを呼び出した。中ボスの行動パターン十二種と、護衛四体分の十二種。観察済みの二十四種が縦に並んで、派生の分岐が色分けされた枝になっている。データはしっかり残っていて、頭の中の作戦も消えていない。
中ボスホールの手前、最後の雑魚エリアを抜けるだけでいい。
通路の奥から、鎧蜘蛛が一体転がり出てきた。7階の雑魚、Lv9。昨日までなら少し警戒する個体だが、【集団予兆】が起動した時点で十二種の行動ログが視界にすでに流れている。観察二巡目に入った直後から差分分類が働き始めていて、予告の順番が自動で並ぶ。
セナの踏み込みは、予告の次の候補が出るより早かった。
「——脚、二本目」
レイピアの切っ先が黒曜石の節足の継ぎ目を抜けて、蜘蛛が音もなく光の粒に崩れた。
《Lv UP — Lv8》
《ステータス上昇——HP+1 STR+1 DEF+0 MAG+0 RES+1 AGI+1》
《職業熟練度+2(2/100)》
《スキル選択画面を開きます》
通知が縦に積まれて視界を流れた。
ゼロがひとつ混じる上昇値。記録師のいつもの顔ぶれで、今日も文句は言えない。カンストしたばかりのランク2熟練度ゲージが、上限100のうちの2だけ新しく埋まっていた。ランク2に入ると格上級を倒しても熟練度の入りが重くなる。実感通りの重さだ。
三枚のカードが視界の中央で浮かび上がった。半透明の青い光を纏って、ゆっくり回転している。
A枠は青地の固有ラベルで、【付箋】。対象にタグを貼るスキルで、タグそのものは視界に見えず、組織系と注記されている。
B枠は灰色のコモンラベル。【硬化】——被ダメージ固定値3軽減。
C枠は再び青地の固有ラベル。【目録】——手持ちスキルの目次を生成して、構造を可視化する表示系。
コモンは見るまでもなく切った。合成不可の評価は階層が上がっても変わらない。
残りの二枚。
【目録】は前のガチャでも惹かれた札だ。ただ、この直後に控えているのは護衛雑魚四体と本体の混成戦で、【集団予兆】だけでは指揮の精度が数パーセント削れる穴が残っている。俯瞰より、今は穴埋めのほうだ。
【付箋】なら、対象にタグを貼って可視化できるだろう。雑魚四体に優先度タグを振って、【集団予兆】の差分分類と重ね合わせれば、セナの視界に「次に処理すべき個体」だけが流れる。口頭で「次はこいつ」と言う必要がなくなる。
A枠に触れた。カードが砕けて、光の粒がスキルスロットに吸い込まれていく。
《スキル取得——【付箋】》
セナが隣から覗き込んできた。尻尾の先がベンチの縁からひと呼吸分浮いている。
「何を、取ったんですか」
「【付箋】。雑魚四体に番号タグを振る。タグの数字が小さい順に斬れ」
「……了解、です」
セナの三角耳がぴんと前方に立って固定された。戦闘準備の動物リアクション——耳の角度が常時の集中位置に入って、尻尾の毛がほどけて真っ直ぐ下に落ちる。
ホール入口までの短い回廊を、二人で歩いた。
入口の石枠をくぐった瞬間、空気が反転した。
天井が一気に十メートル分せり上がって、床の石畳の繋ぎ目から青白い粉塵が噴き上がる。中央の大型個体——マンティスキング、Lv10。両腕の鎌が青黒く光っていて、尾部から毒針の先端が覗いている。周囲に護衛雑魚四体。ゴブリンアーチャー、インプ、大盾持ちの重装、槍持ちの斥候。菱形の配置で本体を守っている。
【集団予兆】が起動して、五体分の行動パターンが視界に同時に展開された。本体の十二種が中央、護衛四体の十二種が左右に色分けで流れる。【装丁+】がセナの視界に同じ情報を同期して、【照合】が差分だけをフィルタした。
指を振って、【付箋】を四体に投げた。
ゴブリンアーチャーから順に、1、2、3、4——と番号を投げ付けていく。タグそのものは姿を変えず、目に見える色も付かない。ただ【装丁+】経由で、セナの視界の端に「次処理:1」の表示だけがそっと浮かぶ。
「1から。1落としたら2、そのあとに3、4」
「行きます」
セナが踏み込んだ。
1番タグのゴブリンアーチャーが矢をつがえる動作に入った瞬間、レイピアの切っ先が肘の内側から喉元まで一直線に走り抜けた。矢が地面に転がる前に個体が光の粒に崩れる。
視界の端の指示が「次処理:2」に切り替わった。
2番タグのインプは詠唱に入っていた。セナが身体を捻って距離を詰める動作と、【集団予兆】の予告が重なって、詠唱完成の二拍前にレイピアが胸の中心を貫通する。インプが消滅。
「次処理:3」。
3番タグの大盾持ちが前に出る瞬間と、4番タグの槍持ちが突き出す瞬間が、【集団予兆】の連動予告として同時に視界に並んだ。セナは大盾の横を擦り抜けながら、突き出される槍の軌道を紙一重でかわして、返す刃で大盾の脇腹に刺突を入れる。大盾持ちが崩れる。
「次処理:4」。
槍持ちが槍を引いて構え直そうとした。【照合】がその引き動作を「いつもと違う後退」として差分抽出した瞬間、セナはすでに踏み込みの体勢に入っていて、レイピアが槍の柄を弾きながら胴体まで一直線に伸びた。四体目が倒れる。
護衛全滅まで、およそ四秒。
マンティスキングの右鎌が、頭上から振り下ろされた。
《次の行動予告:パターン3・両鎌クロス》
セナは最初の予告が出た時点で斜め後方に跳んでいて、両鎌が空中でクロスする位置から既に外れていた。着地の勢いでレイピアが鎌の付け根に走るが、尾部が鞭のように振られる予告が二拍目として流れてきて、セナは軌道を読んで半歩だけ下がる。
中ボスの両鎌が赤く光り始めた。昨日の偵察では見えなかったフェイズだ。
《警告:未観測パターン検知》
【集団予兆】は予告を組み立てられず、警告だけが視界を走った。
「一巡だけ見る。予告なし、視覚で避けろ」
「はい、です」
両鎌の連続振り、尾部連射、飛翔突進。
セナは連続振りの隙間を身体の捻りで抜けて、尾部連射に対しては壁を一度蹴って垂直に跳躍した。飛翔突進の着地点には既に側面から回り込んでいる。その一巡の間に、【記録】が勝手に新しいパターンをログに積み直していた。
中ボスの胸鎧が無防備に晒された瞬間、全身のバネを使った渾身の刺突が中心の核まで一直線に到達した。
「——貫く」
マンティスキングの巨体が大きく震えて、崩れ落ちた。
《7階中ボス撃破。8階への通路が開放されました》
ホールの外に出た通路で、二人のプレイヤーが足を止めていた。
一人は背の高い女剣士。大盾を背負って重鎧を身につけている、見るからに前衛盾系の装備。もう一人は軽装の革鎧に短弓を抱えた弓使いで、耳にかけた髪の先が若干跳ねていた。中ボスエリアの入口手前で、二人そろって一歩を踏み出せずにいた気配が、装備の汚れ方と視線の位置から透けて見える。
俺とセナが通路から出てきた瞬間、二人が同時に動きを止めた。
「——え、出てきた。2人で? うそ」
弓使いの方が目を丸くして、構えていた矢を取り落としそうになっている。
「……倒したの。あの中ボスを」
盾剣士の方は落ち着いた声で、芯にわずかな掠れが滲んでいる。
「ああ。なんとか」
声を高くする理由もないので、そのまま返す。
「職業、何?」
盾剣士が問いを重ねてくる。
「記録師」
弓使いが声を上げる。
「記録師って……あのクズ職って噂になってる、あの?」
「……冗談でしょ」
盾剣士が呟いて、視線がセナのレイピアと軽装に落ちてから、俺の方に戻ってくる。口元が軽く開いて、そのまま閉じる。馬鹿にする気配は最後まで出てこない。そこにあるのは、辻褄を合わせようとして合わせきれない困惑と、合わない辻褄の奥に残る別種の硬さだけだ。
セナの三角耳がピクッと動いた。
尻尾の先が、ほんの少しだけ低く沈む。
「……邪魔したわね」
盾剣士がそう言って、一歩下がる。
「す、すごいね……記録師」
弓使いがしどろもどろに続けて、二人は中ボスエリアの入口から離れていく。背中が通路の角を曲がるまで、振り返る動作はなかった。
俺はその背中を見送ってから、8階への通路に向き直った。すでに頭の中では8階のレベル帯と出現予想の整理が半分始まっていて、他パーティの反応を噛み締めている暇はない。
セナが横で、何かを言いかけて飲み込んだ気配があった。
通路を十歩ほど進んだところで、その気配が言葉になった。
「……マスター」
「ん?」
「さっき、あの人たちが、クズ職業って言った時——」
セナの声がそこで止まった。三角耳が伏せ気味に寝て、尻尾の先が床に触れるか触れないかの高さで小さく震えている。レイピアを握る指に、無自覚らしい力が入っていた。
「少し、腹が立った、です」
静かな声だった。
「気にしなくていいよ。事実だし」
普通の温度で返した。クズ職業の評価は最初から変わらないし、俺自身が一番よく分かっている。その前提の上で【集団予兆】が回っていて、セナの剣が当たり前のように届いている、という話でしかなかった。
「事実じゃない、です。マスターの職業は——」
セナが言葉を続けかけて、止めた。
途中で止まった言葉の行き先が、耳の方に現れた。三角耳の内側が薄く赤く染まって、尻尾がぐるっと不規則に動いてから、伏せ耳の位置に戻る。視線が俺の顔の少し下あたりで迷って、そのまま足元に落ちた。
俺はセナの言いかけた言葉を待たずに、歩き出した。
「さ、通路に出よう」
「……はい」
歩きながら、手持ちを頭の中で並べた。
【記録】。【索引】。【一筆】。【校正】。【装丁+】。【註釈】。【照合】。【付箋】。【予兆】。【集団予兆】。
十個。合成スロットが三枠に拡張された今、組み合わせの総数は二枚合成と三枚合成の掛け算で指数的に増えていて、まだ試していないレシピが複数残っている。大ボスまで残り三階、手札の形はまだ変えられる。
【一筆】。
1ダメージの通常攻撃。スケーリング対応の注記は付いているが、十階まで残り三階で、1が十にも百にも化ける場面があるのか、ゲーマー脳の中でも答えがまだ出ていない。
こいつだけ、まだ使い道が見えない。
——まあ、今はいい。
8階への通路が前方に口を開けていて、空気の重さが一段増していた。
中ボスを抜けた後の回廊は、敵シンボルが視界に浮かんでこなかった。通路そのものが長く、壁の結晶の間隔が六階の終盤より戻っていて、光の粒が規則的に床を撫でている。雑魚エリアを抜けるまでの移動時間が読める区間で、気配の薄さがそのまま体感の休息になった。
セナが横目で俺を見て、尻尾をゆっくり真っ直ぐに戻した。三角耳の角度も警戒の位置まで戻り切っている。赤みは、もう耳のどこにも残っていなかった。
回廊の中ほどで、足を止めた。8階の雑魚エリアに踏み込む前に、切り上げるならここだ。
「今日はここまでにしよう。8階は明日だ」
「はい、です。お待ちしてます、マスター」
セナの尻尾の先が、別れの前のひと振りだけ軽く揺れた。
ログアウトメニューを開く。視界の中央に現れた青白いパネルに指を当てて、「ログアウト」の文字を押し込んだ。
世界が内側から暗転して、ヘッドセットの内側の重みが戻ってくる。
ヘッドセットを外すと、部屋の蛍光灯の白さが一段明るく感じられた。机の端に置いたペットボトルの表面に水滴がついていて、手の中でキャップを開けると炭酸が抜けた生ぬるい甘さが喉を通る。椅子の背もたれに体重を預けて、天井の電灯の傘をぼんやり見上げた。
【一筆】の使い道。
残り二レベル分の三択で、何が来るか。
天井の白い光が、手の中のペットボトルの表面に小さく反射していた。
◇◇◇
8階の通路は天井が低く、結晶の間隔が広い。光の粒が足元をまばらに撫でるだけで、空気がひと段分重くなっている。
雑魚のシャドウウルフが三体一組で跳んできたとき、セナは俺の口頭指示を待たなかった。
「1、右回り。2、左切り返し。3、喉」
【付箋】で番号を振った瞬間、視界の端に並んだタグの数字をなぞるようにレイピアが走って、三体の黒い輪郭が順番に光の粒へ崩れた。決着までに体感でおよそ八秒しか掛かっておらず、【集団予兆】の予告が次の候補に切り替わるより早く処理が終わって、熟練度の加算通知だけが視界に流れていく。
8階のフロアボスは、階層のサイズの割に素直な個体だった。巨大なトカゲ型で、尾の振りと舌の射出の二系統しか持たない。【予兆】の一巡目で両方のパターンを拾って、二巡目から予告を流し始めたら、セナの刺突が的確に関節を抜いて終わっていた。
《8階フロアボス撃破。9階への通路が開放されました》
《職業熟練度+8(18/100)》
9階はさらに単純な一本道で、設計者の意図が露骨に透けている。10階の大ボスに尺を寄せるための中間フロア、と頭の片隅が苦笑交じりに答え合わせをした。
9階の最奥、セーフルーム直前の小部屋で、最後の雑魚が一体だけ湧いた。金属装甲のスカラベ、Lv12。少し格上の個体だが、観察済みのパターン系統にきれいに収まっている。
セナの切っ先が腹の継ぎ目を抜けた瞬間、スカラベが光の粒に解けて、通知が縦に積まれた。
《Lv UP — Lv9》
《ステータス上昇——HP+2 STR+1 DEF+0 MAG+0 RES+0 AGI+1》
《職業熟練度+2(32/100)》
《スキル選択画面を開きます》
三枚のカードが、青い光を纏って回転を始める。
A枠に青地、【目録】。B枠とC枠は灰色のコモンで、【強打】と【見切り】。
コモン二枚は視線を落とすまでもない。大ボス前の最後の一枠でコモンを取る馬鹿はいない、という前提が指先の前に既にあった。
残った一枚に触れる。カードが砕けて、光の粒がスキルスロットに吸い込まれていった。
《スキル取得——【目録】》
《【目録】——手持ちスキルの目次を生成し、構造を可視化する》
セーフルームの青い結晶がすぐ目の前で脈打っていて、光の拍が石の床に淡い縞を落としている。石のベンチに腰を下ろすと、セナが隣に遅れて座った。距離は拳半分。4階のフロアボスを倒した夜から変わっていない。
さっそく使おう。
【目録】を指先で叩く。
視界の中央に、半透明のツリー図が広がった。
手持ちのスキル十個が円環に並んでいる。【記録】【索引】【一筆】【校正】【装丁+】【註釈】【照合】【付箋】【予兆】【集団予兆】。それぞれから細い光の線が伸びて、発見済みの合成を指し示していた。
【記録】と【校正】を繋ぐ線が、【予兆】のノードへ実線で抜けていた。【装丁】のノードから同名ノードへ戻る輪が、【装丁+】へ進化線として伸びている。【予兆】から【註釈】を二つ挟んで【集団予兆】へ走る三本束の実線も、同じ光量で点灯していた。
既知の合成パスが、いずれも青白く脈を打っている。
——が、実線の外側に、薄い点線が一本だけ別に走っていた。
点線は【予兆】から伸びて、途中で【一筆】に合流して、三本目の枝の先が空白のまま点滅している。空白の中に《???》の文字が薄く浮き、凡例欄に注記が添えられていた。
《未発見Lv3合成/素材1枠不足/推定系統:複製・コピー系》
体の重心が、前に傾いた。
「…………」
息だけが口から抜けた。喉が乾いている。
最初の日に笑ったスキルだった。ゲーム内で初めて説明欄を開いたとき、固定1ダメージの注記を読んで、正直に言えば絶望のほうが先に来ていた。スケーリング対応の小さな但し書きだけが頼りで、以降ずっと「使い道が見えない枠」として手札の端に居座っていた、あの【一筆】が——
「合成素材に、なる」
声が掠れた。断言したつもりが、語尾が自分の中で疑問に戻ってくる。
ゲーマー脳が勝手に回り始めた。【予兆】は「いつ刻むか」を知るスキルで、【一筆】は「刻む」スキルだ。二つが素材として並ぶなら、足りないのは「繰り返し刻む」仕組みの系統——複写、写像、反復、コピー。そういう名前で降ってくるスキルが、最後のLv10で3択のどこかに紛れ込めば、点線が実線に変わる。
条件は二つ。コピー系のスキルが三枠のうちどれかに来ること。そしてそれを俺が取ること。
片方は運で、もう片方は迷いようがない。
「マスター? 何か、見つけたんですか、です」
セナが横から覗き込んできた。三角耳が傾いて、尻尾の先が短く跳ねる。
「合成ツリーが見えた」
ツリー図は俺の視界にしか投影されていないが、言葉だけで輪郭を渡す。
「既知のパスが三本。そして——未発見のパスが、一本」
セナの耳がぴんと立った。
「素材が一枚足りない。点線のままだ。空白のところに、たぶん複製系のスキルが入る」
「……複製、ですか」
「そうだ。そして——」
言いかけて、間を置く。点線の枝が、円環の中で微かに揺れていた。
「三本目の途中に、【一筆】が入ってる」
「ひゃっ」
セナの驚きの声が小さく鼻から抜けて、尻尾の毛がぶわっと膨らんでから、ゆっくり落ち着きを取り戻した。
「【一筆】、ですか……ずっと、ハズレだって」
「俺もそう思ってた」
独白の底で、低く笑う声がした。最初の日に1ダメを見て絶望した自分に、点線の一本がそっとしたり顔で見せられている感覚。確定じゃない。コピー系が来なければ、点線は点線のままだ。3択はランダムで、狙って引けるものじゃない。
——だが、点線の向こう側の景色を、見てしまった。
見てしまったからには、いつ降りてきてもいいように、他のピースを残らず揃えておくだけだ。
合成ツリーを閉じる。円環が収束して、視界が元の結晶光に戻った。
ベンチから立ち上がると、通路の先に10階へ続く扉が見えていた。歩み寄って立つと、向こう側から漏れてくる圧が髪の毛先を押し返してきて、セナの長い耳が扉越しにぴくりと逃げる。
【予兆】と【集団予兆】を起動した。
観察データは取れない。扉の向こうの戦闘をこちら側の目で見ていない以上、行動ログは組み上がらないし、スキルは観察済みの動きにしか反応しない仕様のままだ。拾えるのは、存在感の粒度と、システムが敵として返す輪郭の反応量だけ。
それでも、反応量は桁違い。
「……中ボスの比じゃない」
声が独り言に落ちた。
「反応量だけで、中ボスの倍。輪郭が何重にも重なってる」
パターンの中身は、閉じた扉越しには読めない。スキルは観察済みの動きにしか反応しない仕様で、ここで拾えるのは敵の規模の目安と、本体単独ではなさそうだ、という気配だけだ。
「中ボスの時みたいに、読めますか」
セナの声が、隣から静かに届く。レイピアの柄に指先を軽く掛け、尻尾を真っ直ぐに伸ばしていた。
「入ってから観察一巡を取れば、読める。【集団予兆】は数が増えても処理落ちしない仕様だ」
そこで言葉を切った。
「——ただし、入って最初の一巡は予告なしで動くことになる。そこだけ、声で合わせるぞ」
セナの三角耳が前方に固定された。集中の位置。戦闘モード直前の姿勢まで、呼吸ごとに整っていく。
「わかりました」
返事は短かった。迷いも問い返しもない。
セーフルームに戻ると、セナも遅れて隣に座り直した。結晶の脈光の下で、作戦の細部を頭の中で詰め直す。【集団予兆】でパターンを捕捉し、【照合】で差分を抽出し、【付箋】で処理優先度を振って、【装丁+】でセナの視界に同期する——この四つを並列で走らせて、何重に重なっていようと被せていくだけだ。限界ギリギリだが、不可能じゃない。
セナはしばらく黙っていた。
やがて、横で小さく息を整える気配がして、声がひとつ落ちてくる。
「……マスター」
「ん」
「セナ、マスターのパーティに入れてもらえて——」
最後まで言わせなかった。
「感謝の台詞は勝ってからにしろ」
声の温度は、普段の独り言より一段だけ軽い。軽口のつもりで返した。
セナが小さく息を吐いて、口角がゆっくり上がった。
「……はい、です」
二度目の笑顔だった。4階のフロアボスを倒した後の、息を切らして見せた初めてのそれより、ずっと静かで、口の形がほとんど変わらないくらい小さい。耳がゆっくり立って、尻尾の先がベンチの縁でふわりと揺れる。膨らまず、低くならず、ただ嬉しいの位置で収まっている。
横顔を視界の端に入れながら、独白が勝手に落ちた。
——この子は、俺が「左」と送れば左に跳んで、「三巡目で離脱」と送れば予告を待たずに動く。情報の精度を疑わない。俺の観察データを、自分の身体の延長として使ってくれる。
記録師にとって、これ以上の前衛はない。
最高の前衛だ、と頭の中で言葉が像を結ぶ。ゲーマー脳が選んだ合理の語彙のはずなのに、その奥に、普段の独白では出てこない温度が紛れていた。自分の独白の温度差に少し戸惑って、俺はすぐに意識をスキル整理に戻した。
10階の扉が、セーフルームの出口の先で青白く縁取られている。
立ち上がる。セナも隣に並ぶ。レイピアが抜かれ、切っ先が結晶光を浅く弾いて、刃筋に沿った青い残光がひと呼吸分だけ床に落ちた。
「次のLv UPで、もう1枠引ける」
扉を見据えたまま、独り言の調子で置く。
「Lv3合成の最後の素材……来るかどうかは運だ」
来てほしい、とは言わない。
「でも——来なくても勝つ。今の手札で十分だ。Lv3合成は、おまけだ」
十枚の手札と、三枠に拡張された合成スロット。【集団予兆】と【照合】と【付箋】と【装丁+】の並列運用。多重に重なるパターンを処理する算段は、既に頭の中で最後まで繋がっている。
点線は、来たら嬉しい。来なくても、困らない。
セナの耳がぴんと立って、尻尾が真っ直ぐに伸びた。戦闘スイッチが入る直前の姿勢で、呼吸が一段深くなる。
「はい、です」
「行くぞ」
扉に指を触れると、青白い縁がさらに一段明るくなって、向こう側の空気の重さがこちら側まで滲み出してくる。
10階、大ボス前。準備は整った。
◇◇◇
最後の一体が、光の粒に解けていく。
9階最奥、10階の扉の手前。セナの刺突が金属装甲のスカラベの継ぎ目を抜いた瞬間、硬直の残響が床を撫でて、視界に通知が縦に積まれ始めた。
《Lv UP — Lv10》
《ステータス上昇——HP+2 STR+0 DEF+1 MAG+0 RES+1 AGI+1》
《職業熟練度+2(34/100)》
《スキル選択画面を開きます》
「……来たか。もう一枠」
声は独り言のつもりだったのに、隣のセナの耳が小さく揺れた気配だけが伝わってくる。
3枚のカードが青い光を纏って浮かび上がる。目の前で回転する光の粒の重さに、指先が冷える。点線の穴を埋める複製系が、ここに来るかどうか。
A枠を見る。青地のラベル、【複写】。効果欄にはターン開始時に直前の記録をコピーする、の説明と、《※合成専用/単体効果なし》の注記が添えられていた。
目が、吸い込まれる。
B枠に灰色の【強打】。C枠に青地の【照合】。照合の進化も喉から手が出るほど欲しい札だ。けれど指先はもう、A枠の前で止まっていた。
——来た。点線の、最後の一枚。
昨日セーフルームで目録が示した、未発見の三本目。素材1枠不足、推定系統:複製・コピー系。その空白を埋めるスキルが、今、最後のガチャで降ってきた。
「【予兆】と【一筆】と【複写】——3枚だ」
ゲーマー脳が低く笑った。条件は二つ。コピー系が来ること。そして取ること。片方は運で、もう片方は迷いようがない。
A枠に指を触れる。
カードが砕けて、光の粒がスキルスロットに吸い込まれていった。
《スキル取得——【複写】》
続けて合成ウィンドウを開く。左スロットに【予兆】、中央スロットに【一筆】、右スロットに【複写】。ランク2で解禁された三枠目が、初めて埋まる。
実行ボタンを押した。
画面が、通常の合成より一段大きく弾けた。白い光が視界全体を覆って、システムメッセージが中央に展開される。
《Lv3合成発見——【予兆一筆】》
「……来た」
声は短く、余韻だけが口の中に残った。
合成の白光が視界に残した残像の青みが、1階セーフルームの結晶光と同じ色をしていた。
円が、閉じる音がした。
セナの耳が傾いて、尻尾の先が短く跳ねた。
「マスター、何か——」
「あとで話す。先に中を見る」
10階の扉に指を触れた。青白い縁が一段明るく脈打って、押し開けた向こう側に、広い空間が広がっていた。
天井が高い。壁が遠い。白い石の床が円形に広がって、中央に——鎮座していた。
黒い翼を畳んだ竜型。全長は10メートルを超えている。鱗は深い紫で、胸の中央から光が漏れていて、瞳だけが血のように赤い。視界の敵シンボルに「Lv15」の表示が淡く灯っている。
セナが半歩下がって、呼吸を整えた。耳がピンと立って、尻尾が真っ直ぐに伸びる。
【集団予兆】を起動する。
視界にパターン情報が流れ込んできた。行動候補30種超、分岐はランダム、各パターンに三枝の派生。処理量が脳の奥で熱を持って、限界ギリギリの気配が走るが、まだ持つ。昨夜セーフルームで組み上げた算段のまま、【集団予兆】と【照合】と【付箋】と【装丁+】の並列運用が、四つの回路として頭の中で回り始めた。
大ボスの翼が広がる。咆哮が空気を押し返して、石の床が微かに震えた。
「——来るぞ」
同時に、もう一つのウィンドウを開いた。【予兆一筆】の効果欄。
《【予兆一筆】——予兆で読み取った敵に、一筆が毎ターン自動で重ね書きされる。ダメージは重ねた回数に応じて+1, +2, +3……と蓄積する。複写が毎ターン自動でスタックを重ね書きし、成長を加速する》
「……起点か」
ゲーマー脳が一気に計算を走らせる。10ターンで累計55、20ターンで210。記録が重なるほど威力が強くなる攻撃だ。
毎ターン正確に一画を刻めるなら、あとは時間が勝手に味方してくれる。最初に笑ったあの1ダメが、ずっと、そういう形で待っていた。
「マスター……どうしたらいい、です?」
セナの声が、大ボスの気配を探る呼吸の合間に短く落ちてくる。戦闘スイッチの温度で、主語はすでに消えている。
「ああ。——セナ、長く戦え。粘るほどこっちが有利になる」
「はい、です」
敬体はそれが最後だった。次の呼吸でセナは完全に体言止めの温度に落ちて、レイピアの切っ先が青白い結晶光を浅く弾いた。
大ボスが、動いた。
【予兆一筆】が自動で発動する。視界の端に小さなカウンタが灯って、大ボスの胸鱗に白い筆跡が一画だけ刻まれる。ターン1は1ダメ。大ボスは気にもしていない。
右爪が振り下ろされる。【集団予兆】がパターンを読み切って、セナの視界に予告が流れる。セナは予告の段階で左に跳んでいて、爪が床を砕いた直後の硬直にレイピアを滑らせた。
ターン2、+2。累計3。
黒い翼が広がって風圧が放たれる。セナが風圧の外側に回り込みながら短く声を落とす。
「左、回避」
「尾部、薙ぎ——角度ズレてる」
【照合】が普段との差分を抽出して、セナの視界に赤い輪郭で流れる。セナは半拍前に床を蹴って、尾部の軌道の下をくぐり抜けた。
ターン5、+5。累計15。まだ足りない。
大ボスの鱗に赤い燐光が走った。動作が、倍速に切り替わる。
《警告:未観測パターン検知——狂化フェイズ移行》
【集団予兆】が狂化後のパターンを即座に予測して、セナの視界に同期する。俺は口に出しながら【付箋】で処理優先度を振った。
「両翼の横払い、そのあと尾部の連射、最後に前方咆哮——回避、離脱、反撃」
「——了解」
セナが横払いを身を捻って抜け、尾部の連射を壁蹴りで避け、咆哮の射程外に跳んだ。攻撃判定が止んだ硬直に、レイピアが大ボスの喉元を掠めた。
ターン10、+10。累計55。
大ボスの動きが、ほんの少しだけ鈍る。
「……効いてきた」
俺の呟きが、戦闘の喧騒に紛れて落ちる。
ターン15を過ぎた頃、大ボスの胸から漏れていた光が、一点に集束し始めた。
《警告:未観測パターン検知——胸光収束モーション》
範囲攻撃。出力は中ボスの比ではない。
「セナ、下がれ」
「——」
セナが全力で後退した。予告の数字が消える前に、俺の合図だけで身体が動いている。情報の精度を疑わない前衛の、最短の反応。
胸光が弾けて、白い熱波が扇状に広がった。セナは射程の外にいて、熱波の輪郭が床に焦げ跡を残して消えた。大ボスに、6秒の硬直カウントダウンが灯る。
【予兆一筆】のスタックは、この硬直の間も積み上がり続ける。ターン16で+16、累計71。ターン17で+17、累計88。複写が毎ターン自動で重ね書きを止めない。
累計が、臨界の音を立てた。
「セナ——最後だ。とどめを」
「——はい」
セナが踏み込んだ。全身のバネを使った渾身の刺突が、大ボスの胸鱗の継ぎ目に吸い込まれる。レイピアの切っ先が核に届いた瞬間、蓄積していた筆跡の全てが、同時に発光した。
白い光が、大ボスの内側から弾けた。
巨体が痙攣して、翼の骨が折れる音が響き、黒い鱗が砕けて光の粒に変わっていく。
《10階大ボス撃破。最深部へ至る道が開放されました》
《職業熟練度+40(74/100)》
広い空間に、静寂が戻った。
大ボスが消えた場所に、クリアの光が柱のように立ち上って、天井まで伸びている。空気の圧が抜けて、結晶光の脈動だけが、床の石目に淡い縞を落としていた。
セナが、息を整えながらレイピアを下ろした。切っ先の青い残光が、ゆっくり消えていく。
振り返ったセナの耳は、まだ前方に固定されたままで、それが呼吸のたびに少しずつ緩んでいった。
「……勝ちました、です」
「ああ」
短い返事だけを落とす。言葉を足そうとして、喉の途中で止まった。
セナが少し間を置いて、もう一度口を開いた。
「マスター」
「ん」
「……もっと一緒に冒険したい、です」
セナの耳が、ゆっくり倒れた。
尻尾が、ふわりと揺れて——先端が、俺の手の甲に触れた。
柔らかい毛の感触が、指の皮膚にわずかに残る。
触れたと認識した瞬間には、セナは尻尾をすっと引っ込めていた。何事もなかったような速さで、自分の背中の後ろに収めている。
視界の端では、次のエリア解放の通知がすでに展開されている。最深部への通路の先に、新しい階層の輪郭が淡く描かれていた。頭の中は次の攻略ルートの整理に入っていて、セナの言葉は前衛としての継続希望として処理欄に積まれていく。
「ああ。もっと上があるなら——行くだろ」
返した声は、普段の独り言と同じ温度だった。
「……はい、です」
セナが、笑った。
口角がはっきり上がって、耳が小さく揺れて、尻尾の先がぱたりと床を叩く。これまで見せてきたどの笑いとも違う、素直な笑い方だった。
俺は瞬きをして、クリアの光の柱に視線を流した。
《初心者ダンジョン10階踏破——記録師、記録更新:自動》
ゲーム内の空を、見上げた。
白い塔の上に、蒼が広がっている。初日にログインした時と同じ色で、何も変わらずそこにあった。
クズ職業と呼ばれた記録師。1ダメージの【一筆】。最弱のクズスキル。
単体で強いスキルは、手札に一枚もなかった。組み合わせた先に、ようやく【予兆一筆】があった。
記録師の仕事は、やり切った。
ただ、まだ足りない。この先にも発見の余地が残っている合成があって、もっと強い敵がいて、もっと見たい景色が広がっている。VRヘッドセットを外した先の現実でご飯を食べて、少し眠って、それから——。
——ログアウトしたら、明日もログインしよう。
俺は小さく頷いて、セナの方に目を戻した。尻尾の先が、まだ、少しだけ揺れていた。
——視界の隅で、ログアウトアイコンが、非アクティブのグレーに沈んでいた。
※本作はカクヨムにも同時掲載しています。
※本作は長編版の第一部にあたるパイロットです。続編を準備中。
反応良ければ長編連載を開始します。ブクマ・感想が執筆の燃料です。




