流れ着いて、半年
アエノールがアンソク島に流れ着いて半年過ぎた、ある初冬の日のことだった。
肌を撫でる爽やかな風も、朝の空気に触れた途端、冷たい針を突き差すような空気へと変わる。
いかに温暖な島といえども海に面した立地は海風も吹くせいで寒く、冬は身体の芯まで冷える。
アエノールはひとつ身震いをして煉瓦作りの古びた空き家の窓を開けた。寝起きの視線で朝日の眩しさに瞼を閉じた。
(――ああ、なんと平和な日なのかしら)
瞼の裏が白く染まるのを感じて、半年前の出来事をふと思い出す。
新婚初日に厄介払いという体でここに追い出されてしまったこと。
貴族犯罪の流刑地として、犯罪を犯した多くの貴族がここに流れ着いていたこと。
極悪人ばかり――と思いきや、皆右も左もわからないアエノールに手を差し伸べ、住む場所と生きる術を教えたこと。
アエノールの実家は、貧困に慣れていると言っても貴族だ。
慣れない土地、不便な立地、役人もいなければ職人も商人もいないこの地では自分の食い扶持は自分で賄わなければならなくて、この日に至るまで生活に慣れるために必死に生き残るために必死で色々なことを教わり、覚え続けた。
今日は束の間の休息をすると決めた日。
だから、この肌を突き刺す冬の寒さも、目覚まし代わりにはちょうど良いとアエノールは眠い目を擦った。
(それなりに苦労をした人生を送ってきたと思っていたけれど、一から自分で生活を築き上げるのが、こんなにも大変だったなんて思わなかったわ。……領民たちはこんなに忙しい日々を送り、安くない税金を納めてくれているのだから、そのありがたみがより実感できるわね)
もう帰ることができないであろう、アエノールの生家の領民たちの笑顔が脳裏を遮る。
決して裕福ではなかったし、苦しい生活の日々だったけれど。つらり、つらりと愚痴をこぼしながらも自分たちに尽くしてくれた日々にアエノールの頭は上がらない。
「さて、今日はなにをしようかしら」
小さな煉瓦の家の外にある土色の畑に視線を向ける。
「そういえば、そろそろ芋の収穫時期よね。本格的に寒くなる前に干し芋でも作ろうかしら。……あ、でも、明日は天気が悪いみたいだし、海岸にでて、漂流物を見るのもいいわよね。……どうしようかしら」
スケジュールを頭の中で描いていると、玄関扉のノック音が三回鳴った。
アエノールははっと顔を上げて扉を開けると――。
「うッ……」
鼻につく鉄の臭いと、扉がなにかを当てたようで途中で開かなくなる。臭いで眉を顰めたアエノールは周囲をきょろきょろと見まわし、なにもないと思い下を見ると、茶色の毛皮に覆われた、アエノールの倍以上ある熊がぐったりと転がっていた。
「きゃ、……きゃぁああああああああああああああああああああああッ!」
「うるさい。金切り声で叫びおって。大げさだ」
「え、エド様ッ……!? これ、これ……なに、これ!」
扉の死角に土埃に塗れたエドが立っており、水色の瞳を刃のように鋭く細める。アエノールは挨拶を忘れ、家の前で転がっている喉に刺し傷がある熊に指を差す。
明らかに息を引き取った後なので、危険こそないものの、自分の家の玄関に転がっていれば驚くのも当然だろう。
しかし、エドにとってはそれは知ったことではなく、女の叫び声は煩いという事実だけ。小指で右耳の穴を塞ぎうざったそうに眉を顰めた。
「熊だ。別に珍しくもない。動揺しすぎだ」
「いや、熊ってッ!えッ、ええ……?」
「暇だったから。狩ってきたんだ。この時期になると冬眠前に栄養を蓄えようとして凶暴にもなるしな。それで、これを解体するから手伝ってくれ」
エドは熊の腕を肩にかけて、持ち上げるとアエノールの許可が出る前に裏庭へと移動する。
――エドは、アエノールより一年ほど前にこの島に流れ着き、このような生活を送っていた。
どのような罪を犯したのかというと、婚約者に冤罪を擦り付けようとした婚約破棄――と新聞には書かれており、アエノールも噂程度にしかその真実を知らない。
気位が高く、怠け者。勉強嫌いで女好き。王子の皮を被った獣だ、と領民たちは噂を人伝いに聞いて憤慨していたけれど。
アエノールにとっては、愛想のない、お人よしなご近所さんという印象だ。
もちろん、当初の印象は違った。この島に来た時に、島民に彼を紹介され、「ただの貴族如きが俺に指図をするな!」と唾を飛ばしながら怒り、アエノールが犯罪者じゃないと知ると、鋭い言葉を浴びせた怖い人だったけれど。
それでも、アエノールは得意な剣術で危険な猛獣を狩ってはその肉をおすそ分けに来てくれるエドを。力仕事を手伝ってくれたり、様子を見に来てくれる彼を嫌いにはなれなかった。
(私を嫌っているのなら、こうして会いに来ないし、気にもかけてはくれないわ。たまに自己中で困ったところはあるけれど、エド様は本当はとても優しい方なのに……)
愛情表現が不器用なだけで、きっと、一途に人を想い続けられる人なのだろうなと。口にするとエドがまた怒ってしまうので、口にはしないが、エドの背中を見送りながらアエノールは心の中でほっこりとほほ笑んだのだった。
…………。
――ある日のことだった。
寒い冬の日の昼を過ぎたころ。
孤島では満足に防寒具も揃えられない中、アエノールは枯葉や薄い布を使って寒さをしのいでいた。
薪を持ってこようにも、それを割る材料もなく、湿気も多いため満足に燃やせるだけの燃料を作ることもできない。
暖かくなるまでの昼まで硬いベッドの上で寒さをしのいでいた時だった。
エドがまた熊を仕留めたのだと。
今度は肉と既に加工した皮を持って現れた。
「エド様、お肉のおすそ分け、ありがとうございます。毛皮までいただいて……、本当に良いのでしょうか?」
「ふん。毛皮は俺ももっているし、肉は一人で食べきれなくて腐ってしまう。なら、消費できる奴に譲った方がいいだろう」
アエノールが住んでいる家の中に入ると、エドはぶっきらぼうにそういった。
アエノールはきょとんと首を傾げた姿に、エドはしまった、と思った。
不要物を譲った、それだけのことなのだが、その言い方がいつもきついのだと、王都で過ごしていた頃から周りに注意されていたことを思い出す。
エドは、王子として皆に畏怖の念を植え付けなければいけないし、尊大な言葉使いは美徳なのだと心の底から思っていた。
しかし、婚約破棄を自ら引き起こし、罪人としてこの島に流れ着いてから一人でいる時間が増えることで、それが違うことなのだと徐々に気づき始めていた。
自らの在り方を曲げるつもりはない。
だが、女性の心は繊細だ。
言い方ひとつで思い詰めてしまうし、周りからも誤解をされてしまう。
それは、エドの意図することではない。
アエノールにだって、こうして自ら肉を狩って、渡して、交流を図るくらいにはいい印象を抱いている。
謝罪をする、と行為が元々のプライドの高さで邪魔をしてしまうも、声を絞り出すように、勇気を出してエドは口にした。
「言い方、きつかったか」
「え?」
突然のことにアエノールは疑問符を浮かべた。
一拍置いて、それが今しがた発言した物言いのことだったのだと理解する。
それを受けて、アエノールが眉を下げてくすりと笑った。
「そんなことはありませんよ」
「本当か」
「はい。……だって、人間が100人いれば、100通りの感情、言い方がありますもの。発言の意図が分かれば、怖くはありません。だから、いつも通りに接してくださって、結構ですよ、エド様」
否定するのではなく、個性のひとつだとアエノールは答えた。
いつも、言い方が酷い、きついと家臣や自らの父親に苦言を呈されていたエドの胸の中に熱く、しょっぱいなにかがこみ上げる感覚がした。
――溢れさせてしまえば、情けない姿を見せてしまう。
その一心で耐えて、感情を抑える。
アエノールは、エドから嬉しそうに毛皮と肉を受け取る。
「ありがとうございます。……私は狩りができないので、おすそ分けしていただけるのは本当に助かります。……よかったら畑の野菜、少し持っていきますか?」
畑の方を指した。
この島は沈没した船からの漂流物かよく流れ着く。
その野菜や果実を元に植えたものだった。
狩りや体力仕事は昔から自身があるが、何かを育てたり、繊細な作業は性分に合わず、避け続けていたエドにとって、野菜をもらえるというのはありがたいものだった。
だが、自ら欲しいと懇願したことはないし、そういうつもりもなかった。
だから、突然の提案に目を丸くさせる。
「いいのか?」
アエノールは柔らかい笑みを浮かべて頷いた。
「ええ。エド様には、いつもお世話になっているのですもの。こういう時こそ、恩返しさせてください」
アエノールは島の材料で作った籠を手に取り、エドの目線が籠に落ちる。
円筒状の籠だった。お手製のもので、縁から伸びる二本の紐は背負えて運べる優れものだ。
欲しい、と思いつつも首を横に振る。
物資が届きづらいこの島で、こういう加工品はも貴重だ。それに、自分より幾分も小さい女性から欲しいなどと言えるはずもなかった。
昔なら、取り上げでもしただろうが、エドもこの島での暮らしの厳しさはよく理解していた。
視線が籠に落ちたのに気づいたアエノールは籠を目線の高さにまで持ち上げた。
「これが、どうしましたか?」
「……そういうのも、作れるのか」
エドが自ら興味を示してくれることは、今までの会話の中で数える程度でしかなく、興味を持ってくれたことが、アエノールにとっては嬉しかった。
アエノールは喜々として答えた。
「――! ええ。昔、領民……、結婚前に住んでいた領地の民に教えてもらったのです。この島で、作れる人がいないそうで、物々交換でよく作っているんですよ。この島には竹も生えていますから、蔓で作るより、作りやすいんです」
自信作です、とエドに手渡した。
「島の暮らしは暇な時間が多いので、いい手慰みなんです」
貴族なのに、と呆れつつ、子供のように無邪気に笑う姿は純粋なのだと力なく笑った。
アエノールは思いついたように、あ、と声を漏らす。
「よろしければそちらも差し上げます。野菜を持って帰るのにも使えますし、狩りをするときとかもあった方がいいでしょう?」
「そういうつもりで言ったわけではない。……もらえない」
しかし、エドは突き返す。
昔、誰だったか。どこかの茶会に参加した時、貴族の子息が持つ異国の玩具を褒めた時があった。欲しい、とも思ったが、強請ることはできないと「素敵な玩具だ」と褒めたことがあった。
しかし、子息は顔を引きつり、気に入ったならどうぞ、と差し出してきたことがあった。
それを好意として受け取り、そういった出来事が日常化してきた時に、婚約者は言った。
「エド様、あなたが欲しいと言われれば、貴族たちは大切な物を差し出す他ありません。それがいかに大切な物であろうと、エド様の機嫌を損ねれば、守らなければいけない家門にまで影響が及ぼすと恐れているのです。どうか、お控えなさってください」
その時は煩い女だ、考えすぎだと嘲笑って一蹴した。
しかし、その言葉の意味を理解した今は、あの時の言葉が心からの、切実な願いだったのだと気づいている。
王子の身分をはく奪されたとはいえ、王子だった過去は代えられない。
アエノールも貴族であるならば、言葉の裏を取らえてしまうかもしれないとエドは反省の色を見せた。
アエノールは、エドの考えていることまでは理解できなかったが、遠慮をしているのだと、顔色を見てわかった。
ならば、と籠を抱きかかえて言った。
「では、籠の作り方を教えましょうか? 自分で作れれば、壊れた時にも修復できますし、知っていて損はないと思います」
「籠の作り方を?」
でも、とエドは考える。不器用で、自信がない。手仕事をしたことがないエドにとって、籠を作るというのは未知の体験だった。
作れるかどうかという不安が言葉を詰まらせる。
それでも、アエノールは明るかった。
「最初は誰だって初めてですし、私も、籠を初めて作った時、ふにゃふにゃな編み目で、籠とは呼べない代物だったんですから。……もし、作れなかったら。その時は、またお肉や毛皮と交換してください」
「肉でいいのか?」
アエノールは強く頷いた。
「狩りが苦手なので、もし、エド様が食べきれなかったお肉とかをおすそ分けしてくれるのが、最近の楽しみなのです。ご迷惑でなければ、ですが……。駄目、ですか?」
また、エドからなにかがこみ上げる。
今度は熱く、心臓が小刻みに震える暖かい感情だった。
それは、誰かに見せてはいけない弱い感情だと、本能が無意識に押さえつけた。
それでも、アエノールの提案が抑制できないほど、エドにとって嬉しかった。
萎縮するでもない、畏怖するでもない、王子としての自覚を持てと叱責するでもない。
――生まれて初めて、王子ではなく、一人の人間として接してくれたのだから。




