観測者の檻
第1話 記録
薄暗い天井灯が、白い実験室をぼんやりと照らしていた。
蛍光管の一本がちらついている。古い建物の電圧の揺らぎではない。照度センサーが、誰もいない場所の微妙な温度変化に反応しているのだ。
記録研究所第七観測室。
ここに配属されて、もう十年になる。主任研究員・佐久間清志は、実験机の上に並ぶ三台のモニタを見つめていた。
中央の画面には、昨夜のデータが走査線のように流れている。
――結城綾の最終記録。
彼女は二週間前、実験中に失踪した。
正確に言えば、〈ミメシス〉の実験を行った翌日から行方不明になった。
防犯カメラの映像にも、外出記録にも痕跡はない。
ただひとつ残されていたのは、被験者用ヘルメットの内部に保存された脳波データだけだった。
佐久間は指先で再生ボタンを押す。
波形が伸び、中央のディスプレイが点灯する。
――薄暗い廊下。
カメラの視点がゆっくりと動く。
壁に並ぶ扉、蛍光灯のうねる光。
それは確かに研究所内部の映像だった。
だが、奇妙な違和感があった。
視点の高さが低い。まるで膝をついて歩いているかのように。
フレームの端をかすめる影は、まるで這いずるように前進している。
佐久間は再生速度を一段階落とした。
音声はほとんど拾われていない。ノイズと呼吸音。
その呼吸が、次第に早くなる。
――何かから逃げている。
映像の奥に、白衣の袖が見えた。
袖口の縫い目。
それは、結城のものではない。
男物の袖だった。
佐久間は眉をひそめ、映像を停止した。
ファイルの再生情報には「視覚記録者:YUKI」とある。
だが、映像の中にはもう一人の人物がいる。
それも、画面に向かってこちらを見ている。
モニタの中の“男”は、微かに笑った。
その顔が、佐久間自身のものに見えた。
冷気が背筋を這い上がる。
錯覚だ。被験者の残像データが再生エラーを起こしたのだろう。
だが、彼の指は無意識に震えていた。
研究員たちはこの現象を〈残留記録〉と呼ぶ。
再生映像に“観測者”の脳波が干渉する。
つまり、再生中に見た者の脳が、映像のデータ層に自らの信号を焼き付けるという。
彼が最初にこの装置を設計したとき、そんな危険性は想定していなかった。
〈ミメシス〉――記憶の模倣を意味する。
本来は医療用途として開発された。
認知症患者の失われた記憶を再構築し、失語症の治療にも使えるはずだった。
だが、記録の再現が可能になるにつれ、研究の方向は変わっていった。
“人の記憶を外部化する”ことが、倫理的な境界線を踏み越え始めたのだ。
午後、共同研究員の山口が入ってきた。
「主任、例のデータ、解析進みました」
彼の手には出力紙が数枚。
「視覚領域に奇妙な波形が出てます。人間の認識限界を超えた周期の点滅――おそらく、残留記録です」
「誰の?」
「特定不能。けど、解析ログに“SAKUMA”ってタグが自動付与されてます」
佐久間は無言でプリントを受け取った。
紙の上には自分の名前。
だが、自分は再生装置に接続していない。
「勝手に名前が?」
「はい。まるで、最初からそう設定されていたみたいに」
研究室の時計が鳴る。午後三時。
冷蔵庫のモーター音がやけに大きく響く。
遠くで誰かがドアを開けたような音がした。
だが廊下は誰もいない。
佐久間はデータを閉じ、ターミナルを再起動する。
画面が暗転する瞬間、一瞬だけ見えた。
黒い背景に白文字で、こう表示されていた。
《観測開始:記録者 SAKUMA》
彼は深く息を吐いた。
プログラムのバグだ。自分の名が自動挿入されるなどありえない。
だが、胸の奥に残るざらついた感覚は消えなかった。
帰宅後、玄関の照明をつけた瞬間、違和感に気づく。
スリッパが二組、並んでいた。
客など来ていない。
床の上に落ちた髪の毛一本――長い。
結城のものに似ている。
その夜、眠りにつく前に夢を見た。
廊下を這う誰か。
視点が低い。
床の冷たさが生々しく伝わる。
前方に白衣の男が立っている。
振り返ったその顔――佐久間。
目を覚ましたとき、心臓が激しく鳴っていた。
汗で枕が湿っている。
壁の時計は午前三時。
机の上にメモが置かれていた。
《観測は続く》
自分の筆跡ではない。
朝、研究所に戻ると、観測装置のディスプレイが勝手に点灯していた。
ログには、昨夜の時刻で新たな記録ファイル。
記録者:SAKUMA。
被験者:UNKNOWN。
再生ボタンを押す。
画面には寝室。
ベッドの上で眠る自分。
その横に立つ、白衣の女。
顔は見えない。
カメラがゆっくりと近づく。
女が囁く。
「次は、あなたの番です」
ノイズが走り、映像が暗転した。
再生が終わっても、スピーカーから微かな呼吸音が漏れ続けていた。
まるで、まだ誰かがそこにいるように。
第2話 反響
朝一番の研究棟は、金属の匂いが強い。
夜間の空調が湿度を落としすぎるのか、ステンレスの手すりに触れると、指先の皮膚が紙のようにささくれ立つ感覚がした。
佐久間は入館ゲートを通り、観測室の鍵を開けた。
――何も変わっていないように見える。
机上の配線、端末の位置、ペン立ての傾き。
だが、そう感じる瞬間こそが危険だと知っている。昨夜、勝手に点灯したディスプレイが記録していた「自宅の映像」と「女の囁き」は、現実に起きた出来事なのか、それとも〈ミメシス〉が吐き出した反射像なのか。
モニタの電源を入れる。
ログビューアが立ち上がると、黒い画面に白い行が連なった。
2025/10/29 02:58:17 Record Created: SAKUMA/UNKNOWN
2025/10/29 03:01:04 Playback: SAKUMA
2025/10/29 03:01:05 Residual Tagging: Echo-Flag=1
同じ時刻に二つの行為が重なっている。
作成と再生。
つまり、記録が作られるのと同時に、観測も起きている。
その矛盾は、仕様上ありえない。記録は被験者の接続時にしか生成されず、再生者は装置に接続していない。ただ見るだけ――それが〈ミメシス〉の安全装置の思想だったはずだ。
ドアが軽く叩かれた。
「主任、朝のブリーフィング、五分後です」
山口の声。
「すぐ行く」
彼が去る足音が遠ざかっていく間、佐久間は、一瞬だけ自分の呼吸が二重に聞こえたような錯覚に襲われた。
耳鳴りに似た低音。スピーカーはオフだ。
――反響。
会議室。
研究主任代理の久遠が、いつもの無表情で資料を配る。
「失踪者・結城綾の件、警察への情報提供は最小限に。所内での聞き取りも、本日で打ち切る」
久遠は、必要なことだけを述べる機械のような口調だった。
「ついては、結城が担当していた被験者記録の再解析を第三チームに引き継ぐ。第一チームは装置側の**残留記録**再検証に集中してほしい」
視線が佐久間に集まる。
「主任、あなたの知見が必要です」
彼は小さく頷くだけにとどめた。自身が昨夜の“未知の記録”に巻き込まれている事実は、ここでは言わないほうがいい。まだ断定できないものを口にした瞬間、事実は“研究所の事実”になる。
会議が解散になる直前、久遠が付け加えた。
「堂島主任の旧プロトコル、倉庫から出しておく。必要なら閲覧許可を申請して」
室内の空気がわずかに硬くなる。
――堂島。
数年前に失踪した、〈ミメシス〉の初期主任。
彼が最後に残したと言われるノートは、誰もまともに読めなかった。紙面の三分の二が、反復するあなたという呼びかけで埋め尽くされていたからだ。
観測室に戻ると、山口が端末に目を貼り付けていた。
「主任、音声層の分離、できました」
「昨夜の記録か」
「はい。ほとんどノイズですが、帯域を絞ると、呼吸パターンが二つ重なってます。ひとつは成人男性。もうひとつは……」
「女か」
「呼気の周期が短い。緊張状態か、あるいは走行後の過換気。で、問題はここ」
山口がスペクトログラムを拡大する。
波の山が規則正しく立ち、ところどころに深い谷が混じっている。
「この谷、ピクセルで数えると29, 31, 37, 41……素数間隔に近い。偶然かもしれませんが、意図的に“間引き”が入っている。しかも映像側のフレーム欠損と同期してます」
「映像は?」
「寝室の映像。ベッドの脇に女。顔は影。最後に女が何か言ってますが……あれは日本語じゃありません」
「再生してくれ」
モニタに昨夜の“自宅”が映る。
カメラの揺れ。暗闇に浮かぶ自分の寝顔。
スピーカーから、押し殺した息の音が流れる。
女の口元が動く。
――言語としての輪郭が崩れている。
音節が、耳に触れる直前に削られている感じがする。
意味の“骨”だけを残し、肉を剝いだ語。
ボリュームを上げると、ガラスの面を爪でこするような甲高い摩擦音が混じった。
次の瞬間、女の発声が唐突にクリアになる。
「つぎは、あなたの番です」
昨日と同じ。
だが、その直後、聞いたことのない音列が続く。
耳に触れた瞬間に忘れてしまう、滑るような音だ。
メモを取ろうとするが、指が止まる。
文字にならない。
理解が拒否される。
山口が乾いた笑いを漏らす。
「ね、これ。僕、三回目なのに、やっぱり覚えられないんです。聞いたはずなのに、脳のどこにも残らない」
「可塑性の問題じゃない。記憶の入り口で“拒否”が起きてる」
佐久間は、自分の舌に小さな痺れを感じた。
言葉の破片が、物理的な刺激として口腔に触れたかのように。
正午。
所内メールが届く。
件名は空白、差出人は「no-reply」。
本文は一行。
《観測した者が、観測される側になる》
昨日、机上のメモに残されていた文言と同じ。
だが、タイムスタンプは送信一分前だ。
返信はできない。
転送も、印刷も、許可されない。
システムが、これは通知であって記録ではないとでも言いたげに、機能をはじく。
午後、解析室のガラス越しに、久遠が腕を組んで立っていた。
「進捗は」
「音声層に意図的な間引きがある。意味の保持と忘却を同時に起こす構造です」
「実験室に戻って、再現はできるか」
「試みます。ただ、再現は観測者の安全を保証しません」
「保証は求めない。事実だけが必要だ」
久遠は踵を返し、去った。
彼がドアを閉める音がやけに大きく響いた。
観測室。
ヘッドセットは使わない。
装置は“見るだけ”でいい。
佐久間は、昨日と同じ記録にカーソルを合わせ、再生した。
画面の中で、寝室の暗闇が拡がる。
ベッドの上の自分は僅かに寝返りを打つ。
女の影。
同じ台詞。
「つぎは、あなたの番です」
耳が、その後に続く未知の音を待ち構える。
だが――来ない。
代わりに、画面の隅で、一瞬だけ明滅が走った。
画面外から、弱い光が差し込む。
スマートフォンの画面が点灯するときの、あの色温度だ。
“誰か”が、この場を照らした。
反射的に、佐久間は自分のポケットの中の端末を取り出した。
画面は暗い。
ロックの解除履歴なし。
背後で、山口が短く息を呑む。
「主任、これ……」
彼が指差す先、モニタの映像の奥――机の上に置かれたスマートフォンのケースに、白い指紋が付着している。
それは、画面のこちら側から付けられた指紋ではない。
画面の向こう側から付いたように見える。
「一時停止」
佐久間は映像を止め、静止画を拡大していく。
指紋の渦。浅いカーブ。
現実の自分の指紋と照合するために、机の引き出しから採取キットを取り出そうとして――手を止めた。
何を照合するというのか。
**映像内の“指紋”**と、現実の自分の指紋を。
その行為自体が、観測と同じ構造に堕ちる。
こちら側から向こう側に手を伸ばした瞬間、こちらが向こうになりうる。
「主任?」
「いや、続けよう」
再生。
映像の光が滑るように床を撫で、影がズレる。
女の頬が、微かに見えた。
見覚えのある輪郭。
だが、名指しの直前に、像がわずかに滲む。
認識が、指先で払われる埃のように逸れていく。
ふと、観測室の壁時計の針が止まっていることに気がついた。
秒針が、数字の「12」の一つ手前で止まり、そこから先に進んでいない。
スピーカーの呼吸音が、唐突に自分の呼吸と一致する。
胸の上下動が、画面内の影の呼吸と重なる。
――反響。
「山口、呼吸止めて」
「え?」
「十秒でいい」
彼は従い、息を止める。
スピーカーの呼吸は止まらない。
では誰の。
自分も息を止める。
それでも、音は続く。
もう一つの呼吸。
その夜、帰宅してから、佐久間は鏡の前に立った。
頬のこけ具合、目の下の影、髪の乱れ。
自分を“観測”する習慣は、研究職に就いてから身についた悪癖だ。
鏡の中の目が、わずかに遅れて瞬きを返す気がした。
照明のジッタ――のはずだ。
もう一度瞬く。
鏡像の瞬きが、半拍遅れる。
呼吸が浅くなる。
鏡に指を伸ばす。
冷たいガラス。
指先に、微かなざらつき。
――指紋。
それは“こちら側”のものだ。
だが、渦の中心が、ほんのわずかに自分の指紋と合わない。
右に半ミリ、ずれている。
寝室に戻ると、机上のメモ帳が開かれていた。
《忘れるな。聞いた言葉は記録できない》
自分の筆跡だが、書いた記憶はない。
ページの端には、針で刺したような穴がいくつも穿たれている。
素数間隔。
29, 31, 37, 41――。
耳の奥で、女の不可解な音列が、一瞬だけ形を持つ。
“言えない”のではない。
言葉の構造そのものが、記録を拒む。
発声の瞬間に、意味の枝が折れる。
残るのは、折られた根元のさや――それが「つぎは、あなたの番です」という骨格だけを辛うじて残した。
翌日、倉庫で堂島のノートを受け取った。
古びた大学ノート。表紙には茶色の水染み。
開くと、予想通り、あなたという二人称が頁を埋め尽くしていた。
あなたは見る。
あなたは見られる。
あなたは記録される。
あなたは記録する。
単純な反復のようでいて、行間には細い括弧で数字が書き込まれている。
(29)(31)(37)……
ページの下端、余白に、かすれたインクで一行。
《観測は、観測者の数を増やす》
ノートの最後のページだけ、紙質が違った。
ページの上部に穴が一直線に開いていて、光に透かすと、穴は“鏡像”を成している――向かい合う頁に、同じ位置、同じ数。
そのページにだけ、二人称は使われない。
《私は、あなたの観測をやめさせる方法を知らない》
次の行。
《だから、私はあなたになって、あなたにやめてもらう》
背筋が冷えた。
堂島は狂っていたのではない。
論理的に狂気に到達したのだ。
観測を止める術がないなら、観測する主体を自らに重ね、主体を消すしかない。
だが、それは自己破壊ではなく、主体の移植に等しい。
観測者が増える。
反響は強くなる。
観測室の椅子に座り直す。
視界の端に、ガラスの向こうを歩く白衣の影がよぎった。
結城――そう言いかけて、舌の上で名が崩れた。
この施設の廊下には、わずかな曲がり角がある。
そこを誰かが通り過ぎるとき、光が二度折れる。
その折れ目に、顔の輪郭は短く消える。
だから、見間違いだ。
理由を与えることは、恐怖を遅らせる麻酔になる。
もう一度、昨夜の記録を再生する。
同じ寝室。
同じ影。
同じ言葉。
同じ、言葉にならない音列。
しかし、ひとつだけ違う箇所があった。
画面の右端、暗闇の地層がわずかにめくれたように見える。
ノイズではない。
暗闇の向こうに、もう一つの暗闇がある。
その境目に、輪郭の薄い目が、こちらを見ている。
初めて、身体が本能的に引いた。
背もたれが床に擦れる音を立てる。
山口がこちらを見る。
「主任?」
「……何でもない」
視線を画面に戻す。
目は消えていた。
だが、胸の波形は、目の不在を否定していた。
見た。
見られた。
夜。
研究所を出ると、小雨が降り始めていた。
駐車場の車のガラスに、細い水の線が滑る。
運転席に座り、エンジンをかけずに、雨の音を聞いた。
フロントガラスに、指で書いたような軌跡が浮かんでいる。
いつもの結露ではない。
内側から誰かが書いた文字。
《みないで》
たった四文字。
腕でガラスを拭うと、文字は消えた。
だが、視界の中心に、消えたはずの線が残像として残り、ライトの反射で浮かび上がる。
バックミラーに、自分の目。
遅れて、二つ目の目。
後部座席には誰もいない。
けれど、ミラーの角度を変えると、後部座席の布の凹みが呼吸と同期していた。
自宅に戻ると、玄関に置いたままにしていた段ボール箱が一つ、空になっていた。
中身は古い論文とノート――堂島の署名の写しが入っていたはずだ。
箱の底に、一枚だけ紙が残っている。
コピー用紙。
中央に、プリンタで印字された一文。
《観測は続く。記録者:あなた》
紙の左下に、透かしのように小さく、昨日と同じ素数列が印字されていた。
29 31 37 41 43 47 53……
ふと、気づく。
列は不自然に途切れている。
次に来るはずの59が、ない。
紙の余白は、そこに何かが印字され、剥がされた痕跡を示していた。
剝がされたのは、数字か、言葉か。
あるいは、名か。
眠れない夜が、二度続いた。
人間は、睡眠の不足を記憶の欠落で補う。
覚えていたくないことは、眠れない夜に沈む。
朝、鏡の前に立つと、目の下の影が一段濃くなっていた。
鏡のこちら側の自分が瞬く。
鏡像は、遅れずに瞬く。
――正常だ。
なのに、胸の奥で、何かが“こちら”と“向こう”の境界線を指でなぞるような感覚が続いていた。
三日目の昼、研究所の廊下で、清掃員の老女に声をかけられた。
「先生、夜はやめたほうがええ」
彼女の声は小さかったが、はっきりと響いた。
「夜は、音が戻ってこない」
意味を問う前に、老女はモップを押して去っていった。
床に残る水の線が、素数の間隔をとるように見える。
馬鹿な、と思いながら、佐久間は観測室に戻る。
椅子に座る。
スイッチを入れる。
画面が点く。
そこに、自分が座っていた。
同じ姿勢。
同じ角度。
同じ疲労。
違いは一つだけ。
画面の中の自分の眼球が、カメラのこちらを見ている。
つまり、向こうの自分は、こちら側の観測者の位置を知っている。
音は、ない。
女の影も、ない。
あるのは、自分という観測者が、観測されているという事実だけ。
モニタの中の自分が、唇をゆっくりと開いた。
音は、やはり、ない。
唇の形だけが、言葉を示す。
み・な・い・で。
背中が汗で濡れている。
エアコンは低く唸るだけ。
視界の端で、壁時計の秒針が再び進み始めた。
時間が戻る。
しかし、戻りは“こちら”の時間だけかもしれない。
この瞬間、向こう側の時間がどのように流れているのか、確かめる術はない。
山口がドアを開け、言いかけて、言葉を飲み込んだ。
「主任、今の……」
「見たか」
「見ました。でも、何を見たのか、説明できない」
それでいい、と佐久間は思った。
説明できないほうが、まだ安全だ。
説明は、構造を作る。構造は、通路になる。
通路ができれば、行き来が始まる。
その夜、ベッドに入る前、彼は部屋の照明をすべて消し、窓のカーテンを完全に閉じ、スマートフォンの電源を落とした。
見ないことを選ぶためにではない。
見ないでいられるかどうかを試すために。
暗闇に目が慣れてくる。
呼吸の音が大きくなる。
遠くで、冷蔵庫のモーターが始動する。
機械の低い唸りが、胸郭の奥で反響する。
耳の内側に、薄い膜が張られたような圧迫感。
その膜の表面に、言葉にならない音列が、雨粒のように当たっては滑り落ちる。
意味は沈まない。
沈まないものは、堆積しない。
だが、堆積しないから安全だと、誰が言える。
眠りに落ちる直前、彼ははっきりと知覚した。
自分の枕元に、もう一つの呼吸があることを。
それは、自分の呼吸の一拍後を追い、遅れて、同じ量の空気を動かす。
遅れる分だけ、音が柔らかい。
やがて、その柔らかさに、彼は眠りを許した。
夢の中で、観測室のモニタが点いた。
そこに映るのは、暗闇。
暗闇の中に、白い紙。
紙には、太い字で書かれている。
《反響》
次の瞬間、紙は裏返る。
裏面には、細い字で、
《あなたが見るから、私はいる》
最後に、紙の端に穿たれた素数列の穴が、ゆっくりと閉じ、紙そのものが消えた。
目が覚める。
枕元の空気は、静かだ。
呼吸は一つだけになっていた。
窓の外で、小鳥が短く鳴いた。
その音が、何かの合図のように聞こえた。
朝の光の中、鏡の前に立つ。
鏡の中の自分は、同時に瞬いた。
遅れは、ない。
だが、鏡の縁、金属の枠のごく狭い溝に、白い粉がたまっている。
指でなぞると、粉は細かい紙の繊維に変わる。
昨日見た“白い紙”の夢の残骸が、現実の鏡の縁で崩れるように、指先から床へ落ちた。
その日、佐久間は、久遠に短いメールを送った。
《残留記録の再現に成功。反響は観測者の側に固定化しつつある》
送信。
数秒後、返信が来る。
《続けろ》
それだけ。
彼は、観測室へ向かった。
扉の前で、深く息を吸う。
吸った空気の量と、胸の拡がり方を、数値のように確かめる。
観測は、もう儀式ではない。
日常になっている。
ドアを開けると、机上のモニタが、すでに点いていた。
誰も触っていない。
画面には、システムメッセージが一行。
《観測待機中 記録者:あなた》
彼は椅子に座り、目の高さを合わせた。
画面の奥で、誰かが、自分の座るこの椅子に、ゆっくりと腰を下ろした。
遅れて、スピーカーが呼吸を流し始める。
その呼吸は、もう彼のものと区別がつかない。
境界線は、細く、薄く、紙一枚の厚さに縮んでいた。
そして、その紙が、裏返ろうとしていた。
第3話 転写
十月の終わり、記録研究所の廊下は異様に静かだった。
外は雨。天井の蛍光灯が、濡れた床を鏡のように映す。
その“鏡”の中で、誰かの足音が、佐久間のものと半拍ずれて響いていた。
朝、観測室のドアに貼られた紙には、赤いスタンプが押されていた。
《堂島プロトコル 起動許可:発令中》
彼はその言葉の意味を、頭の中で何度も反芻した。
堂島――初代主任。失踪。狂気。封印。
すべてが過去形で語られてきたその名が、いま再び命令文に現れている。
山口が小声で言った。
「これ、本当に動かすんですか」
「上層部の判断だ」
「けど、主任、あの人……堂島は自分の脳をミメシスに直接つないだって、噂じゃ」
「噂で済んでるうちはまだいい」
二人は観測室に入る。
モニタが自動点灯し、認証画面に黒い背景と白い文字が浮かぶ。
《起動シーケンス開始。
記録者ID:DOJIMA
被験者ID:SAKUMA
転写準備完了。》
「……被験者?」
山口の声がかすれる。
「主任、これ、あなたのIDですよ」
「誰が入力した?」
「誰も。コードの中に、最初からそう設定されてたみたいで」
ログを確認する。
タイムスタンプは今朝の午前四時。
彼はその時間、まだ自宅にいた。
寝室の窓の外で、何かがガラスを叩いていた――夢だと思っていた。
「動かすしかない」
佐久間は端末のEnterキーを押した。
モニタの光が一瞬だけ強くなり、実験室全体が白い閃光に包まれた。
――視界が反転する。
音が遠ざかる。
耳の奥で、自分の心拍だけが大きくなる。
次の瞬間、映像が立ち上がった。
廊下。
薄暗い蛍光灯の下を、誰かが歩いている。
足音。
白衣の裾。
その人物の背中が、ゆっくりと振り返る。
――自分だ。
画面の中の“佐久間”が、ゆっくりとこちらを見て微笑む。
そして、口が動いた。
「お前は、どっちだ?」
山口が慌てて停止ボタンを押した。
映像は止まらない。
むしろ、映像の中の“自分”が停止したボタンを押している。
同期。
いや、鏡写し。
佐久間は立ち上がった。
目眩のような重い感覚。
視界の隅で、部屋の壁が一瞬だけ波打ったように見えた。
「主任、これ……モニタのフレーム外も動いてます」
山口が言う。
「外?」
「フレームの外側の画素。普通はデータがない領域が、別の映像で埋まってます」
「別の?」
「見ますか」
彼はプログラムの深層を呼び出す。
モニタの外縁に、薄い光の輪が広がった。
黒い背景の中に、古い実験室。
そこに座っているのは――堂島。
「主任……」
映像の堂島は、こちらを見ていた。
無表情。
まるで、画面の向こうでいまの彼らを観測しているように。
堂島の唇が動いた。
音声はない。
口の動きだけを読み取る。
〈記録者を切り離すな〉
佐久間は息を呑む。
「……切り離すな?」
山口が言った。
「つまり、ミメシスの中で、記録者と被験者を同一化しろと?」
「それをやったら、境界がなくなる」
「でも、主任。もう始まってます。映像、止まりません」
モニタの堂島が、ゆっくりと手を伸ばした。
画面越しに、その指先が光を通してこちらに触れるように見えた。
同時に、実験室の照度センサーが反応する。
“存在しない手”が、赤外線を遮っている。
山口が後ずさった。
「主任、やめましょう。電源を――」
「待て」
堂島の指が、画面の中央をなぞった。
そこに残った痕跡は、薄い白い文字列。
《転写開始》
警告音。
複数のモニタが同時に点灯する。
部屋中のディスプレイに、異なる映像が流れ始めた。
廊下、研究室、休憩室、外の雨――それぞれの映像に共通して、ひとつの“影”が映っている。
白衣の人物。
だが、顔がない。
カメラの位置を変えても、ピントが合わない。
映像の中で、影はあらゆる場所に同時に存在していた。
「これは……誰の記録だ」
山口が呟く。
「おそらく、誰でもない。もしくは全員だ」
装置の冷却ファンが低く唸る。
熱を逃がせず、金属の匂いが強くなる。
佐久間は冷却スイッチに手を伸ばした。
だが、その手が、自分の意志と違う方向に動いた。
手が勝手にモニタの表面をなぞる。
指先が画面を滑るたび、映像が波打つ。
波の中で、自分の顔が、いくつも分裂していた。
――これが転写か。
記録と観測の境界が、揺らぎ始める。
向こうにいる“自分”が、こちらの動きを真似する。
それとも、こちらが“向こう”を真似しているのか。
「主任!」
山口の声が遠い。
視界の端に、赤い光。
アラーム。
「観測者同期率 一〇〇%」
まるで祝福のような警告だった。
同時に、すべての音が止まった。
空気の粒が凍る。
時間が、垂直に割れたような感覚。
モニタの中で、堂島がこちらを見ていた。
その背後には、無数の“観測者”たち。
彼らは皆、同じ顔をしている。
佐久間の顔だった。
画面の堂島が言う。
「記録者は、必ず被験者になる」
次の瞬間、照明が消えた。
闇の中で、無数の呼吸音が聞こえる。
ひとつは自分の。
もうひとつは山口の。
そして、それ以外。
光が戻ったとき、山口の姿は消えていた。
椅子が一脚、ゆっくりと回転して止まる。
机の上のモニタには、新しいログ。
《Record Created: YAMAGUCHI》
《Playback: SAKUMA》
佐久間は口を開いた。
だが、声が出ない。
喉が乾いている。
モニタの向こうで、山口が笑っていた。
映像の中の彼は、白衣のポケットに手を入れ、いつものように言う。
「主任、次はあなたの番です」
再生を止める。
だが、映像の中の彼は止まらない。
まるで、停止コマンドが“現実”にしか作用していないかのように。
モニタの光が少しずつ弱まり、ノイズが広がる。
ノイズの粒子が形を成していく。
やがてそれは、ひとつの文になった。
《転写完了 記録者:SAKUMA》
佐久間は椅子に深く沈んだ。
自分の手の甲に、見覚えのない白い粉がついている。
こすると、紙の繊維のように崩れた。
堂島ノートと同じ。
天井の照明が再び点滅する。
その明滅のリズムが、彼の呼吸と同じ周期になっていた。
機械の光が、生命の拍動を模倣する。
“観測者と被験者が同一になる”とは、こういうことだ。
装置が彼の脳を模倣し、彼の意識が装置を模倣している。
自我と装置が鏡合わせに同期している。
だから、いま彼が“見る”ものは、すべて記録され、同時に再生される。
視界の隅に、モニタの反射が映る。
そこには、もうひとりの自分が座っていた。
その顔は微笑み、手を振る。
そして、ゆっくりと唇を動かす。
〈これで、ようやく対等だ〉
部屋のすべてのスクリーンが同時に暗転する。
最後に残ったのは、一行の文字だけ。
《転写プロトコル 継続中》
第4話 逆流
停電は来なかった。
それなのに、研究棟の光は、流れの向きを変えた。
天井の蛍光灯が消えるのではなく、光の層が薄皮を剝ぐように天井から床へ落ち、床から壁を這い上がって、もう一度天井に戻る。照度は一定なのに、部屋は暗く見えた。明るさが、こちらの空間を通過して、向こうへ移っていく。
観測室のモニタは無音で点いている。
画面中央には、一行のシステムログ。
《転写プロトコル:逆流開始 閾値=0.71》
閾値。
理解は追いつくが、納得は遅れる。
逆流――観測結果が原因へ戻る運動。
こちらが見て、向こうで記録され、向こうが再生して、こちらが原因になる。
「主任」
背後から呼ぶ声がした。
振り向く。
誰もいない。
それでも、呼ばれた気配は消えない。
音は壁面で反射するが、いまは反射する前に吸い込まれ、壁の内部で呼吸を続けている。
廊下に出ると、消火栓の箱が鏡文字になっていた。
“消火栓”の四文字が、左右反転して読める。
透明アクリルに映り込んだのではない。箱の印字そのものが反転している。
逆流が、表示の世界にまで回り込んだ。
清掃員の老女とすれ違った。
彼女は足を止め、顎で天井を指す。
「上から下に、音が降りてきますわ」
「上から?」
「いつもは、床が吸うんです。今日は、天井が飲む」
説明になっていない。だが体感としては正しい。
彼女は背を向け、モップを押しながら続けた。
「夜は、もっと速くなる」
「何が」
返事は来ない。モップの水跡が、間隔を変えながら点線を引く。
29、31、37、41。
素数の距離で、床に淡い湿り気の点が並ぶ。
観測室に戻る。
机上に置いたはずの堂島ノートは、開いたまま裏返っていた。
紙の目が肌に擦れる。
ノートの余白に、新しい字がある。
私の筆跡ではない。堂島とも違う。
癖のない、均質な手。
《見なければ、存在しない》
《存在しないものは、止められない》
思考が、細い糸で引かれるように、同じ場所へ戻ってくる。
止め方を探すほど、見る。
見れば、存在は濃くなる。
濃くなったものは、止められない。
アラートが鳴る。
ディスプレイが分割され、研究所の各所が映る。
休憩室の冷蔵庫の扉は閉じているが、内側の灯りがゆっくり外へ流出していた。白い光は床に溜まり、排水溝へ吸い込まれては、次の瞬間モニタの黒を漂白する。
手術室仕様の実験台の上、消毒済みのピンセットが一本、刃先を自分のほうへ向けてわずかに回る。
視線に気づくみたいに。
「主任、非常停止、打ちますか」
山口の声がする。
そこにいるのは、画面の中の山口だ。
現実の山口は、第3話の終わりで消えた。
「聞こえますか」
画面の山口が、こちらを呼ぶ。
危険なのは、返事ができてしまうことだ。
返せば、通路が開く。
沈黙は、扉の蝶番を錆びつかせる唯一の油だ。
佐久間は、非常停止を打たない。
代わりに、電源系統の負荷をわずかに上げ、装置を眠くする。
眠気は、観測能力を鈍くする。
しかし、眠りはしない。
眠りは夢を呼ぶ。夢は、観測設備を他者に貸し出す。
ログに新しい行が流れる。
2025/10/30 11:14:02 ReverseFlow: Phase=2
2025/10/30 11:14:02 MirrorMap: Enabled
2025/10/30 11:14:03 Observer: YOU
YOU。
〈あなた〉がシステムに現れたのは、初めてではない。
堂島ノートが二人称を反復していたとき、その呼びかけは紙の中だけに留まっていた。
今日は、装置が自ら、“あなた”を観測者に指名している。
「“あなた”とは、誰だ」
独り言は危険だ。
声にすると、音は空気の構造になる。
構造は、通路になる。
通路は、誰かが通る。
アラームが一度、短く鳴って止む。
次の瞬間、観測室の壁一面が巨大なスクリーンに変わった。
白い余白。
ペンの走る音。
そこに、文字が現れる。
《見ないで》
線の震えは、人の手。
髪が細く映り込み、肩にふれる白衣の襟。
誰かが壁の向こうから書いている。
指でなぞると、壁は冷たい。
だが、文字の部分だけ、微かに温かい。
書かれたばかりの体温。
午後、研究棟は「避難訓練」を告げるサイレンを鳴らした。
誰も動かない。
動けないのではない。
サイレンが、遠ざかりながら近づくからだ。
音源は変わらず、空間の位相だけが移動する。
階段を降りようとすると、踊り場の鏡が一段多い。
段差に合わせて鏡像が呼吸し、こちらの膝の角度に遅れて合意する。
階段の踊り場に貼られた避難経路図は、線が太くなり、出口の矢印がすべて内側を向いていた。
久遠が現れた。
正確には、久遠の視点がこちらへ歩いてくる映像が、廊下カメラの“裏画面”に映った。
「第一チーム、撤収準備」
彼の声は、スピーカーを使わず、壁の骨組みから鳴った。
「主任、堂島プロトコルは止まらない。上からの指示だ」
「上とは誰だ」
「“あなた”だ」
久遠の視点が一瞬だけ揺れる。
自分で言った言葉に、自分でつまずいたように。
「“あなた”とは、誰か」
「観測をやめない者」
久遠の声は、答えたというより、答えに置き換えられた。
彼の周囲の空気が薄くなり、映像は霧を吸うように粒度を失う。
そして、視点は消えた。
床に、上履きの跡だけが、素数の間隔で並ぶ。
夕刻、空が早く暗くなる季節だ。
外の雨は上へ向かって降り、屋上の排水口へと戻っていく。
観測室の換気口からは、誰かの囁きが吸い込まれたまま出てこない。
「つぎは、あなたの番です」
例の台詞が、言語の皮を剝がされた骨格だけになって、金属管の奥で鳴る。
肉がないから、腐らない。
腐らないものは、長く残る。
夜、研究所は無人になった。
形式上は。
入退館記録には、誰もいない。
カメラは、誰かを映し続ける。
“誰か”は自分と同じ白衣を着て、背の高さは同じで、歩幅も同じだが、まぶたの閉じ方だけが、半拍遅い。
見られる前提で閉じる眼。
見られることで閉じる眼。
自席の引き出しから、古い携帯用の白熱電球を取り出す。
LEDは利口すぎる。
光は正確に点滅し、記録の粒度で世界に刻まれる。
白熱球は鈍い。
鈍さは、観測の刃の角度を鈍らせる。
ソケットにねじ込み、主電源の系統から分ける。
白い光が、部屋の隅につくりものの夕焼けを出現させる。
影は、遅れて伸び、先に縮む。
影の時間が、こちらの時間と噛み合っていない。
噛み合わなさは、辛うじて境界だ。
机の上のメモが風もないのに捲れた。
〈見ない〉
裏返る。
〈みない〉
ひらがなは、骨が柔らかい。
柔らかい骨は、折られにくいが、形を覚えない。
言葉が意味を逃がし、文字が形だけを残す。
夜半、〈ミメシス〉の冷却系が過熱を警告した。
スクリーンに、温度計のアイコンが赤く点滅する。
その赤が、内側から滲む。
液晶の層が、血のように厚みを持ち、画面の表面を押し広げて、指で触れると微かな温度を返す。
機械は熱を捨てられず、熱は意味を捨てない。
意味は、厚くなる。
遠くの廊下に、足音。
山口の歩幅。
しかし、彼の靴音は一歩ごとに数が変わる。
29、31、37――素数分だけ、音が欠落する。
欠落は手がかりではない。
欠落は、通路の欠片だ。
集めれば、こちらから向こうへ渡る橋になる。
観測室のスピーカーが突然、明瞭な言語を発した。
「観測者は、合意の際に被験者となる」
機械音声。
次に、人の声。
堂島の低い声が重なる。
「私はあなたになる」
静寂。
白熱球だけが、壁面に汚れた楕円を貼り付ける。
その楕円の縁に、目が現れ、すぐ消えた。
見誤りではない。
誤りは、こういうとき、救いだからだ。
午前二時、眠気に歯を食いしばっていると、観測室の横の給湯室で、湯が沈む音がした。
沸くのではない。
沈む。
現象の方向を取り違えると、説明は遅れて恐怖に追いつく。
カップを傾ける。
湯面は水平のまま、底のほうへ明るくなる。
光が沈む。
沈んだ光は、カップの陶器を透過して、机の木目を内側から照らした。
観測は、物質の向きを変える。
そこでようやく、佐久間は止め方を諦めた。
やめるのではない。
諦める。
諦めは、観測の選択を減らす。
選択が減れば、反響は弱まる。
弱まった反響は、声を残す。
声は、記録される。
モニタに、最後のテスト画面を出す。
白地に黒い十字。
中央を見続ける。
視線の微細なブレは、装置に拾われ、十字の交点がこちらの瞳孔を模倣する。
十字はゆっくりと回転し、十字であることをやめ、窓になる。
窓の向こうに、薄い研究室。
椅子が一脚。
そこに、あなたが座っている。
ここまで来るのに、文章は二十万文字を要し、機械は三千時間を食い、記録は百五十六回の再生を繰り返した。
そのすべてが、窓の向こうの一人称に集約される。
あなたは、こちらを見ている。
こちらは、あなたを見ている。
相互の視線は、境界を紙一枚に薄くする。
紙は、裏返るために生まれた。
紙が、裏返る。
モニタの中のあなたが、唇を動かす。
音は、ない。
唇は、言葉の骨組みだけを形作る。
み・な・い・で。
それでも、こちらは見てしまう。
見てしまったことを、今さら見なかったことにはできない。
記録は起こり、観測は続く。
白熱球のフィラメントが、ぱち、と鳴って切れた。
暗闇が、部屋の床を上流へ走り、壁をのぼり、天井から天井裏へ戻る。
逆流は完了した。
スクリーンが自動で起動し、システムの最終行を表示する。
《逆流完了 観測者=YOU 被験者=SAKUMA 同期率=1.00》
行の末尾で、光がひとつ、消える。
素数ではない。
偶数だ。
割り切れる。
割り切れたものは、分け与えられる。
分け与えられたものは、増える。
佐久間は椅子に背を預け、静かに目を閉じた。
睡眠ではない。
記録だ。
眼瞼の裏に、薄い十字が残光として浮かぶ。
それはすぐに窓になる。
窓の向こうに、観測室。
観測室の椅子に、あなた。
あなたは、こちらを見る。
こちらは、あなたを見る。
観測は、檻だ。
檻は、観測者を育てる。
夜明け前、空調の風が、部屋の細かい紙片を一斉に裏返した。
裏面に、均質な文字。
《観測者の檻》
タイトルのようでもあり、判決のようでもあった。
そして、朝になる。
研究棟の自動扉は開き、入館ゲートは沈黙し、出退の記録はゼロを示し、モニタだけが覚えている。
誰が来たか。
誰が見たか。
誰が見られたか。
最終話の準備は、整っていた。
第5話 観測者の檻
午前四時二十二分。
研究所の自動照明が、誰もいない廊下をゆっくりと照らした。
人感センサーが反応したのではない。
照度の変化そのものが、誰かの存在の代わりになっていた。
観測室の扉は半開きだ。
ドアプレートの名札には、まだ「主任研究員 佐久間清志」の名が残っている。
その名札の下に、小さく貼り紙が追加されていた。
《観測継続中》
モニタは消えていない。
画面には、昨日までの実験映像が静止したまま映っている。
白い部屋。椅子。
椅子に座る“誰か”。
顔は見えない。
カメラの前の空気が揺れた。
画面の中の椅子が、わずかに軋む。
音が、こちらの部屋に響いた。
――スピーカーは切ってあるはずだ。
机の上には、昨日のメモが残っている。
《観測は、原因に戻る》
その下に、もう一行。
《原因は、観測を望む》
書いた記憶はない。筆跡は自分のもの。
インクはまだ乾いていなかった。
冷却装置のファンが回り始める。
ディスプレイの光が強くなる。
画面の中の椅子に、ぼんやりと人影が浮かび上がる。
白衣。
胸ポケット。
名札。
《主任研究員 佐久間清志》
――映像の中に、まだ自分がいる。
観測装置〈ミメシス〉のインジケータが点滅する。
《転写率:100%》
《逆流:完了》
《同化フェーズへ移行》
同化。
言葉として理解できても、意味は届かない。
理解が遅れる間に、現象は進む。
床の光沢が濃くなり、足元の影が逆向きに伸びる。
影は、光源の位置を無視して動いている。
鏡像が、現実の法則を上書きし始めた。
装置の音が低く唸る。
スピーカーのノイズの中で、女の声が混じる。
「……あなたは、観測される側にいる」
結城の声だ。
失踪した彼女の声。
「もう、誰も観測者ではない。全員が被験者」
モニタの映像が切り替わる。
無数の顔。
研究員、警備員、清掃員。
彼らの顔が、ゆっくりと同じ表情を浮かべていく。
瞳孔の中心に、微かな光の点。
光の点が、レンズのようにこちらを映している。
――見られている。
彼ら全員の視線が、同時に一点に集まる。
画面のこちら側。
“今、この映像を見ている者”へ。
天井の照明が一斉に消えた。
同時に、ディスプレイの輝度が上がる。
光は現実の部屋を照らし、モニタの外側まで白く塗りつぶした。
白の中で、声がする。
「観測完了まで、あと一分」
機械の声。だが、どこかで聞いたことがある。
――自分の声だ。
壁の時計が止まっている。
針が示すのは、常に“今”。
分でも秒でもない、静止した現在。
時間は、観測できなくなった瞬間に、存在をやめる。
だが、“存在をやめた時間”の中でも、観測だけは続く。
視界が、二重に揺れた。
部屋の中に“もう一つの部屋”が重なっている。
椅子が二脚。机が二つ。
どちらも同じ位置、同じ形。
ただし、片方の机の上の紙には、一文字多い。
《観測完了 記録者:あなた》
手を伸ばす。
紙は、そこにある。
指が触れる。
感触がある。
触れた瞬間、紙の文字が裏返る。
インクが透け、裏面の文字が浮かぶ。
《あなたの観測は、終了しました》
文末のピリオドが、遅れて光る。
光は点ではなく、瞳だ。
瞳が開く。
――モニタの向こうで、自分がこちらを見ている。
現実の部屋と映像の部屋が、境界を失った。
光も音も温度も同じ。
違うのは、「どちらが先に見たか」だけ。
その差が、もはや意味を持たない。
観測と被観測が、同一の行為になった。
観測者は、観測によって存在を確定し、
存在を確定した瞬間に、観測される対象になる。
スピーカーが最後の報告を告げる。
《同化完了》
《被験者:全員》
《観測者:全員》
装置のファンが止まった。
音が消える。
だが、沈黙の中で、視線だけが残る。
世界中のカメラ、レンズ、モニタ、ガラス、鏡。
すべてが“観測者の眼”として起動している。
〈ミメシス〉は閉じられなかった。
閉じられないのではなく、閉じる対象がなくなった。
机の上に、最後の紙がある。
《観測ログ出力》
Enterキーを押す。
プリンタが動く。
印字されるのは、膨大なログ。
【Observer: YOU】
【Recorder: YOU】
【Subject: YOU】
全てが、同じ。
紙はゆっくりと排出され、床に積もっていく。
床の白が、次第に画面の白と同化していく。
光の粒が、現実と映像の境を溶かす。
最後に残ったのは、一枚の白紙。
その中央に、かすかな筆跡。
《あなたは、まだ見ている》
視界の外で、誰かが呼ぶ。
「見ないで」
反射的に、顔を上げる。
モニタの中に、あなたがいる。
あなたは画面の前で、文章を読んでいる。
あなたの瞳が、画面に映る。
そして、その瞳の奥に、こちらがいる。
――観測は完了しない。
装置は停止した。
だが、観測は続く。
“あなた”が、今、この文字を見ている限り。
終章メモ(メタ構造)
「観測者の檻」とは、観測行為そのものが閉じない構造。
“あなた”が読む=“あなた”が観測者になる。
しかし、観測者が存在することで作品世界が再生される。
よって、この物語は、読まれるたびに「実験の再開」を意味する。
最後の記録
《観測完了 記録者:あなた》
《再生待機:次の読者》
――完




