第八十五話 真光と指灯
二人の激闘によって執務室は完全に崩壊し、
戦場は――夜明け前の空に晒されていた。
砕けた壁から冷たい風が吹き抜ける。
瓦礫を踏み砕き、二人は同時に踏み込んだ。
――ガキィィィンッ!!
閃光と紫炎が正面衝突し、
ぶつかり合った力が空間を歪ませる。
圧縮された衝撃波が爆ぜ、
天井が徐々に崩れ落ちてくる。
「考えてみろ!」
ライトが吼える。
「人間と魔族が――互いを認めて、
堂々と同じ空の下で生きていく姿を!!」
総帥は歯を食いしばり、刃を押し返す。
「そんな世界は来ませんよ。
あなたの都合が良い夢に過ぎません!!」
「夢でいい!」
力を込め、ライトは踏み込む。
「遠くたっていい!難しくたっていい!
目指さなきゃ――その未来に、辿り着くことすらできねぇ!!」
総帥の剣が、ゆっくりと黒く染まっていく。
刃の周囲に、紫炎が絡みつき、空気そのものが焼け焦げた。
「そんな未来があるとして……
その間に何人の人が苦しむと思っている?
――《鬼火閻魔剣》!」
振り下ろされた刃は、
空間を灼き裂きながらライトへと迫る。
「――っ!」
ライトは、出力を限界まで高めた《光の剣》で真正面から受け止め、弾き返した。
閃光と紫炎が衝突し、
轟音とともに火花が夜空へ散る。
その刹那――
ライトは、真正面から問いを投げた。
「なあ……」
剣を構えたまま、視線を逸らさずに。
「あんたの奥さんと娘は……そんな世界を、望むと思うか?」
一瞬。
総帥の動きが、わずかに止まる。
「……きっと」
絞り出すように、総帥は答えた。
「私と同じように、思うはずです。
二人の犠牲は、新世界への一歩となった。
……だから、報われる」
その言葉を――
ライトは、強く否定する。
「そうじゃねえだろ!
まだ苦しいんだろ?自分が許せねぇんだろ?」
踏み込み、剣を押し返す。
総帥の瞳が、わずかに揺れた。
ライトは続ける。
「だから俺に、わざわざ自分の話をした。
あんたは――救ってほしかったんだ」
「……救い?」
総帥が、低く笑う。
「この世に、そんなものを求めたことはありませんよ」
「いいや」
ライトは、迷わず言い切った。
「あんたはずっと求めてたんだ。
どうしようもない気持ちを救ってくれるのを」
一瞬の静寂。
「……もう、やめにしよう」
ライトの声が、夜気に溶けるように静かに響いた。
「これ以上、自分を追い込むな……
……もう、楽になっていいんだ」
全身を包んでいた光が、ゆっくりと収束していく。
翼も、鎧も、存在そのものさえ――
ひとつの“核”へと凝縮されていった。
「――この光で、あんたを憎しみから解放する」
やがて、ライトの全身の光は
一本の、眩い剣へと姿を変える。
「……いったい、何を……」
あまりの輝きに、総帥は思わず手をかざした。
「あんたを苦しみから救いたいんだ……
――《真光》――」
刹那。
剣から解き放たれた眩い閃光が、世界を包み込んだ。
それは、熱でも、破壊でもない。
ただ――
憎しみを断ち切り、罪を裁くでもなく、
それでも前へ進ませるための――
“赦し”の光だった。
紫炎が、音もなく掻き消えていく。
同時に――総帥の剣に走った亀裂が、一気に広がった。
――バキィン。
乾いた音とともに、刃は粉々に砕け散る。
溢れ出した光が、逃げ場を失った総帥の身体を包み込んだ。
「……なんですか……これは……?」
総帥が、初めて明確な動揺を見せる。
「……やめなさい……」
拒むように手を伸ばすが、光はその手を包むようにただ静かに触れ続けた。
「……この光は……」
声が、震える。
「……私には……あまりにも……暖かすぎる……」
その声音には、
もはや怒りも、憎しみもなかった。
――その時。
「パパッ!」
光の中から、幼い声が響いた。
「エミリナ……なのか?」
「うん!パパは随分大人になっちゃったみたいだね」
「……ごめんね……
パパの力がないせいで、エミリナとママは……」
「パパのせいなんかじゃないよ。
だからこれ以上、この世界まで恨まないで……」
エミリナは、首を横に振る。
「エミね、パパとママの子に生まれてすっごく幸せだったよ。だからこの世界も好き!
パパとママと出会えたんだから」
「……エミリナ……」
さらに、もう一つの温もりが重なる。
「あなたは、もう十分戦いました」
「……ミユリ……」
「それだけで、私たちは満足です。
だから……また、優しい笑顔のあなたに戻ってください」
光の中で、
レグーナは確かに、二人に抱きしめられていた。
長い戦いの果てに、
初めて触れてしまった“安らぎ”。
そこにあったのは、
後悔でも罰でもなく――
赦されることへの戸惑いだけだった。
総帥の身体を覆っていた異形の鱗が、
ひとつ――またひとつと、音もなく剥がれ落ちていく。
紫に歪められた肉体は、
ゆっくりと、人の形を取り戻していった。
やがて――
光の中で、総帥は膝をつく。
力なく、
まるで糸が切れたかのように。
「……もし……」
震える声で、呟く。
「……もし、こんな光が……
もっと早くに、私のそばにあったなら……」
その言葉を最後に。
総帥の身体は、静かに前へと崩れ落ちた。
責めることも、抗うこともなく。
ただ、すべてを手放すように。
柔らかな光が、すべてを包み込み――
荒れ果てた執務室には、深い静寂が戻った。
ライトは、ゆっくりと剣を下ろす。
「おい……! 大丈夫か……?」
光が薄れていく中、
総帥はかろうじて瞼を持ち上げていた。
唇の端から血が伝い、
掠れた声が、かろうじて形になる。
「……光によって……
憎しみの心を……焼かれたようですね……」
息を吐くたび、胸が小さく上下する。
「強い憎しみで……無理やり保っていた、この身体は……
……とうに、限界を超えていたのです……」
遠のく意識の中で、
総帥はふっと――かすかな笑みを浮かべた。
「……見てください……これを……」
震える指先が、ゆっくりと持ち上がる。
その先に灯ったのは、
炎でも、魔法でもない。
――小さな、小さな光。
風に消えそうなほど淡く、
それでも確かに揺らめく、優しい灯火だった。
「……これは……?」
ライトが息を呑む。
「《指灯》……
私の……本来のスキルです……」
ライトは言葉を失った。
それは戦いとは無縁の、
あまりにも小さく、儚い光だった。
「……何の役にも立たない……
ただ、照らすだけの光……」
総帥は、目を細める。
「けれど……娘は……
“綺麗だ”と……笑ってくれました……」
――ゲホッ。
咳き込み、血が零れる。
それでも、その微笑みは崩れなかった。
「……こんなスキルしか……持たなかったせいで……
娘も……妻も……守れなかった……」
声が、震える。
「平和だったはずの日常は……
気まぐれに現れた魔族によって……
……簡単に、打ち砕かれたのです……」
「……レグーナ……」
ライトが、名前を呼ぶ。
「……私だけが……生き残ってしまった……
それが……間違いでした……」
弱々しい声。
だがその瞳には――
ようやく、怒りも憎しみもない、
“人間の光”が戻っていた。
「そんなことはねえぞ……!」
ライトが、必死に声を張る。
「平和のために、必死に頑張ってきたじゃねえか!
ただ……やり方を、少し間違えただけだ!!」
総帥は、ゆっくりと首を振った。
「……相変わらず……甘いですね……あなたは……」
わずかに視線を空へ向ける。
「……この命も……もう……長くは……持たないようです……」
指先の《指灯》は、ゆらゆらと揺れながら、ゆっくりと弱まっていく。
それでも、その光は――不思議と温かかった。
「……その光、綺麗だな」
ライトは、そっと言った。
「あんたはいろんなスキルを使ってたけどさ……
それが、一番あんたに合ってるよ」
総帥は、わずかに目を細める。
その表情は、どこか信じられないものを見るようだった。
「……本当に、そう思いますか?」
「ああ」
ライトは、迷わず頷く。
「誰かの心を照らす光だ。
……戦うためだけのスキルより、ずっと強い」
総帥の瞳に、かすかな涙が滲んだ。
「……もし……あの時……」
言葉を探すように、息を吸う。
「……あなたのような人間が……
そばにいてくれたなら……」
その言葉は、最後まで形にならなかった。
《指灯》の光が、ふっと揺れ――
そして、静かに消えた。
「レグーナ……あんたもただ平和を夢見たひとりじゃねえか……どうしてこんなやり方……」
ライトは、しばらく動かなかった。
消えたはずの光の残滓を、じっと見つめていた。
やがて――
東の空が、わずかに白み始める。
砕けた壁の向こうから、
一筋の朝日が差し込んだ。
夜明けの光が、瓦礫と血の上に静かに降り注ぐ。
「……夜が、明けたな」
風が吹き抜け、
静寂の中に、微かな温もりが戻ってくる。
光の粒が宙を舞い、
まるで総帥の《指灯》が、空へ還っていくようだった。
ライトは、朝焼けを見上げて、静かに呟く。
「……この光も、俺が背負う」
拳を、そっと握る。
「レグーナみたいな――
こんな悲しい人が、もう生まれねぇ世界を……」
「共存で、俺が作ってみせる」
東の空は、ゆっくりと金色に染まっていく。
その光の中で、ライトはほんの少しだけ、微笑んだ。
――闇を越えて、夜が明けた。
それは、終わりではない。
“新たな始まり”の光だった。
「……帰るか」
⸻
――魔族殲滅軍・研究所。
総帥の死と施設の崩壊により、
施設全体を支配していた制御装置は完全に崩壊していた。
警告音はすでに途絶え、魔導陣は薄れ、
研究所はただの“檻のない廃墟”と化している。
崩れ落ちた鉄格子の奥。
闇の底から、濁った唸り声が漏れ出した。
「……グゥゥ……ガァアア……」
黒い靄に包まれた影が、ゆっくりと立ち上がる。
それはかつて――
“人間”だったもの。
理性を失い、意志を砕かれ、
兵器として作り替えられた存在。
魔導生物。
ひとつ、またひとつ。
崩壊した壁の隙間から、
拘束を失った魔導生物たちが這い出していく。
誰に命じられるでもなく、
誰を守るでもなく。
ただ――
残された破壊衝動だけに突き動かされて。
研究所跡地から溢れ出した黒い群れは、
夜明けの光に染まり始めたゲトラムの街へと向かった。
――グオオオオオォォォッ!!
咆哮が、朝の静寂を引き裂く。
穏やかな陽光に包まれていた街が、
一瞬にして悲鳴に塗り替えられた。
逃げ惑う人々。
開き放たれた扉。
踏み潰される露店。
魔族殲滅軍・研究所跡地から解き放たれた魔導生物の群れが、
明け方の市街地へ――雪崩れ込んだのだ。
「ぎゃああああっ!!」
市民の悲鳴が、夜明けの街に響き渡る。
「やめろ! 来るな!!」
魔族殲滅軍の兵士たちが、必死に武器や魔具を構えて迎え撃つ。
だが――その抵抗は、あまりにも脆かった。
魔導生物たちは、人の理解を超えた力を誇っていた。
ある者は、全身に灼熱の炎を纏い、
ある者は、建物そのものを叩き潰す怪力を持つ。
装甲ごと噛み砕く牙を持つ個体。
高速移動で街路を縦横無尽に駆け回る影。
屋根の上を飛び、宙を漂う異形の存在。
それぞれが、かつて“人間”だったとは思えぬ姿で、
ただ破壊だけを撒き散らしていく。
「くっ……なんて奴らだ……!」
兵士が歯を食いしばる。
「止められない……!!」
次の瞬間、指揮官の怒号が飛んだ。
「撤退しろ!! 市民を優先しろ! 避難誘導だ!!」
だが――
その命令は、すでに遅すぎた。
街のあちこちで建物が炎に包まれ、
瓦礫が崩れ落ち、
逃げ惑う人々が狭い路地に溢れ返る。
泣き叫ぶ声。
倒れ込む足音。
踏み潰される日常。
夜明けを告げるはずだった光は、
もはや血と煙に染まり始めていた。
――そのすべてを。
崩れかけた執務室の壁。
砕けた石の隙間から――
ライトは、無言で見下ろしていた。
夜明けの光の中で、黒煙がいくつも立ち昇り、
吹き抜ける風が、焦げた匂いと人々の叫びを運んでくる。
拳が、静かに握り締められる。
「……嘘だろ……」
ライトは、呆然とその光景を見つめた。
「……なんで……こんなことに……」
総帥との死闘。
限界を超えて引き出した力の代償が、今になって全身を蝕んでいた。
視界は霞み、輪郭が歪む。
足元の感覚は薄れ、地面に立っている実感すら曖昧だ。
力を振り絞ろうとした瞬間――
身体が言うことをきかず、膝が崩れ落ちた。
「……くそっ……」
瓦礫に手をつき、歯を食いしばる。
「……動けよ……!」
《光の翼》を展開しようとするが、
背中に灯ったのは、ぼやけた淡い光だけだった。
そして、それはすぐに霧散する。
「……っ……はぁっ……はぁ」
息が荒くなる。
「……総帥を倒してしまった影響なのか……?」
震える声で、そう呟き――
次の言葉が、胸を締め付けた。
「……だとしたら、
こんなの……俺のせいじゃねえか……!」
怒りと後悔が入り混じった叫びが、
崩れた石と鉄の隙間に吸い込まれていった。
街は燃えている。
人々は、今この瞬間も逃げ惑っている。
――なのに、自分は動けない。
その現実だけが、
ライトの胸を、容赦なく抉り続けていた。
外から、悲鳴混じりの声が一斉に湧き上がった。
「魔族が攻めてくるって噂は……本当だったんだ!」
「総帥はいったい何をしているんだ!」
「魔導生物は魔族に操られてるって話だ!」
「……人魔革命団が裏で糸を引いてたんだろ!?」
「共存なんて――最初から嘘だったんだ!!」
怒号と恐怖が入り混じった言葉の刃が、
風に乗ってライトの耳へと突き刺さる。
一つひとつが、胸を抉った。
「……っ……」
ライトは俯き、唇を噛みしめる。
「……俺の……せいだ……」
声は、かすれていた。
「早く……行かなきゃ……
全てが憎しみに染まる……」
視線の先で、街は燃えている。
人々は、恐怖に駆られ、誰かを憎む理由を探している。
「……いや、俺自身が……」
握りしめた拳が、震えた。
「……憎しみを……広げてる……」
その言葉は、
誰に向けたものでもなく――
自分自身へと、深く突き刺さっていた。




