第八十三話 弱者レグーナ
《氷蛇》によって身体が凍りついていく中、
総帥は感情の起伏を一切見せず、淡々と語り始めた。
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――小さな農村ベルテ。
レグーナという男は、
ベルテと呼ばれる小さな農村で育った。
魔素は薄く、魔族が現れることもほとんどない土地。
戦乱とは無縁で、貧しくはあったが、穏やかな日々が流れていた。
レグーナが持って生まれたスキルは、
戦闘においてはまったく役に立たないものだった。
それでも彼は不満を口にすることなく、
畑を耕し、家族を支え、勤勉に生きてきた。
そんなレグーナにも――
人生の転機は訪れる。
ミユリとの婚約だった。
レグーナとミユリは、ベルテの村で出会った。
派手さはないが誠実で真面目、
困っている人を放っておけない――
そんなレグーナのお人好しな人柄に、ミユリは少しずつ惹かれていった。
そして、二人は共に生きる道を選んだ。
籍を入れ、ささやかながらも温かな家庭を築く。
そして――
レグーナとミユリはひとりの子を授かった。
愛娘、エミリナ。
その小さな命を腕に抱いた時、
レグーナは自分こそが、世界一の幸せ者だと心から思った。
――あの日が来るまでは。
「ミユリ、エミリナ、いってきます!」
「あなた、いってらっしゃい」
「早く戻ってきてね! 今日はエミの誕生日だから!」
二人は笑顔で手を振った。
「あはは、今日は早めに切り上げるよ」
そう言って、レグーナはエミリナの頭を優しく撫でる。
「やったー!! パパ大好き!」
エミリナが勢いよく抱きついてくる。
「もう、エミリナったら。
パパはお仕事なのよ」
ミユリが苦笑しながらたしなめる。
レグーナはいつも通り、
妻と娘に見送られながら家を出て、農地へと向かった。
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「今日はエミリナの誕生日だからな。
早く帰ってプレゼントを……」
プレゼントを持ってることを確かめ、帰路に着くレグーナ。
いつもなら、戸口で笑顔の妻ミユリと、
無邪気に駆け寄ってくる娘エミリナの声が迎えてくれる。
だが――その日は二人の姿は見えなかった。
「あははは、まったく。
パパを驚かせるつもりだな!」
勢いよく扉を開け、目にしたのは
今まで見かけたこともない大柄な熊型の魔族だった。
「あ……あああ……」
床には、胴を深く裂かれたミユリの亡骸。
その奥で、血に染まった小さな体を抱え、
怯えきった瞳でこちらを見つめるエミリナ。
「パパッ……ママが……ママがエミを庇って……
ごめんなさい。エミが我儘言ったから……」
その声に、思考が弾けた。
戦闘の経験など、あるはずもない。
それでもレグーナは、手にしていた鍬を握り締め、魔族へと突進した。
「出ていけ……!!
出ていけ、化け物ォォ!!」
――バキッ!
乾いた音と共に、鍬は呆気なく折れた。
次の瞬間、怒り狂った魔族の腕が振り抜かれ、
レグーナの体は壁へと叩きつけられる。
「ぐはっ!」
「……パパ……!」
床に伏したまま、
エミリナが泣きながら、必死に手を伸ばしていた。
「……エ、エミリナ……っ。逃げなさい」
「やだ……パパ……一緒に――」
エミリナの指先が届く、その直前――
――グシャァン!
湿った音が、家の中に響いた。
「……あ……あああああ……」
エミリナの小さな身体は、
魔族の爪によって引き裂かれ、
二度と動くことはなかった。
その瞬間――
レグーナの世界は、完全に壊れた。
次に目を覚ました時、
ベルテの村はすでに壊滅していた。
焼け落ちた家屋。
血と瓦礫に覆われた地面。
そして――
目の前には、愛する妻ミユリと、娘エミリナの亡骸。
「……なぜ……」
喉から漏れた声は、かすれて形にならなかった。
「……なぜ、私だけが……生き残ってしまったのだ……」
理解したくない現実が、容赦なく突きつけられる。
何度目を閉じても、光景は消えなかった。
レグーナは絶望の中で、
自ら命を絶つことすら考えた。
「もう死のう……」
ロープで輪をつくり、首にかける。
――だが、そのたびに脳裏をよぎる。
あの熊型の魔族。
ミユリとエミリナを目の前で奪った、あの化け物の姿。
溢れ出す涙。
「……このままでは、死ねない……」
復讐。憎悪。
それだけが、彼を繋ぎ止めた。
しかし――
皮肉な現実が、さらにレグーナを打ちのめす。
あの熊型の魔族は、
すでに通りがかった冒険者によって、
あまりにも呆気なく討伐されたというのだ。
怒りの行き場を失ったレグーナの胸には、
ただ、空虚だけが残った。
「……ならば……」
個人への復讐は、意味を失った。
その代わりに芽生えたのは、
より大きく、より歪んだ感情。
――命に変えて、世の中の魔族を一体でも多く殺す。
それが、
自分が生き残ってしまった理由なのだと、
無理やり納得するために。
レグーナは、冒険者になることを決意した。
それは――
復讐のためではない。
正義のためでもない。
ただ、
妻と娘を失ったこの怒りを、
どこかに向けなければ、生きていられなかった。
行き場を失った憎しみ。
吐き出す先を失った絶望。
その矛先を探すように、
レグーナは剣を手に取った。
だが――
すべてを失った彼に、現実はあまりにも残酷だった。
レグーナは、戦闘に有効なスキルを一切持たない。
それだけで、冒険者としての価値は決まってしまう。
「そんな雑魚スキルじゃ、魔族狩りなんて無理だ」
「悪いが、他を当たってくれ」
そう言われ、パーティに加わることすら叶わない。
煙たがられ、蔑まれ、やがて誰も相手にしなくなった。
それでも彼は諦めなかった。
ひとりでも魔族狩りへ出た。
――結果は、無惨だった。
勝てない。
逃げるしかない。
命からがら帰ってくるだけ。
そんな日々が、何度も、何度も続いた。
レグーナはそこで初めて知る。
農村ベルテにいた頃には、決して感じることのなかった――
この世界の、どうしようもない不公平さを。
「ちくしょう!……こんな事があってたまるか!」
レグーナはこの世の全てを呪った。
そして、この世界そのものに、期待することをやめたのだ。
努力すれば報われる?
正しく生きれば救われる?
弱き者にも居場所がある?
そんな言葉は、すべて嘘だった。
現実は単純で、冷酷だった。
強いスキルを持つ者だけが生き残り、他者を見下す。
持たぬ者は見捨てられる。
それが、この世界の“常識”だった。
幸せだった暮らしは、
魔族の――ただの気まぐれひとつで、あまりにも簡単に奪われた。
力ある者なら、魔族ごときに奪われはしない。
力ある者なら、魔族に怯える必要もない。
では――
力なき者は、奪われても仕方がないのか。
力なき者は、常に魔族に怯えながら生き続けなければならないのか。
弱いというだけで、
守られず、救われず、切り捨てられる。
そんな世界を“当たり前″として回している、
この歪んだ仕組み。
そのすべてが――
レグーナには、どうしても許せなかった。
夜、剣を握りしめながら、レグーナは何度も問いかけた。
――なぜ、力を持たぬ者は奪われるだけなのか。
――なぜ、生まれつきで価値が決まるのか。
――なぜ、弱いというだけで、家族を失わねばならなかったのか。
答えは、どこにもなかった。
だから、彼は理解した。
――この世界は、最初から間違っている。
魔族がいるから争いが起きるのではない。
スキルに優劣があるから不幸が生まれるのではない。
――“力を持つ者だけが正義になれる世界”だからだ。
ならば、変えなければならない。
魔族を憎み、滅ぼすだけでは意味がない。
弱者を踏み潰すこの世界そのものを、壊さなければならない。
レグーナの怒りは、やがて純粋な憎悪へと変わっていく。
誰か一人を恨む感情ではない。
この世の理そのものを否定する、
冷え切った、終わりのない憎しみだった。
「……弱き者が奪われてしまうなら」
剣を握る手に、力がこもる。
「……奪えない世界を、作るしかない」
その瞳に、もはや涙はなかった。
あるのは、決意でも正義でもない。
――この世界を、二度と信じないと誓った男の目だった。
そんなレグーナの前に――
ひとりの男が現れた。
擦り切れた外套に身を包み、
感情の読めない目で、男は静かに問いかける。
「――魔族と、張り合える力が欲しくはないか?」
あまりにも唐突で、あまりにも都合のいい言葉だった。
レグーナは当然、疑った。
だが――
疑念よりも先に、胸に浮かんだのは虚無だった。
詐欺でもいい。騙されてもいい。
どうせ、この世界に失うものなど、もう何も残っていない。
そう思った時点で、答えは決まっていた。
レグーナは、無言で男の後をついていった。
連れて行かれた先は、地下深くに造られた施設だった。
無機質な石壁。
鉄の扉。
鼻を突く、濃密な魔素の匂い。
そこは――
“改造スキル”の実験を行う研究施設だった。
男は淡々と説明した。
生まれ持ったスキルに依存せず、
後天的に力を与える技術。
だがその方法は、あまりにも危険で、未完成だった。
純度の低い粗悪な魔素を人体に移植する。
拒絶反応、精神崩壊、肉体の変異――
成功例は、これまで一度もない。
ほとんどが失敗。
生き残った者はいない。
普通なら、そこで立ち去る。
だが、レグーナは違った。
説明を聞き終える前に、
彼は静かに、しかし迷いなく口を開いた。
「……受けさせてください」
研究者たちが、目を見開く。
正気とは思えなかった。
だが、レグーナの瞳には迷いも恐怖もなかった。
恐れる理由が、もう存在しなかったからだ。
実験は、凄惨を極めた。
魔素が身体を蝕み、
意識が引き裂かれ、
何度も、何度も死の淵を彷徨った。
だが――
レグーナは折れなかった。
彼の精神は、すでにこの世界への期待を捨てていた。
希望に縋らず、救いを求めず、
ただ憎悪だけを燃料に、意識を繋ぎ止めていた。
魔族への怒り。
弱者を切り捨てる世界への憎しみ。
そして――
『生まれで価値が決まる世界を壊したい』という、歪んだ願い。
それらすべてが、
彼の精神を異常なほど強靭なものへと変えていた。
結果――
レグーナは、生き残った。
否――
“適応した”。
人類史上、初めて。
後天的な“改造スキル”の定着に成功した存在。
それは偶然ではない。
奇跡でもない。
この世界を憎み、この世界を否定し、
それでもなお、生きる理由を探し続けた男だからこそ辿り着いた結果だった。
レグーナは、ただの実験台では終わらなかった。
彼は理解したのだ。
――力を与えられるのを待つのではない。
――力を“作り出す側”に回らなければ、この世界は変わらない。
こうして、弱者だった男は、
実験施設を隠蔽し、憎悪を集め、選別するために
魔族殲滅軍を立ち上げた。
それは同時に――
“総帥”と呼ばれる存在への、第一歩でもあった。
それは、復讐でも救済でもない。
ただ――
この歪んだ世界を、力によって書き換えるための始まりだった。
魔族殲滅軍は、
単なる軍事組織ではない。
レグーナ――後の総帥がそれを作った理由は、
魔族を倒すための戦力を集めることではなかった。
目的は、もっと冷酷で、もっと現実的だった。
魔族殲滅軍は、
強い憎悪を抱いた人間を、効率よく集めるための器だった。
家族を奪われた者。
故郷を焼かれた者。
魔族に人生を壊された者。
そうした人間は、
恐怖よりも怒りを、
理性よりも復讐心を優先する。
そして――
危険とわかっていても、力を求める。
総帥はそれを、誰よりも理解していた。
《祝福の刻印》。
それは表向きには
「人類を守るために与えられる“特別なスキル”」。
だが、その実態は違う。
《祝福の刻印》とは、
改造スキルを定着させるための実験工程に過ぎなかった。
特殊な技術で魔素を人体に埋め込み、
精神と肉体の限界を超えさせ、
どこまで“人間が耐えられるか”を測る。
成功すれば、
後天的に強力なスキルを扱える人間が生まれる。
失敗すれば、魔導生物となるか、
人格を失うか、あるいは命を落とす。
だが総帥にとって、それは問題ではなかった。
魔族殲滅軍に集まる人間は、
“実験に耐える素質”を持っている可能性が高い。
――魔族への、底知れぬ憎悪。
――この世界を壊しても構わないという覚悟。
――力を得るためなら、命すら差し出す心。
それらを持つ者だけが、
《祝福の刻印》に“適応”できる。
だからこそ、
魔族殲滅軍は必要だった。
憎悪を煽り、
戦いを正義として与え、
志願という形で人を集める。
そして――
気づかぬうちに、実験体として選別する。
兵士は兵士であり、
同時に、改造スキルのデータそのもの。
戦場で得られる情報。
暴走の兆候。
精神汚染の進行。
成功例と失敗例。
それらすべてが、
《祝福の刻印》を“完成させる”ための材料だった。
総帥にとって、
魔族殲滅軍とは――
人類を守る軍隊であると同時に、
人類を“作り替えるための研究施設”だった。
そして最終的に目指すのは、
生まれ持ったスキルの優劣に左右されない世界。
誰もが、等しく力を持てる世界。
――魔族を滅ぼさずとも、
人間が魔族を完全に凌駕する世界。
真の平和に必要なのは、
感情でも正義でもない。
十分な数の“実験体”と、
完成された《祝福の刻印》だけだ。




