第六十九話 決心
研究施設を抜け出した三人は、互いに言葉を交わすことなく、静かにその場を後にした。
あまりにも重い真実を突きつけられ、誰も言葉を見つけられなかったのだ。
夜の闇に溶けるように、
それぞれが、胸に消えない何かを抱えたまま――自分の住処へと帰っていった。
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重い足取りで部屋に入ると、グレンダは扉を乱暴に閉め、そのままベッドへ腰を落とした。
「……クソッ!」
感情の行き場を失った拳が壁に叩きつけられる。
鈍い音と共に、手の甲に痛みが走ったが、それすら今はどうでもよかった。
脳裏に焼きついて離れないのは――
檻の中で呻いていた“魔導生物”の姿。
「あれが……元は人間だったなんて……」
そう理解した瞬間、胸の奥が煮えたぎるように熱くなった。
「人体実験だと……冗談じゃねぇ……」
吐き捨てるように呟き、膝に肘をついて頭を抱える。
思えばずっと、違和感はあった。
総帥のやり方。
人を人として扱わず、ただの駒のように消費する冷たさ。
――それでも。
魔族を殲滅し、平和な世界を築くためなら必要なことだと、無理やり納得させてきた。
だが――
その正義が、ここまで非道なものだったとは。
「……これじゃ、魔族殲滅軍が悪党みたいじゃねぇか」
苦々しく吐き捨てた瞬間、ふと脳裏に浮かんだのは、平和のために必死で戦うあの顔だった。
「なぁ、ライト……」
誰に聞かせるでもなく、天井を仰ぐ。
「あたしは……どうすりゃいい……?」
斧を振るい、敵を斬ることしか知らなかった。
それで全てが解決すると、信じてきた。
――だが今、その力をどこへ向ければいいのか分からない。
答えの出ない問いを抱えたまま、夜の静寂が重く部屋を包み込んでいった。
⸻
静かに扉を閉めたアヤは、癖のように足音を殺しながら部屋の中央に立った。
忍びとして身についた習慣は、心がどれほど乱れていても抜けない。
「ユージは……。やっぱり帰ってきてないのね」
ユージは施設に寝泊まりすることが多く、家に帰ってくることは少なかった。
「……ユージ……」
震える声で呼んだ名は、喉の奥で掠れて消える。
ユージのベッドに腰を下ろし、両手で顔を覆う。
浮かんでくるのは、研究施設の奥で見た光景。
変色した肌。濁った瞳。かすかな呻き声。
変わり果てた人間の姿。
そして――
訓練場で、別人のように暴れていたユージの姿。
「ユージは、最低でも《祝福の刻印》……いや、改造スキルを二度も受けてる……」
その意味を、彼女は痛いほど理解してしまっていた。
このまま進めば――
やがて自我を失い、魔導生物として暴走する未来。
「……全部忘れて……私のことも自分のことすらわからなくて、誰かを傷つけるかもしれない……」
そんな結末だけは、絶対に受け入れられなかった。
彼の人生がそんなことで終わっていいはずがない。
ユージは前に言っていた。
『魔族に家族や故郷を奪われる人をこれ以上増やしたくない。その為に、これからは戦っていきたい』
その戦った結果がこれじゃあまりに報われない。
私は支えると決めていた。
あの一件以来、憔悴してしまった彼を。
それなのに――
隣にいながら、何ひとつ止められなかった自分が、悔しくて仕方がない。
アヤはぎゅっと拳を握りしめ、深く息を吸い込んだ。
「……まだ終わってないわ」
顔を上げた瞳に、静かな決意が宿る。
「私が……止める」
ユージを想う、ひとりの人間として――
彼女は、動く覚悟を固めていた。
⸻
アリスは部屋に戻ると、机の上に小さな灯りをともして腰を下ろした。
薄暗い部屋の中、その光だけが彼女の手元を照らしている。
手の中にあるのは――
ノイスの残した魔石。
潜入で目にした研究施設の光景が、どうしても頭から離れなかった。
胸の奥がざわつき、呼吸が浅くなる。
「……あの倉庫にあった結晶……あれは魔石と同じような構造だった……」
棚に並んでいた、鈍く光る結晶の列。
「……人から抜き出された魔素で、作られていた……」
魔法使いとして魔素に敏感な彼女には、はっきり分かってしまった。あれは自然に生まれたものではない。
誰かから抜き出された魔素であると。
そして――
今、手の中にあるこの魔石からも。
「……」
アリスは目を閉じる。
そこには、かすかだが確かに残る“温もり”があった。
ノイスの魔素。彼の気配。
「……もしかしたら……」
喉が震え、声が小さく揺れる。
「この魔石から……ノイスのスキルを……」
言葉を続けるのが怖かった。
「……私の中に、呼び戻せるかもしれない……
もう一度……ノイスを感じられるかもしれない……」
胸が締め付けられ、息が詰まる。
その瞬間――
研究施設で見た“魔導生物”の姿が脳裏をよぎった。
歪んだ体。
濁った瞳。
人だった面影。
全身が、ぶるりと震える。
「……私も……ああなるかもしれない……」
思わず自分を抱きしめる。
「……何を考えてるの、私……」
必死に理性がブレーキをかける。
それでも――。
この魔石に宿る魔素は、永遠ではない。
いつか必ず、薄れ、消えてしまう。
その時にはもう――
ノイスを“感じる”ことは、できなくなる。
「……そんなの……絶対に嫌……」
掠れた声で呟き、震える指先で魔石を強く抱きしめる。
唇にそっと押し当てた、その瞬間――
ふわり、と。
魔素がわずかに反応し、空気が揺らいだ。
「……っ……」
心臓が跳ね上がる。
「……感じる……」
息を呑む。
「……ノイスの力……」
胸の奥が、熱くなる。
「……もう……どうなってもいい……」
涙が滲み、声が震える。
「私は……ノイスをどうしても忘れられない……」
脳裏に浮かぶのは、優しい笑顔。
気味悪がられていた自分の魔法を――
「好きだ」と言ってくれた、あの声。
ノイス……
ノイス……。
できるかどうかなんて、分からない。
忍び込んだことが露見すれば、消されるかもしれない。
適合しなければ、魔導生物になるかもしれない。
それでも――。
もし、ほんの一瞬でも。
彼を近くに感じられる可能性があるのなら。
アリスは、涙を浮かべたまま静かに目を閉じた。
そして、決意する。
――この魔石を媒介に、
ノイスのスキルを、自分に取り込む。
それがどんな代償を生むとしても。
アリスは居ても立ってもいられず、総帥の執務室へと向かっていた。
夜更けの廊下は静まり返り、足音がやけに大きく響く。
重厚な扉の前に立った瞬間、心臓が早鐘のように脈打った。
(……今さら、引き返せない)
迷いを振り払うように、扉を押し開ける。
そこには――
机に向かい、淡々と書類をめくる総帥の姿があった。
冷たい視線が、ゆっくりとアリスを捉える。
「……こんな夜更けに、珍しいお客様ですね。
――何のご用ですか?」
低く、感情の読めない声。
アリスは一歩進み、胸の奥の震えを押し殺して口を開いた。
「……お願いが、あって来ました」
「お願い……ですか」
アリスは、胸に抱えていた魔石を両手で差し出した。
「この魔石の中に残る魔素を取り出して……
改造スキルとして、私に埋め込んでください」
一瞬、空気が凍りつく。
総帥の目が、わずかに細められた。
「……何故、あなたがそれを知っている?」
作られていた優しい雰囲気が消え、鋭い視線が突き刺さる。
思わず足がすくみそうになるが、アリスは必死に踏みとどまった。
唇を噛み、震える声で続ける。
「……私は、知ってしまったんです。
総帥の《祝福の刻印》の秘密を」
総帥の眉が、ほんのわずかに動く。
「ですが……誰にも話していません。
知っているのも私ひとりです」
(これは、私の勝手だから。二人を巻き込むわけにはいかない)
沈黙。
やがて――
総帥の口元が、ゆっくりと吊り上がった。
「……なるほど。
それを知ってなお、改造スキルの施術を望むとは……」
その声には、興味と嘲りが混じっていた。
アリスは魔石を強く抱き直す。
「この魔石の魔素は……ノイスの魔素なんです……
私の、大切な人です」
声が、わずかに震える。
「だから……その力を、私の中で生かしたい。
もう一度……一緒に戦いたいんです」
総帥はしばし無言のまま、アリスを見つめていた。
やがて、椅子を押して静かに立ち上がり、ゆっくりと歩み寄る。
「……非常に、面白い」
低く、愉悦を含んだ声。
「魔素を“自ら持ち込む”者など、初めてです」
アリスの前で足を止め、魔石を一瞥する。
「いいでしょう。その力――
魔族殲滅軍のために、役立ててください」
先程までの重苦しい雰囲気は消え、また作られた優しい笑顔に戻っている。
「……い、いいのですか……?」
思わず漏れた声。
「もちろんです。
力を求める者に与えることも、我々の役目ですから」
その言葉に、アリスの胸がざわつく。
(……信じていいの?)
研究施設で見た光景が、一瞬脳裏をよぎる。
だが――もう、後戻りはできなかった。
アリスは魔石を胸に抱きしめ、強く頷く。
「……お願いします」
総帥の笑みが、さらに深まる。
「実によろしい。
では――あなたの願いを、叶えて差し上げましょう」
そう言って、総帥はアリスの頭にゆっくりと手を置いた。
次の瞬間――
視界が暗転する。
身体の感覚が、すっと遠のいていく。
「……おやすみなさい」
意識が沈む直前、そんな声が聞こえた。
そして、アリスの体は総帥に抱き止められていた。
すると奥から呼び出された研究員たちが慌てて駆け寄り、
ぐったりとしたアリスの身体を抱え上げる。
その背を見送りながら、研究員の一人が恐る恐る口を開いた。
「……よろしいのですか?
この娘に、力を与えて……」
総帥は、冷たく笑った。
「大丈夫ですよ。欲しいままに力を与えるのが我ら、魔族殲滅軍の流儀ですから……
しかし、《祝福の刻印》について嗅ぎ回る娘です。
いつ我々を裏切るかわかりませんね」
書類を机に戻し、淡々と言い放つ。
「――“例の暗示”でも、一緒に施しておいてください」
視線が、氷のように冷える。
「ふふふ、決して私に逆らえぬようにね」
その声音は穏やかでありながら――
瞳は、まったく笑っていなかった。




