第五十六話 氷の要塞
ーー北の海。
果てしなく広がる氷の海原。
吹き荒れる烈風は凍てつく刃のようで、三人の翼を容赦なく削っていく。
「くっそ……!風が強すぎる!前に進めねえ!」
「弱音を吐くな! ここで止まれば、凍てつく海に呑まれるぞ!」
龍鈴は顔を上げ、氷霧に霞む空を指差した。
「……もうすぐです。あの雲の向こうに……玄武様の領域があるはず……!」
ーーガゴォォォン!!
突如として海面が大きく盛り上がり、
氷山そのものが浮上したかのように、巨大な影が姿を現した。
「なっ……なんだあれ……!」
「氷の……要塞……?」
それは巨大な氷塊で組み上げられた城砦。
そして、その中央に――黒い甲羅を背負った巨躯が立っていた。
北魔王・玄武。
低く重い声が、海と空を同時に震わせる。
「……よく来たな。魔王の娘……そして、その眷属どもよ」
その威圧に、三人は思わず息を呑む。
龍鈴が静かに頭を垂れた。
「……やはり、お待ちくださっていたのですね」
玄武の瞳が氷より冷たく、鋭く光った。
「お前たちが来ることなど――とうに分かっていた」
氷海を支配する魔王は、わずかに顎を動かし、問いかける。
「さあ――何を語りに来た?」
⸻
ーー氷の要塞・玄武の間。
三人が足を踏み入れたその空間は、もはや玉座の間という概念から逸脱していた。
壁一面には氷で作られた棚が連なり、
その中には古びた巻物、魔導具、奇妙な魔石、
さらには得体の知れない器官や標本が凍りついたまま保存されている。
床には幾重にも魔法陣が走り、
透明な氷の内部では——生きているのか死んでいるのか判別できない
魔族や海獣たちが、まるで時間を止められたように眠り続けていた。
「……なんだかここは、研究施設みたいだな」
思わず漏れたライトの声に、北魔王はゆっくりと振り返った。
「まさかここに人間が立ち入る日がくるとはな……
魔族だって人間と同じように知を求める。
だが、その“果て”を知ろうとする者は少ない」
冷たい瞳が静かに三人を映し出す。
龍鈴は周囲を見渡し、凍りつく空気の中、かすかに息を呑んだ。
「これは……魔族と人間両方の……?」
「そうだ。どちらの血も、どちらの魂も……
わしは研究のために集め、解析してきた」
玄武の声は、氷の結晶がぶつかるように乾いていた。
「人間と魔族は互いに滅ぼし合い、いずれ片方が消えるのか。あるいは……この争いの構図は永劫に続くのか。
その行く末を一番に案じていた黄龍はもうおらん」
その名が出た瞬間、龍鈴の肩がわずかに震えた。
「……父のことを……よくご存じなのですね」
玄武は静かに目を閉じ、低く答えた。
「魔王・黄龍とは長い付き合いだったからな」
龍鈴は一歩踏み出し、深く息を吸う。
「……よければ、教えていただけませんか。
父のことを……私は詳しいことをほとんど知らなくて」
玄武のまぶたがゆるりと開き、
氷のように澄んだ瞳が龍鈴を見つめた。
「……いいだろう。
黄龍の話をするには、まず――この世界の“始まり”から語らねばならぬ」
その静かな一言に、リュウガが息を呑む。
「……この世の始まり、だと……?」
玄武はわずかに顎を引き、重々しい声を響かせた。
「伝説と呼ばれたあの存在がいつ現れ、
“いかなる者であったのか”……それを語らずして黄龍は語れん」
氷の魔王が語ろうとしているのは――
誰も知らぬ、この星と魔族の根源。
三人は一言も発せず、
張り詰めた氷の空気の中で次の言葉を待った。
やがて玄武が口を開く。
「――話は、わしら魔族がまだ“動物”と呼ばれていた頃まで遡る」
ライトが目を見開く。
「ど、動物……?なんだそれは?」
「動物とは、今のように魔素を力に変え、魔族同士で意思を伝達することができなかった。ただの生き物にすぎなかった頃の魔族だ」
玄武はゆっくりと腕を組み、氷壁の向こうの遠い時代を思い起こすように語る。
「この星には元々、“魔素”という概念すら存在していなかった。
だがある時を境に――突然なのか、徐々になのかは分からんが、この星全体が、正体不明のエネルギー《魔素》に満ち始めた」
低く響く声が、氷の間に重く積もっていく。
「そしてその魔素は、生き物たちの姿と在り方そのものを……劇的に変えていったのだ」
玄武の声に合わせるように、氷壁の奥で淡い光が脈打つ。
「土地に根付いた魔素は、あらゆる生物へ影響を及ぼした。
“動物”と呼ばれていた者たちは魔素の伝達や知恵、戦闘力を獲得し……
人間は“スキル”と“魔法”という新たな力を身につけた」
ライトが小さく息を呑む。
氷の間の空気はさらに重く沈み、玄武の声が続く。
「魔素がもたらした変化は、この世の均衡を崩壊させた。
力を得た魔族は本能のままに暴れ、人間は文明と知能、そして新たな力でそれに対抗した」
「やがて争いは大きな戦に発展し……
秩序なき魔族は、人間の組織力と知性の前に徐々に追い詰められていった」
氷の床がわずかに鳴り、玄武は静かに言葉を落とす。
「人間に魔族が追い詰められた……だと?」
リュウガが呟く。
「——そして気付けば、魔族は絶滅寸前であった」
重い沈黙が流れる。
玄武の瞳が細まり、
氷の中に封じられた標本へとゆっくり向けられる。
「……そんな危機に、一体の“龍”が現れた」
空気が震えるような静寂。
玄武の声には、わずかに敬意が滲んでいた。
「圧倒的な力。無尽の魔素。そして、人間すら凌ぐ知性。
金色の鱗をまとったその龍は、もはや魔素で変異した動物などとは次元が異なっていた」
龍鈴は息を止める。
「龍族は魔素の恩恵を受けて進化した存在ではない。
窮地の魔族たちの前に、濃密な魔素の渦の中から、突如として姿を現した生物だ。
その中でも……金色の龍は唯一無二。
この世界の理すら変える――異質な存在であった」
その一言に、龍鈴は息を呑む。
「……それが……父なのですね」
「いかにも。黄龍の出現により、魔族は変わった。
あやつは自ら魔族を率い、人間に奪われた大地を次々と取り戻していった。まさしく“無敵”であった」
ライトが小さく呟く。
「……すげぇ魔族だったんだな」
「だが——黄龍の真価が示されたのは“力”ではない」
玄武はゆっくりと顔を上げる。
「あやつはその力を誇示するのではなく、“統べる”意思を持っていた。
力なき魔族を集め、導き、知を与え、時には人間の学問すら取り入れた。
戦場だけでなく、文化すら築き上げたのだ」
その言葉に、リュウガが喉を鳴らす。
「……黄龍様は、ただの戦士ではなかったのか」
「その通りだ。ゆえに黄龍は“魔王”と呼ばれるに至った。
わしら魔族は黄龍の導きの下、勝利を信じて疑わなかった。だが——」
玄武は重く息を吐いた。
「……わしらが力をつけたように、人間もまた進化していた。
かつて存在しなかった強大なスキル、天地を揺るがす大規模魔法……
それらを次々と生み出し、対抗してきたのだ」
氷気を孕んだ空気が、さらに重く沈む。
「そこからは地獄だった。
攻めれば攻めるほど同胞は倒れ、気を抜けば逆に押し返される。
血が血を呼び、怨嗟が怨嗟を生む……
終わりの見えぬ戦いが続いた」
その言葉に、龍鈴の指先がわずかに震える。
「……そんなことが……」
玄武は静かに目を伏せ、低く続けた。
「決定的だったのは――あの黄龍ですら、人間の刃に“傷”を負ったことだ」
玄武の低い声が氷を震わせる。
「魔族にとって絶対の象徴であった黄龍に傷が刻まれた。
それは戦場の衝撃以上の意味を持ち……わしらの心を折った。
以降、魔族は防戦一方となり、数え切れぬ同胞を失った」
氷の壁に揺らめく影が、深い悲嘆を映し出す。
「そして黄龍は語った。
――“人間の力を、見誤った”と。
窮地に立たされた時の人間の底力は計り知れぬ。
もはや侵略に踏み出すべきではない――とな」
その記憶を辿るように、玄武は目を静かに伏せた。
「黄龍は自らの魔素を大地に刻み、形ある結界とした。
それが“人間と魔族を隔てる境界”だ」
「……魔族占領地、って呼ばれてる場所だな……」
「人間にはそう伝わっているようだな。
だが実際には、濃い魔素が満ち、新たな魔族を生み出す“防波堤”でもある。
黄龍はそれを目印とし、魔族全体に侵攻を禁じたのだ」
玄武は重く頷く。
「当初は、同胞を殺された憎しみに駆られた者の反発も大きかった。
しかし――黄龍の決断は揺るがなかった。
“これ以上、無益な血を流すべきではない”とな」
氷の間に静寂が落ちる。
それは北魔王が語る、“黄龍の真実”だった。
「それが……父の描いた平和……」
龍鈴の呟きに、玄武は静かに頷いた。
「だが黄龍は悟っていた。
——自らの魔素を用いて築いた結界は、命を削る。そして、圧倒的な魔素を持つ黄龍自身が存在し続けてこそ成り立つ……いわば“力で得た均衡″にすぎぬ。
あれには限界があった」
その言葉が落ちた瞬間、空気が冷たく震えた。
「な……では、黄龍様は最初から……!」
「そうだ。
暫しの平和のために、黄龍は己の寿命を代償にする道を選んだ。
そして最後に……残された魔素のすべてを振り絞り、“分体”を生み出した。
——魔族の未来を託すためにな」
重く響く声が、氷の研究室の壁を震わせる。
「それが……“魔王の娘”と呼ばれる、お前だ」
「……父の、分体……?」
龍鈴の声は震え、瞳の奥から光がふっと揺らぐ。
肩が小さく震え、その事実が胸に重くのしかかってくるのがわかる。
「……そんな、馬鹿な……」
リュウガの呟きは、氷の間の静寂に吸い込まれていくほど弱かった。震える拳を固く握りしめている。
玄武は淡々と、しかし逃げ場のない声で言葉を重ねた。
「事実だ。
黄龍の力は規格外――ゆえに、“子を残す”という営みそのものが成立せぬ。
だからこそ、あやつは“創った”のだ。未来を託すための器をな」
氷の間に、冷たい響きが落ちる。
「つまり龍鈴……お前は、黄龍のやり残した願いを果たすために生み出された“黄龍のクローン体”に過ぎん」
その言葉を聞いた瞬間、龍鈴の肩はびくりと震え、息が止まったように沈黙した。
「……わ、私が……創られた……父の、クローン……?」
か細く漏れた声は、氷の壁に吸い込まれるように消えていく。
初めて明かされた“出生の真実”に、誰もが言葉を失った。
ライトもリュウガも、ただ目を見開き、龍鈴を支える術を探すように拳を握りしめるだけだった。




