第五十五話 南魔王 朱雀
朱雀は盃をくるりと回し、紅い瞳を細めて問いかけた。
「で? その人魔革命団が僕に何の話があるわけ? 仲間になれとでも?」
取り巻きの魔族たちが嘲笑を漏らす。
だが龍鈴は怯まず、一歩前に進み、静かに告げた。
「いえ……ただ一つだけ願いがあります。
人間に手を出さない――その約束を守っていただきたいのです」
朱雀は艶やかに嘴を吊り上げた。
「別に僕は人間をどうこうするつもりなんて、最初からないよ。
ただ、南の魔族たちがどう考えてるかは知らないけどね。
僕は“南魔王”って呼ばれてるけど、この島では魔族たちはみんな“自由”。
好きに生きて、好きに遊んで、好きに死ぬ……それがここの流儀さ」
龍鈴はその言葉を静かに受け止め、小さく頷いた後、真っ直ぐに朱雀を見据える。
「それでも……南魔王・朱雀様のお言葉があれば、
南の魔族たちの動きは抑えられるはず。
どうか――口添えをいただけないでしょうか」
その一言で、朱雀の盃がピタリと止まった。
紅い瞳がすっと細まり、空気が一変する。
「へぇ……?
魔王でもない君が、この“僕”に頼み事だけじゃなく……
“命令”まで出すつもりなのかい?」
低く落ちた声は、熱ではなく冷たさを帯びていた。
たった一瞬で、嵐の中心に立たされたかのような圧が広間に満ちる。
ライトとリュウガの背筋を、鋭い殺気が電撃のように走り抜けた。
リュウガ(……くっ、この圧……!)
ライト(やべぇ……声が出ねぇ……!)
朱雀はゆっくりと立ち上がり、龍鈴へと歩み寄る。
紅蓮の羽根が揺れ、そのたびに熱風が吹き荒れる。
「黄龍の娘だろうと関係ない。
僕に“口を出す”というのは――そういうことだよ?」
広間全体を包む殺気。
だが龍鈴は一歩も退かず、凛とした瞳で朱雀を見上げた。
「……これは“命令”などではありません。
あくまで、私たちの願いです。
けれど――魔族と人間が共に歩む未来を目指すには、どうしても朱雀様のお力をお借りしたいのです」
その静かな意思が、殺気の波に負けず真っ直ぐに届く。
朱雀の口角が、わずかに釣り上がった。
「……ふふ。面白いね。
これだけの圧に堂々と向かってくるなんてね」
殺気は霧のように薄れ、広間へ再び熱気が満ちていく。
「父の死後、西魔王・白虎様が“掟”を破り、人間領への侵攻を始めています。
この状況で、もし南の鳥族までが人間領へ攻め入れば……大規模な戦争は避けられません。
私たちは白虎様を止めるつもりです。
せめてその間だけでも――朱雀様には、力をお貸しいただきたいのです」
朱雀は盃を指で揺らし、くすりと笑った。
「白虎君と正面から喧嘩するなんて……大胆だね。
西の使者から話は聞いたよ。君たちが何を企んでいるのかも、だいたいね」
軽く肩をすくめる。
「でもね、僕は興味ないんだ。
白虎君がどうなろうが、人間がどうなろうが、戦争になろうが――正直、どうでもいい。
だけど……」
盃を傾け、紅い瞳が愉快そうに細められる。
「君たちがそこまで言うなら、南の魔族たちには“しばらく人間領に手を出すな”って言ってあげてもいいよ」
龍鈴は胸の奥で、ほっと安堵の息を吸いかけた――その瞬間。
「――ただし」
朱の羽根がさらりと揺れ、広間の熱気が甘く、粘つくような色を帯びる。
朱雀は龍鈴の前に屈むと顎へ指先をそっと添えた。
「僕はね、君が……気に入ったよ」
紅の瞳が愉悦に細められる。
「まさか、あの黄龍の娘がここまで気高く美しく育っているとはね。どうだい――?」
指先が顎を軽く持ち上げる。
「もう少し“ゆっくり”話をしないか?
僕の寝屋で……ね」
広間の空気が一瞬にして張りつめた。
妖艶でありながら、逃げ場のない圧。
朱雀の笑みは、獲物の反応を楽しむ捕食者そのもの――危険で、美しい。
「……貴様ァ!」
堪えきれずリュウガが怒声を放った瞬間、
朱雀の側に控えていた鳥人の女たちが翼を広げ、
鋭い爪を鳴らしながら殺気を迸らせた。
朱雀は、その光景すら楽しむように盃を軽く掲げる。
「おっと。いいのかい? その一歩を踏み出せば――
君たち“人魔革命団”の立場は、そこで決まってしまうよ」
紅の瞳が細く細まり、射抜くように龍鈴へと向けられる。
「僕はね……誇り高く、決して屈しない者が
快楽に溺れ、抗いながら堕ちていく姿を見るのが大好きなんだ」
朱雀の指が空気をなぞるだけで、周囲の温度が変わる。
「君なら――最高に美しく堕ちるだろうね」
その一言を境に、広間の空気は完全に凍りついた。
炎の揺らめきでさえ音を失い、誰もが息を呑む。
――だが、龍鈴は怯まなかった。
静かに、確信を帯びた声が返る。
「……惜しいですね、朱雀様」
朱雀の指先が空中で止まった。
「……? 今なんと?」
「非常に惜しい、と申し上げました」
龍鈴は背筋を伸ばし、堂々と朱雀を見据える。
「私はまだ“魔王の娘”というだけの、小娘に過ぎません。
しかし――近い未来、私は必ず“大物”になります」
紅い瞳が、かすかに揺れた。
「そんな小娘を寝屋に連れ込んでは、朱雀様の名が泣きましょう。
ですが……“大物”となった私を迎えるなら話は別です」
ほんのり首を傾け、挑発にも似た微笑みを浮かべる。
「その時なら、今の数十倍――いえ、もっと朱雀様を楽しませられます。
それでも……今、摘んでしまわれますか?」
一瞬の沈黙。
次の瞬間、朱雀は腹を抱えて笑い始めた。
「アッハハハハ!! 面白い!
この状況で、僕に駆け引きを仕掛けてくるとはね……!」
その笑い声は、紅蓮の宮殿全体を震わせた。
「余計に気に入ったよ、龍鈴。
君がここで屈していたら、“味見”して壊すつもりだったけど……」
朱雀は盃を掲げ、愉悦に満ちた紅の瞳で龍鈴を眺める。
「さすがはあの黄龍の娘……これは面白くなってきた。
僕は楽しみは残しておくとタイプだからね」
盃の中の紅い酒が揺れ、妖しい光を反射する。
「さて――君の願いだけど。
南の魔族どもには“しばらく人間領に手を出すな”とは伝えておこう」
龍鈴はわずかに息を整え、静かに頭を下げかける。
しかし朱雀の声が続く。
「ただし――さっきも言っただろう?
この島の鳥族はみんな“自由”だ。僕の言葉なんて聞かないやつもいる」
朱雀の言葉に思わずリュウガの口が動く。
「……無責任な!」
しかし朱雀は一切動じず、盃の酒を喉に流し込んだ。
「無責任? 結構じゃないか! 僕が今、興味あるのは“君”だけだよ、龍鈴。それに――」
朱雀はいたずらっぽく目を細め、二人の護衛へ視線を送る。
「今ここで君を壊すと、そこの番犬二人が怖くてね。
殺気がひしひしと伝わってくるよ……さすがの僕でも二人を同時に相手するのは骨が折れそうだ」
リュウガとライトの背筋がぴくりと震えた。
龍鈴は穏やかに目を伏せ、一歩下がって深く頭を下げる。
「……本日はご面会の機会を賜り、心より感謝いたします」
ライトとリュウガもそれに倣い、静かに頭を下げた。
朱雀は盃を軽く掲げ、艶やかな笑みを浮かべる。
「君たちの行く末……しばらく見守らせてもらうよ。
運命は白虎君を選ぶのか、それとも君たちを選ぶのか――」
紅蓮の宮殿に、朱雀の愉悦を含んだ声が響く。
「ふふ……楽しみがひとつ増えた」
三人が背を向け、紅蓮宮を後にする。
背中にまとわりつくのは、炎の熱気と――
いつまでも耳に残る朱雀の笑い声だった。
⸻
ーー南の孤島・紅蓮宮を後にし、三人は再び空を翔けていた。
灼熱の地を離れ、海風がひやりと頬を撫でる。
熱で焼けた肌を冷ますように、心地よい風が吹き抜けた。
「……はぁ、なんとか無事に済んだな。
正直、冷や汗もんだったぜ」
「油断するな。朱雀は“協力する”とは言ったが……
あの男の気まぐれは計算に入らん」
龍鈴は小さく頷き、遠く燻る紅蓮宮を振り返った。
「ええ……けれど、話を通すと言って頂けただけで、大きな前進です。
朱雀様は白虎様とは正反対……掴みどころがなく、気まぐれで、何を考えているのかわからない方ですが……」
「にしても、“面白い”だの“楽しみ”だの……
俺たちを遊び道具みたいに思ってるよな、あいつ」
龍鈴はふっと微笑んだ後、すぐに真剣な表情へ戻る。
「彼がどう考えていようとも……
“手は出さない”と約束した。それで十分なのです」
「それにしても龍鈴はすげぇこと言うんだな。
『大物になったら朱雀様をもっと楽しませられます』だなんて」
ライトの言葉に少し照れくさそうに微笑む龍鈴。
「ええ。私は大物になります。それこそ南魔王と言えど、簡単に手が出せないほどに……」
「随分と言うようになられた。龍鈴様は。
次は……北魔王玄武だ」
「北って言ったら……海しかねぇぞ?」
「はい。その海の果てに、氷で出来た大地がある。
奴はそこに城砦を築いている」
龍鈴は静かに続けた。
「北魔王・玄武は“堅牢”の象徴。
朱雀様とは違い、軽々しく言葉を発することも、行動することもありません。
一度敵と見なされれば……最も厄介な相手です」
「南の朱雀とは違い、ある意味もっと慎重に対峙せねばならぬ相手だな」
「どんな奴が相手でも……俺が龍鈴を守る。それだけだ」
その言葉に、龍鈴の睫毛がかすかに震えた。
「……頼りにしています、ライト」
言葉は小さく、だが確かな温度を帯びていた。
ーー三人の影は風を裂き、雪雲のかかる北方の空へと消えていく。
その先に待つのは――
氷雪に閉ざされた城砦、北魔王・玄武の領域。




