一期一会 名も知らぬふたりの出会い
この物語は、名前も知らない二人の、ほんの短い邂逅の記録です。
儚くも確かだった“誰かとの出会い”が、たとえ永遠でなくても、何かを残すことがある。
そんな想いで綴りました。
どうか、彼らの小さな物語に、ひととき耳を傾けていただけたら幸いです。
ある小国の森の中、二人の男が連れ立って歩いていた。
一人は影を思わせるような陰鬱な雰囲気を纏った寡黙な男。もう一人は、まだ幼さを残す少年であった。
「……ここで夜を越せ、明日迎えに来る」
陰鬱な雰囲気の男――クロの声は短く、冷たかった。
それだけを言い残し、彼はまるで闇を纏ったかのように消えた。
少年――シンは小さくうなずくと、辺りを見回し、状況を整理した。クロと旅をしてきて、こんな風に放置されることにも慣れてきた。
――狩るか……
森の音に集中し、細い鹿道を見つける。獣の足跡。糞の匂い。風向き。師の教えは、身体に染み込んでいる。
だが、今日の森は妙に静かだった。
あれからどれくらいの時間が経ったろう。己の気配を殺し、獲物を待つ中、気配が走った。
シンは身を沈め、罠を引き寄せようとした瞬間、大きな黒影がシンを襲った――
突然の襲撃にも咄嗟にかわし、受け身を取ったが、運の悪いことに地面が斜めに崩れた。
身体が木の根にぶつかり、斜面を勢いよく転げ落ちる。シンは本能的に身体を丸め、頭を守っていた。それでも、激しい痛みは身体中を貫いた。
ようやく平地に転がり出たとき、身体のあちこちから血が滲んでいるのを感じた。四肢も動かせず、視界もぼやけてきた。
――これ、やばいかも……クロ……
思考が白く濁る。冷たい夜の気配が、少年の意識を飲み込んだ。
シンの意識が朦朧としている中、少女らしく明るい声がした。
「……誰か、倒れてる」
その声は、とても人間らしかった。
遠くで聞こえたはずの声が、だんだんと近づき、身体が引きずられる感覚。
気づけばシンは、藁の上に寝かされていた。
「ちょっと、ごめんね、失礼します……」
傷が焼けるような感覚と同時に、誰かが傷口に薬草をあてがっていた。
その手は不器用で、でも、とても真剣だった。
霞む目をゆっくり開けると、そこには桜の髪飾りをつけた、朱色の衣をまとった少女がいた。
年のころは自分と同じくらい。だが、雰囲気がまるで違う。
「動かないで、いま縛っちゃうから!」
焦る声。しかし、はっきりとした気概があった。
彼女の後ろには、――護衛か侍女か、落ち着いた佇まいの一人の女が立っていた。
「姫様、こんな者にお手を……」
「トキワ、いいから。助けないと。この人……誰かも分からないけど、目を閉じたらもう開かなくなる気がして」
そう言ったあと、少女は小さく笑った。
「大丈夫?あなた、お名前は?」
シンは、名前を返せなかった。どころか、産まれてから一度も、シンは声を発したことがなかった。
代わりに、小さく目を閉じ、手をかすかに上げた。
「あなた話せないの?ううん、気にしないで」
少女はそれだけで満足したらしく、にっこり笑った。
それから数日間。
シンは少女と“トキワ”と呼ばれていた女に連れられて、城の外れにある納屋で手当てを受けながら、過ごしていた。
トキワが見張り、少女が通ってきた。
毎回、少女は色々な花を摘んできて、シンの寝床に飾っていた。
「わたし、皆に避けられてるの……」
ある日、彼女はそう言った。
「なんか、皆、わたしの顔を見たがらないの。笑いかけると、下を向くの」
言葉の端々に、寂しさが滲んでいた。
「お父様も、お母様も、最近はすっかり目も合わせてくれない」
そして、彼女はぽつりと口にした。
「皆が勝手に怖がって、私を怖がって……」
それ以上は言葉にならなかった。
シンは、少女のその痛みが、少しだけ分かる気がした。
普通ではない。何かが違う。ただ、それだけで周囲の反応は冷たいものだったから。
少女はそれでも、笑おうとし、小さな身体で懸命に誰かと繋がろうとしていた。
シンは、彼女の手に触れた。言葉のないままに。
彼女はそのぬくもりに、泣きそうな笑顔を浮かべていた。
城内の一室にて、城主と年老いた臣下が物々しく話をしていた。
「“四面楚歌”だと……?」
王の眉がわずかに動いた。
老臣がうなずく。
「はい、姫の身体に現れた“字”は、確かにそれでございます」
王は老臣には悟られぬよう、表面は平静を装いながら、心の内では愕然としていた。
――忘れたふりをしていたのだ。
“あの予言”のことなど――ただの言葉に過ぎぬと、そう思い込もうとしてきた。
今この瞬間、あの時の予言が現実になりつつあるとしても、王はまだ受け入れられずにいた。
彼の脳裏に、あの夜のことが、静かに蘇る。
まだ娘の名も知らぬ頃――
焚かれた香の煙の向こうで詩を紡ぐ細い声。
――歌声はただ一人に届き、鳴くものの影は、四方を囲む……四面楚歌、汝にこそ世界の言葉を返す資格あり
王は、我が子の誕生を喜ぶべき前に、その詩を受け取っていた。
以来、娘の声を聞くたび、笑顔を見るたび、胸が締めつけられる思いだった。
「……その証言は、確かなのだな」
王は苦々しく口を結んで、そうたずねた。
「トキワからの証言でございます。姫の背中に“字”が刻まれたと……」
――あの子が、世界の言葉を返す?
それはどれほどの苦しみを背負うというのだ。
優しい子だった。花の好きな子だった。
どれほど民に避けられようとも、決して眉を曇らせなかった。
彼女は当然気付いていただろう。皆が、自分に背を向けていることを。
それでも健気に“気づかないふり”をして、人との繋がりを必死で求めていた――
「四面楚歌、何者も寄せつけぬ……敵意を集める天命……」
「……なぜだ」
王は矢継ぎ早に低く呟いた。
「なぜ、あのような子に。なぜ、わが娘に……」
拳を振り下ろした音が、部屋に鈍く響いた。
机上の硯が傾き、墨が書状を黒く染めていく。
――これが、我が国の未来か。
王は、その場で頭を抱えたまま考えた。
どれほど考えを巡らせても、答えは一つしかなかった。
彼女は、“何か”を引き寄せる。
その“何か”は、きっと国を巻き込む災厄だ。
彼女の存在が誰かを、何かを、この国を、壊すことになりうる。
「……ならば」
そう呟いた王の声は、もはや父のものではなかった。
それは、一国を背負う王としての決断。
「幽閉の準備を進めよ。城の外には出すな。人目にも触れぬように……」
老臣が思いもよらなかった王の発言に狼狽する。
「そ、それは……姫様にあまりにも――」
「それでもだ」
王の声は冷たく、強く、震えていた。
「……あの子を守るには、それしかない。誰にも……誰にも傷つけさせてはならぬ。――閉じ込めてでも、護る」
そう言って、王はようやく立ち上がった。
その顔は、もはや父ではなかった。
だが、だからこそ、その苦しみは、深く、哀しかった。
更に数日が経ち、シンの傷は癒えつつあった。
クロは心配して僕を探しているだろうか、それとも、野垂れ死んでいたなら仕方なしと割り切っているだろうか、そんなことを考える余裕も出てきた。
少女は変わらず、日々彼のもとに訪れていた。
「ありがとう、今日も来てくれて」
声の出せない少年の気持ちを代弁するように、少女は独り言のように話していた。
言葉は交わせずとも、シンが小さく目を細めるたびに、彼女は少し救われているような気持ちになった。
いつもの少女と少年の心穏やかなひと時であったが、この日はいつもと違った。
――納屋の外から、誰かの足音がした。
「ここか!」
荒々しく扉が蹴破られ、兵が三人押し込んできた。
「お下がりください、姫様!」
トキワは咄嗟に少女の前に立ち、護衛の任に徹した。
数人の兵が、臨戦態勢のまま少年を取り囲む。
「どうして……やめて、彼はなにも……!」
少女の叫びは届かない。
兵士のひとりが、シンの腕を乱暴にひねった。
シンが苦痛に顔をゆがめた、その瞬間――
少女の瞳に強く光が宿った。
彼女の胸の奥から、何かが震え、あふれた。言葉にならぬ、叫びにも似た感情。
「う……ぉっ……」
兵士の一人は、その場にうずくまった。見えない何かが、脳を揺さぶったかのように。
残る兵たちも、得体の知れない感覚に怯えたように後ずさった。
「姫様……」
そう呟くトキワの顔には、必死で湧き上がる感情を抑えようと、苦悶の表情が浮かんでいた。
いつしか兵達の視線は少女へと注がれていた。
しかし、それは守るべき自国の姫に向けられるものではなく、その瞳は憎悪の色をはらんでいた。
少女はその醜悪な視線にたじろぎ、数歩後ずさった。
兵達は刀を手に取って一歩ずつ少女へと詰め寄る。
「貴様ら!姫に向かってそのような狼藉……!」
トキワの怒声が響く中、兵の一人が斬りかかってきた――
「……“四面楚歌”か」
そうつぶやきながら、颯爽と現れた陰鬱な男は難なく兵の一太刀をいなしていた。
「そこの女、“四面楚歌”を連れて、この場を離れろ」
トキワは突然の男の登場に戸惑うも、優先すべきことを理解し、黙ってうなずいた。
次の瞬間には少女を抱えて走り出していた。
少女が必死で何かを叫んでいたが、その声は届くことなく、段々と遠ざかっていった。
「探したぞ……」
陰鬱な男――クロがシンに向かって無感情につぶやいた。
憎悪の対象がいなくなってもなお、兵士は刃を向けていた。この怒りをどこへ向けたらよいか迷うように。
「未熟ゆえに“四面楚歌”の異能にあてられたか」
「いや、“四面楚歌”の力がそれほどに強大ということか」
クロは目の前の兵士などいないかのように、一人考え込んでつぶやいていた。
そうしているうち、怒りの行き場をなくした兵士の刃がクロへと振りかかる。
クロは持っていた小刀で軽くいなすと、ひらひらと舞うように、いとも簡単に三者を制圧した。
シンがその姿に圧倒されていると、小刀へ付いた血を払いながらクロが独り言のようにつぶやいた。
「そろそろ行くか……」
少女はトキワの手によって城へと連れ戻され、自室に戻っていた。
これまで避けられるようなことはあっても、あんなに直接的な憎悪を向けられたのは初めての経験だった。
身体の震えがまだおさまらない。自身へ向けられたあの醜悪な瞳が記憶にこびりついている。
――少年は無事だろうか。
せめて無事でいてくれと、今の少女には祈ることしかできなかった。
トキワが王の一室にて、先程の状況を報告していた。
王は兵士の狂乱が“四面楚歌”の“字”を持った娘によるものだと推察し、遂に起こってしまったかと深く心を痛めた。
苦渋の決断だった。それが正しいのかは誰にも分からない。ただ、今の王にはそれが娘を護るべき唯一の道だと信じられた。
王は、信頼厚き重臣たちを密かに集め、姫幽閉の決断を伝えた。
「そろそろ行くか……」
クロのその言葉に、シンは慌てた。まだ、あの献身的な少女に礼の一つもできていなかったから。
必死に身振りで伝えようとするも、クロへは届かない。
声の出ない自分が悔しくて、もどかしくて、歯がゆくて、必死に伝える方法を模索していると――
『待って!』
クロの心へ直接、言葉が飛び込んできた。
クロは辺りを見回してから、シンへと視線を戻す。
「お前……声!」
そう言いながら、クロはシンの身体を入念に調べた。
上着をまくったとき、クロの探していたそれは胸の辺りにあった。
「“以心伝心”……」
声の出ないシンに宿った彼の“字”。
「言葉を持たないお前にぴったりだな……」
その言葉は皮肉を込めたものだったか、心からの賛辞だったのかは分からない。
ただ、普段、感情をあらわにしないクロが微笑む姿を初めて見たことが何だか嬉しかった。
「夕刻まで待とう……それまでに慣らしておけ」
シンは自分に発現した力がどういうものか、まるで分かっていなかった。それでも、伝える手段を得たことで希望が湧いていた。
思いを相手へ届ける感覚――何度も心の中で“ありがとう”と言葉にして時を待った。
夕暮れ時、納屋の扉が、そっと開いた。
そこにいたのは、トキワだった。
「姫様はもうここには来ない。お前に一言、礼をと思ってな」
彼女は、珍しくそう言うと同時に頭を一つ下げた。
「……あの方は、独りで生きてきた。だが、お前といるときだけ、あの方は“人”だった」
トキワはそれだけ言うと、納屋を去ろうとする。
シンはその背中へ向けて、ありったけの気持ちを言葉にしようするが、彼女へは届かなかった。
その様子を見かねたクロが、言葉を挟む。
「“四面楚歌”へ伝えてくれ。この子が“ありがとう”と言っていたと」
「……承った」
トキワは振り向かずに一言そう言って歩いて行った。
その背中を二人で見届けながら、悔しそうに涙を流すシンへ向けてクロが言った。
「次は自分の言葉で伝えられるように……修行だな」
名前も知らない少女と再び出会うために、自分の言葉で想いが伝えられるように、シンは自分に発現した“字”の力と向き合うことを改めて決意した。
城の地下にある座敷牢の中、何度泣き腫らしたか分からない。声は枯れ、涙も枯れ、疲れ果てた顔をした少女がそこにはいた。
このような仕打ちを受ける理由をずっと探していた。私が皆に嫌われているから?私はいらない子なの?
考えても考えても思考は堂々と巡るだけだった。
「名前、聞けなかったな……」
ぽつりと洩らした言葉の裏に思い出すのは、名前も知らない少年のあの眼差し。
――いつか、また会えるかな。
冷たく暗い座敷牢の中で、少年との想い出だけが温かく心へ染み込んでいた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
“言葉”と“絆”をめぐる物語を、少しでも楽しんでいただけていたなら幸いです。
この物語の余韻が、あなたの胸に小さな火を灯せますように。
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次回もまた、物語の片隅でお会いできることを願って。
――平 修