第五話 ドラゴン
それからの二日間、オレは女神の奴が魔の森と呼んだ場所で、こっちの世界に来てから始めての平和な日々を満喫していた。
女神の奴の失敗魔法にはナキウサギの本能みたいなモンも含まれていたらしく、朝になってすぐに思い付いたのは営巣だった。
なんで脱ぎ捨てられたスーツを岩の隙間に押し込んで巣を作った。
昨晩は岩の上で不貞寝しちまったが、なかなかに具合が良い。
それと博愛主義者と言っても、元々人情味のねえサイコパス気味な性格だったのもあるんだろうが、ナキウサギの本能も関係しているんだろう。
あれだけ半分にしたことにも改悛みてえな感情は湧いてこなかった。
オレの中では終わった話になっている。
そして身体の方なんだが身の丈二十センチ弱と、随分と形は小さくなっちまったけれど、エネルギーが濃縮されたように力が漲っている。
ジュースで言えば、還元前の果汁の濃縮粉末のような濃さだ。
レベルアップの効果が一晩経って十全に発揮されるようになったのか、人間からナキウサギになっちまった影響なのかは分からねえが、十も若返って、さらには人間だった頃よりも十倍はパワーアップしたような全能感がある。
そんなこともあったせいか、森に居る魔物連中はオレがナキウサギとなった後も、その仮初めの姿に瞞されることはなく、近寄ってくるどころかオレが見掛けることもほとんどなかった。
偶に、うっかりなのと出交すことがあったとしても、六本足の虎だろうがヘビ人間だろうが、こっちに気付けばネズミのように脇目も振らずに必死に逃げて行く。
このへんは前と同じだ。
フレンドリーではないけれど、害意を持って突っかかられるよりも余程にマシだろう。
魔の森なんぞと言ったって、魔物が居ないも同然ならばただの森だ。
腹が減ったらその辺に生えている草やベリーなんかをもぐもぐと食べて、眠くなったら寝るだけだ。
縄張り争いなんてねえから、小さいながらも森の主のような暮らしだ。
意に反してのことではあるが、人間じゃあなくなってナキウサギになっちまったのも却って良かったんじゃねえかと思える。
そんな食っちゃー寝ての生活は、どうやらオレと相性が良いらしい。
湧き水が作る水溜まりに映った愛嬌のある顔に、思わず笑みが溢れそうになる。
オレ好みのロックじゃねえが、百十円だか二百二十円で雨にすら濡れねえ代わりに、「金持ちが天国に行くのはラクダの肛門を通り抜けるよりも難しい」とかいうイエスの訓話※は最早与太話扱いで、信じられないことに強欲が美徳のひとつになっちまってる。
そんな世界の何処にロックがあったのかって考えると、六十年代のウエストバージニアみてえな今のフォークな暮らしも捨てたもんじゃねえように思える。
モコモコとした毛皮のせいか日中ちょっと暑苦しいが、ナキウサギも悪くはねえな。などと考えたりするようにもなった。
しかし女神の奴が来るはずの三日目の朝、空が突然暗くなったと思ったら、空には何か巨大な魔物が飛んでいて、オレ居る場所の上空をグルグルと旋回し始めた。
黒よりも黒い漆黒は、まるで周囲の光を吸収しちまっているように黒くて平板だ。オレの視線すらもその黒に吸い込まれているようで目が離せねえ。
影絵のようなシルエットからして真っ黒いドラゴンらしい。すげえデケえ。
首を回して下を見て何かを探しているらしいが、まさかオレじゃあねえよな? と思ってあんぐり口を開けて奴を見ていると、べきべきと周囲の木々をへし折って、オレの近くにどーんと派手な着地をかましてきた。
その衝撃で、オレはぽーんと飛び上がる。
奴はそんなオレにぴたりと視線を合わせると、いきなり大口を開けて咆哮しやがった。
それだけでオレは吹き飛んだ。
何しろナキウサギだからな。身の丈二十センチじゃあ絶対的な質量が足りねえんだ。
くるくると空中を舞いながら、なんだよ通り魔かよ。とオレは思い、スキルを使った。
「1/4殺し」だ。
戦争中じゃあねえんだから、初対面の相手とコンタクトを取るんなら「こんにちは」から入るのが常道だろう。
こっちの世界の魔物は押し並べて行儀が良いもんだと思っていたが、早合点だったようだ。
なんなんだよこの世界は、こういうバカは二回ぐらい死んだ方がいい。そこに躊躇は微塵もなかった。
もちろんドラゴン野郎はあっさり死んだようだ。
黒い小山が山体崩壊したように散けて潰れた。
全く異世界はとんでもねー所だ。パンクじゃねーか。
オレのような博愛主義者にはつくづく向いてねえ世界だぞ。
こんな所はさっさとおさらばするに限るぜ。と思っていると、女神の奴が現れた。
そしていきなり「このバカ! 何やってんのよ!」と怒鳴る。
しかしそれはオレじゃねえ。ドラゴン野郎の出現にビビって金縛りになってた角ウサギだ。
女神の奴の剣幕に角ウサギは白目を剥いてぱたんと倒れ、ぴくぴくと痙攣している。
とばっちりを受けた角ウサギに同情しつつ、オレはちょこちょこと歩いて女神の奴の傍まで行くと、立ち上がって「ぴゅぴゅぴゅー」と鳴いた。
女神の奴はそんなオレを見て動きを止める。その後ニヤリと口元を歪めると堰を切ったように腹を抱えて笑い出した。
まったく酷え世界だ。
ラクダの話は正しくは「(神への愛よりもカネへの愛が優る)富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」(マタイによる福音書19章新欽定訳)です。間違えて覚えて引用しないように……